瞳の中の ”いのち”・・・☆

今日、鏡で自分の顔を見ていた時、、、一瞬、
「綺麗な目・・・」 と、思いました。

もちろん、その綺麗な目とは 私の目☆  のことです!(笑)

綺麗とは・・・目の形ではなく、黒目、瞳のことです。
鏡で自分の瞳を見て、なぜか、「きれいだなぁ・・」と思いました。
なぜそう思ったのか、 わかりません。

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見かける人々に対して 人類即神也 と投げかける時、
目に見える外見、様子、姿、雰囲気とは一切関係なく、その人の命は光=神 と思って、
人類即神也 と投げかけます。
外見、雰囲気には消えてゆく姿が顕れているかもしれない。でも、
どんな表現をしている人にも、
瞳の中に、宇宙神と繋がる“いのち”を見ることが出来るかもしれない。

であるのなら、
どのような外見であっても、どんな振る舞いをした人であっても、その人の瞳をじっと見つめたら、その人の神性を見ることができるのかも・・・!?

なんてこと、思いました。

現われた姿、形とは一切関係なく、 私たちは神、我即神也
だからどんな人も、どんな困難な状況であっても、
それはそれとして、いったん横に置いといて、
我即神也 すべては完璧 欠けたるものなし 大成就
どんな不幸の状況であっても、究極の善念を起すべき。  それが真実。


瞳の奥には“いのち”があり、それは宇宙神と繋がっている。と、思えば、 
批判、非難、評価も下すことなく、人々の神性を認めていくことが出来きるかもしれないなぁー・・・
と、
そんなことを思いました。

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by mppoe-light | 2013-02-22 19:26 | 真理について思ったこと

どんな困難の中にあっても・・・

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いかなる不幸な状況においてさえも


『人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提として、健康を前提とし、豊かさを前提として語りつづけてゆくならば、必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのです。
 人類は、その真理を知らなければなりません。その生き方こそ果因説の生き方です。
 果因説とは、たとえ現在、因果律によって最も不幸な状況にあろうとも、その中で人類の偉大なる魂の存在(人類即神也)を認識して生きる術(すべ)です。』(白光誌2001-05)



 ここに引用したところには、『いかなる不幸な状況においてさえも』『たとえ現在、最も不幸な状況にあろうとも』 というフレーズが繰り返されている。
神人が神性を顕わすのに、この世的な状況は『一切関係ない』ということだ。

神性顕現と因縁因果の状況に相関関係なし。
善因縁は好都合。しかし、それで神性に近いと想うは奢りである。
悪因縁は煩わしい。しかし、それで神性からほど遠いと想うも誤りである。
現象の良し悪し、幸不幸を語るなかれ。語ることの前提は
 『我々が最後に行き着く地点であるべき』(2001-05)幸福、平安、生命である。行き着く地点とは未来である。
この「未来」とは宇宙神が創造された姿、宇宙神が定められた姿、つまり「神界の姿」「神の姿」「本来の姿」ということである。




「人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提として、健康を前提とし、豊かさを前提として語りつづけてゆくならば、必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのです。」

 

人間と真実の生き方 を思い出しました。

「※いかなる苦悩といえど、、、   今からよくなるのであるという善念を起し、
※どんな困難のなかにあっても 、 自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、
愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆく、 」


どのような苦悩、困難の中でも、こんな生き方が自分にできるのだろうか

どんな苦悩でも、それを消えてゆく姿と思い、善念を起すことが出来るのだろうか、

苦しさの中で、いったいどうやって善念を起せばいいのか、

どうやって愛と真と赦しの言行をやって行けばいいのだろうか

と、、、
「人間と真実の生き方」を初めて読んだ時は、
五井先生の示す生き方が自分に出来るのか・・・と、自信が持てなくて、少々戸惑いました。




 「神の姿」「本来の姿」とは「我即神也」であり、「人類即神也」である。これを認識するとは知ることである。
真に知るということは、それについて思い巡らせることである。
そして、それについて語ることであり、宣言することである。それは祈りである。

 この「神の姿」は個々人によって天命として異なる。しかし、万人に共通するところは、無限なる幸福、無限なる健康、無限なる豊かさ、、、である。
神人は『現象界のことはさておき』、自分の「本来の姿」を積極的に語る。
「本来の姿」を自分自身に積極的に宣言しつづける。
語ること、宣言することは、言霊の力によって、必ず現実化する。祈りは現実世界を創造するからである。



 『神人は決して遠慮せずに、自らの幸せを語りつづけてゆくべきです』(2001-05)。

決して遠慮せずに、自らの神性を称えつづけるべきである。躊躇うことなく、自らの本心の輝きを崇敬しつづけるべきである。臆することなく、「我即神也」を宣言しつづけるべきである。
遠慮、躊躇いが生じるのは、自分を赦していない結果にすぎない。
宇宙神によって, すべては赦され、癒され、光に変容されているのである。

 因果説は五感の世界を生き抜く術である。
果因説は五感の世界を超える術である。

因果説は時間の世界を生き抜く術である。
果因説は永遠の世界を生きる術である。

果因説は五感の世界よりも、真理の世界を重要と考える。
果因説は五感の世界を離れ、神の世界に直入する術である。

真理の世界、神の世界、永遠の世界には、神たる自分が厳然と光り輝いて存在する。
神人は、今まで祈り、印を組んで来たのだが、それは神たる自分が祈り、印を組んで来たのである。
神人は何度も、自分と神たる自分との重なりを体験してきたのである。それがもっと明瞭に感じられる時代になりつつある。   

mixi ピタゴラスさん


いかなる苦悩の中にあっても、私は神、即神也
だから、
善念を、起こせるはずだし、起こすべき。
真の「私」は、すべて完璧、欠けたるものなし、大成就


因果説は時間の世界を生き抜く術である。
果因説は永遠の世界を生きる術である。

果因説は五感の世界よりも、真理の世界を重要と考える。
果因説は五感の世界を離れ、神の世界に直入する術である。


私にとってどちらが本当の世界なのか、 それはもちろん永遠、真理の世界。果因説の世界。 
だから
その世界の方をひたすら信じなければ。 
信じるために 意識して 祈り、印、言霊、神語を続ける。

