「神と人間」から
各分霊が直霊より分けられたる光(心)により想像力を駆使して幽界を創り、肉体界を創造して、・・・・・・この三つの体はいずれも光の波動でできているのであるが、肉体はその光の波が非常に粗く、流れる速度も遅く、その波は重い。
分霊は、精妙な光であり、本来自由自在に動きうる波動をもっているのであるが、肉体界に出入りするうちに、いつとはなく肉体の鈍い動きに同化され、しだいにその精妙さが失われてきた。・・・・・ここにおいて人間は、肉体界の生活を主とした自己限定をするようになっていったのである。
分霊の創造の始めにおいておこされた想い(光の波動)は神より来る本来因果(真善)であったが、肉体界に自己限定を始めた頃より生じた想いが業因となって、人類の悲劇が始られたのである。
山海草木も動物も創造されたるものであって、自己意識、我(知性)を持たぬが、人間は創造者たる分霊そのものが、肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。
<五井先生 「神と人間」から>
私たちは、自己意識、我をもった 神。
いわゆる”自我”は、自分自身が神であることを忘れたことから生じた自己像。本来はないもの。 本来なかったもの。
人間は本来神の分御霊であって、業生ではない
因縁因果を超える法
過去の誤りなぞ、ほじくり返さずに、ただただ、光明のほうに、心を向けていることが、
自分を救い、人を救う、一番大切なことなのである。
自分を愛し、人を愛し、
自分を赦し、人を赦す、
これが業(カルマ)を超える最大の道。
<五井先生 神と人間 から>
我即神也 人類即神也 これがカルマを超える最大の道。
この本来因果を宣言したのが「我即神也、人類即神也」である。
結果としての我々は宇宙神と同じ神性を生まれながらに備えている。
この神性を顕現することが我々の天命である。
「我即神也」を宣言し神性顕現と言う天命の道を見出した神に、因縁因果はなく、輪廻転生もない。
この神性から事を起こすのが果因説である。
現われてくる「消えてゆく姿」があろうとも、神人はそれ以上に顕わすべき自らの神性に意識を集中させてゆくのである。
<ピタゴラスさん 選択の問題 から>
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現われてくる「消えてゆく姿」があろうとも、神人はそれ以上に顕わすべき自らの神性に意識を集中させてゆくのである。
同じことを、最近思っていました。 私たちがやるべきことは、 自らの神性に意識を集中させること。
宇宙の真理は
それが善であれ悪であれ それが誰であれ何であれ
過去の記録は一切問題にしない <1月号 インフィニットワーズから>
我即神也にとって、過去は問題ではない。
自分の中の神性を信じる、そうなのだと信じる。 そのためにも祈る、宣言する、印を組む。
たとえ信じる気持ちが浅くても、 祈る時、宣言するとき、印を組む時の私は神。 なぜなら祈りも印も、神の活動そのものだから。
そのことに誇りと自信を持っていきたい・・・と思います。
我即神也 人類即神也
by mppoe-light | 2013-12-30 20:13