絶対踊ってやる のだっ

ワタクシ・・・筋金入りの運動音痴です。
その 運動音痴の私、、、

なんと

今月から、 


c0074000_21572851.gifフラダンスを習い始めました  
おおおぉお~っ!  自分でも驚いている(^_^;)

会うたびに友人に誘われ(どうやらメンバー不足らしい・・・)、何度も断っていたのですが、
話を聞いているうちに友人の この言葉

「筋トレになるし、お尻のお肉が上がるよ」 

という、この言葉に反応してしまいました。 (^_^;)
c0074000_2158690.gif筋トレとヒップアップなんて・・・、これは見逃してはならない。


「やるっ 私やるから」 と、ついに決心。

って、ことで・・・・
今まで自分が踊りを踊るなんて想像もしていなかったし、ましてやフラダンスなんて在り得ないと思っていた
そのフラダンスの世界についに踏み込むことになりました。 わおぉっ

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フラダンス・・・音楽はゆったりした心地よい音楽です。動作もゆっくりに思えます。
が、踊りそのものは、 腰を落として、常に膝を曲げた状態が基本。
やってみると・・・ キ、キツイ・・・ ふくらはぎと太ももが~
ううぅ痛い~ぃ。
どんだけ筋力が落ちているのやら・・・(ーー;)

日本舞踊や能・・なども膝を曲げて腰を低くして移動してたと思いますが、
フラダンスも同じく腰を低くします。 が、大きく違うのは・・・

移動するたびに、おシリを緩やか~に振ること。 女性らしく、ふわふわと。
おシリを動かすことがポイントです。

この最も大切なフラダンスのおシリの動きが・・・・
なぜか私は



c0074000_21585126.gif出来ません・・・・(T_T)    (わー 無限なる可能性 おしり・・・)


ピコピコとロボットが移動しているみたいだ・・・・

フラダンス教室は夜8時から。 外が暗いので、教室内の窓ガラスが鏡のようになり、
部屋の中の様子が映ります。 
その窓ガラスの中に
左右に繰り返し移動しながら 必死でおシリを動かそうとしている自分の姿を見て、
 インベーダーゲームを連想してしまう私です。。。。 ( ̄▽ ̄;) か、かなしい・・・


c0074000_220010.gif女性らしく・・・なんてまだまだ先のコトだ。。。  

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ちょっとつづく・・・。

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by mppoe-light | 2012-11-26 22:11 | どってことない話☆

神性に基づいて生きる☆


我即神也 の「私」は無限なる愛、無限なる叡智・・・、無限なるものすべてが満ち溢れている存在、
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』している存在。
我即神也の「私」は、時間の流れの世界、五感の世界には生きていない。 
「私」は、常に毎瞬、宇宙神から注がれる光=意識「私」だから。 
意識は、ストロボライトのような点滅が、常時点灯しているように見えるほど高速で繰り返されるから、まるで私は過去から時間の流れる現象世界にずっと生きているように思える。
c0074000_2041199.gif(これは私の個人的イメージ、考えです、、、) 

だから、
現象世界の自分が本来の自分であると思ってしまうのだけど、
本来の「私」は瞬間瞬間に中心から降りてきて、肉体に生きている。 
瞬間中心から降りている「私」は、すべては完璧で、欠けたるものなし、大成就。
過去もカルマもなく、絶対に傷つかず、汚れない。 そして常に新しく、常に完璧な存在。 
その時、現象の中で肉体がどんな状況に置かれていても、 神「私」には一切関係ない。
だから、
神「私」を意識した時には、法則の通りに「私」は光を放つ。人類のために。
たとえ肉体や、肉体を取り巻く環境がどんな状態でも。 「私」は法則の通りに働く。

と、、、こんなことを思いました。
 
思いながら、
五井先生の“消えてゆく姿”という教えは すごいものだな・・・とまた改めて感じていました。

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人は五感に感じられない『無限なる宝庫』に気づいていない。気にかけているのは、過去、時系列、五感の世界だけである。
自分を愛する人だけが『無限なる宝庫』に思いを寄せる。

 無限なる宝庫は厳然と存在する。
 無限なる宝庫は厳然と神の子のものである。
 それは神の子が自由に使っていいものである。

 カルマがその自由を奪っているのではない。
カルマを完済すれば、その自由が戻ってくるのでもない。
自分の自由を認めない想いがカルマとなっているの過ぎない。
自分が自分に自由を認めればいいだけである。
「我即神也」とは、その自由を認める宣言である。その自由を認め、印を組み、「すべては完璧」の言霊を発することがゴールデンキーなのである。
ゴールデンキーを使うや、内なる宝庫は外に溢れ出始める。それを妨げるものは、一切何もない。


