”生きること” ”生きる意味”・・・など

光を知ったらからこそ、反省することに多く気が付く。
反省と同時に意識は必ず光に向ける。(光が先か、反省が先か・・・?(笑) 
 光はどこにあるか。光は世界平和の祈り、我即神也。 光は究極の真理の中に。

謙虚さは愛の気持ちから生まれる と思う。 
下座に着くということは、心の奥に、相手を尊重し愛する という気持ちがあるから。
自分の中に愛を充たしていけば、 謙虚な気持ちが自然に顕れる、と思う。
相手の神性を感じているから、謙虚さが自然に顕れる、

「和顔・愛語で下座につく」

私たちの言動を、本物の美しさ、輝かしさに戻してくれるのは、究極の真理。我即神也


究極の真理は、ただ単に、この世を上手く乗り切るためにあるのでない、と思う。

この世のことは、
誤解、錯覚の産物の現象界を消えてゆく姿にして、 本来の神性を輝かせることに意識を置けば、 現象界の問題は自然に解決する・・・はず。 なぜなら
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 だから。 

我即神也を信じ続けていれば、
抱えた問題も、心の中では大きな負担にならないはず。
本来は空っぽなものだと理解しているから。 もともと自分は完璧な存在と知っているのだから。


我即神也を自分の中で極めた人にとっては、
現象世界とは、結果を期待したり、何かを求めたり、満たしてもらう世界ではないのだ、と思う。
現象世界は、究極の真理を顕す場。 光を放ち続ける場。 与え続ける場。

本当に「生きる」とは 光を放ち続けること、与え続けること…なんだろうな・・・と思います。 
あ、創造者であることも付け加えたい。


真理の事を考えると、 いつも 人間の存在、生きる意味、生き方 へと想いが向かいます。

私たちは何者で、なぜ存在し、生きることはどういう意味があるのか。
哲学っぽい疑問だけど、その答えが「究極の真理」 と思う。


ウソなる自分を否定して否定して、否定して正して、本当の自分に成るのではない。
 本当の自分を認めて認めて、認めて愛して、本当の自分を顕現するのである。
 『あなたのいるところ神聖なのです』(出エジプト記3-5)

 不調和な想念をなくして、神に近づくのではない。
 不調和な想念は『消えてゆく姿』なのだから、あなたは神そのものなのである。
 あなたが自分自身を神と認めさえすれば、そこが神の国なのである。

神性とは認めることによって顕現するあなたの本心である。

ピタゴラスさん「パスポート」 から





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by mppoe-light | 2013-10-29 22:50 | 真理について思ったこと

<錬成会の主願目> 

 
<錬成会の主願目  五井先生のお話より>

「錬成会の主願目は、個人個人の霊性を特別に高め、神様の分けいのちである自分の本心をすみやかに開発する、ということであります。
 想いに把われたら把われたでいいから、把われたまま世界平和の中に入れてしまって、そして、いつでも高い奥深いところから、現われてくるものはすべて消えてゆく姿だなあと見られるような、そういう神我一体の人たちを多く作りあげたいと思って、錬成会が開かれているわけです。

 錬成会が終わりましても、自分の神性を更に高め、そして自分を奥深い一番奥の微妙な波動、神の子である本心の中に常に想いを入れておく、という練習をして下さい。
自分が本心の中に入っておりますれば、それは神と一体なのですから、自分の体から光明が放射され、宇宙に光明が遍満するわけです。
より強く光明を放ち、より高い人間になる為に、新しい世界を作るんだという深い決意をもって、毎日精進していってください」  

「白光」 1965年12月号



錬成会のお知らせが届きました。
それに載っていた 五井先生のお話 です。


神の子である本心の中に常に想いを入れておく、という練習をして下さい。

我即神也を認め、意識して神性へ想いを向けて
現われてくるものは、すべて消えてゆく姿とし、祈ること・我即神也と認めることで、意識は誤解・錯覚で創り上げた“私”を離れ、 本来の「私」へ。

それは神と一体なのですから、自分の体から光明が放射され、宇宙に光明が遍満するわけです。


ある講話の中で、五井先生は 「みんなが救世主になって、みんなが働く」と言われました。  みんなの体から光明が放射され、宇宙にその光明が遍満する。 みんなが救世主になって、新しい平和の世界を作る。


より強く光明を放ち、より高い人間になる為に、新しい世界を作るんだという深い決意をもって、毎日精進していってください

深い決意・・・・! このところがまだ甘い私。(>_<)
消えてゆく姿の誘惑に負けて、ふらふらしてしまいます。 反省~。。。(p_-)

この五井先生の <錬成会について> のお話を読んで、反省しつつ、
より強く光明が放てるように、前へ進んでいかねば・・・と思ったところです。


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by mppoe-light | 2013-10-22 23:20 | 真理について思ったこと

