白光 ノート & 不思議な絵 の話

c0074000_2226478.gifちょっとお知らせ

私の日記でおなじみの mixiピタゴラスさんですが、 先日ブログを発見しました。 おおぉっ・・・

  ↓ ここです☆
白光 ノート

啓示録を1ページ目からコツコツ公開されています。 

我即神也の真理を理解を深めたい方、 果因説をもっと学びたい方、 そして・・・・

根性のある方! 
(カタイ内容なので歯ごたえ あり☆) カタイけど、ま、読んでるうちに慣れるし

どうぞ 読んでみて下さい ヽ(^。^)ノ~☆ 

ちなみに、プロフィール名は なぜか 富士山直行  に・・・・。  
ちょっと楽しい?

ピーさんに、こんなゆるいモードがあったとは・・・・   

*****************************************************************
c0074000_22275964.gif


最近、スーパーにお買い物に行った時など (特にレジで待っている間とか・・・)
せっかくなので お客さんを見ては、「人類即神也、人類即神也・・・」とやったりしてます。

うわべだけ、言葉だけで「人類即神也」といってるときは、 自分が我即神也から遠ざかっているとき。
なので、 
そんな時は、まずは自分が 「我即神也、 私は本来神である。神そのものである」と 意識を頭から胸の方におろし、胸から光を放射するイメージで やっていくと
そうすると人類即神也もいい感じになってくる。(^-^)

「目に見える形の前、それ以前に ここに今いる人たちは みんな魂は光り輝いていて
この場の光景は 本来は光がいっぱいで、光の往来なんだなぁ・・・
本心の目から見ると、 すべての人々が光の子たちに見えるのだろうな・・・すごいな~」

なんてことを考えていましたら、 なんだか嬉しくなり、体が軽くなってきて 少し浮き上がるような気になってきました。 ふわっと浮かびそうな感覚。 
どっかで似たような体験があったはず・・・・。

そう 足立幸子さん(故人)の絵!「究極の宇宙意識」の原画の前に(真正面に)立った時に似ています。

懐かしいな~。 ずいぶん前のことだけど 不思議な絵でした。


c0074000_22212551.jpg
c0074000_22215480.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2011-07-24 22:33 | 真理について思ったこと

自分と対座する こと

c0074000_19222855.gif


自分と対座する

『自分が自分を見つめようとする時、見つめたいと思い始めた時、その時こそ我即神也に目覚める瞬間です』(1999-4)。

 ピラミッド神事では、自分が自分と対座することが要求される。日々の生活の中で、自分と対座することをお勧めする。2~3分でいい。長くなると、統一行と同じで雑念が多くなる。短い間だから、自我、過去、カルマ、この世の事を持ち込まない。只、「自分がここにいる」という感触を掴むだけでいい。

 「ここにいる自分」が即神なのである。「自分がここにいる」と思った時、「ここにいる自分」は神であると積極的に思うのである。
多くの日本人は00大社に行けば、神殿の前で訳もわからず頭を深々と垂れる。それと同じように、無条件に自分が自分を神と拝むのである。そして、言霊で宣言するのである。「我即神也・あなたは神そのものだ」と。「我即光也。我即生命也。我即真理也」と宣言するのである。
「私には神秘なる力がある。神秘なる能力がある」(1999-6)と宣言するのである。
「ここに至高の仏陀がおわします。至高の神が光り輝いておられる」と自分を讃えるのである。
「神たる私は愛深く、慈しみに溢れ、叡智に満ちている。神なる私は喜びと、豊かさと健康に溢れている」と宣言するのである。
このように神の姿を想像するのである。
人間の小さな成功を想像するのではない。人間の望みを述べて、「御心ならば」と付け加えるのではない。人間の望みを包含した神の幸せ、喜び、至福を宣言するのである。神の姿を小さなところから顕現してゆくのである。

 “不可能”から“大成就”の世界へ転換するドアは開かれたと言われる(2011-7)。
そのドアとは「自分と自分が対座する場」にあるのである。
ドアが開くとは、「因縁そのものの自分」を消えてゆく姿にして、「神そのものの自分」を認めることである。
ドアが開くとは「ここにいる自分」を「因縁の自分」と見るのではなく、「神そのものの自分」と見ることである。
このわずかな違いが地球世界を全く別世界にしてしまうのである。

