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“全体と私自身”

最近、“全体と私自身” について考えることがあります。

どんな人も、すべての人は神の分霊です。宇宙神とつながる“いのち”です。 神聖な存在です。どんなに愛のない姿を現わしていても、真実は人類即神也。


地球には70億もの いのちが存在している。

いのち=「私」

70億の「私」が活動し世界を創造している。

悲しいことに、多くの「私」は、神性を忘れてしまい、自分は神では非ず、肉体人間だ・・・と二元対立の創造を繰り返している。

そんな中で、私は究極の真理を受け入れ、神性を認めて生きている。


法友以外の友人知人は、どんなに親しくても、私とは違う世界で生きている。

肉体人間観で二元対立の考えのままに生きている。

「人間とは本来何者なのか、何のために生きているのか。

今、地球や人類がどんなに厳しい状態なのか、、、」そんなこと誰も考えていない。


友人たちと交流しながら、ひとり私は彼らとは違う世界、次元で生きている・・・と感じています。



ここ最近、法友や祈りのメンバー以外の人たちとの交流が増えています。

とても増えています。

外に出ることより、部屋の中でなにかをしていることが好きな私なのですが、次々と新しい人たちと出会い、交流する機会が増えました。

正直、人見知りするタイプなのでストレスも感じます。

だから、あまり自分から積極的に会話することはないのですが、

それでも、受け入れられ、頻繁に声をかけてもらい、
人間関係がどんどん広がっています。



今年の指針は

「人々を愛し、人々に奉仕することが、人生最大の喜びである」 でした。

このことを心がけていたおかげで、

以前より、人を判断し、自分の価値観で評価することが減りました。

以前より、人を愛する気持ちが大きくなっています。



私は神だから、すべての人を愛している、愛することができるのだ・・・

そう思うと幸せな気持ちが広がります。



<今月の昌美先生の指針から>



自己をなくすのではなく、自己を限りなく広げてゆき、究極は、全体と自己が一体となることこそが、神聖そのもの。


自己が全体の中に分け入れば、全体の一部となって、そこで初めて無限なる自己の自由、生命、至福、健康を得られる。


# by mppoe-light | 2019-05-16 22:23

自由になるために

自由になるために


遭遇する出来事に、無意識に当たり前のように、感情が反応し、

批判、非難、評価をしている。すると、私の心は重く、苦しくなっていく。

困ったことに、その重苦しさも気づかないで過ごしてしまう。



惰性のまま意識を野放しにしておくと、意識は落ちるだけ。

肉体人間観の重く苦しい生き方に戻る。

すると、肉体人間は、

次は、重苦しくなった自分の心を癒すため、外側に喜び、楽しさを求めていく。

外側に期待する。

これも依存。


ここまで来て、やっと気がつく。



「しまった!我即神也から遠ざかったしまった。 だからこんなに心が重くてしんどいんだ。」 反省。。。
自分が真理から遠ざかっている・・・と気づくと、それまでの心の苦しさが、どっと迫って辛くなってくる。
「祈りたい! 祈りの中に入りたい!」

と、祈りの中に飛び込む。


本来 私はあふれでる無限なる喜びであり幸せです。

真の幸せ、喜びは私自身のなかにある。

それを外側に求めても得られるものではない。そんなことをしても新たな葛藤を生むだけ。



この、重く暗い自分から自由になるためには、

愛すること。

自分を愛する、人を愛すること。

私は神だから、すべての人を愛しているはず。

愛することが私の幸せ。



嫌悪や怒り、批判、非難の想いから解放された時、私の心は穏やかに静かに、豊かに、喜びで充たされる。



もっと人を愛したい。愛すればするほど、私は自由になる。

大丈夫、安心して。私は神だから、すべての人を愛している。


# by mppoe-light | 2019-04-26 22:32

祈っている時、思ったこと。

祈りながら

私は体験したかったんだな。肉体人間を体験したかったんだなと思いました。
希望通り地球で人間として活動し、神性を忘れ、二元対立の思考の生き方を体験した。


自分の真の姿を忘れた時、世界はどんなふうに観えるのか、生きることとはどういう風に思えるのか、不安や恐怖などネガティブな感情はどういうものなのか。。。
それをとことん体験した。


