「現象を根拠に自分を評価しないこと」

どんなに物質面で欠けているように見えたとしても、それは自分が欠けている部分を見ているからです。
どうか、いい面だけを見てください。欠けているものを見てはいけません。聞いてもいけません。触れてもいけません。

いいものだけを見てご覧なさい。
奇跡が___奇跡というよりは明日から、今日から、今から変わるのです。

過去の自分を見て、自分を否定することは必要ありません。神様は全部赦してくださっています。


<6月号法話>から


昌美先生の果因説とは、過去の土壌にも、未来の土壌にも栄養素を蒔くことではないと思います。そうです、三つ目の土壌___それはまさに今という土壌。

昌美先生の生き方を見ていて、果因説のメソッド(方法、実践)、不可能はないというメッセージからは、未来の自分にではなく、今の自分を信じる力を強く持つことが大切なのだと感じます。
果因説の種は、まさしく、現在の自分の中に隠されているのです。その種に向かって、栄養素を蒔くこと。それこそが果因説なのです。

今という自分が、未来のすべてなのです。


<6月号 由佳先生法話 「果因説の種を発芽させるには」>から


「今」 は、即。 我即神也  
私の内には、今この瞬間にも神性が在る。
今までも、これからも、永遠にある神性。 我即神也。
 
だから、
今、私は、すべては完璧、欠けたるものがない。
今、私は、神聖で気高く純粋で、欲がなく、崇高で、尊い。
今、私は、すべてに充たされ、愛されている、祝福されている。

神「私」は、無限なるものすべてを現象世界に創造することが出来る。

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今、自分が何を信じて、それに基づいてどんな思考しているか。
それが未来に映し出される。現実化する。
私たちは創造者だから。


私は現実世界の何を見つめ、どう認めているか・・・・。
現象世界の、暗くて、否定的なものを真実と信じ込んだまま思考を続けないように。
現われている自分自身の姿、過去を真実だと認識しない。
何が偽物で、何が本物かを見極めることができるよう、リハビリが必要。

消えてゆく姿で世界平和の祈り、我即神也、 すべては完璧、欠けたるものなし、大成就   

思考を変えるとは自分に対する見方を変えることである。
  現象を根拠に自分を評価しないことである。


『因果律を手放すことは可能』

 カルマの法則は絶対法則ではない。カルマの法則を維持しているのは、人間サイドの『魂の生き方』つまり意識レベルなのである。
では、どのように因果律を手放すのか。

『①ただ自らの思考を変えればよいだけなのである。②自らに今まで欠けていた真理の栄養素を与えればよいだけなのである』。


①思考を変えるとは自分に対する見方を変えることである。
  現象を根拠に自分を評価しないことである。
  これには多少、思考のリハビリ訓練が必要になる。

 通常の「現状つまり普段の自分と理想の自分とのギャップ」という思考回路がある。
その回路ごと手放す訓練をするのである。
この因果説の思考回路は果因説になると、「現象つまり過去の自分と真の自分との分離」と言うことになる。

「神になれますように」ではなく、「我即神也、私はもう既に神なんだ。元々神なんだ。そもそも神なんだ。初めから神なんだ」と「不完全な自分はさておき」、「我即神也」にしてしまう。
どんなことがあっても、「神様に顔向けできない」などと、絶対に思わなくていいのである。
それ以上に大事なことは、自分を神として愛すること。この訓練をするのである。
自分を自分が愛してこそ、自分はすべてから愛され、すべてを愛することが出来る。自分を自分が愛せずして、自分を愛する人はなく、人を愛することも出来ない。


白光ノート  『因果律を手放すことは可能』 から

http://fujiyama122.blog.fc2.com/blog-date-201203.html



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by mppoe-light | 2014-05-29 18:42 | 真理について思ったこと

5月の法話を読んで☆

今この瞬間、どちらの「私」を選んでいるのかな・・・と思いました。
今、私はどちらの私を前提にして自分をとらえているか。。
どちら とは、 我即神也 か、我は神ではない・・・か、この二つのこと。

「私は・・・」と思う時、または 自分の考えや気持ちを相手に話す時、
その時の「私」は、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 を前提にした「私」なのか、
それとも過去を背負った「私」なのか・・・。

自分を見つめると、 私の思考はやっぱり過去の自分を基にしていると思います。(>_<)
 過去の不完全な自分を基に生きていても、不完全な運命しか顕れない。
我即神也の「私」なら、“すべは完璧・・・”と、心には一点の曇りも、影もないはず。
でも、
私は過去を引きずっているから、 この世の常識、不完全、失敗などを想定し、そのために湧き上がった自分の感情、その感情から引き出される判断を選んでいる・・・そう思いました。
5月号の法話をまた繰り返し読んでいて、 
消えてゆく姿で祈り、印を行い、
“すべては完璧、欠けたるものなし、大成就” を選択する大切さを改めて思いました。

