創作は引き算で・・・の話☆

創作は引き算・・・
物つくりのコトでよく言われる言葉なのですが・・・・
何かを表現する時、作る工程で引き算をする、余分なものを剥ぎ取っていく・・・ということだそうです。
よく言う・・・削ぎ落とされた ってコトで。

表現した物の中に
情報量が(伝わるものが)少ない方が 本当に伝えたいものが見る側に強く響くことなのかなぁ。

何が余分なもので、何を削ぎ落としていけばいいのかなー。。。
削ぎ落とす・・・で思い出したのが、 円空さんの仏像。(教科書にも載ってたような・・・)
円空の仏様を観た時は、目がテンになってしまいした。(・・;)。。。。こんなのもあるのね・・
とことん余計なものを削ぎ落としたから こうなったのか、直観的に彫ったからなのか、、、
検索しましたら、 こんな写真がありました。 謎の多い人だったのかなぁ?
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円空の仏様は、
どこか温かみがあって優しい。身近な感じ、自分に寄り添ってくれそうな仏様です。
(ドラゴンボールのスーパーサイヤ人のような髪の仏像もあったり・・・)
※ ドラゴンボールは初期の天下一武道会の頃、カメ仙人がいた頃が 楽しくて良かった☆

直観的・・・で思い出したのが、

金澤翔子さん (^-^)
ダウン症の天才書家として、いま注目を集める書家のおひとり。だそうです。
筆を持つ前に、神さまにお祈りしてから書かれます。

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今年の大河のタイトル字はいいな~、誰が書いたのかな と思ってたら、金澤翔子さん でした。
枠にはまらない、解放的な感じが好きです。(^-^)

で、ここまで創作のお話を書きましたので、、、最後は自分のことで・・・
今月にはいってから ぽちぽち作り続けています。 なかなか進まない。(ーー;) ぜんぜん進まない。。。
でも、
完成させるぞ!
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これからボディを磨きます。 顏だけは先に整えました。 
やっぱり髪の毛がない人形って ちょっと気持ちワルイなぁ。。。 早くなんとかせねば。。。

最後に、、、視聴率ガタ落ちの 平清盛 ですが、(T_T) どうぞよろしくお願いします。。。
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by mppoe-light | 2012-03-26 21:40 | どってことない話☆

人生をリセット 新生する

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カルマが描く現実は、自分が神であることを忘れきったことで描かれたサスペンスドラマ。
ドラマに感情移入しすぎてはいけない。 没頭して抜け出せなくなる。。。(目を覚まして!)



カルマのドラマは消えてゆく姿なのだから、捉われてはいけない、消え去るものに没頭しない。  
努力して、絶対消え去ることのない無限なるものに意識を向ける。
消えてゆく姿で我即神也

「そのうち いつか 我即神也 になる」・・・ではなく、 
(そのうちいつか・・・では、 目的地に到着しない、のだ)
今、この瞬間 自分が神であることを認める、
その次の瞬間もその次の瞬間も、今、今、とにかく 今っっ! 
何が何でも今、私は我即神也 であると宣言する。

現象として神の姿が顕れてなくても構わない、消えてゆく姿なのだから どんどん流す、
がっかりしなくても大丈夫
次の今、新しい今に我即神也が在るから。 
常に純粋無垢で神聖な「私」がやってきている。
いつも 真理は降り注がれている。
だから、いつでも人生はリセットできる。
 いつでも私たちは新生することができる。   おめでとうー! 私、私たち!

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玉石混淆の人間の姿は、事実であろうとなかろうと、「消えてゆく姿」にすぎない。
 その姿を自分であると想ってはならない。
 幻想に惑わされてはならない。
 完全完璧・大調和の神の姿は、見えようが見えまいが、本当の姿である。
 その姿こそ自分なのである。
 しかと、自分を神と見るのである。
 そのような自分自身を神と認める意識が「神の姿の顕現」を可能にするのである。

 自分に対する最高の賛辞、それは「我即神也」である。
 それは自分を愛することである。
 人類に対する最高の賛辞、それは「人類即神也」である。
 それは人類を愛することである。

 神性顕現の道は果因説の道である。
つまり、カルマの消滅の後に、神性顕現の道が来るのではない。
「煩悩を断ぜずして、涅槃に入る」といわれる如く、初めにカルマを消滅させるのではない。
カルマについては、気にならなくなればいいのである。
光に変容するのは守護の神霊の仕事である。我々の仕事は、『不完全な自分はさておき』神性顕現に励むことである。
現われて来たことに対処してゆくことが人生ではない。現われた現象を前提に人生を始めるのではない。人生の第一歩は『我即神也』から始まるのである(注1)。いつでも、誰でも、人生はリセットできるのである。