そして今、神聖復活を始めている。


私は、私のためにも世界平和創造のため、祈り、印を組みます。

地上に肉体を持ちながら神性と繋がり、肉体を媒体に天からの光を地上に放射するという大きな役目があります。


今現在、肉体を持ち、媒体として天と繋がることが出来る人間が地球上にどれだけいるのか。 祈り、印が組める私たちは、特別な存在になっていると思います。 
ならば、役目をまっとうしなければ。

神人として、いのちを使わなければ……



真の私が一番望んでいることは何か。それは、人々を愛し、人々に奉仕すること。(これは今年の私の指針なのですが)、

生きることとは、人々を赦し、愛し、奉仕すること・・思うようになりました。



神聖復活目覚めの印を組むときは、

「私は宇宙神と繋がっている、我は神なり」と思い組むように心掛けています。

それは同時に人類も神である、ということ。

大成就!


# by mppoe-light | 2019-04-15 22:05

過去はない。因果律から創造者へ

以前にこちらで紹介した 「踊る物理学者たち」 ゲーリー・ズーカフ著 青土社

過去に載せたものに目を通していたら、面白くて、また少し載せてみます。



昌美先生が説かれる究極の真理、因果律ではなく果因説、そして

過去はない ・・・ 

この本には、量子論の観点から、私たち日々学んでいる究極の真理に通じるものがあり、久しぶりにわくわく♪(*^_^*)



≪事の本性上、我々は位置と運動量のどちらか一方しか知ることは出来ないのだから、どちらを知りたいのかは、我々の選択の問題である。
これは、形而上学的には、属性を測定するのを決めるのは我々なのだから我々がそれを創造しているのだ、と言うのにほぼ等しい。
言い換えれば、ある位置を占めるもの、例えば粒子を我々は創造できる。なぜならば、何か位置を占めるものがなければならず、位置を決めるのは我々なのだから、結局我々がそのものを創造していることになる。≫



≪因果的な宇宙観は不確定性原理によって根こそぎにされた。
これに関連して、ニールス・ボーアは、量子力学が本質的に次のような結果を伴うと述べている。
・・・(それは)古典的な因果律の考え方をきっぱりと放棄する必要性と物理的実在について我々の態度を根本的に改めることである。≫
≪新しい物理学によって我々がどこかへたどりつけるとしたら、それは我々自身へ向かうことであり、当然のことだが、我々が行けるのはそこだけしかないのである。≫



↑これって、究極の真理みたい・・・と思いました。
私達はすでに、究極の真理を学ぶことで、因果律の考え方を放棄し実在についての態度を根本的に改める我々自身に向かう⇒人間の本質(神性)、 すべては完璧、欠けたるものなし、大成就



*************************

「踊る物理学者」から 
量子力学は今世紀(20世紀のこと)初頭に自ら姿を現した。




量子論では、自然は或るかたまり(量子)という形で生起するのであり、
量子力学はこの現象を研究している。


ニュートン物理学は依然としてマクロな世界にあてはまっているが、原子より小さい領域ではうまくいかない。


原子以下レベルの現象にはニュートン物理学はあてはまらない。
そこでは、粒子の位置と運動量を完全な正確さをもって同時に知ることができない。両者を近似的に知ることはできても、片方が正確になるにつれて、
もう一方が不正確になる。
このことは実験によってすでに繰り返し確証されている。
*************
原子より小さい粒子の位置と運動量の両者を決定することが出来ないのだから、我々の予測できることは多くない。
だから、量子力学は個々の事態を予測することは出来ないし、しようと思ってもできることではない。
しかし、確率を予測することはできる。
ニュートン物理学では「今これこれの状態ならば、次はこれこれの状態になる。」と表現するが、
量子力学では「今これこれの状態ならば、次にこれこれの状態になる確率はこれこれである。」と表現する。


つまり(原子以下レベルの粒子の)位置と運動量、の両方を正確に知ることが出来ないからである。どちらを正確に知りたいのか、これは我々の選択の問題であって、それによって実験も異なる。



 

事の本性上、我々は位置と運動量のどちらか一方しか知ることは出来ないのだから、どちらを知りたいのかは、我々の選択の問題である。
これは、形而上学的には、属性を測定するのを決めるのは我々なのだから我々がそれを創造しているのだ、と言うのにほぼ等しい。
言い換えれば、ある位置を占めるもの、例えば粒子を我々は創造できる。なぜならば、何か位置を占めるものがなければならず、位置を決めるのは我々なのだから、結局我々がそのものを創造していることになる。