「消えてゆく姿」を産み出すエネルギーが多かろうが少なかろうが、その有限なエネルギーを超えた生き方が要求される。それは有限なものを超越した「無限なるエネルギー」に基づく生き方である。
それは果因説・本来因果の生き方である。(以上『 』は2000-02)
 因縁因果のことはさておき、内なる無限なる宝庫、自らの神性に基づいた人生を始める時代が到来した。

********************************

真の『私』は因縁因果とは無縁である。真の『私』は宇宙神の直接のコピーである。したがって、『私の世界に欠けたるもの、不足なるもの、不調和なるものなど一切ない。存在しない。私の世界に存在するものはすべてが完全で調和し、健康で豊富で、幸せそのものであることが当然である』。

 『私』は因縁因果の世界で生きる存在ではない。
 『私』は因縁因果を超越している。
 『私』は神そのものを顕現するだけである。
 それは当然である。
 『私』は神そのものなのだから。
 『私』は神から離れたのではない。
 『私』は神に近づいているのではない。
 『私』は神以外のものにはなれない、神そのものなのである。
 このゼロポイントから人生を再開するのである。
 このゼロポイントから真理を理解するのである。
 その宣言こそが『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の言霊である。

mixiピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-11-21 20:14 | ピタゴラスさん啓示録から

「神性は欠けたるものなく、与えつづける」

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思考のなきところに静謐がある。
静謐の内に、始まりなき終わりなき永遠の神が鎮座まします。 


“静謐”という言葉が好きです。 気高く透明で神聖な美しさを感じます。
深い静けさ、荘厳さ。 何もなく、でもすべてが在る(始まる)永遠の世界。
空即是色かな・・・なんちゃって(笑)


神性は完璧そのものである。
神性は欠けたるものなく、与えつづける。


小さな自我の私を空しくし、神意識「私」を認める。
すべては完璧、欠けたるものなし 大成就 の「私」の生き方は 
光ること、輝くこと、与えつづける こと。 



『我思う故に、我在り。』(デカルト1637)
『人間は考える葦である。』(パスカル)

あなたが考えている限り、あなたは統一していない。悟りは明晰な思考ではない。
思考なくして、明瞭に意識的に生きることは可能である。思考することが存在することではない。
思考することは存在にとって必要条件ではない。存在する意識は、無条件に存在する。
思考のなきところに静謐がある。
静謐の内に、始まりなき終わりなき永遠の神が鎮座まします。それが本心である。

デカルトは思考する理性を人間自身であると言った。パスカルはデカルトとは異なる路線を選んだ。そのパスカルも考えることが人間であり、理性そのものであると言った。考え続けるところに、人間の本質がある。そう考えるのが、西洋哲学である。
しかし、本当のところ、考えを停止したところに静謐があり、本心が顕われる。
祈りによって、理性を明晰にして、自分の意志を実現する。そうではない。祈りによって、神性意識を明瞭にして、神の姿を具現化するのだ。

理性は思考し、肉体に区切られる。
しかし、神性意識は輝き、肉体に区切られない。

理性は完璧を求めて、競争する。理性は欠けたるものを補充しようと、奪い去る。
神性は完璧そのものである。神性は欠けたるものなく、与えつづける。

理性は眼の前から積み上げて、天に昇ろうとする。
神性は成就した神の姿を地に降ろそうとする。

理性は物事が生ずるメカニズムを明らかにしようとする。
神性は言霊を唱えて、神の姿を具現化する。

ピタゴラスさんの 「神性の文明と理性の文明」から



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by mppoe-light | 2012-11-16 19:54 | 真理について思ったこと

神になるのではなく、神であることを認め続ける

神になるのではなく、「今」神であることを認める こと。

あなたが選択、決断、決定を下すことに迷っている時、そのあなたの意志の背後には常に宇宙神の光の一筋が降り注ぎ、あなたは常にその光の一筋と一体であり、聖なる存在そのものであるということを忘れてはならない。

あなた自身が宇宙神の光の一筋であり、聖なる存在そのものであることを、漠然としてではなく、はっきりと自覚しなければならない。
そのためには物質世界にうずもれてしまった自らの肉体感情想念を鎮める(おさめる)ことが重要である。
そして常に自らの背後に存在している大いなるものに意識を集中し、感謝を捧げるべきである。