 因縁因果が創った場であろうと、「絶対大丈夫。我即神也。大成就」と唱えると、カルマとは無縁の「神そのものの自分」が「神の姿」を顕わし始めるのである。カルマは行き場を失い、光に変容されてしまうのである。
カルマは現われなければ消えないものではない。現われる前に、言霊によって光に変容されてしまうのである。因縁因果が成就しかけた場で、神の御心(果因説)が成就するならば、それは奇跡である。それを行うのが21世紀の神人たちである。



参照
『人間は自分自身を無条件で信じ愛せるようにならなくては本物ではありません。』
(1999-4  P.16)
 条件を付けて考えるのは因果律の思考回路である。果因説の思考回路には「条件付」というものはない。
mixiピタゴラスさん

******************************************************************
c0074000_19234930.gif


愛というのは存在である。 存在を祝福する。
私が私で良かった、私はここにいる。

一番大切なことは、あなたが生まれたということが、パーフェクト、完全なのです。
ここにいるということが嬉しいことなのです

<松尾みどりさん>



誰も価値判断を下すに値する人はいない。
それが誰であっても、どんな形で自己表現をしていたとしても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。

あなたはいったい誰に申し開きをする必要があるのでしょうか。あなた自身に対してだけです。
そして本当の真実とは何でしょうか。 自己がそうだとしたものです。

<ラムサ>




外部の出来事に反応したり、人生の中の人々、状況、出来事が整うのを待った後で、自分が平和を持つのではなく、むしろ あなたが自分の魂の光を放射する中心になるのです。

あなた方一人一人が、自分の魂の音、調べを持っています。そして、自分の声を通じて、それを世界に向かって表現すればするほど、自分の内なる存在に合う形を外部世界に創造します。

自分の高い目的を実現することは、自分自身を信じ、宇宙の善を信じることです。
もし、自分が、その高い目的を実現するために 最も大きな助けとなる決心を一つするとすれば、
それは、自分自身を信じ、宇宙を信頼することです。

<サネヤ・ロウマン>



外側の状況は2次的なもの  『私』の役目は、光を放つこと 
    
< リドル> なんちゃって・・・ 

c0074000_19253878.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2011-07-21 20:02 | ピタゴラスさん啓示録から

内なる神

c0074000_2144444.jpg

内在せる神を崇拝する

『疑おうが、信じまいが、否定しようが、厳然として、神秘なる力、神秘なる能力はすべての人々に内在しているものなのです。一刻も早く、その力に目覚めたほうがよりよい人生を送れるのです。
 人類はみな、自らに内在せる神を崇拝しなければならないのです。』(1999-6 P.12)


 「内在」と言う言葉はよく使われている。理解できたように思えるのだが、簡単には「内在する神性」は出てこないようだ。その理由は、因縁因果説で「内在する神性」を考えるからだ。
因果説では、「内在する」ものは潜在意識の奥底にある。「内在する」ものを現すには、徳を積み、修行を重ね、あらゆるカルマを消滅させ、大悟徹底し、監視役の神様に許可をいただかなければならない。

 果因説では、『私』に無条件に神性が与えられていることに感謝することから始まる。何の実績がなくとも、悟らずとも、不完全な自分はさておき、『私』は神そのものなのである。
『私』は自分の神性を讃え、崇拝すればいい。『私』は自分の神性を言葉で宣言すればいい。言葉で宣言すれば、それは言霊だ。祈りだ。その宣言は必ず成就する。もっと正確に言うと、宣言によって、神界に厳然と存在する状況が、この世に呼び出されることになる。
 因果説に凝り固まっていると、果因説という選択肢が思いつかないのである。果因説を聞いても理解できないのである。果因説を理解するには、『人類は一人残らず真理を勉強することである』(2011-7)。