祈るとき、意識は神性へ☆

祈ることは、本来の「私」に戻ること。 本来の「私」を顕すこと、顕れている状態。
“祈り”は救ってもらうためのものではなく、カルマを浄めるためにあるのではなく、
本体と現象界の私とが真っ直ぐに繋がるもの。 本体を現象界で活動させること。
本体と繋がる時、小さな自我の“私”はいない。
繋がる時、 過去はなく、あるのは“今”だけ。 
祈りを通して、神の無限なるものが流れ出す。
これから徐々に改善される・・・のではなく、神性はいつも常に完璧、大調和している。
“祈り”は、因果の法則を超えて、神の法則に入ること。 
 

複雑なことは判らなくても、誰でも、簡単に取り組める、世界平和の祈り。
始めは何も解らなくても、祈れば神さまの働きをしていることと同じ。
世界平和の祈り 素晴らしいな・・・と思う。 

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” によって、意識はカルマから離れ、神性の方向へ。

『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。



自分が自分と向き合うところ②

 自分が自分と向き合うところ。そこは自己意識の場である。そこに原因のすべてがある。
人間存在の原点があり、カルマの出発点がある。カルマの終わるところであり、神性復活が始まるところである。
問題が起こったのはここである。だから、問題の解決はここでなされるべきである。現象界での弁済、積徳をもって解決がなされるのではない。

 この究極の場に、究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。
「我即神也」は青空の如く、元々あるものである。「我即不完全也」は雲の如く、刹那的に現われていたものである。
 この究極の場に究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。現象界はその二つのいずれをも映し出すことが出来る。
「我即神也」を映し出せば、天国、完全平和の世界。「我即不完全也」を映し出せば、苦悩を伴なう世界。

 自分が自分と向き合うところ。それは鏡と同じである。曇りなく天の理を映し出せば、「我即神也」が輝いて、現象世界に神の国を映し出してゆく。そうなれば、今まで映っていた苦悩の姿は自然消滅するしかない。現象世界は自我の想像の産物なのだから、罪も汚れもない。苦悩を伴なった現象世界の闇は、光が差せば消えるだけである。

 「我即神也」が宣言されるとき、すべては赦されている。すべては完全、完璧、大成就であり、すべての神性が与えられている。内に包まれていた神性は、開かれ、形となって輝き始める。

『本来の自分(真我)は“宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものである”と断言』
(00-09)
してゆけばいいのである。

そうすれば、

『自分が生かされていることに気づき、自分の生命の尊さ(我即神也)を心から理解できた時、地球上から天変地変や環境汚染、飢餓、病気などは消滅してしまうのである』(00-09)。

『人類すべての人々を人類即神也と受け止めることが出来た時、もはや自分の過去の一切の因縁は消滅したのである』(01-08)。

それだけでなく、

『神の神々しい光の流れが辺りを覆い尽くすのである』(00-09)。

 ここで再度強調しておくべきところは、「我即神也」の真理が受け止められ宣言されるところ、カルマは消滅してしまうということである。光と闇は同じところに存在することはできない。

 天の岩戸開きの神話はこの自己意識の場で起こったこと、これから起こることなのである。天照大神が鏡に写った自分の姿を見て、岩戸から出るのは、この自己意識による自己変革の預言なのある。これから、すべての人類に起こることである。

 この変革を先取りしていたのが『世界平和の祈り』なのである。

 『世界平和の祈りこそ、本来の自己を認識し、今までの否定的、習慣的な自己意識を徹底的に覆し、変えてゆく方法なのである。』(01-07)

 『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。
『世界平和の祈り』に天の岩戸開きの原理が込められていたわけである。
 神人たちが神の姿を顕してゆくときは近い。 
 
mixi ピタゴラスさん



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by mppoe-light | 2013-10-13 23:31 | ピタゴラスさん啓示録から

言葉というのは不思議・・・☆

言葉と言うのは不思議なものだな、、、と思いました。

 毎日、 「私は神だから、無限なる健康であり、無限なる豊かさであり、・・・・・若さであり、それを顕す、成就した! ありがとうございます。私は幸せです。」
 
と繰り返しています。 1~2回くらいです。

始めの頃は、「成就した」 という言葉に、気持ちが入っていませんでした。
(というより、どう気持ちを込めていいのか、それも解らなかった。。。(^_^;))

“成就”と宣言していても、成就できることを疑っていた・・・のだと思います。 
・・・つまり自分の力を信じていないってこと。

先日、いつものように 宣言していると、、 「いったい誰が成就するんだっけ・・・?」

なんてことを思いました。

「無限なる・・・を(神性を)この世界に成就するのは私、なんだよね。
上の神さまが私の為に成就してくれるものではなく、 “私”と言う意識と、神性を信じ、顕そうとする意思が成就するんだ。」

 と思いました。
なぜなら、私は本来神であり、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 だから。

その完璧なものを、今の世界で顕すために、肉体を器に活動しているわけで、
たとえ、今の自分の現状が成就にはほど遠い状態であっても、それは過去の私の意識の顕れにすぎず、(過去の意識は 我即肉体也 だったから)  消えてゆく姿。

