my聖地・・・ってことで☆

『守護霊、守護神の働きは、他への依存力をなくし、本人の本来内在せる無限なるものへと目を向けさせることにある。本心開発にあるのである。
そして自分の内にある無限なるすべての能力を発揮せしめ、権能の力を他に与えることなく、自らの力ですべてのことを成就してゆけるよう、常に見守り導いておられるのである。』   2000-08


依存の反対は自立である。もっと正確にいうと、「無限なる能力を開発する自立」である。

守護霊様守護神様は、苦悩から逃れたい時に呼ぶだけでない。
本来の働きは、そうではなかった。
いつも、「どうすれば無限なる宝庫を開発できるのですか」と守護の神霊に尋ねることだ。


『真理は無限なるものの扉を開く鍵である。ただし鍵を持っているだけでは何もならない。
鍵を使って無限なる宝庫の扉を自らが開けるのである。』   2002-3


神性を我々に与えてくれたのは宇宙神。
それを顕わすのは我々の責任。
mixi白光の言葉 から
c0074000_23453371.jpg



私の心の中には中心があります。ど真ん中、「私は私である」・・・と言う 揺るがない部分。
ちょっとカッコつけて、“私の神聖な場所”  なんちゃって☆ 
誰も踏み込むことが出来ない私だけの特別な場所です。
おおぉ そうだ、my聖地ってことにしよう♪ヽ(^。^)ノ  小さいけど。。。(笑) でも無限なる可能性なのだっ

 で、 私の中心は宇宙神と繋がっていて、
(多次元意識が多層になってるから、 意識を重ねる・・・、 うーん、意識を合わせるって感じか・・・) 
外側の現象に振れないように、自分の中心に きちんと意識「私」を置くと、
宇宙神と同じ場にいる「私」と意識軸上で真っ直ぐにつながることができる。(と、思ってる)
我即神也。統一・・・、
つながっとき、宇宙の光が私を媒体にして現象界に流れ始める。

我即神也と祈れば、私の中から神の光が流れ出て、 我即愛也と祈れば、人類に無限なる愛を放っている・・・

祈りはいのちの宣言。 いのちは神性なるものすべて。無限なるものすべて。 
それを現象界で顕すことが生きること。  
c0074000_23344626.gif究極の自己実現。

白光の神縁を経て、究極の真理実践に道に参入し、神人として人類のために貢献し、徳を積み重ね、ついには本来の宇宙神の光の一筋である自分自身が宇宙神と合体するのである。   <今月号の法話から>

宇宙神と合体した時に、自分の本来の姿を知るのだろうか。
早く本来の自分を知りたい、と思うこの頃・・・。

c0074000_23461440.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2012-04-25 23:47 | 真理について思ったこと

う~。。。。制作中。人形つくり☆

突然ですが、、、

ただいま制作中っ

c0074000_19101726.jpg


やっとここまで進みました。 相変わらず 髪ないですが。。。

ボディはサンドペーパーで磨いて、ジェッソ(下地)を塗り、あとは色を塗るだけ。
足は埋もれた状態で見えない予定でしたが、、、 やっぱり素足が見えていた方がいいなと思い、
作りかけの台座部分を切り取って、足を作りことにしました。
足は苦手だなぁ・・・ 今まであまり作ったことがなくて、、、、

 人間の足ってどうなってるのだろう。やっぱり ちゃんと調べないと。

で、お世話になってる サイトです。 ↓

ポーズマニアックス

 素晴らしく良く出来ているサイトです。ボディの筋肉の形がよくわかります。自由に角度を変えてみることができます。




足を作ったら、、、 台座の形はシンプルにした方がいいかなぁ。
でも、ボディは傾けて作っていて少し不安定な感じにしています。  
だから台座の右側には何かアクセントを置きたい。 うーん。。。。でもやっぱり~、 
どうしようかなぁ、、、、無い方がいいかなー、、、、  