注1  “我即神也”からすべてを始めれば、人生の輝かしき一歩を踏み出せるのである。(2004-7 P.16)

ピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-03-25 23:20 | 真理について思ったこと

絶対安心感 「大成就」

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「私」はもともと神で、完璧、完成していて、すべては大成就している。
このことを知っていることは、幸せなことだなぁ と思う。
信じる力はありがたい。

究極の真理を知っていることは幸せなこと。 
形の世界でどんなに彷徨っても、帰るところを知ったから。
帰るところがあるだけで安心できる。 
さらに  その帰る場所は 大成就している、のだ!
わぉ~♪

目に入る状況がネガティブなものばかりであっても、
それと同時に並行して大成就が常に在って、
どちらが本物か・・・といえば、否定的なものはすべて消えてゆく姿、消え去るのみ、
本物は大成就だけ。我即神也、人類即神也だけ。

本物の大成就世界は今もこれからも、未来永劫 私と常にともに在る。 そして必ず顕れる。

形の世界のどのような変化も消えてゆく姿、 残るのは“本物”だけ。

その“本物”はいつも「私」の中に在る。 これからもずっと。
だから安心。  そう信じれることは幸せだなぁ と思う。

我即神也 人類即神也 大成就

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by mppoe-light | 2012-03-23 22:45 | 真理について思ったこと

真理の言葉

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2年前の
2010/04/04に昌美先生が富士聖地で説かれた「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」

その時から、ずっと唱えています。 
一人で居るときや、車の運転しながら、お風呂とか・・・。今でも続けています。
その時の昌美先生のお話を読んで、やった方が良さそうだ・・・と思って。
短いので覚えやすいし、言いやすい。ヽ(^。^)ノ 
好きなのは、 我即真理也  
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 光明思想の言葉、我即神也、人類即神也といくつかの真理の言葉が降ろされてきた。真理は奥が深い。どこまでも深い。
 光明の言葉も初めは、天高きところにおわす神様を賛美する言葉として理解されていた。それは、地上の人間が高き天の神々に求めるものであった。それは、地上の人間に欠けたるもの、必要なもの、不足しているものであった。それは、人間が目差すべき努力目標であった。それを成就するか否かは、その人の努力次第であった。
 光明の言葉を唱えても、自分と対比する言葉であった。それは彼岸にあるもので、自分には不足しているものであった。
 我即神也も「自分の本質を引き出せばと言う条件付で、神なのです」という会員の解説が白光誌に書いてあったりもした。人類即神也についても、「我々が浄めない限り、救われがたき人類」という観念がないわけではなかった。
 
神人たちは、少しずつ真理の理解を深めてきた。そして、四次元世界に入り、チャクラが開かれたのであった。神人たちは、地上のいかなる災いとも波長が合わず、神界のものとしか波長が合わない人生を選択し始めた。
 神人たちは光明の言葉を自分のうちに既にある自分そのものとして宣言し始める。さらに、西園寺会長がチャクラをフル活用するために四つの神語を説かれた。

「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」の四つの神語である(注1)。

この神語の由来について重要な法話を思い出しました。

『神人たちは、我即神也・人類即神也という神語の中に、無限なる能力、無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和が含まれていることを意識することが大事なのである。』(注2)


意識することが大事であれば、神語として何度も繰り返し繰り返し唱えればいい。
『我即能力也、我即愛也、我即調和也、我即平和也
我々人類即能力也、我々人類即愛也、我々人類即調和也、我々人類即平和也』と。
 神性は認められることによって、顕われる。
 神性を認めることが先か、想念・行為に顕わすことが先か。この問いは、意識が先か、現象が先かの問いである。
三次元に閉じ込められた、因果説では想念・行為、物質界の現象が先なのである。しかし、絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、
自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
 
 四次元果因説とは、『自己の神性を認める』ことに全力を尽くし、現象と言う結果については全託する道である。
三次元因果説では、現象がすべてに優先すべきものであった。科学は意識を物質に付随するものと見なしていた。
新しい科学では、意識そのものが物質化することが主軸となる。

意識が多世界(パラレルワールド)的で、モザイク的な波動の世界を物質化・現実化することが新しい科学の主軸となる。神人の祈りが新しい科学を降ろすのである。
それと同時に、神人は新しい科学を使った祈りに徹するのである。それは印であり、果因説であり、自己についての神語を語ることである。
 『我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也』

