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自分と神性をつなぐ鍵は「私」

意識「私」は、常に、神界⇔現象界と縦につながっていると思っています。

だから、“人間は本来神の分霊であって業性ではない”です。

だから、祈りを統一という。

「私」という意識が本体と統一することが、本来の生き方。神性の生き方。

本体とは、神性、我即神也の私です。



つまり、神聖復活とは、「私」という意識が、神性をつかむこと。

“私は神である” ということを認めることです。



残念ながら、人類は神界(神性)とつながっていることを忘れ、無視してしまいました。

“いのち”が天から届いて、ここまで来ているからこそ、今 自分が存在しているのに、

意識としては神界とのつながりを遮断してしまいました。

 「私は神ではない。人間が神などととんでもない」・・・と勝手な幻想、錯覚に夢中になってしまいました。



究極の真理とは、「私は、神である」 ということ。

常に自分をどう認識するか
私とは何か。。。

自分と神性をつなぐ鍵は、「私」だと思っています。



大難を小難にするために浄めることは重要ですが、目指す恒久平和は私達の意識にかかっていると思います。

自己意識を「神」まで高め上げ、神性と直結することで、そこから神の叡智、大調和、大成就が地上に降りてくる。


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白光ノート からhttp://fujiyama122.blog.fc2.com/



http://fujiyama122.blog.fc2.com/blog-entry-1.html


四次元世界・印・果因説


四次元世界とは、三次元世界に意識次元を付加したものである。意

識とは自己意識である。つまり、「自分が自己を何である」と認識す

るかの意識が次元としての意味を持つ。


三次元世界とは因縁因果の世界である。想念の法則により現れ、消

える。しかし、自己=肉体、幽体という意識がある限り、結果として

の現象は次なる原因となる。その因縁因果は限りなく経巡る。凡夫の

意識は凡夫の世界を創りだす。

しかし、「我即神也」の意識は厳然として存在する。三次元世界の

凡夫であろうと、「我即神也」を宣言したところには、時間の経過は

あるものの、神なる姿が顕現する。この神意識は三次元世界のもので

はない。神意識は四次元世界の意識である。しかし、神意識は「私は、、、」

と言う意識の座標軸を使って三次元世界と接点を持つ事ができる。


三次元世界に四次元目の意識次元を加えると、同じ三次元世界が

幾通りにも変化する。それは、平面の二次元世界に縦の三次元世界を

加えると、同じ平面座標が縦の座標によって幾通りにも変化するが如

くである。

印は三次元の因縁因果の世界に意識次元の変換(上昇)を使って、

「我即神也」の世界を顕現させる科学である。印を使うと、因縁因

果の流れとは関係なく、「我即神也」という意識がその意識に相応しい

現象を三次元世界に顕現させてゆく。この顕現も想念の法則を使って

成就される。それは果印説と言われる



三次元的な仏典解釈では仏典は釈尊の個人的な悟りへの来歴を語っ

たものである。しかし、仏典は神話と同様に人類の真理の記憶を語っ

たものである。久遠実成の仏とは「我即神也」のことである。常不軽

菩薩の経歴は人類のDNAに記録された記憶である。未だ「我即神也」

を完成せずとも、「人類即神也、人類よ、汝ら皆即神也」と宣言し、

人類を目覚めに導いてゆく我々会員のこれからの天命を示していると

共に、我々一人一人の過去の記憶を物語っているのである。


四次元の理論の果因説では「大初に我即神也ありきとなる。ことの

初めに、100点の神なる自分がいた。それを思い出しなさい。そうす

れば、100点の姿がこの世に顕われるのだよ。それを成就する手段

が印に他ならない。」と説かれる。


無量寿経も四次元的な果因説を展開している。仏典によると、凡夫

を救うことが出来なければ悟りを取らないと宣言した法蔵菩薩は、そ

の宣言によって阿弥陀仏となられた。

五井先生は、法蔵菩薩の成仏のロジックは「人類は初めから神である。

業などない」という真理を前提としていると説かれた。



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業を浄めるのは三次元の行為である。三次元内のエネルギーの保存則は事実ではあるが、宗教的に深い真理ではない。と維摩詰は言う。エネルギー保存の法則に捉われている限り、四次元世界に入れない。


 四次元世界に入るには、「我即神也」の自己意識を高めるしかない。浄め、徳を積む行為は重要ではあるものの、三次元世界の行為である。したがって、それでは四次元の世界に入れない。一歩一歩歩む行為は重要ではあるが、四次元世界に入るには更に一歩進んだ、印・果因説つまり自己意識を上昇させると言う四次元軸が必要になる。


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在りて在るもの

 「我は、、、、I am….」と言う四次元軸を使うことによってのみ、人は神を顕わすことができる。宗教の奥義に達することができる。
 自己意識という四次元軸上で階段のように一つずつ上るのが、祈りである。四次元軸の上昇しつつ、上方から降りてくるものを「私である」と受け止めるのが、統一である。上方からエレベーターのように降りてきた直霊が肉体を通して光を放つのが、印である。印は神我一体の手段であると同時にその結果である。

努力して神に成る(to become)ということはない。ThatI am. 我即神也を受け入れさえすればいい。何の許可もいらない。何の資格もいらない。何の経歴もいらない。
ThatI am

我即神也は実在するものであって、現にあるもの、久遠実成なるもの。その神が四次元軸上を降臨すること、その神の降臨を受け入れることが悟りである。神を思い出すことである。自己意識という四次元軸での上昇、降下を司るのはすべて「私は、、、I am…」である。そこに管理し、時に顔をしかめる神はいない。すべて自己責任の領域である。自由意志の領域であり、自己の尊厳の領域である。

 
自己と神を繋ぐ鍵は「私は、、、I am….」である。それ以外にはなく、それをさまたげるものは何もない。どこかの誰かがそれを成就してくれるわけでもない。自らがなすのみ。深い祈りと、統一と、印によって。

「私は、、、I am…」によって。
自己探求によって。
自分を限りなく愛することによって。



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私は在る
 Now here I am. I am to be God.
(今ここに、私は在る。私は在る、神として。)

 2008年、初めての啓示は何故だか英語だった。
Now here
(今、ここに)は言い換えれば、「いつでも、どこでも」ということ。『即』の意味と同じで、『いきなり、無条件』ということです。そこに神性の永遠性、普遍性、無限性がある。それは抽象的な神性、雲の上の神性のことではない。自分自身のことである。条件が整ったならば、いつか、いずれの地にて、私は神になり得る本質がある。このようなのん気な思考は『我即神也』の思考ではない。そういう意識が悟りに導いてくれることはない。「今、ここに、そのまま、なんの条件も付くことなく、私は神である」という意識こそが宇宙神の光明であり、我々が神を顕わすように導くのである。

『私は在る(I am.)』という意識は、批判、非難、評価を下していない状態。その意識の時は、いかなる価値判断もしていない。無念無想の状態。それは神の意識である。神性の輝きである。この意識は「宇宙神から放射された光が、今ここに、自分として輝いている」という状態だ。従って、『私は在る』(I am.)は即ち、『私は神である』という意識そのものである。『私は在る』と意識するや、間髪をいれず、つまり、雑念が入り込む前に、ここに在る自分は神そのものであると宣言しさえすればいい。この『我即神也』に至る方法を統一、日常生活の中で使ってみて下さい。


by mppoe-light | 2019-06-16 21:41 | ピタゴラスさん啓示録から