今、果因説を学べたことに感謝。 究極の真理に感謝。

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by mppoe-light | 2013-02-21 22:13 | ピタゴラスさん啓示録から

臆さないで堂々と。

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たとえ、さっきまでカルマの私を表現していたとしても・・・

それとは一切関係なく、毎瞬毎瞬の私は宇宙神の光の子、

私の中に、神「私」が存在することは事実なのだから、
宣言するとき、印を組むとき、堂々と我=神也のつもりで行う。
それは本来の「私」の言葉、想念、行為で、
私は神として当然のことをやっているだけ。 
だから
遠慮はいらない、臆さないで堂々と。

私が語る言葉は神そのものの言葉であり、私が発する想念は神そのものの想念であり、
私が現わす行為は神そのものの行為である。



自分の方から神意識に接近していく。 距離を縮めていく。
神「私」の言葉として、行為として、遠慮なく堂々と宣言する。



『私が語ること想う事、現わすことは、すべて人類のことのみ、人類の幸せのみ
人類の平和のみ、人類が真理に目覚めることのみ。
故に 人類のさまざまなる生き方 想念、行為に対して
いかなる批判、非難、評価も下さず
神の無限なる愛と、赦しと、慈しみを与え続けていくのである』


宣言している時の私は“神”! 

今まで 神事、神行を行う「私」と、我即神也の「私」との間に距離を置いていた気がします。
もっと堂々と意識を重ねて、「私は神そのもの」 という気持ちで実践していった方がいいのではないか。

たとえその直前までカルマの感情に包まれていたとしても、我即神也と宣言した瞬間、
私は神!

まだまだ私は自分を赦していない。
もっと自分を赦して、神意識を受け入れるべきだ・・・と思います。

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by mppoe-light | 2013-02-14 22:37 | 真理について思ったこと

我即神性を照らす光


相手の何を見るか。
肉眼の目が捉えた姿だけ(過去の現われ)を見るのか、
今、宇宙神から降り来る”生命”を見るのか・・・。


いかなる批判、非難、評価も下さず、
神の無限なる愛と、赦しと慈しみを与え続けていくのである。


人類への無限なる愛と赦しは、人々の中の神性を認める。「人類即神也」
それ以外は消えてゆく姿。
なぜなら 
すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。
だから、私は、祈らせて 頂いている。感謝を 捧げている


『私』は世の光。人の心の神性を照らす光である。

我即光也 人類即光也

今日、スーパーのレジ前で並んでいるお客さんを見て、人類即神也を唱えながら、
今、私の視点はどこかなぁ・・・と思い、
こんなことを考えていました。

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by mppoe-light | 2013-02-05 17:45 | 真理について思ったこと

今年の神事・・・から☆

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『私が語ること 思うこと 現わすことは
すべて人類のことのみ 人類の幸せのみ 人類の平和のみ
人類が真理に目覚めることのみ

故に 人類の様々なる生き方 想念 行為に対して
いかなる批判 非難 評価も下さず
神の無限なる愛と 赦しと 慈しみを与え続けていくのである』


今年の神事が出ました。 自分なりに少しずつ心掛けている内容で、
さらに、今年の新年の指針とも重なることだったので、
それが神事になって嬉しいし、ありがたいです。



本心の生き方、本心の発する言葉を、こちら側の私が繰り返し唱えることで、
共振共鳴して神性が顕れる。 それが真の神人なんだな・・・と思いました。

意識的に神行を行い、無意識的に神性を現す。
意識的に光明思想を語り、無意識的に愛の言葉が出てくる。




意識して、自分が我即神也 であることを確認する。 
我即神也とは何だ? 
それは、すべて完璧 欠けたるものなし 大成就しているもの。
個(自我)ではなく、完全で大調和した大きな存在「私」
因縁因果のサイクルを超えた、本来の「私」。

それを信じれば、信じるほど、無意識的に「私」(神性)が表に現れ、
無意識に愛の言葉が出てくる。
だから、
意識して今の自分が我即神也であることを認める。

神である「私」は、すべてに充たされ、すべてに愛され、すべてに祝福され、光り輝く宇宙神とまったく一つに融け合っている。 無限なるものすべては、自分の中から溢れ出てくる。
意識して真理を身に修めれば、無意識に真理の言行が顕れる。


目の前の問題を、 低次元の「私」が対処するのか、それとも
究極の真理を修めた「私」が対処するか・・・・

我即神也 を認めるか認めないか、自分が何者であるか、自分は何を信じて生きているか。
それによって住む世界、未来が大きく変わる。


自分が抱え込んだ誤解・錯覚(非神)を解くために、意識して神行を行い、光明思想を語る、繰り返し繰り返し、何度も、倦まずたゆまず、飽きないで・・・根気よく、

究極の真理を身に修めること。 それが無意識の習慣となるためには、意識的な努力、持続的な努力こそが求められる。
<今月の指針から>


究極の真理を身に修めていきたい と思います。
目的意識を持ってやっていきたいな。

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by mppoe-light | 2013-02-04 22:52 | 真理について思ったこと