 『私』は何にでも見える姿に同一化してしまう傾向がある。
『私』は、肉体人間を見ていると肉体人間に同一化してしまう。自我、過去、カルマそしてこの世あの世のすべてには同一化しないで、意識して神性に同一化してよいのである。自我、過去、カルマが「空」であると言うことは、『私』を自我、過去、カルマから自由に離してもよいと言うことである。
自我、過去、カルマから離れた瞬間、『私』は本来の『私』である。神そのものである。
神のように見えなくとも、自分=神の姿を想像してよいのである。神として崇拝してよいのである。神になったつもりで、神のように語ってよいのである。印を使って、神のような仕草をしていいのである。

 「内なる力に目覚める」とは、気づいていなかった既成事実=神の姿に気づくことである。忘れていた真理を思い出すことである。気づかなかったから、顕われてこなかった。非真理を信じていたから、真理が顕われてこなかった。  
「目覚め(悟り)」は認識の変化である。認識の変化は現象の変化に先立つものである。認識の変化が現象を変えるのである。逆であってはならない。神としての物的証拠を基に「我即神也」を認めるのではない。無条件に、自分は神であると認め、宣言するのである。
『自らが自らを神と認めた瞬間神と成るのです』。 それまでは、  『自分は、因縁そのものの自分を自分であると認めてしまった』(1999-4) だけである。                   

mixiピタゴラスさん
c0074000_20591276.jpg



目覚め(悟り)」は認識の変化である。認識の変化は現象の変化に先立つものである。認識の変化が現象を変えるのである。逆であってはならない。

こういうとこ読むと いつも思い出すのが 五井先生の「神と人間」 です。

『形あるもの、それは形なきものの影である。 形あるものが、形あるそのままで
見えるようでは、その人は救われない』


影である形(現象)の変化より、形なきもの(認識)の変化が先に来なければならない。
形なきもの(認識)の変化が、影である(現象)を変える。 
逆であってはならない・・・・のだ☆



『人間とは肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無礙に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を描き出そうとしている者である。
人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。』


↑※「神と人間」 神と人間との関係 から

我即神也 成就 人類即神也
c0074000_2055269.jpg

氷の結晶・・・
[PR]

by mppoe-light | 2011-07-18 21:07 | ピタゴラスさん啓示録から

奇跡への道

奇跡への道

想いを静めてみよう。どんな雑念があろうとなかろうと、いつも「私」という意識はある。「肉体なし。自我なし。過去なし」と「私」をあらゆる想いから切り離してゆく。それでも、様々な想いは出てくる。いくら出てきても、出てきた想いは「消えてゆく姿」である。想いがなくなっても、「私」という意識は残る。何を想わなくとも、「私」は在る。「私」は存在する。

 その「私」が神なのである。「私」は光っていないかもしれない。「私」からは力が湧き出てないように感じるかもしれない。しかし、その「私」が無条件に神なのである。悟らなければ、神になれないのではない。果たすべきカルマを果たさなければ、神になれないのではない。沢山の徳を積まなければ、神を顕わせないのではない。欠点を克服しなければ、神と認められないわけではない。

 何の実績がなくとも、先ず「私」を「神」と認めて、「神である」と宣言するのである。
先ず「私」を「神」と讃え、「神」と崇拝するのである。「神」と尊敬するのである。そうすることが宇宙神の御心に適うのである。

 ここに果因説の要諦がある。「即」の真意がある。「実績」に対し、認め、讃え、崇拝し、尊敬するのは因果律の作法である。実績がなくても、「神として認める。完全性、神性を讃える」ことによって、神性を世に顕わして行くのである。これが祈りの道である。

 悟らずとも、「私」は神なのである。何もしなくとも、「私」は神なのである。「私」を神と認めることによって、神の姿を顕わすことができるのである。「私」を神と宣言することによって、能力と智恵と生命が湧いてくるのである。悟らずとも、欠点を克服できなくとも、「私」は「神」そのものとして印を組み、神語を語るのである。

「我が想いでなく、御心のままになさしめたまえ」(イエス・キリストの言葉)とは「因縁因果の法則を放棄します、果因説の人生を選択します」という意味である。果因説の人生とは宇宙神の御心のままにすべてが成就する人生である。完全、完璧、大調和の人生である。因縁因果で作られた場であろうと、因果応報が成就するのではなく、宇宙神の意図が成就する。果因説が成就する。それは奇跡である。奇跡とは他の人に起こしてもらうのではなく、自分で起こして行くものである。