宇宙は、奇妙な意味ではあるが、人が関与することによって「存在するようになる」のだろうか?
決定的な行為は関与するということである。


「客観性」という神話

科学的客観性という考えは、「こちら側」「私」があり、「あちら側」に外的世界があるのだ、という仮説に基いている。(こういう感覚は、他人を「あちら側」に置くもので、「こちら側」がとても寂しくなる)
この考えでは、大自然もその多様な一切合財を含めて「あちら側」にある。
科学者の課題は「あちら側」を出来るだけ客観的に観察することになる。
客観的に観察するとは、対象を偏見なしに観察することである。
(省略)
つまり前もって意見を持たないということである。実は意見を持たないなんて不可能である。意見とは物の見方である。
何も物の見方なしでいられるなどという見方をすること自体、すでに一つの物の見方である。

新しい物理学、量子力学が我々にはっきり教えてくれたのは、実在を変化させないで観察することは不可能であるということだ。
粒子の衝突実験を観察する場合を考えてみると、我々がもし観察してなくても結果は同じであったかどうか、確かめる方法がないということに話はとどまらず、そもそも我々が観察していたことが実験結果に影響しているのだから、観察していなかったら結果は別のものになっていただろうということしか知りえないのである。

光が波のようなものであることを示す実験もあり、光が粒子のようなものであることを示す実験もあって、両者に甲乙をつけられない。
光が粒子に似ているか、波に似ているのか、どちらかを証明したければ、目的にかなった実験をすればよいことになる。
量子力学によると客観性などというものはない。世界像から我々自身を取り除くことはできない。我々もまた自然の一部であって、自然を研究している際には、自然が自然を研究しているという事実を迂回して避けることはできない。(略)

物理学は意識構造の研究ということになる。

素粒子レベルでは、対象は観測されることによって必ず変化してしまう。世界に対して影響を与えないでありのまま観測できる観測者が世界の外側に孤立して存在することはないのである。


古典物理学の前提は、実在世界が厳密な因果法則に従って空間と時間の中で我々とは孤立に推移しているということである。
世界には感づかれることなしに、そのありのままを我々が観察できるだけでなく、初期条件に対して因果法則を適用して未来を予言することができることになる。
ニュートンの運動法則を個々の粒子に適用することはできない。粒子の位置や運動量の初期条件がわからないからであり、これこそが不確定性原理が示していることであった。つまり、ニュートン力学の法則を適用できるような仕方で素粒子を知ることは原理的にも不可能なのである。

電子のビームを考えるなら、所定の時刻、所定の場所での電子の分布を予測することは量子論にとって可能であるが、個々の電子がどうなるかを予測することは原理的にも不可能である。因果的な宇宙観は不確定性原理によって根こそぎにされた。
これに関連して、ニールス・ボーアは、量子力学が本質的に次のような結果を伴うと述べている。
・・・(それは)古典的な因果律の考え方をきっぱりと放棄する必要性と物理的実在について我々の態度を根本的に改めることである。

新しい局面
素粒子の世界に入れば科学ももはや「厳密」ではない。客観と主観の境界線は消えた。
自然が姿を現す玄関口は、自然の推移に対して無能で受動的な傍観者「私」であり、我々は、つまり取るに足らない我々は、その一人だと思われていた。
だが、自然という大機械の中の歯車のはずだった人間が、今こそ宇宙の創造者になるのだ。
新しい物理学によって我々がどこかへたどりつけるとしたら、それは我々自身へ向かうことであり、当然のことだが、我々が行けるのはそこだけしかないのである。

「踊る物理学者たち」 ゲーリー・ズーカフ著 青土社


# by mppoe-light | 2019-03-22 23:29 | 真理について思ったこと

講師錬成会

講師になって初めて参加しました。

(初めてなのでいつもどのような内容かは分かりませんが、)

神人として働けて良かったです。

私の本体が、今一番望んでいることが出来たのだと思います

私は、このために地上に誕生してきたのだと思います。



神人として働くこと、それが“生きる”意味、目的。

誰かに評価されなくても、認められなくても

そんなこととは関係なく、私の心は自然に満たされています。

今年の指針の通りです。

「人々を愛し、人々に奉仕することが 人生最大の喜びである」



神人であるということ、本来、我即神也であるということ、

これは大いなる救いであり、喜びです。



日常生活の中で、外側の出来事にただ反応して感情を野放しにして生きるのは、無明の生き方。迷いの生き方です。 
反応するのではない、創造する立場で出来事を受けとめ、創造するために生きる。