色即是空、消えてゆく姿に捉われないで、 
我即神也を認め、いつも意識し、信じる。信じる力が成就させる。 つまり空即是色。 ということ・・かな。

自分が創造者であったことを改めて確認しました。
 
“私”という意識と、神性を信じる力で、この世界に成就を顕すことができる。 と思います。

以前よりも 「成就」という言葉に気持ちが込められるようになりました。
本物の“成就” という宣言に近づくことができたかも。(*^_^*) うれしー♪

言葉とは不思議なものだな、、 
宣言を繰り返すことで、言葉に含まれた深い意味が徐々に伝わってくるからでしょうか。 

言葉は自分の住む世界を創造する。  
やっぱり言葉には力があるのだなぁ・・と思いました。

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by mppoe-light | 2013-10-09 22:23 | 真理について思ったこと

だから我即神也を意識する☆

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先日、友達に、、、 「純粋で、ヨゴレがなくていいなぁ」 と言われました。
そして、別の友達の娘さんには、初対面で 「シスターみたいな人」 と言われました。

どちらも私にとっては嬉しい言葉でした。 
( にしても、、シスターとは、、、少々驚いた~。。。(^_^;))あせるっっ

そう友達に言わせたものは、私ではなく、私の中の神性。我即神也。
本来の「私」が少しずつ顕れているのなら、嬉しいなー♪



自分は何を信じるか。
自分は今、何を信じるか。自分の本性を信じるのです。我即神也、人類皆即神也を信じるのです。 
<今月号の法話から>


自己意識は想念を起させる。信念を起させる。言葉を語らせる。
「我即神也」を意識するとは、無限なる神性を意識することである。
自己意識がすべてを創り上げる。
すべてに自己の神性を映し出してゆくこと、それが天命である。



「いつも我即神也を意識することを心掛けていれば、無意識に神性が顕れる・・ 」(だったっけ・・?)

↑ 文章は違うけど、こんなことを昌美先生の法話で読んだ気がします。  



真の宗教は自己が自己と向き合う道である。
究極の真理は、現象世界を超越している。究極の真理は「我即神也」である。
この真理は、自己についての絶対的で変わらぬ真理である。
これは宇宙神が定めた理である。

形ある現象世界の現われ方は二通りである。各人の現象世界は各人の自己意識の結果である。
無知に基づいて、自分が「自分は不完全である」と意識したならば、カルマの世界が展開する。カルマの世界は苦悩の世界である。すべては自らの無知より発している。
絶対的真理に基づいて、自分が「自分は神である」と意識したならば、神性顕現の世界が展開する。この世界は喜びと平和の世界である。

自己意識は想念を起こさせる。信念を起こさせる。言葉を語らせる。「我即神也」を意識するとは、無限なる神性を意識することである。聖なる言葉・光明の言葉を語ることである。生命エネルギーを全開させることである。
『自分の偉大さを知り、自分の生命の尊さを知り、自分の無限なる能力を知ること』である(05-07)。
『自らの神性を信じられ、自らの尊厳を信じられ、自らの存在価値を信じられるということ』である(05-07)。

 自己意識がすべてを創り上げる。
神人たる存在は、自らの意識を「我即神也」に集中し、
『自らの運命を支配し、創造してゆくものである』(05-10)。
すべてに自己の神性を映し出してゆくこと、それが天命である。

 すべての過去は「我即神也」を知らない無知から生じた。しかし、すべての未来は「我即神也」という神意識から生じる。光あるところに影はない。
人間と人間の宿縁、地域と地域の因縁性、家々の業因縁、、、と言ったことはすべて因果説の話である。しかも、枝葉の話である。すべては「我即神也」を失念し、「我即肉体人間也、我即不完全也」と想い込んだことに原因がある。すべては自己認識の過ちにある。
「あの人が、あの地が、あの家系が」などと考える必要はない。
一切は「自分が自分を神と視なかった」想いが消えてゆくときに起こる姿に過ぎないのである。
 カルマの世界と神の世界は同時並行的に存在する。
カルマのことはさておき、現われの自己の不完全性はさておき、「我即神也」という
『自らの神性一点一方向に意識を集中させる』(08-04)
ことである。

現象世界のことを根拠に考えるのではない。
現象世界に影響を受けない「我即神也」そのものを基準に、神の姿を想像するのである。神の姿を宣言するのである。神性は必ず復活する。神性は必ず顕現する。
光が顕われているところ、闇はないのである。
本心の完全性が顕われているところ不完全性はないのである。
すべては完璧 欠けたるものなし 大成就  

<ピタゴラスさん 「我即神也を意識する」から>



すべてに自己の神性を映し出してゆくこと、それが天命である。
そのためには、
自分を信じる、自分の神性を認め、信じる。 我即神也、人類即神也 を信じる。

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by mppoe-light | 2013-10-02 22:01 | 真理について思ったこと