 20世紀までは、「果たすべきカルマは必ず果たさなければ人間は救われることはない。どのように受け止めるかが宗教の極意である。受け止めるべきは自分の魂を磨くものだから、黙って忍耐しよう」と言っていればよかった。
しかし、今やそれが通用しなくなってしまったのである。「宇宙神から聖にして神秘なる光を送られているのだから、出し惜しみしないで奇跡を起こしなさい」と言われる時代になったのである。自己責任が問われる厳しい時代になったものだ。しかし、厳しさに耐えかねて、逆戻りしないことだ。厳しさを正面から受け止めるべきだ。
mixiピタゴラスさん
******************************************************

c0074000_219927.gif


20世紀までは、「果たすべきカルマは必ず果たさなければ人間は救われることはない。どのように受け止めるかが宗教の極意である。受け止めるべきは自分の魂を磨くものだから、黙って忍耐しよう」と言っていればよかった。
しかし、今やそれが通用しなくなってしまったのである。


「自分が抱えているカルマは消えてゆく姿なんだから 祈りながらじっと我慢していればいい。いつか時期が来れば必ず良くなるのだから・・・・」 て、のほほ~んと思っている自分に気が付きました。(T_T)

「いつか必ず良くなるのだから それまでやり過ごそう」・・・・ではないんだ。
果因説の「今」 を選ばなければならない。

宇宙神とつながっている「私」は、完璧、完全。 すべては大成就している。だから絶対大丈夫。
そこからスタートする。

自己責任が問われる厳しい時代になったものだ。しかし、厳しさに耐えかねて、逆戻りしないことだ。厳しさを正面から受け止めるべきだ。
うぅ・・自己責任ってこういう意味だったのね・・・・ 

今までの思考回路をひっくり返すようなもんだ・・・・成就から思考をスタートさせるなんて。
こーなりゃ 訓練だべ。
繰り返し じみ~にコツコツと、思考回路を変えなければ。。。。。 


私』は本来神である。神そのものである。無限なる愛、光、叡智、能力、生命に充たされているのである。本来完璧なように作られているのである。完璧そのものである。一つの欠けたるものなく、一つの余分なものなく、全く完璧に大調和された神そのものである。



c0074000_219504.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2011-07-15 21:15 | ピタゴラスさん啓示録から

自分を愛するということ

c0074000_2143833.gif

自分の神 から ↓
『まず初めに、それ(我即神也)はあなたの中に既に現実のものとして存在しているのだと、想像しなければなりません。
現在の不完全な自分はさておき、想像の中で、自分が光り輝く神そのものになっていると想うのです。愛深い自分、叡智溢れる自分、すべてに成功している自分、繁栄している自分、健康に輝いている自分、すべての人から尊敬され、慕われ、愛されている自分、そのように繰り返し、繰り返し神そのもののような姿を顕わしている自分を想像しつづけるのです。
それを現実の世界に影響を及ぼすまで、断念することなく続けるのです。』(注3)

『彼ら(意識の高い人々)は毎朝、すべての細胞に感謝を捧げ、自分の肉体を褒めたたえ、たとえどこかが病んでいようとも完全なる肉体をイメージし、それに向かって機を集中させるのです。
意識が否定的、暗黒的、破壊的想念が病んでいる部分にゆかないので、いつの間にか自然治癒力によって、再び見事な完全なる細胞によみがえるのです。』(注4


 『不完全な自分はさておき、たとえどこかが病んでいようとも』『厳然として存在する神の自分の姿』をイメージし、自分の姿を宣言する習慣を会得すべきなのである。
我即神也の神は現象の自分がどうであれ、すべてを受け容れてくれるのである。
自分の神が自分の現象を受け容れないことは絶対にない。こちら側の自分は、厳然として存在する我即神也の神にイメージを重ね合わせて、その神と同じ言葉を語り、印を組めばいいのである。
誰にも、何にも遠慮せず、「私はあなたです。神です」と自分の神に飛び込めばいい。
これが自分を愛するということである。自分を愛するにはエネルギーが要る。しかし、そこは喜びと祝福に満ちた世界である。感謝に溢れる世界である。自分になしたことを、同様に人類にしてゆく。これが人類即神也である。そこに平和な世界がある。