注1  富士聖地法話2010/04/04
注2  白光2004-7
注3  ブルース・リプトン「思考のすごい力」参照P.211
2010/04/10
「深まる真理」から



意識が物質化するのだから

絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
自らが神であるという大前提のもと、自らの心に注意を払い、神性を自覚し、無限の可能性を引出し、開いてゆかねばならない。(3月の法話から)

祈りの言霊 「地球の安寧と・・・・ 大成就」 を唱える時も、
神性を自覚して唱えていきたい。
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by mppoe-light | 2012-03-16 23:28 | ピタゴラスさん啓示録から

真理は無限なる新鮮

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祈り・神示、神語・印・呼吸法などなど・・・繰り返しながら、日々自分自身と正しく向き合うようにしています。
「今」を選択する。 即神であることを認める。 
 常時 神なる「私」が流れている。未来から新しい「神の私」がやってくる・・・と言ってもいいかも。 
真理は 常時 無限なる新鮮 なのだ!
さっきまでの「私」はもう消えてゆく姿で、悪いことだけでなく、良いことも正しいことも 
さらに高い正しさのために消え去って、、、、
無限なるもののために、これからもずっと現れては消えてゆくのだなぁ・・・。 

私は霊的な人ではないので、見えたり聞こえたりなんてことはないのだけど、 ただー・・・
なんていえばいいのか・・・ 自分の中の制約、制限を取り除いて軽くなりたい、 自分から自分を解放したい、
そうすれば 不安や恐れなど微塵もなくなり、無限の自由、しあわせ、喜びに包まれる・・・
そう思う。 
だから、これからもコツコツ 祈り、印、言霊などなど 続けていきます。 
果因説 最高ー!
我即神也 人類即神也

神文明の始まり


 五井先生の美学は俳句の美学だった。複雑のものを単純化する美学だった。『消えてゆく姿で世界平和の祈り』はその美学の究極だった。
逆に、西園寺昌美会長のミッションは五井先生が単純化された祈りを展開することだ。

 『世界人類が平和でありますように』から世界各国の祈りが生まれた。
『天命』から光明思想徹底行が生まれた。
『守護の神霊への感謝』から地球世界感謝行が生まれた。

会長は単純化も得意であった。
『我即神也・人類即神也』は世界のすべての真理を集約・単純化したものである。
 そして、『世界平和の祈り』から『神語の語り合い』が生まれた。
これはチャクラの開いた人による、言霊を用いた現実世界の創造であり、究極の祈りである。
これは『私が語る言葉は、神そのものの言葉である』の具体化であり、『我、言葉・想念・行為に0000(自分の氏名)即神也を顕現する』行為である。
神語を人に語ることは『人類即神也』の実践でもある。

『消えてゆく姿』が去った後に残るもの、それは『神の姿』である。『我即神也・人類即神也』の自分であり人類である。その『神の姿』を言葉にして、宣言しつづけるのである。
 これは『自分と人を赦し愛する』行為である。自分と人を尊敬し、畏敬し、讃美する行為である。大生命賛歌。神の栄光の賛歌である。
 これは果因説の実践である。因果律の終焉である。新しい人生と時代の創造である。
つまり、『神語の語り合い』には『世界平和の祈り』と同様、すべての真理が含まれているのである。

 五井先生は、「神界には、神としての自己自身が厳然として存在している」(注1)と説かれた。
しかし、一般の人が「神としての自己自身」に直入することの難しさを、一番よく理解されたのは五井先生であった。最も完全に達成した方が、その困難さを最も理解されていたのであった。
だからこそ、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を説かれたのであった。
守護の神霊への感謝行というバイパスを教えられたのであった。そのバイパスを行くうちに神人が現われ始めた。そして、神人たちはバイパスから本道に入り始めたのである。
本道とは、「神として自己自身」に直入する道である。果因説の道である。

 五井先生は「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を直接追いかける観念論を退け、一般生活に即した「世界平和の祈り」を説かれたのであった。
しかし、二十一世紀、西園寺昌美会長は、「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を思い描き、言葉に宣言する意識の高さを要求してこられたのである。
この教えの進化は、次元上昇によるものであり、何より五井先生の指示なのである。
 
「消えてゆく姿」の教えは、古い時代を終わらせる教えであった。
 「神の姿」を語る教えは、新しい時代の扉を開く教えである。
 物質文明は終焉を向かえた。神文明の扉は大きく開いた。


 注1   「霊性の開発」P.26         
  

ピタゴラスさん
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by mppoe-light | 2012-03-15 22:46 | ピタゴラスさん啓示録から