内面的な道に入るということは、常に自らの神を意識し、人類のために役立つ道を志すことである。


2011 2 法話から


神人たるを誇りにして、
物質世界にうずもれてしまった自らの肉体感情想念を鎮めるそして、
常に自らの神を意識し、人類のために役立つ道を志す

今という瞬間。 そこに意識「私」を確認する。
その時、過去もカルマもない、自我から切り離された神意識「私」がある。
そこが私の本来の場であったはず。 
そこが、すべて完璧で欠けたるもののない成就の場であったはず。
  
そのことを繰り返し認め続け、自己意識軸を上昇させて神の姿を顕す。



肉体感情想念をおさめ、自らの神を意識し、自己意識を高めていく、
これから神になるのではなく、「今」神であることを繰り返し認め続ける 



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by mppoe-light | 2012-11-05 22:33 | 真理について思ったこと

神だから

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あなた自身が宇宙神の光の一筋であり、聖なる存在そのものであることを、
漠然としてではなくはっきりと自覚しなければならない。   2011 2月号法話から


「私」は光から来たもの、神そのもの、
「私」は何処であろうと何時であろうと、肉体を持ったまま神の姿を顕すばかり。 
「私」には過去はなく、カルマもない。「私」は光だけですべてを描ききる。「私」が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界。


「私」は本来神だから、神そのものだから・・・、
神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む欲望に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜むネガティブな思考に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む他への依存に打ち克つ

神人たるを誇りにして自らの心の中になお潜む劣等感に打ち克つ    <1月号日々の指針から>


神であることを前提にした生き方が、意識軸で繋がっている神界の「私」と共振共鳴を起こし、
それが本当の神の姿になるのか・・・
 と思いました。


共振共鳴

『神はまず天地に分かれ、そして、その一部の光は、自然界を創造し、活動せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊とよばれて人間界を創造した。ここにおいては神は、一であり、多であることとなり、一即多神となるのである。
さて、人間の直霊、即ち神の一部の光こそ、人間そのものなのであって、この時にはいまだ業因縁は生じていないのである。』(「神と人間」三章)

 この多神の中の1ピースが自分自身なのである。
業因縁の生じる以前の自分の本心が多神の一員として存在している。その「神の姿」は今も光り輝いている。「神の姿」は後に生じた業因縁の影響を受けることはない。
そして、「神の姿」は後に生じた業因縁をすべて消してしまう光である。
宇宙神の創造されたままの「神の姿」は永遠の生命なのである。
この直霊そのものの自分は無限なる神性そのものである。それを肉体人間側から見れば、無限なる神性の宝庫である。

この直霊神と『私』は一つである。つまり、『我即神也』なのである。
すべての人に存在する『私』という意識は、直霊神と一つに繋がっているのである。
ただ、『私』という意識は現象界で生じた事象に基づくレッテルに覆われている。
その様々な自己定義が自我なのである。それが業因縁の素である。

『私』は直霊神の姿をこの世に呼び出す天命がある。直霊神は『私』と言う場に降り立ち、神性を顕現する天命がある。この二つにして一つの天命を完うする方法が祈りである。

祈りは、人が神になる、神に近づくためのものではない。
祈りは、神たる存在が、神の働きをこの世で行うためのものである。
神たる存在が、言葉で宣言したことはこの世に具現化するのである。

人は神になることはない。人は神に近づくことはない。人は元々神なのである。
この「人が神である」という真理を変更することは誰にもできない。神は神以外のものにはなれないのである。どんなカルマに塗れていようとも、人は神の働きをすることによって、本来の「神の姿」を思い出すことができる。
「神の姿」を思い出した瞬間、カルマは消え失せるのである。そして、「神の姿」が顕われるのである。

真理の祈りとは『我即神也』である。『我即神也』とは、『私』は直霊神そのものであるという現象界側の宣言である。
それと同時に、『我即神也』は直霊神の「我は神そのものである」という直接の宣言なのである。
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』も同様である。
現象界の『私』は実のところ「すべては完璧」であると宣言しているのである。
そして、同時に、直霊神も「すべては完璧」と真理を宣言しているのである。
肉体側の『私』は直霊神が宣言していることを、真似るように宣言すればいいのである。
真似るように印を組めばいいのである。
真似るように「神の言葉」を語ればいいのである。
そのとき、共振共鳴が起こる。
現象界に「神の姿」が顕現し始めるのである。
『私』と直霊神は二つにして一つになっているのである。

mixi ピタゴラスさん  


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by mppoe-light | 2012-11-02 22:00 | ピタゴラスさん啓示録から