注3  1995-8 P.15-16
注4  1995-12 P.11
mixiピタゴラスさん


自分を愛するにはエネルギーが要る。
 
そう思います。 無意識に生きていると 本当の「私」を忘れ無視して、カルマの偽りの「私」に落っこちてしまう。。。 自分を愛するには、無意識に生きていてはダメ、それでは愛せない。
自分を愛するためには、意識して心掛けなければならない・・・やっぱり努力が必要。 
でも、
因果律の修行に比べたら、ずっとずっといい。

消えてゆく姿で世界平和の祈り、印、呼吸法、 そして今、果因説!  すごい!!!

自分の定命がいくつか知らないけど、、、最期を迎え移行するのを想像してみると、、
大いに真理追究に心残りあり、です。

まだまだ自分を愛する努力が足りないってことかな (笑)

c0074000_2137483.jpg



  
[PR]

by mppoe-light | 2011-07-05 21:45 | ピタゴラスさん啓示録から

想像・創造・・・・☆

c0074000_21541662.jpg

昌美先生の2008-9 の法話から

果因説の成就は『我即神也、本来神に欠けたるものなしという徹底した完全調和、完璧、完成、無限なる能力、創造性、可能性を信じることからワンステップが始まる』

『自らの願望がすでに成就した状態から物事が始められ、考えられてゆく』。
神は『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめることによって、自らに内在せる創造力がその願望を成就なさしめるのである』


成就した時の歓喜、感謝、幸せ・・・という気持ちの想像。。。。ううぅ・・・



今月の昌美先生の法話から

自らが心素直に清く、純粋に宇宙神のひびきと一つになることを心かげてゆけば、自らの前に現れてくるすべて一切のものは、神の大み心、大成就そのものなのである。ゆえに自分自身が立派になること以外に何もないのである。


純粋な想像力、純粋な気持ち、純粋に宇宙神のひびきと一つに・・・・

難しいことは分からないけど、、、、 自分自身を愛することが一番大切な気がします。
(なぜなら、すべては 「私」という意識から始まるのだから
「私」あるから世界がある・・・・)
ので、
やっぱり 自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す・・・・です。


c0074000_2146571.gif


以前にも載せたものですが、ブログアクセス数も増えた! ことだし、(ま、微増だけど・・・(^_^;)
読んでいたら面白かったので、も一度載せることにしました。
c0074000_2149996.gifこんなに好き勝手に使わせてもらって・・・・ありがとうございます。(p_-) うる・・・

我即神也・創造主・果因説

 我とは何ぞや?「我即神也」である。

『私』が同一化すべきは神のみである。神の性質は神性である。神性は光明の言葉で表現される。「我即神也」は神の自己宣言である。自分が何者であるかの宣言である。神が自己宣言するのは神性を顕現するためである。それは現実世界の創造である。

 神とは創造主である。神は自己の世界を創造する存在である。「我即神也」とは『我は創造主の一部。自らの人生は自らが想像し、創造してゆく』と言う意味である。『我即神也の自分は本来、創造主、神の分霊であるから、自分の想うことは創造できるものである』(注1)。

 神の創造の手法は果因説である。
果因説の成就は『我即神也、本来神に欠けたるものなしという徹底した完全調和、完璧、完成、無限なる能力、創造性、可能性を信じることからワンステップが始まる』(注1)。

人間の現実世界の創造はカルマに基づくものである。カルマの世界では現実世界の改善を目指す。それはいつも、過去に基づき未来の改善を目指す営みである。
それとは違って、神の現実世界の創造には「既に成就している」という決まり事がある。
果因説に拠る創造は、神界の様相を地に降ろす営みである。結果的に因果の世界は改善されてしまう。しかし、それは過去からの延長線上にはない。むしろ現われてくる姿は未来からやって来たように見える。
「我即神也」の『私』にとって、現実世界は改善されるのではない。現実世界はない(消えてゆく姿)のである。既に輝かしい世界が、「我即神也」の『もう一人の私』と共に「もう一つの人生、もう一つの世界」として厳然と存在しているのである。