こんな調子なので、髪の毛はまだまだ先になりそう。 

色は白で、 できれば 髪を銀色箔で仕上げようと思ってます。

c0074000_19335069.jpg

                   「お花いっぱい」
[PR]

by mppoe-light | 2012-04-23 19:44 | 人形作りの話

宣言文の中の二人の「私」

c0074000_2224131.gif

我即神也の宣言文、

私が語る言葉は、神そのものの言葉であり、私が発する想念は神そのものの想念であり、
私が表す行為は、神そのものの行為である。


神であるはずの私が、


人が自分を見て、「吾は神を見たる」と、思わず思わせるだけの自分を磨き高め上げ、神そのものとなるのである。
自分を磨き高め上げて、神そのものとなる・・・・

宣言の中に すでに神である「私」と、神を目指す「私」が二つ存在している。

我即神也 は、地上で肉体を持っている“神人”の言葉。
”神人”は、神の下に まだ人がついている。
業想念、因果律の私から、神意識の「私」へ意識改革を行い、神性を顕現しようとする者の宣言。

意識改革に向かっている人なら この二人の「私」を受け入れることが出来る宣言だけど、
五井先生のみ教え、”業想念と本心を分ける” という部分が理解が不十分だと、
宣言の内容を受け入れるのが難しいのかもしれないなぁ。。。。
でも、
今は果因説。

古い因果説の思考や因果の生き方を止めて、
ストレートに神意識(我即神也)を掴み、果因説の思考を使って生きる時代になりました。
消えてゆく姿の教えは絶対欠かせませんが、 我即神也が前提の果因説を学ぶうちに、意識は“消えてゆく姿”を使って上手に本心と業想念を分けていく・・・と思う。

「私は神だから欠けたるものなし」
「神人として誇りを持って・・」
「過去はない」

そして因果説から果因説へと生き方を変えることができる。

絶対法則を前にすれば、因果の法則など存在し得ないのである。

だから、休まないで真理を求め続けるべきだと思う。
祈り、印、呼吸法、言霊 

まだ 究極の真理がはっきり理解できなくても、
五井先生、神々さまの計画は完全、完璧。 よってすべては大成就する。 
c0074000_2232249.gif


聖にして神秘なる力

我々にとって『もう一人の自分』は、既に完全完璧・大調和した神の座に鎮座している。我々は神に進化することはできない。不完全なる存在が完全な存在に成ることもできない。何故なら、我々は初めから完全な神そのものなのだから。
この『もう一人の神なる自分』が、ひょっこりこの世に顕現して出てきている。そういう状況を創り出して行くのが「祈りと印、言霊」の道である。
ある段階になると、「業を浄める」とか「魂を高める」等という因果律は邪魔になる。果因説に徹する道の登場である。

果因説の究極の真理は『私』=『神』に尽きる。逆に、因果律はこの真理を無視した無知から始まる。『私』を宇宙神から分離し、自己の神性を見落とし、自分を自我と同一視してしまったのである。
『私』は光りそのもの、真理そのもの、本心そのもの、永遠の生命そのものである。
『私は』無限なる神性の宝庫である。
『私』は宇宙神の光に貫かれ、宇宙神の光だけに包まれている。
『私』を包むものは、宇宙神の光以外には何もない。
この光をオフにしているのは自分の想いだけである。
業という宿命的な法則があるわけではない。
自分の想いが無意識的になり、習慣になり、中毒性になり、自分で制御できなくなっているのである。
また、その想いが自分を侵すような物質界の人、場所、物、出来事を現わしているのである。

『自分を侵すものは自分の想いしかない』(1982-7)。

如何なる状況をもそのように受け止め、『絶対大丈夫』と唱えるならば、今までオフになっていた宇宙神の光がたちまちオンになるのである。宇宙神の光だけに包まれている『私』が目覚め始めるのである。『宇宙神の聖にして神秘なる力』があらゆる状況で働き始めるのである。肉体内はもちろん周囲の人、場所、物、出来事に宇宙神の意思が浸透し始めるのである。

