果因説で「みんなが働く」

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五井先生の法話で、 
「一人の救世主が降りて世界が良くなるのではなく、みんなが救世主になって、みんなが働く」
というお話がありました。

自分はちゃんと働いているのだろうか・・・と、気になりました。
そのうち 「今日の私は、神意識をもって、言葉、想念、行為することが出来たかなぁ」と考えるようになりました。
気が付かないうちに 結果、過去を気にするようになっていた。。。

過去に意識が向いていると、 我即神也 の宣言も神語も いまいち心に響いてこないようで、 
祈っても印を組んでも、宣言しても・・・何かピンとこない。。。
ちっとも軽くならない、曇ったままで重い感じです。

う~ん。。。。。(;一_一)

そんなわけで、
このところ私は重かった・・(体重のことではない・・・)
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真理は宣言し承認しさえすればいい

 究極の真理は「我即神也」である。それは、自分自身についての大上段の真理である。
日常の姿と比べると、いささか仰々しく感じるかもしれない。
しかし、「真理を実践して見せてください。真理は体現してから口にしなさい」と言うのは古い宗教観念のなせる業(わざ)である。因果説の宗教者は必ずそのように言うだろう。
因果説の教えは一つ一つ実践を積み重ねることが要求される。そして、一から百まで一つ一つ自力で積み重ねなければならない。三十くらいの徳を積み重ねた人は、徳のほとんどない人に、実績を示すことも可能だ。

 他方、大真理「我即神也」はどれだけ実践したかと問われると答えづらいものだ。
この道は因果説の道のように定量化できない。つまり、どこまで進んでいるのか判明し難い。
しかし、「我即神也」の大真理は因果説の真理のように、行わなければ意味をなさない小真理とは全く異なる。
 『真理は汝を自由にする』と言うように、大真理を見出した人は『苦悩から解放され、病から癒され、すべての重荷から解放される』。真理は行うことによって、実を結ぶのではない。『(我即神也の)真理を自らが宣言し承認することによって、自らが神そのものへと自己実現してゆくのです』(1997-6)。真理は宣言し承認しさえすればいい。

真理は勿論、観念論ではない。真理は行わなければ意味をなさないものでもない。先ず初めに真理を『宣言し承認する』ことが大切なのだ。そして、声に出して言霊として、神語として唱えることが重要なのだ。
真理は宇宙神の創造の結果として既に成就している。実践する前に、成就してしまっているのである。この既に完成された神界の様相を言霊によって思い出し、呼び出すのである。これを「祈り」と言う。「祈り」は如何なる行為より積極的な行為なのである。

大真理を行為に現わす現わさないは二次的なものである。大真理は自分自身についての不変の真理なのである。それは現象と実践を超えた真理なのである。
『初めから自分自身に対して畏敬の念を持って接するのです。自分の中にいかなる不完全さが存在しようと決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです』(1997-10)。
あなたは神を顕わした実績に対して神と認められるのではない。現象のあなたがどうであれ、何であれ、あなたは神である。初めから、あなたは自分自身を畏敬し、崇拝すべき存在なのである。あなたは、見かけの不完全性にかかわらず、神そのものである。光り輝いた神性そのものである。その大真理を宣言し承認すればいい。大真理を宣言し承認することによって、あなたの神性は溢れ出てくることになっている。そして、不完全性など消えてしまう。これが「祈り」の真髄である。

不完全性を自力で消すことによって、神性が褒美とし与えられるのでは決してない。神性は初めからあなたのものなのである。
『あなたこそ神そのものである』(1997-1)
mixiピタゴラスさん

で、この「真理は宣言し承認しさえすればいい 」を読んで、
自分がどう神性を顕したかに捉われている・・・と言う内容をコメントしたところ、
次のようなお返事。

一般の人には、神性顕現の実績がないのに「私は神だ。私は神性に貫かれている」とは宣言し難いところがります。
 また、一般の人は「我即神也」と言っている人がいれば、「そう言う前に神性を見せてくれないか」と言いたくなるものです。
 一般の人と言いましたが、そのような観念が我々の思考回路に残っているわけです。

 真理の重要なところは、「実績が第一」ではなく「実績は二の次」でいいと言うところです。

 「実績は二の次にして、自分を神と宣言し神と認める」
これが果因説のポイントです。

 「現象がどうであれ、自分は神である。宇宙神は私を祝福して下さっている。宇宙神は私に至福を約束して下さった。有難うございます」
このように宣言していると、現象を消えてゆく姿と思えてくる。
この練習を日々行って参りましょう。


一般の方や、消えていく姿の実践がまだ浅い方が
「真理は宣言し承認しさえすればいい 」と聞かれたら、びっくりされるのだされるんだろうけど・・・それについては
「消えてゆく姿を取り組んで下さい・・・」 としか言えない。


“過去の積み重ねが、今、そしてこれからを創っている” と考える因果説。

果因説は、
「未来から完璧なものがもたらされる」 ように思えます。

実際には、時間は常に「今」で、 
常に新しい「私」が、毎瞬、毎瞬、神なる「私」が存在していて
(多くはそれを見過ごしてしまって、消えてゆく方の自分を表現していますが、実際には常に神の自分がある・・・) 
 一切減ることのない無限なるもの完璧なものが、次々に絶え間なく自分の中に流れこんでいるのだから、それが顕現された時には、
「未来から完全なものがもたらされた」・・・ような感覚になるのかな・・・と思います。