 神の創造の特徴は、『自らの願望がすでに成就した状態から物事が始められ、考えられてゆく』。
神は『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめることによって、自らに内在せる創造力がその願望を成就なさしめるのである』(注1)。

神人が学ぶべきはこの神の創造、果因説に拠る創造の手法である。これこそが神人の天命である。

 果因説に拠る創造の世界、神の創造の世界は『完全なるポジティブな世界、光の世界、神の世界、自由なる世界、一切欠けたるもののない世界、輝かしい世界、至福の世界』(注1)である。
この神人による至福の世界の創造によって世界人類の平和が成就するのである。

 もう既に、『私』は神なのである。『私』の人生は輝かしい人生である。『私』の世界は平和で豊かで調和しているのである。私も、私の人生も、私の世界も喜びに満ち溢れている。幸せに満ち満ちている。どこを見ても至福しかない。この宇宙神が創造し給いし完全平和な世界を歓喜、感謝、幸せの気持ちで意識を込めて想像してゆく。この想像は、内なる神の創造力によって必ず成就する。

 「自分の世界は自分で創った」という教えがある。それは不幸・理不尽の原因を決して他に求めてはいけないということである。かといって、自分を責めてはいけない。過去の自分のいたらなさ、不完全さ、思い違い、失敗、強欲、、、、、、何一つ分析して、ほじくり返すことはない。そのような事実とは関係なく、『私』は神なのである。
神なる『私』は自由自在に何でも赦すことができるし、何でも創造することができる。『私』はそのような過去の分析によらず、果因説を駆使して自分の輝かしい人生を創造することができる
。「何でいつもこうなのか?何所でどう間違ってこうなったのか?」と考える必要もない。
現状がどうであれ、『私』は神そのもの。『私』は自由に自分の人生をデザインし、現実化することができる。
世界の情勢も社会の情勢も関係ない。それらは過去の人類の創造の結果である。
神なる『私』は世の中とは関係なく、神の世界・自分の本住の世界を想像し、それを創造する。
『私』の想像を限定するものはなく、『私』の創造を制限するものはない。『私』は歓びに満たされながら自分の世界を創造する。歓びに満ちた世界を。

注1 2008-9  白光誌
mixiピタゴラスさん
c0074000_21582763.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2011-07-03 21:55 | 真理について思ったこと

成就と果因説と真理と

c0074000_21454884.gif


ここんとこ、「成就」という言葉が気になっていて・・・
神語を自分に語るとき
「私」は神だから大成就している。 「私」は神だから絶対大丈夫 と言っておりましたら、、、

"
今自分が現実面で抱える問題、心の中の荷物は、 本質の「私」の世界では、常にどれも
完璧に解決、改善されている、つまりすべては大成就している
よって
本心から見れば、何も思い煩う必要はない。 あるのは喜び、幸せのみ。"

なんて思いました。 これが、おまかせ・全託なのかな・・・・ 真理は深いぜ どこまでも。。。。

で、
そう思っていましたら、、、

 本来「私」は、すべて成就している、完成している・・・ことを信じる気持ちが浅くて、中途半端な感じがしました。
この信じる気持ちを深めるためにも、神語は欠かさず続けていかねば・・・です。
さらに、
これから、祈り、印 の時には、もっと自分は大成就しているパーフェクトな存在 と
思って、その気になって (今の現状はさておき)
 やった方がいいようだ・・・と思いました。 

以前にも載せたと思うのだけど、 読んでいたら面白かったので もう一度☆

『瞬間』の真理

 『神人たる者は、自らを神であると認めた瞬間、神のような創造者に立ち返るのである。』(2001-3)
『自らが自らを神と認めた瞬間、神と成るのです。』(白光1999-4)

『本来、祈った瞬間もうそれは成就されていると知ることです。なぜならば本来、人間の願いはすべて成就されているものだからです。』(1999-6)

『この印を組んでいる瞬間こそ、現象界より抜け出し、神の大いなる平安と祝福の中におり、宇宙神の光を今生に降ろしているのです。』(1996-7)
                                ※