この『宇宙神の聖にして神秘なる力』は「法則を少しおまけしてあげよう」という救済の神力ではない。目覚めた人を通して働き始める絶対法則の神力なのである。
絶対法則を前にすれば、因果の法則など存在し得ないのである。
『絶対大丈夫』はその言霊の通りに、『絶対』の宣言なのである。
この宣言は「いいと思えばいい。駄目と思えば駄目」というような相対的法則を越えている。これは「業を浄める」というより、「業など宇宙神は一切関知しない」という絶対的光なのである。
これは宇宙神には完全・完璧・大調和しかないという絶対善の宣言なのである。イエス・キリストが自在に発揮したのはこの神力であった。

宇宙神の光と本心の光は一つである。何の分離もない。光も生命も意識も一つである。そこに在るのは『無限なる神性の宝庫』である。
宇宙神の意思、神の御心とは「無限なる神性の宝庫」が限りなく活用されることである。この意思は目覚めた意識を通してあらゆるところで成就する。これが『大成就』である。この宝庫は人類一人一人が宇宙神から受け継いだ遺産である。今までのように無視することを止めて、ただ使えばいい。大成就!
 ぴたごらすさん

c0074000_224996.gif

[PR]

by mppoe-light | 2012-04-20 22:08 | 真理について思ったこと

真理の祈りと真の言霊

c0074000_22435527.gif


果因説を学んで、 祈りとはどういうことか、少しずつ理解できるようになったみたいです。 
祈りは、いのちの宣言。
神の姿を表現しようとすること、現象界に真理の世界(神の世界)を呼びこむこと、・・・と思う。

実のところ、祈りは現象世界を浄化したり、改善したりはしない。
真の祈りは神語による真理(神の姿)の宣言である。
それは宇宙神の創造(第一の創造)された既に完璧な世界、完璧な姿、神の姿を祝福し、感謝する行為なのである。
この神の姿を祝福し、感謝し、讃美し、喜ぶという祈りによって、神の姿が顕われる。
つまり現実世界が創造(宇宙神の創造に続く第二の創造)されるのである。
その結果、現象世界が浄化されたり、改善されたように見えるのである。
しかし、浄化・改善しようとする心は深い祈りではない。
それは相対的、二元的な立場に立っているからだ。

「祈りの力を100%信ぜよ」と言うのは、祈りの改善効果を信じることではない。
「既に得たり」とは既成事実としての神の姿を追認することなのである。
この果因説の祈りによって、『その通りとなる』のである。



  『人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提とし、健康を前提とし、豊かさを前提として(神語を)語りつづけてゆくならば、
必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのである。』  (注1)2001-5


 神語は真理の言葉、叡智の言葉、愛の言葉である。自らの存在と人類の存在そのものを讃美する言葉である。何かの実績によるのではなく、その存在そのものが幸せなのである。素晴らしいのである。
神語による『真理の宣言は神のひびきであり、光であり、癒しそのものである』(注2)。
神語が神である自分の幸せで、素晴らしい本当の姿を思い出させてくれる。

自らの存在を幸せで、素晴らしいと思うのは生命であり、神である。
何かの実績によって素晴らしくなろうとする者は、自らの真実を忘れた者である。

自らの存在を素晴らしいと思う者は愛深い。喜びに満ちて幸せである。
何かの実績によって素晴らしくなろうとする者は、自分を赦していない。自分の過去を責めている。

仮に何かの実績を積んだとしても、振返ったとき、それは「過去」のものとなっている。自分の存在そのものは、いつも『今』にある。過去や現象世界に、何があっても無くても、自分の存在そのものは素晴らしい。自分の存在とは、本心であり、生命であり、神である。



本心を探求し、自分の内に神性を探求することは重要である。しかし、もっともっと重要なことは、神語を言霊にして、自己と人に宣言し、語り合って行くことである。
語り合ってゆくこと自体が、現実世界を創造するからだ。真の探求は哲学では終わらない。真の探求は現実世界を創造する。


次に神語の一例をご紹介しましょう。

『そもそも、自分は素晴らしい。元々、自分は素晴らしい。既に、自分は素晴らしい。初めから自分は素晴らしい。
そもそも、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。豊かだ。愛深い。能力がある。叡智に満ちている。
元々、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。豊かだ。愛深い。能力がある。叡智に満ちている。
既に、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。、、、、、、
初めから、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。、、、、、、
神そのものである私は素晴らしい。神そのものである私は幸せだ。神そのものである私は健康だ。神そのものである私は喜びに満ちている。』