究極の真理は素晴らしいです。

自分の人生を大切にしたいと思います。


# by mppoe-light | 2019-03-18 22:15

明日は錬成会

ホテルの中。
明日は講師錬成会
初めての錬成会です。

神聖復活目覚めの印の力……を感じるこの頃。
飛躍したい、飛躍できるのだ、私は神の分御霊である
すべてとつながり、創造する創造者
よってすべては完璧 欠けたるものなし 大成就

# by mppoe-light | 2019-03-16 22:41

すべてと繋がっているのだから

私という意識を通して、私はすべてと繋がっている、と思う。

相手と、自然界と、宇宙と、すべてを構成している素粒子と繋がっていると思う。

だから素粒子は私の意識に応えて私の創造に協力してくれると思う。

それは、
私は何でも自由に創造することができる・・・と言うこと。



私が認め信じたものは素粒子たちに伝わり、現象界に顕すために協力してくれると思っています。 それは奇跡と呼ばれて形の世界に顕れるはずです。

そのためには、

自分を愛し世界を愛し、感謝をして、そして信じること。



我即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就



私達は、神の完全性を顕すために地球に降りてきたのだと思っています。


# by mppoe-light | 2019-03-06 22:55

私がいる世界

私がいる世界、私が住む世界こそ、先ず美しく綺麗な場にしたい。創造したい。

だから私は、心は青空のように清々しく爽やかにしていたいと思う。


現象に振り回され、受け身の生き方をするために私は生きているのではない。 
私は神の分霊として創造するために地上に生きている。


私の意識が、想いが、瞬旬刻々と未来を創造していく。

美しく清らかな世界に住みたいのなら、そのような心で生きる。



私は私の美しさを信じる。清らかさ、気高さを信じる。神性を信じる。

実は私は素晴らしいのだ。光り輝く高貴な存在なのだ。

私が私で良かった。私が私を称える。


これは自分以外の人に認めてもらうために言うのではない。

私が自分を愛し、認める。



多くの人は本来の自分を見失っている。真実に(神性に)蓋をしたまま、

神性も忘れはて生きてしまっている。

それを知っているから、分かっているから、

誰も憎めない。責められない。

皆、内に神性を秘めた神だから。


# by mppoe-light | 2019-02-15 22:21

辛抱するときは辛抱して堪える。

日常の出来事、人間関係などなど・・・

お馴染みの不調和な出来事の数々。

そんなことに没頭して

感情をだらだらと流していても仕方がない。



辛抱する時は辛抱して堪える。 そして、感情は一旦横に置いて、

心に何も荷物を持たない状態で、自分を見詰めるてみる。

感情がグラグラしたら、元の位置に戻る


 

私は何なのか、何のために“いのち”がここに在るのか。

生きることとは何なのか。

私は“いのち”をどう使いたいのか。



それが蘇った時、うそのように心が安らぎ、愛する気持ちが

湧き上がってきます。



ありがとう!


# by mppoe-light | 2019-01-22 22:05

ここにいる“私”とは。


肉体を超えている“私”

現象界で、名前で呼ばれている私とは別に、肉体や、名前や、時間からも離れた位置で、肉体の活動を見つめることの出来る“私”  

その“私”は、宇宙に所属している。
”私”は宇宙神の子。(我即神也! 喜びが溢れます。)

その“私”にとっては、いのちは現象界にあるのではなく、宇宙の中にある。
いのちを地上で活かすために降りてきている。

いのちの中には、無限の愛、無限の能力、無限なるものすべてがあり、

それを形の世界に顕すために今、肉体を器にして活動している。



その“私”を信頼し、集中することが出来れば、完璧、大成就への生き方が出来るようになるのだと思います。

ただ、
そう信じて、素直に、あるがままに生きようとするとき、ふと不安、怖れが浮かんできます。



自分をさらけ出し、投げ出す勇気が足りない。

本気で生き方を変える覚悟が・・・

自分の本来の力を知りたい、確認したい。

今年は、奇跡、大成就を自分のものにしたいです。



私が変わり輝けば、それは自然に周囲に流れ、

言葉で言わなくても人々へ、真理の気づきを促すはず。


# by mppoe-light | 2019-01-14 21:56