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縦に繋がる自分を意識する

縦に繋がる自分を意識する


小さな部分にとらわれず、全体をみる。

横に広がる全体像ではなく、

縦に繋がる全体像を意識する。天と繋がっている自分を意識する。

神聖意識「私」は、天↔︎地のすべての次元を貫いていて、

そのすべてを理解しているはずだから。


自分が出会う体験は、過去の自分の想念が形として現れたもの。

それは過去の産物。

遭遇した出来事に心とらわれることは、過去の自分の想いに、未だに振り回されていること。

自分が望む現象と出会いたいなら、今の現象は過去なのだと見切り、消えてゆく姿にして、神聖をつかむ。本来の自分へ意識を転換する。

我即神也 すべては完璧、大成就。


これから何を体験するか、その鍵は自分が握っている。

自分の意識次第。



# by mppoe-light | 2022-10-24 00:53

私の描く世界の主(あるじ)は私

私の世界の主(あるじ)は私。

私しかいない。 私しか出来ない。

何を創造するかはすべて私に任されている。責任もすべて私にある。

そして私は自由に創造している。(意識的に、または無意識のうちに。)

それほど私達には尊厳性が与えられている。


他の人・・・たとえばAさん 


Aさんも我即神也、同じく尊い存在。


そのAさんが自分自身の自由意思、自由選択、決定で創造している世界を(人生を)安易に善悪で判断して良いのだろうか。

Aさんの世界の主(あるじ)はAさんだけ。

Aさんの世界を、外部の私が判断し批判、非難しては失礼な気がする。


Aさんが神聖を忘れたため真理から逸れた世界を創造していても、

人間は本来神の分霊と知っている我即神也の私達は、

批判、非難、評価、して相手の尊厳性を貶めてはならない・・・

そんな気持ちになりました。


自分を赦し、認め、愛し、尊い存在なのだ・・・と思うと、

他人の言動行為を批判、非難、評価せず、ただ見ていることが出来る。

私達はやることは、善悪の判断ではなく、

神聖復活を響かせること。


<今月の日々の指針から>


自らの善悪の基準を決して他人に当てはめないこと



# by mppoe-light | 2022-09-19 00:16

信じることは自分を認めること

自分の神聖を信じる、我即神也を信じるとは、、、

自分に備わっているであろう無限なるものすべてを信じる。

自分自身が気高く美しく、高貴な存在であると信じる。

そして同時に大切なのは、、、、


自分が自分を認める。実はそれが全ての始まりではないのか・・・と思う。


私は私の存在を認める。私がいるから私の世界は存在する。

そして、私は私を愛する。


私はここにいる! もっとも自分を理解しているこの私が!


自分を認めるのに何も条件は必要ない。

認めることに、実績も社会的名声なども知性も何も必要ない。

私は私である!

ただ「私」があることが素晴らしいこと、尊いこと!


私は私を愛する、私という生命を讃える。

だからすべての生命も愛すことができる。

それは利他を愛することになり、それが全体を愛し、全体を支える。


条件なく自分を愛する。


過去の言動、行為の善悪も正負も関係ない。比較、判断なども関係ない。

生命はすべて必要があって存在する。無意味な生命などあり得ない。


私は私なのだ。私は私を愛します。

私がいて良かった。私がいることは素晴らしいこと。



# by mppoe-light | 2022-09-15 16:56

私が描く物語

復活という言葉を調べてみました。


◯復 活(ふっかつ)


・生き返ること。

・廃止、消失したものが再び元の状態に戻ること。



では、神聖復活は・・・・・・

本来の生命を取り戻すこと

忘れていた本当の自分を取り戻し、再び元の状態、神聖に戻ること。


これは、罪深い肉体人間が、赦しを乞い願い、悩み、もがきながら、神に成長することではなく、

自分は本来神聖な神の子であり、初めから、世界を創造する力を備えた者であると言うことです。


大自然も人間もすべてのすべては、神と繋がっているからこそ存在している。神と繋がらないものは存在しない。


自分の存在を信じる。

大宇宙(神)と繋がる私。 創造者である私。

******************


3先生方は時々、生きることを「体験」と表現されてると思います。


私は最近、この「体験」という言葉に惹きつけられます。


下記は、私が思い描く宇宙とその子供たち(私達)の物語です。↓


大宇宙=神 そして私たちはその神の子。

私たちは自分達を深く知るために、創造力を使い、さまざまな体験をしてきた。

けれど、体験し、自分の心、振る舞いを観察しようとしても、完全な観察者にはなれない。観察者という自分自身も、大宇宙の神聖な仕組みの中に存在しているから。すべてが神聖に包まれているのだから。