<5月号 昌美先生の法話 から>

自分たち一人一人の何気ない想い、何気ない選択を通して、社会の運命を、国家の運命を、そして世界人類の運命を導いていることに、多くの方はまだ気が付いていません。

運命を導いているのは選択 ―――― では、その選択・決定は何を基準に行われるのでしょうか。
何を信ずるかです。選択・決定を下す以前に、自分は何を信じて生きているか、何を基準にして選択・決定を下そうとしているのか、それがさらに重要なのです。

多くの人は、神というものを外に求めて祈るけれど、本来は、自分の心のもっと奥に神は存在しているのです。
心の中には感情想念があります。意識があります。けれどもそのもっともっと奥に、本当に厳然とした、光り輝く本心の自分が存在しているのです。それが宇宙の大生命と見事に一体となって、この世に生かされているのです。
それを信ずるか、疑うか。
自分自身の内なる神を信じるという選択によって、自分の人生が素晴らしく輝かしく高まった生き方が出来るようになるのです。

人間にはあらゆる性格があります。この自分の性格を創るのは何でしょうか。
環境が創るとお思いになるかもしれません。しかし、究極的には環境ではなく、その環境によって引き出された想い、感情です。つまり、その時に何が起きたかではなく、それが起きた時に何を思ったかが、自分の人格を創り上げているのです。

常時、怒りに負ける人、不平不満に負ける人、欲望に負ける人は、素晴らしい人格とは言えません。欲望があってもいいのです。欲望があってもそれに負けずに、自分はさらに高いレベルの選択をしよう、まっすぐに生きよう、素晴らしいものを選択しようと思えば、そこから未来は変わっていく。自分の感情想念、欲望の想念をふっと超えた選択・決定をする。 そうやって自分の素晴らしい人格は創造されてゆくのです。

自分自身の小さな選択が変われば、そして人格が磨かれれば、自分の世界を見る目が変わり、周りの自分を見る目が変わり、状況が変わっていく。相手が優しくなる。助け舟が現われる。ですから自分自身の想いはものすごく大事なのです。自らを素晴らしい人格に導く選択が、最も大事なのです。






自分の感情想念、欲望の想念をふっと超えた選択・決定をする。 
そうやって自分の素晴らしい人格は創造されてゆくのです。

過去を背負ったために湧き上がった想念を、消えてゆく姿で世界平和の祈り、そして印で超える。 
そして、祈り心から新しい高い選択をする。

 祈り心の私は、自分の内に神があることを信じ、自分の中に無限なるものすべてが内在し、すべてが完璧、欠けたるものなし、大成就ということを知っている。
だから高い選択が出来る。

教えの基本 “消えてゆく姿”・・・を、また改めて自分に言い聞かせないと・・・と反省した私です。 
消えてゆく姿の教えから、 我即神也 、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 そして 果因説へ と意識は上昇するのだから。



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あ、SOPPのつづき・・・・だった☆
今年はあっという間に終わった感じでした。 ちょっと物足りない・・・?(笑)
 なぜかな。
この頃の私、ちょっと心が浮ついてるから?  ( ̄▽ ̄;) 。。。。。がぃん~っ
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予定より1時間くらい早く終わったので、早く家に帰ることが出来ました。
いつも年に1回 SOPPだけ富士に行く私ですが、、、今年からもう一回
秋に富士に行きたいな・・・と思っています。



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by mppoe-light | 2014-05-23 19:51 | 真理について思ったこと

soppに行ってきました♪

2年ぶりの富士聖地でした。 (昨年は放射線治療と重なっていたのでお休みしました。)

いつものように朝7時前には到着。(^-^)
さっそく、 場所を確保っっ!

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                          じゃじゃ~んっ  

迷子にならないように、いつも角っこに座ります。

座る場所が決まると、まず会場の後ろの方で 印を組み、
その後、7つの場へ。 その頃になると、どんどん参加者の方々が増えてきます。
人がいっぱい。
私は人ごみが苦手なのですが、やはり富士聖地は特別な場です。
人がいっぱいでも、ちっとも疲れない。
それどころか、清々しくて気持ちがいい。透明感いっぱいです。

実は、行事開催の10日前から左肩が痛かったのですが、(わぉっ これって50肩?!(@_@;))
富士聖地に着いたら、いつの間にか治ってました。ヽ(^。^)ノ わーぃ♪
でも、、、
また今日になって少々痛くなったしまったけど・・・(^_^;)  今は大丈夫です。 

うん、やっぱり富士聖地だっ

 毎回 行事中、晴天の時は、陽射しがまぶしくて冊子を読むのがつらかったのですが、
今回は、陽射し(紫外線)のことを考慮して、 大きな帽子と、眼鏡の上からかけられる
サングラスを準備していました。

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                    通販でみつけたサングラス。

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                     せっかくなので自撮り! 帽子とサングラスと私と・・・・
                     ちょっと怪しい人になっている・・・☆

大きいサングラスなので、まるで変装しているようですが、 でもおかげさまで助かりました。



つづく・・・☆


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by mppoe-light | 2014-05-21 22:18 | どってことない話☆