 因果説によると、何かを成就するには長年の努力が必要になる。まして、神に成るには無限に近い努力が要求される。
ところが、果因説の世界は違う。時間的経過とか努力の積み重ねるプロセスや、艱難辛苦のプロセスは必ずしも必要ではない。ただし、果因説を体得するまでのリハビリ期間は必要である。

 言霊で宣言する、印を組むと言うことは既に神の創造活動なのである。それは空即是色の行為なのである。それは因縁因果の人生を手放して、本来因果を呼び込む全託の行為である。つまり、祈り印を組む者は果因説に徹することである。

 「まだまだ修行が足りない」などと言う言葉は果因説にはない。修行の足りない自分とは別に『厳然と存在する』、尊敬に値する神そのものの自分を認めるのである。そこから、毎瞬スタートするのである。「まだまだ」ではい、「もう既に」自分は神そのものなのである。自分は「そもそも」神そのものなのである。

 21世紀、「まだまだ修行が足りない」という言葉は謙虚さの表れではない。先ず初めに、現象の姿はともかく、自分自身のことを『我即神也』と認めるのである。自分自身を敬い、尊び、礼賛するのである。そして、法則によってその通り、敬うべき神の姿を顕現して行くのである(注1)。

何故、冒頭に見たように、西園寺会長は『瞬間の真理』を繰り返し説かれたのか。
『瞬間の真理』はすべて果因説なのである。
我々が真理の世界に入り、真理の世界を現象界に呼び込むのに必要なのは、自己意識を変えさえすればいいのである。
完全平和、調和、幸せ、健康、繁栄も既に確立されているのである。『厳然として存在する自分自身の本心』はすでに神そのものであって、平和、調和、幸せ、健康、繁栄を成就しているのである。
必要なのはこの真理を追認することだけである。追認できない古い思考回路が邪魔をしているだけである。浄めなければならない悪因縁が邪魔をしているわけではない。果因説の思考回路に慣れないだけである。
誰であろうが、自分を神と認めた瞬間、因縁因果を超えて、その人は神なのである。

注1 『人類はみな自分自身のことを
    敬い 尊び 礼賛する心をもって扱うならば
    自らは自らが礼賛した通りのものとなる
    
    自らを敬い 尊び 礼賛するところに
    癒しの力は無限大に働く』       
白光誌2000-3インフィニット・ワーズ

                             ※

西園寺会長は「時間は未来から流れてくる」(注3)と言われる。時間の逆回転と言うのは難解な言い回しだ。因果の世界では、時間は過去から現在、そして現在から未来へと流れる。それと果因説の神性顕現とは別物であると言った方が理解しやすい。

因縁因果が浄化され、良くなって神性顕現が始まるという考え方は因果説の考え方である。それとは異なった次元で、神性顕現は始まると言うことだ。砂上の楼閣を築く場と「神の楼閣を築く」場は全く異なる異次元なのである。それは本来因果、空即是色、神の創造が行われる場である。

目覚める前の人はカルマの流れの中に入る。我々が『我即神也』に目覚めた瞬間、今までのカルマがどうであれ、我々は神としての創造者そのものだ。目覚めるとは『自分が神であると思い出すことであり、神であると認めることである』。
目覚めると言う変化は物質界の変化ではなく、意識・自己認識の変化である。

創世記にあるように、神の創造は言霊の創造である。自分の神性イメージを言葉で讃え、讃えたとおりの姿を物質化するのである。神意識を現実化するのである。これが我々の天命である。これが未来から時間が流れてくるという言い回しの意味である。現実が変化し始めると、未来の可能性がやって来たように感じるということだ。

自分は神であると意識しながら言葉を語るのだ。
自分の言葉が現実を創造すると意識しながら言葉を語るのだ。
自分の言葉のすべてが現実化するのであれば、最高の言葉を語るのだ。
神語を語るのだ。

注1  白光1998-2
注2  白光2008-4 P.9-10
注3  2010-4
『私』はすべての人の本心、神の『私』

mixiピタゴラスさん


c0074000_21593793.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2011-07-01 22:04 | ピタゴラスさん啓示録から