「そうなりたい。そうならなきゃ。そうでありますように。そうであればいいな」を手放して、『神の楼閣』(注4)の中で、自分の幸せな姿になりきってしまうのである。そして、それを神語の言霊にして宣言してゆくのである。

 ともかく、神語を語る場合、過去や現象の姿とは関連性がなくていい。
過去や現象について『消えてゆく姿』と宣言するや否や、『不完全な自分はさておき』、『いかなる不幸な状況においてさえも』、『自分がいかなる困難を抱えていようが、絶望的な状況にあろうが』、『人類は一人残らず、外見や表象、現象はどうであれ』、自分と人類の神の姿を宣言するのである。


注2 2000-9      注3イザヤ書40-9
注4 昌美先生の言葉
過去と現象世界には根拠が無いが、真理、「我即神也」には確たる根拠がある。
その真理の場は『神の楼閣』と呼ばれる。
『神の楼閣』は『消えてゆく姿』の場のすぐ奥にある(消えてゆく姿の洗礼を通過した場である)。
他方、過去と現象世界に根拠を置く場は『砂上の楼閣』と呼ばれる。
『消えてゆく姿』のすぐ後に、『神の姿』を宣言すべきなのである。
それが真の祈りであり、神語による宣言である。

白光ノート 「真の祈りは神語による宣言」  から


・・・・真理の祈りと真の言霊を 捧げつづけるのである

すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就
c0074000_22502191.gif

[PR]

by mppoe-light | 2012-04-14 22:55 | ピタゴラスさん啓示録から

リハビリだっ 意識改革☆

c0074000_21382697.gif

たぶん・・・・今この空間には、 さまざまな次元の世界が重なって同時に存在していると思ってます。 
宇宙は多層構造。意識を通して多次元世界はつながってる。 
意識がその高さに応じて、3次元、4次元・・・と多くの世界を創造している。 
世界は意識から始まっている、
 
てーことは、、、

今 3次元世界の私たちの観念は さかさまになっている。 
物質があるから世界が構築され、人間は肉体を構成する物質の力だけで生き、
肉体が生きているから、「私」という意識、心が存在する と思ってる。 
思考が真逆になってしまってる。。。。( ̄▽ ̄;)
だから、

これを元通りの思考に戻さねばならない。 物質が世界の始まりではなくて、
意識が世界の始まり。
 意識からスタートする思考回路になれば、大成就。
本来意識は神意識!だから。

でも元通りにするには、リハビリが必要だなぁ・・・ 
だって、今までの思考の仕方を逆さまにするのだから、、、

だから、
繰り返し繰り返し、倦まずたゆまず続けなければならない・・・のだっ。
めざせ意識改革・・・!なのだ☆

c0074000_21341912.gif



 『神人たる者は、自らを神であると認めた瞬間、神のような創造者に立ち返るのである。』(2001-3)
『自らが自らを神と認めた瞬間、神と成るのです。』(白光1999-4)

『本来、祈った瞬間もうそれは成就されていると知ることです。なぜならば本来、人間の願いはすべて成就されているものだからです。』(1999-6)

『この印を組んでいる瞬間こそ、現象界より抜け出し、神の大いなる平安と祝福の中におり、宇宙神の光を今生に降ろしているのです。』(1996-7)


 因果説によると、何かを成就するには長年の努力が必要になる。まして、神に成るには無限に近い努力が要求される。ところが、果因説の世界は違う。時間的経過とか努力の積み重ねるプロセスや、艱難辛苦のプロセスは必ずしも必要ではない。
ただし、果因説を体得するまでのリハビリ期間は必要である。

 言霊で宣言する、印を組むと言うことは既に神の創造活動なのである。
それは空即是色の行為なのである。それは因縁因果の人生を手放して、本来因果を呼び込む全託の行為である。つまり、祈り印を組む者は果因説に徹することである。

