「現象を根拠に自分を評価しないこと」☆果因説
現象を自分でコントロールできないということが、不安、恐れの気持ちを呼び起こす。
それは因果説の生き方だと思う。
因果法則の限定された世界は、不平等で、理不尽で、、、、 どうしても行き詰ってしまう。
そして 結果、自己否定、人間否定、人間罪の子観になってしまう。・・・
因果説を手放し、果因説に意識を進化させて大成就の創造を始める。
究極の真理があるから、すべては必ずよくなる、絶対大丈夫、大成就 !
因果説の世界は不完全な世界しか創造しない。
果因説は完全円満の世界を創造するのみ。
因果説、果因説、この二つは両立しない。
意識は必ずどちらか一方を選択している。
意識的に我即神也を選択する。
と・・・
言うのは簡単なんだけどな~(T_T)
我即神也を選択したつもりで、でも実はそうじゃないみたい・・・なんてーこともあったり。。。
あっ・・、また結果にこだわってる・・・(― ―;)
現象を根拠に自分を評価しないこと
上手く意識の切り替えができなくても、何度失敗しても、コケても・・・(実は今日 コケたばかり。。。)
シクシク・・・
重い「私」より 我即神也の、軽い爽やかな「私」が やっぱり好きだ!!
自分が好き♪ と言える「私」我即神也が好きなのだ!!!
だから、
これからも続けてやるっっ 祈り、印、言霊とか神語とか、、いろいろーーー。
完全円満と不完全とは相容れないものです。
不完全なものは、すべて実在ではありません。 「愛、平和、祈り」から
『因果律を手放すことは可能』
カルマの法則は絶対法則ではない。カルマの法則を維持しているのは、人間サイドの『魂の生き方』つまり意識レベルなのである。
では、どのように因果律を手放すのか。
『①ただ自らの思考を変えればよいだけなのである。②自らに今まで欠けていた真理の栄養素を与えればよいだけなのである』。
①思考を変えるとは自分に対する見方を変えることである。
現象を根拠に自分を評価しないことである。
これには多少、思考のリハビリ訓練が必要になる。
通常の「現状つまり普段の自分と理想の自分とのギャップ」という思考回路がある。
その回路ごと手放す訓練をするのである。
この因果説の思考回路は果因説になると、「現象つまり過去の自分と真の自分との分離」と言うことになる。
「神になれますように」ではなく、「我即神也、私はもう既に神なんだ。元々神なんだ。そもそも神なんだ。初めから神なんだ」と「不完全な自分はさておき」、「我即神也」にしてしまう。
どんなことがあっても、「神様に顔向けできない」などと、絶対に思わなくていいのである。
それ以上に大事なことは、自分を神として愛すること。この訓練をするのである。
自分を自分が愛してこそ、自分はすべてから愛され、すべてを愛することが出来る。自分を自分が愛せずして、自分を愛する人はなく、人を愛することも出来ない。
②真理の栄養素を与えるとは、自分に神語を語り続けることである(10-13,14参照)。
宇宙神が創造したままの自分の姿を言葉にする。その言葉が神語である。
その神語を自分に浴びせかけ、自分に吹き込むことによって神性顕現、本心顕現が始まる。
それと同時に、因果律が意味を失うのである。
カルマは神の創造力の誤用によって作用しているにすぎない。自分のカルマは、自分で栄養を与えて、作動させているものだから、自分で停止させることも可能なのである。
自分の神としての創造力が、人間凡夫説やカルマに縛られた人間像、神より劣った人間像、人間不完全説、罪の子説を現実化させてきたのである。
神性顕現のルートに入ると、カルマのルートは無いのである。光の世界に闇は無い。
果因説のスイッチオンは因果説のスイッチオフなのである。
今後は、神語を自分に語り続けることによって、積極的に果因説のスイッチを入れ続けるのである。
神性顕現に積極的に取り組むのである。自他の神性を讃美し続けるのである。
神語を語り続けることによって、思考回路も自ずと変わってくるのである。
神語は既に成就した神界の様相を追認した言葉である。既成事実であり、真理である。
今まで、悪い言葉を浴びせられてきた。そう言った過去の姿を思い出して、気分を害していたかもしれない。しかし、人生が変わる。神語を自他に浴びせかける。そう言った真実の姿を思い出して、高貴な気持ちになる。そのような人生に変わるのである。過去のカルマが入り込むことはなく、果因説による神性顕現が始まるのである。
『 』は白光誌2010-1
by mppoe-light | 2012-04-01 19:50 | 真理について思ったこと