『今』を選ぶ

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自分はこういう者だと思ってるのは、潜在意識の自分なんです。
顕在意識、本当の元々の意識というのは、すべて神そのもの。

3月4日昌美先生のお話から



どちらの「私」を認め、どう自覚していくかは・・・・ いつも自由に選択することができる

今までは、無意識のまま過去の「私」を選び、それが「私」なのだと決めていた。
でも、元々の意識は神そのもの。 
過去ではなく、今に意識を絞って神を選択し、自覚していく・・・・のだっっ!☆


   

 自分の内に神性エネルギーだけを視るということは、『今』に生きるということである。
 自分の内にカルマのエネルギーを視るということは、『過去』に生きるということである。

 よく言われるように、過去はない、
自分で引っ張り出さない限り。
 『今』はすべての瞬間に在る、
自我とは関係なく常にある。

 あなたは自己意識で感じる通りの存在である。
 あなたは自分で信じる自分の本来性を現わす存在である。
 自分を神性と想えば神であり、
 自分を業生と想えば凡夫である。
 
 『今』の中には、あなたの神性エネルギーがある。
 『過去』の中には、あなたのカルマのエネルギーがある。
 『今』を視る者は、愛と赦しに溢れている。
 『過去』を視る者は、自分を赦していない。

 どの瞬間であろうと、『今』を生きるとは、「我即神也」を宣言し、その意識レベルで生きることである。あなたの神性エネルギーが吹き出す時だ。
 どの瞬間であろうと、『過去』に生きるとは、「我即非神」を宣言し、その意識レベルで生きることである。あなたのカルマのエネルギーが吹き出す時だ。

 
自己意識の中で『神なる自分の姿』が創られない限り、「我即神也」は顕現しない。
自分の内には神性しかなく、自分が神性そのものであることを知る者は、「我即神也」だけを顕現する。

『今』と『過去』 から ピタゴラスさんの


無限なるものすべてを備え、欠けたるものなく、そして 絶対大丈夫、大成就! 
どれも神の宣言。
私は神である ことを実現しようとしている・・・ってことなのかな。

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by mppoe-light | 2012-03-08 20:06 | 真理について思ったこと

「私」の本来の場

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究極の真理(我即神也 人類即神也)、光。
「神」である『私』は常に在るのだけど、常に無限なるものすべては在るのだけど・・・、
意識が認めない限りは闇の中。

無意識の闇から無限の光へ
意識して自分の神性を認め、自覚して生きる。

自らが神であるという大前提のもと、自らの心の在り方に注意を払い、

無限なる愛の心、無限なる感謝の心、無限なる赦しの心、無限なる能力、無限なる叡智を秘めていることを自覚し、生きてゆくことが肝心である。

全身全霊をもって神の子として生きる
(今月の法話から)


無意識の闇の世界は消えてゆく姿、過去はない。 
無限の光の世界だけを認める。

神性を自覚し、宣言し祈る。 
そこには過去では体験したことのない喜び、癒しがあって、上手く言えないのだけど不思議な幸福感。 
神なのだから、神でありたい。神であることが嬉しい。すべてが美しく神聖なのだと思える。
神を表現したいと思う。

失敗もする。(T_T) いっぱい。。。
現象世界と向き合った時、神の子でいたつもりの「私」が、過去の「私」に戻っているから。

すべてが美しく神聖なのだと思える、神であることが嬉しい、神を表現したい・・
そう感じた「私」の場。そに居続けることが出来るようになりたいから続ける。


究極の真理によって、人は迷いから解放され、神を顕わすことが出来る。
とは言っても、無意識の自我の主張を「我即神也」に置き換えてゆくには根気がいる。
同じことを何度も何度も言い聞かせる。
印と言霊によって、「我即神也」をこの世に顕わしてゆくことができる。これも同様、何度も何度も印を組み、何度も何度も言霊を唱える。
無意識の主張をキャンセルし元々の自分の姿に戻るだけなのだが、根気がいる。
夢から目覚めて、正気に戻るだけなのだが、根気がいる。
今年も、根気よく、赦しと愛、厳然と存在する神の姿、本来の姿、完全・完璧・大調和・至福の神、それを表現する言霊、印、感謝しつづけるのである。
自己意識を本来の自分と同一であると宣言しつづけるのである。

 根気がいるのだが、現象の自己を改善しようすることに較べれば易行道である。
自分が自分の真の姿である神性だけを見ること。続ければ、必ず「大成就」を体験する。

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by mppoe-light | 2012-03-06 22:44 | 真理について思ったこと