 「まだまだ修行が足りない」などと言う言葉は果因説にはない。
修行の足りない自分とは別に『厳然と存在する』、尊敬に値する神そのものの自分を認めるのである。そこから、毎瞬スタートするのである。
「まだまだ」ではない、「もう既に」自分は神そのものなのである。
自分は「そもそも」神そのものなのである。

 何故、冒頭に見たように、西園寺会長は『瞬間の真理』を繰り返し説かれたのか。
『瞬間の真理』はすべて果因説なのである。
我々が真理の世界に入り、真理の世界を現象界に呼び込むのに必要なのは、
自己意識を変えさえすればいいのである。


『厳然として存在する自分自身の本心』はすでに神そのものであって、平和、調和、幸せ、健康、繁栄を成就しているのである。
必要なのはこの真理を追認することだけである。追認できない古い思考回路が邪魔をしているだけである。浄めなければならない悪因縁が邪魔をしているわけではない。果因説の思考回路に慣れないだけである。誰であろうが、自分を神と認めた瞬間、因縁因果を超えて、その人は神なのである。

   
『人類はみな自分自身のことを
    敬い 尊び 礼賛する心をもって扱うならば
    自らは自らが礼賛した通りのものとなる
    
    自らを敬い 尊び 礼賛するところに
    癒しの力は無限大に働く』       
白光誌2000-3インフィニット・ワーズ


『瞬間』の真理 から ぴたごらすさん



我々が真理の世界に入り、真理の世界を現象界に呼び込むのに必要なのは、
自己意識を変えさえすればいいのである。


私は本来神である。今、私は神そのもの。 我即神也

誰であろうが、自分を神と認めた瞬間、因縁因果を超えて、その人は神なのである

誰であろうが、 どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも。
自己意識を変え、自分を神と認めた瞬間・・・「私」は因縁因果を超えて、
真理の世界を現象世界に呼び込むことが出来る。
大成就!
c0074000_21353168.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2012-04-13 21:42 | 真理について思ったこと

どんな分野でも探求していけば・・・☆

c0074000_19581889.gif


考古学者がいろんな仮説を立てて、それを立証するために発掘する
ずいぶん前には、その様子がTVの特番などでよく報じられてました。
(ピラミッドとか遺跡とか・・)
当時子供だった私、それを見ながら思っていたのは、

探している真実は既あって、ただそこまで手が届かないだけ。
求めるものは、在るべき場所に必ず存在しているのに・・・。 
人間だけが判らない判らないって言いながら、地面に穴掘ってる。。。。
そして いろいろ想像しては、考古学者が仮説を立ててを発表してる・・・

なんか不思議~、ヘンな感じ

とよく思いました。

c0074000_2024169.gif

  真実は一つ。 もう既に決まっている真実
その真実に仮説を立て発掘し、それによって学説が発表されて、
で、その結果が正しいと思っていたら、
数年後また新たな発掘で、それまでの事実が覆されて、また新しい学説が登場して、
それをみんなが認めて納得する。
 
当たり前と言えば当たり前のことで、別にどーってことないことなのだけど、、、
私にはそれが奇妙に思えました。
(そんな風に思うのは、私だけか・・・(^_^;) 

それは考古学だけじゃなくて、物理とか化学とか・・・歴史も同じみたいで・・・、
c0074000_22372219.gif


子供の頃思ってたのは、、、

どんな分野の学問でも とことん追究していけば、すべて繋がってくるのではないかなぁ
最後は同じ結論に辿りつくのかも・・・

と思っていました。 
なーんの根拠もなく、なんとなーくそう思ってました。(笑)

学校で学ぶ科目もそうだと思ってました。 
国語、数学、理科、社会、音楽、美術・・・
どれも突き詰めれば 最後に人間の存在や自然界が現れてくる・・・と思う。
たとえば、、、、
数学だって 数学者の人は 数式に美しさを感じると言われます。
美しさを感じる・・・とは
数式を通して、世界の美しさを見ているのではなかろーか・・・
数学じゃないけど、 バッハの平均律は数学的な曲 と言わていて、 旋律の中に数学のような規則性というか法則みたいなものがあって、
それが美しいのかも・・・

んー、、、結局 何が言いたいのかと言いますと、

どんな分野でも、とことん追究することは、 自分を掘り下げることになるってことで、・・・自分の中の真理に出合うことができる

だから学問や仕事だけじゃなくて、 
人生で どんな環境、境遇に置かれていても、真摯に生きれば、
自然と自分を掘り下げていることになって、真理の探究に向かっていくの・・・・だっっ~!

