神さまの作品



私の選択、決定によって決められ発せられる言葉、想念、行為。それが今の私の姿、容姿になって表現されている。
今、自分はどんな姿を表現しているのだろうか。 純粋で、清らかで、美しく輝いた姿を表現しているのだろうか。 調和した言動を表現しているだろうか。。。

私の姿は神さまの作品 と言ってもいいのかも。 神さまの作品ではあるけども、
決めるのは私自身。 すべて私に任されている。
私が私自身のことを 神性はなく、ただの肉体だけの人間と想い、選択・決定した言葉、想念、行為ならば、その時の私は 愛薄い輝きの無い神さまの作品。
私が私自身の神性を信じ、それを顕そうと思い、選択・決定したならば、その時の私は 愛深く光り輝く本来の神さまの作品。
私は、神さまの無限の可能性を使って、自由に自分自身を創造している。

今はもう、
自分の神性を信じることに、喜びと、平和と、幸せを感じていて、神性の中に至福があることに気づき始めているから、 もう後戻りはしません。 
私は我即神也 人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就を選択し創造します。 その結果、顕れる、「私」という個性を持った聖なる姿。

私はこれから どんな「私」を(作品を)創造していこうか。
私の姿は常に私自身が決めています。 だから、いつも真理を想い、求め、真理とともに生きることを忘れないようにしたい と思いました。


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by mppoe-light | 2016-05-31 21:34 | 真理について思ったこと

「愛すること」から

  
 『愛すること』 から

<真実に自分を愛する人は・・・>
真実に自分を愛する人は、人間の本性を探究してゆく心の強い人です。あらゆる欲望感情に把われず、正しい真理の道を自己のものにしようとして努力するものです。

<真実の「今」>
変化変滅し、消え去ってゆく、この人生を唯一と信じて生きている愚かさから、脱却して、改めてこの人生を見直さなければいけません。 神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未来という、業性の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくことによって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。
真実の今、宗教的にいう今というのは、一瞬一瞬で消え去ってしまう今ではなく、神のみ心と縦につながって、永遠の今として、光を放っている今なのです。今が一瞬ではなく、神につながった一瞬から、永遠の今として、宇宙にひびきを放ちつづける今となるのです。

<永遠の今を生かす>
今人間が自らの想念行為によってつくっている運命は、それは未来に現われるべき運命なのです。こうして過去、現在、未来の想念が、過去の想念行為が現在の運命の根幹になり、現在は未来の運命の基となるというように、輪廻してゆきますので、どこかで、この輪廻を断たなければ、人類は自由自在に神のみ心を現わすことができないのです。

<祈りの生活>
祈るということは、常に神との交流をしているということで、常に神の子である本心を開いているということなのであります。


神のみ心とつながること。 
自分は神ではないという想念行為から生じた輪廻から抜け出し、神さまとつながる。
人間は本来神の分御霊であり、神性であると認め、信じること。
そのための消えてゆく姿の行であり、我即神也 人類即神也の宣言、印、そして、「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」という言霊。

毎日欠かさず祈り、印を組むことが大切だと思います。 
祈り心で生活することが大切だと思います。
なぜなら、真理を常に身近に、自分の中に置いておかなければ、業想念の波から抜け出し神性とつながることが難しくなるから。  祈り心が本来の人間の生き方だから。。
自分の神性を強く信じればこそ、日常の業想念の中で、消えてゆく姿を行じることが出来ます。

業想念を消し去ってから神性が顕れるのではない。もともと私たちは神そのもの。
それを認めることで、業想念の輪廻から離れ、神さまと縦につながる。
神とつながった一瞬から、永遠の今として、世界に光を放ちつづけることができる。

毎日、祈り、印を継続しているものの、五井先生の教えの 祈りの生活には到っていません。(p_-)シクシク。。。
いつもいつも心の中に、片時も離さず神さまをおいておけるようになりたいです。



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by mppoe-light | 2016-05-21 22:05 | 真理について思ったこと

「心についての問答」から

「阿難」の中の 心についての問答  の、ほんの一部分、
 本心と業想念を区別して考えることを説明しておられる部分です。

心についての問答

「阿難よ、おまえの心も私の心も同じだと思うし、天の倫理も同じに働くと思うが、おまえは私の法話のどこがよくて発心を興したのかな。どうして、世間の深い恩愛を捨てて
出家したのかな 」

「阿難よ、その答えも真実ではない、覚知する心と分別する心とは一つのものではない。覚知する心とは本心であり、分別したり認識したりする心は因縁性の想念である。
直覚し、知覚するのは無死無生の心、空の低にある無限の心と等しき心、仏と一つの心であり、眼で見、耳で聞き、想いで分別し、認識しようとする心、善悪を判断しようとする心等々は、すべて仏の心、自然の心に相反する業因縁の心である」

「おまえは常に如来と相対する時は、どういう心でいるのか?」

       「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。
        業は如来に相対することは出来ません」

「それでは、常に如来と倶にいる心、如来と相対する心でいられれば、阿難は、本心そのままでいられるわけであるな?」

「左様かと存じます」

「では再びいうが、昨日迄の出来事は、すべておまえの無明のなせるわざ。
けっしておまえの本心が傷ついたわけでもなければ、おまえ自体が駄目であったというわけでもない。おまえの本心は、依然汚れず痛まず、真玉の如く輝きわたっているのである。」
***********************

「おまえは常に如来と相対する時は、どういう心でいるのか?」

「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。業は如来に相対することは出来ません」

業想念の私は神性と向き合うことはない!できない!我即神也を自覚するのは真の「私」が神性だからこそ。
自分の中の神性をもっと強く認め、信じて、いつも自分の中に 我即神也 を置いておけるよう意識して生活しなければ・・・☆

神のみ心を離れて、我々に救いがあると思ってはいけません。他に何一つ救いはないのです。
なぜならば、この世に実在するのは神と神につながる生命のみであり、その他はみな消えてゆく姿だからです。

神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未来という、業性の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくことによって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。

<愛すること> から

すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

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by mppoe-light | 2016-05-05 22:52 | 真理について思ったこと