「真理は確立され、こちらに向かってきている」

 自分が自分自身を汚れていると認識すれば、カルマを体験する。
自分が神であり、宇宙神と根源でつながっていると認識すれば、途方もない贈り物を体験する。
宇宙神と自分は厳然とつながっているのだけれども、それを認識しなければ贈り物は顕われない。
その事実を思ってみなければ、贈り物は顕われない。


「我即神也」を 
認識しなければ贈り物は顕われない。


すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 
その事実を思ってみなければ、贈り物は顕われない。



 世界平和、神我一体、自他一体という真理は永遠であり、時空を超えている。
真理は時空を超えているだけではない。真理はまっしぐらに、今の自分に突進して来ているのである。
それをきちんと受け止めましょうというのが、『み心の天になる如く、地にも為さしめ給え』という祈りである。


”真理はまっしぐらに、今の自分に突進して来ているのである。”
そう思います。 今、この瞬間、即、私には(人類には) 真理が降り注がれている。
真理に貫かれている。
そのことを、一切の疑いも持たず認めるとき、 我即神也  神性がそのまま顕れる。
が・・・、
疑いの想いが真理の顕現を遮る。。。(T_T)ううぅ。。。

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 無力なる人類に共感している場合ではない。汚れを償うために犠牲と痛みを捧げている場合ではない。
共感も犠牲も痛みの受容も自我の主張に過ぎない。
共感するならば真理に共感するのである。痛みを捧げるのではなく、無限なる恵みに感謝を捧げるのである。子供の悪夢の痛みに寄り添う親はなく、悪夢を贖うために犠牲を捧げる親もいない。悪夢を払うのは目覚めしかない。目覚めとは、『我即神也』という真理に目覚めることである。

人類の消えてゆく姿(無力な人類、汚れ)や、現象に共感している場合ではない。( 厳しいと思われるけど。。。)  消えてゆく姿を改革して世界が平和になるのではない。  
世界平和は目覚めしかない。 
目覚めるとは、「我即神也」 ということ。

真理は確立され、こちらに向かって来ている。その真理と同調するのが祈りである。
真理に目覚め、同調するとき、真理は現実世界に顕現する。目覚めた人は真理を体験する。
この地において、天(宇宙神)のみ心を体現するのである。それは奇跡であり、大成就であり、天命である。
奇跡とは宇宙神の愛の拡張をブロックしている自我の思い込みを解除することである。自我の思い込みの解除に必要なのは、祈りと印である。

『私は宇宙神の根源につながった神である』(言霊)

参照:『宇宙神の根源に汝らは直結した』(2014/01/12新年祝賀祭

ピタゴラスさん 『私は宇宙神の根源につながった神である』  から

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”真理は確立され、こちらに向かって来ている。”

”究極の真理” は、確立され常に私に流れ来ている  
我即神也、を認め
私は常に すべては完璧、欠けたるものなし、大成就  
それを信じ、同調する、受け止める。自分のものにする。

と思います。

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by mppoe-light | 2014-05-10 19:47 | ピタゴラスさん啓示録から

果因説・因果説の祈りかた・・・☆

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自分の身近な人が問題を抱えた時、困難な状態にいる時、
私たちはお祈りで応援をしています。

少し前から気になる人がいて、その人のために祈っていました。

○○さんの守護霊さま守護神さまありがとうございます。
○○さんの天命がまっとうされますように。 ○○さん即神也

または、
○○さん即無限なる能力 ○○さん即無限なる可能性・・・・などなどです。

その時の、私の気持ちは、、、
 
私は今、困っている○○さんに、欠けてるものを補ってあげなくちゃ。。。
○○さんに無限なるものの光を送り、抱える問題の解決をしてあげたい。

あらら、、、これでいいのかなー?
これって、ちょっと私の思い上がりなのかも・・・。。(笑)

私は○○さんのことを どう思って祈っているのか、
ちゃんと○○さんのこと即神 と認めて祈ってるのかな。。。

と思いました。


もしかして、今までの祈り方は、因果説の思考の祈りだったのかも・・・・?
(――;)。。。。 が~んっ!


○○さんのために祈る私は、、、、我即神也 の私。そうでなければならない。
(そう信じなければならない。)
我即神也の私が見る○○さんは、もちろん私と同じく即神也。
ならば、 
○○さんは、不完全で欠けているのではない、無限なるものが無いのではない。 
○○さんも、私と同様に、本来は無限なるものすべてが調っている。
○○さんも、すべて完璧、欠けたるものなし、大成就。 


まずこのことを認める。
 
私は○○さんが即神であることを知っている。
○○さんの内側に無限なるものがあることを分かっている。
だから
その私が祈って、その無限なる神性が表に顕れることを応援する。
○○さんに欠けたるものがない姿を創造する。

欠けているものを補うために祈るのは、因果説なのかも。
 
○○さんはすべて調っていることを認める。それが形の世界に顕れるように祈る。
そんな風に祈りをするべきじゃないのかな。

完璧、大調和から始めるのが果因説・・・・と、
そんなことを思いました。 


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by mppoe-light | 2014-05-02 19:57 | 真理について思ったこと