この物質の世界は、私達人類の想いが投影され形になったもの。
劇場でスクリーン上に映し出される物語のようなもの、想いの結果。
形として現れた結果がこれから消えて行こうとしている姿に、
私達はすっかりのめり込んで、これこそが決して揺るがない真実、絶対の真実だと思い混んでいる。
自分の肉体も同じ物質だから、形に顕れた結果世界にのめり込んでしまうのも仕方がないですが。
人類の集合意識は、備わっている創造力で物質地球の物語を作り続けている。
そこでは
私達は、神とは程ど遠く、弱く、罪深き、哀れな存在として登場している。
一部の特別な人は、修行を積み重ね、悟り、神へと飛翔したと語られているけど、
でもそれはほんの一部の人で、
一般人はただ、下から天界を見上げ、
いつか大いなる神が天から降臨し、人類の善人だけを救いあげてくれる、、、
と期待、依存するだけ。
そのとき、きっと人類は自分流に神さまイメージを膨らませて、
「神様とはこういうものだ、こう在るべきだ、こうであってほしい、、」と、自分達の狭い勝手な固定観念で
自分流の神様のイメージを、心の中に持っているのかも。
だから、急に
「あなたは我即神也 神性復活」 と言われても、自分と自分の中の神のイメージのギャップが大きすぎて、自分の神性をそのまま受け入れられないのかもしれない。
私は以前から気になっていたことがあります。
「肉体人間が考え、イメージした神さま像は、いらない」ということです。
自分は神と思えない、とか、神であるならこう在るはずだ・・・など、
それらは肉体人間が考える発想、神様像。
「自分は神ではない」と思い込んでいる肉体人間が考えイメージした神は、思い込みから生まれたイメージ。
あてにはならない気がします。
そもそも誰かが、「あなたは神そのものに見えます」と、決めてくれるから、自分は神であると信じるわけじゃない。
他人の意見じゃない、自分が決める。他人に認められる前に、自分が我即神也と決める。
決めた世界が結果となって展開される。
大いなる宇宙神は、宇宙を拡大、発展させる目的で、分御霊として私達を生み出して、無限から有限の世界まで創造されている。
だから、どんな個性のある神さまがいても良いと思います。
「私」という命は、皆すべて神。
形の世界に広がる光景は、私達が作り出した映像。
その映像に「私」と言う“いのち“が乗っ取られるはずはない。
映像は、もともと空っぽなのだから。
「私」と言う意識、「私」と言う“いのち”こそが本物なのだから。
肉体を器に生きることは、それぞれ厳しく辛い時もあるけれど、
<祈れる私は、光そのもの、真理そのもの、神の器そのものなり
故に、いかなる時も宇宙神の光に包まれている
私◯◯を侵すものは一切何もない>
ここにいるからここで生きる、とにかく生きる。
我即神也