と、思う私なのでした。

c0074000_200034.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2012-04-07 20:03 | どってことない話☆

だから”我即神也”

c0074000_22403062.gif


 あるとき、維摩詰如来がかくのごとく説法されました。


『私』が語るのだ。『私』のことを語るのだ。いずれの日にか、神を顕わすのではない。悟った暁には、そうなるのではない。今、そうなのだ。今で、ずーっとそうだったのだ。それを認めるのだ。
玉石混淆の人生を改善するのではない。それを止めるのだ。「神の天命」を完遂するのだ。「消えてゆく姿」ではない、「神の姿」を顕現するのだ。

「どのようにして」などと考えなくて良い。結果だけに意識を集中せよ。
「良くしよう、浄めよう」と思い煩うな。神界の息吹を地に吹き込むことに専念するのだ。そうすれば、すべての神性が豊かに与えられる。
「心を入れ替え、行いを正す」のではない。人格そのものを入れ替えるのだ。人の「私」ではなく、神の『私』を生きるのだ。

『私』の神性を認めるのだ。現象とは一切関係なく、それを認めるのだ。
現象よりも、神なるアイデンティティこそが真実なのだ。それを認めるのだ。それを認めることほど偉大な愛はない。

過去は法則によって、すべて赦されている。
過去からの想いに流されないように。

どんな想い、出来事があろうと、過去にあなたの真実の姿はない。
どんな想い、出来事があろうと、今あなたは神そのものだ。
あなたの存在が神そのものなのだ。
その真理に意識を釘付けにするのだ。
そこに、神界の息吹がある。
その息吹を地上界に吹き込むのだ。
それが真理の祈りだ。

「神界の息吹」 から


c0074000_2241388.gif


玉石混淆の人生を改善するのではない。それを止めるのだ。「神の天命」を完遂するのだ。「消えてゆく姿」ではない、「神の姿」を顕現するのだ。

因果律の生き方を止め、果因律の生き方に変える。 
意識改革が必要。
カルマを抱えた“私”を捨てて、神の子「私」として思考を始める。 我即神也 


「どのようにして」などと考えなくて良い。結果だけに意識を集中せよ。
欠けたるものなし 我即神也 人類即神也 

「良くしよう、浄めよう」と思い煩うな。神界の息吹を地に吹き込むことに専念するのだ。そうすれば、すべての神性が豊かに与えられる。

内にある神性のみを認める 我即神也
形ある現象ではなく、形なき無限なる愛、無限なる叡智、無限なる真理・・・に意識を注ぐ。
神界の光が流れ始め、形の世界は大成就する

あなたの存在が神そのものなのだ。
その真理に意識を釘付けにするのだ。
そこに、神界の息吹がある。
その息吹を地上界に吹き込むのだ。
それが真理の祈りだ。


我即神也の「私」が人類に光を送ります。
すべては必ず良くなる 絶対大丈夫 大成就
神だから、「私」の送った光は必ず大成就する!
c0074000_22425515.jpg
[PR]

by mppoe-light | 2012-04-03 22:49 | ピタゴラスさん啓示録から

「現象を根拠に自分を評価しないこと」☆果因説

c0074000_19413011.gif

現象を自分でコントロールできないということが、不安、恐れの気持ちを呼び起こす。
それは因果説の生き方だと思う。

因果法則の限定された世界は、不平等で、理不尽で、、、、 どうしても行き詰ってしまう。
そして 結果、自己否定、人間否定、人間罪の子観になってしまう。・・・

因果説を手放し、果因説に意識を進化させて大成就の創造を始める。
究極の真理があるから、すべては必ずよくなる、絶対大丈夫、大成就 !