宇宙から切り離し、宇宙の神聖を観察することは出来ない。


そこで、3次元に降りた。 そこではまず、神聖意識を切り離した。

自分達は神ではないと言う世界を設定して、地球を開発しながら神を取り戻す試み。


神聖とは程遠い存在として艱難辛苦の体験を繰り返し、多くの感情を味わった。



宇宙=神から自分を切り離し、観察者となった私達は、本当の生命を

取り戻したとき、

それまでの体験は、貴重な財産となり自分達の意識、心を深く広げるのではないか、、


そう考えると、どこに自分や人を責める必要があるのか、と思います。

体験には判断も評価も必要ない。


これが私が思い描いた物語です。



私達は最初から愛され、赦されている存在。

無限なるものを備えた創造者。




# by mppoe-light | 2022-09-05 13:13

<私を侵すものは一切何もない>

この物質の世界は、私達人類の想いが投影され形になったもの。

劇場でスクリーン上に映し出される物語のようなもの、想いの結果。


形として現れた結果がこれから消えて行こうとしている姿に、

私達はすっかりのめり込んで、これこそが決して揺るがない真実、絶対の真実だと思い混んでいる。

自分の肉体も同じ物質だから、形に顕れた結果世界にのめり込んでしまうのも仕方がないですが。


人類の集合意識は、備わっている創造力で物質地球の物語を作り続けている。

そこでは

私達は、神とは程ど遠く、弱く、罪深き、哀れな存在として登場している。



一部の特別な人は、修行を積み重ね、悟り、神へと飛翔したと語られているけど、

でもそれはほんの一部の人で、

一般人はただ、下から天界を見上げ、

いつか大いなる神が天から降臨し、人類の善人だけを救いあげてくれる、、、

と期待、依存するだけ。


そのとき、きっと人類は自分流に神さまイメージを膨らませて、

「神様とはこういうものだ、こう在るべきだ、こうであってほしい、、」と、自分達の狭い勝手な固定観念で

自分流の神様のイメージを、心の中に持っているのかも。


だから、急に 

「あなたは我即神也 神性復活」 と言われても、自分と自分の中の神のイメージのギャップが大きすぎて、自分の神性をそのまま受け入れられないのかもしれない。



私は以前から気になっていたことがあります。

「肉体人間が考え、イメージした神さま像は、いらない」ということです。


自分は神と思えない、とか、神であるならこう在るはずだ・・・など、

それらは肉体人間が考える発想、神様像。

「自分は神ではない」と思い込んでいる肉体人間が考えイメージした神は、思い込みから生まれたイメージ。

あてにはならない気がします。


そもそも誰かが、「あなたは神そのものに見えます」と、決めてくれるから、自分は神であると信じるわけじゃない。

他人の意見じゃない、自分が決める。他人に認められる前に、自分が我即神也と決める。

決めた世界が結果となって展開される。




大いなる宇宙神は、宇宙を拡大、発展させる目的で、分御霊として私達を生み出して、無限から有限の世界まで創造されている。


だから、どんな個性のある神さまがいても良いと思います。

「私」という命は、皆すべて神。


形の世界に広がる光景は、私達が作り出した映像。

その映像に「私」と言ういのちが乗っ取られるはずはない。

映像は、もともと空っぽなのだから。

「私」と言う意識、「私」と言う“いのち”こそが本物なのだから。



肉体を器に生きることは、それぞれ厳しく辛い時もあるけれど、


<祈れる私は、光そのもの、真理そのもの、神の器そのものなり

故に、いかなる時も宇宙神の光に包まれている

◯◯を侵すものは一切何もない>


ここにいるからここで生きる、とにかく生きる。


我即神也



# by mppoe-light | 2022-08-06 20:52