因果説の世界は不完全な世界しか創造しない。
果因説は完全円満の世界を創造するのみ。 

因果説、果因説、この二つは両立しない。
意識は必ずどちらか一方を選択している。 
意識的に我即神也を選択する。 
と・・・
言うのは簡単なんだけどな~(T_T)

我即神也を選択したつもりで、でも実はそうじゃないみたい・・・なんてーこともあったり。。。
あっ・・、また結果にこだわってる・・・(― ―;) 

現象を根拠に自分を評価しないこと

上手く意識の切り替えができなくても、何度失敗しても、コケても・・・(実は今日 コケたばかり。。。)
シクシク・・・

重い「私」より 我即神也の、軽い爽やかな「私」が やっぱり好きだ!!
自分が好き♪ と言える「私」我即神也が好きなのだ!!!
だから、
これからも続けてやるっっ 祈り、印、言霊とか神語とか、、いろいろーーー。

完全円満と不完全とは相容れないものです。
不完全なものは、すべて実在ではありません。   「愛、平和、祈り」から



c0074000_19442941.gif

『因果律を手放すことは可能』

 カルマの法則は絶対法則ではない。カルマの法則を維持しているのは、人間サイドの『魂の生き方』つまり意識レベルなのである。
では、どのように因果律を手放すのか。

『①ただ自らの思考を変えればよいだけなのである。②自らに今まで欠けていた真理の栄養素を与えればよいだけなのである』。


①思考を変えるとは自分に対する見方を変えることである。
  現象を根拠に自分を評価しないことである。
  これには多少、思考のリハビリ訓練が必要になる。

 通常の「現状つまり普段の自分と理想の自分とのギャップ」という思考回路がある。
その回路ごと手放す訓練をするのである。
この因果説の思考回路は果因説になると、「現象つまり過去の自分と真の自分との分離」と言うことになる。

「神になれますように」ではなく、「我即神也、私はもう既に神なんだ。元々神なんだ。そもそも神なんだ。初めから神なんだ」と「不完全な自分はさておき」、「我即神也」にしてしまう。
どんなことがあっても、「神様に顔向けできない」などと、絶対に思わなくていいのである。
それ以上に大事なことは、自分を神として愛すること。この訓練をするのである。
自分を自分が愛してこそ、自分はすべてから愛され、すべてを愛することが出来る。自分を自分が愛せずして、自分を愛する人はなく、人を愛することも出来ない。


②真理の栄養素を与えるとは、自分に神語を語り続けることである(10-13,14参照)。

宇宙神が創造したままの自分の姿を言葉にする。その言葉が神語である。
その神語を自分に浴びせかけ、自分に吹き込むことによって神性顕現、本心顕現が始まる。
それと同時に、因果律が意味を失うのである。

 カルマは神の創造力の誤用によって作用しているにすぎない。自分のカルマは、自分で栄養を与えて、作動させているものだから、自分で停止させることも可能なのである。
自分の神としての創造力が、人間凡夫説やカルマに縛られた人間像、神より劣った人間像、人間不完全説、罪の子説を現実化させてきたのである。

神性顕現のルートに入ると、カルマのルートは無いのである。光の世界に闇は無い。
果因説のスイッチオンは因果説のスイッチオフなのである。

 今後は、神語を自分に語り続けることによって、積極的に果因説のスイッチを入れ続けるのである。
神性顕現に積極的に取り組むのである。自他の神性を讃美し続けるのである。

神語を語り続けることによって、思考回路も自ずと変わってくるのである。
神語は既に成就した神界の様相を追認した言葉である。既成事実であり、真理である。

 今まで、悪い言葉を浴びせられてきた。そう言った過去の姿を思い出して、気分を害していたかもしれない。しかし、人生が変わる。神語を自他に浴びせかける。そう言った真実の姿を思い出して、高貴な気持ちになる。そのような人生に変わるのである。過去のカルマが入り込むことはなく、果因説による神性顕現が始まるのである。
『  』は白光誌2010-1



c0074000_194728.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2012-04-01 19:50 | 真理について思ったこと