絶え間なく、完璧なものが常に自分に流れ込んでいるのに、それを見過ごして、カルマの自分の方を認めているなんて・・・・ 
なんて、、もったいない!!!!
だから今、真理は宣言し承認しさえすればいい

だから今、この瞬間から、我即神也 我即叡智也 我即光也
 
それが真実なのだ。
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そして、気になっていた、 「みんなが救世主になってみんなが働く」 というコト。

実績が二の次でも、ちゃんと働いていることになるのだろうか・・・・などなど
因果説思考をひきずりながら、続けて質問をコメントしてみましたら、


「我即神也」がしっかりできないと、深い「人類即神也」はできない。
「我即神也」がしっかりできたならば、自然に「人類即神也」ができる。


これには目が覚めました。 深いよな~、ちょっと感動したなぁ・・・じわり。。


あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。
<神と人間>から

あくまでも心に品位を持ち、言葉では何一つ主張せずとも、ただそこに在るだけでその場が光り輝き、周りの人々が愛と真理に包まれ、………  そんな存在者のことを言う。
<1月号法話の※世界人類のリーダーとは >から


「私」からすべてが始まるのだから、 まず 
自分を愛することが何より大切なのだと思います。

 救世主になって働くためには、
もっと自分を愛し、自分の創造したものも愛し、褒めて祝福して、まず自分自身が光り輝かねば・・・・。
 
ううぅ・・・っ  初心に帰って、またコツコツやろ。。。。それしかないのだ・・・・・。


我即神也
私は神!光り輝いている神そのもの、 
私はすべてに充たされ、すべてに愛され、すべてに抱擁され、すべてに祝福され、
燦然と光り輝く宇宙神とまったく一つに解けあう。
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by mppoe-light | 2011-04-24 13:58 | ピタゴラスさん啓示録から

発電所にて、じわーっと責任感

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昨日、法友とともに島根の鹿島原発に行き、お祈りや印を組んできました。
私は宗教的なタイプではなく、お浄めという発想がないので、

「原発さん、ありがとうございます。」
「日本人、さらに原発関係者の皆様が目覚めますように 日本人即真理也 」 


原発に感謝するにつれ、「これから、しっかりと日本人を目覚めさせていかなきゃならないんだな・・・」と、じわ~っと責任感が湧いてきました。
鹿島原発は現在1号機、2号機ありますが、来年2月には3号機も稼働開始予定です。

発電所周辺は、警備の人が多かった気がします。テロ警戒なのかもしれません。
今後、国内で原発推進派、反対派の対立も予想されますが、(無限なる調和!)
「日本人即平和也 日本人即調和也」
消えてゆく姿の世界の善悪に捉われず、 そんなこととは関係なく、
日本人が早く真理の光を受け取ってくれるよう、祈るだけ。

鹿島原発の作業員のかたが、自主的に福島原発に赴き、危険な任務に従事されたことを聞きました。(鹿島以外にも日本各地の原発からも。)
そのニュースは、多くの日本人を感動させたと思います。 
その一方で
政府、保安院、キャリア官僚 などの不甲斐なさに批判の目が向けられています。
しかし、それには一切関知せず、
消えてゆく姿の中の二元対立には批判、非難、評価も下さず一切関知せず です 。
政治家も、キャリア官僚も、みな本来、即神也です。
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神性復活
光に変容するとは意識の浄化である。意識の浄化とは「誤てる自己定義」を捨てることである。自分に貼り付けたレッテルを剥すことである。余計なレッテルがなくなったとき、太初から在った「我即神也」だけが残る。不要なすべては赦され、癒されて、光に変容され、消されるのである。体験する世界は意識の通りであるから、意識が浄化されると、光の世界を体験する。意識が浄化されると、神性のみに囲まれていることに感謝できる。

原発事故を事故と見ている限り、専門家の受け売りと評論家のまねごとしかできない。原発事故を危険と見ている限り、恐れることしかできない。原発の天命は完了したのである。原発は放射能汚染を通じて人類が真理に目覚めるよう促したかっただけである。
『もうこれ以上人類に破壊を示さずとも、私たち神人がその代わりに人類を真理に目覚めさせます。原発さん有難うございます。』
『必ず地球を平和に致します。』

原発事故を浄めるのではない。我々が自分の天命を完うするのである。我々が人類を真理に目覚めるよう促すのである。我々が人類に光と真理と愛を伝えるのである。人類一人一人が神であることを知らせるのである。人類一人一人の栄光を知らせるのである。人類一人一人の偉大さを知らせるのである。人類に驕りと汚れと無知を知らせる時代ではない。人類に自らの神性を知らせる時代である。人類の業を浄めるのではない。人類を見る自分の視覚を変えるのだ。人類の神性に眼を凝らすのだ。自分の視覚が変わったことによる世界の変化を体験するのだ。それが「必ず地球を平和に致します」ということだ。

イエス・キリストはラザロの復活(注2)のとき、何をしていたのだろうか?ラザロの業を浄めていたのだろうか?人々にはラザロは死んだように見えていた。イエス・キリストの視覚に在ったラザロの姿は神そのものであった。ラザロ即神也であった。それはラザロへの愛だけであった。そのラザロへの愛が群集にも拡がったとき、ラザロは生き返ったのである。
「ラザロの復活」は21世紀の「人類の神性復活」のモデルだったのである。神人が人類を見る視覚の上昇が世界の状況を変えて行くのである。神人が視るべきは、人類の神性のみである。「人類即神也」の姿そのものである。人類の栄光である。
「人類の神性復活」も大成就する。現われたすべては赦され、癒され、光に変容され、消されるのである。神性のすべては神人の言葉・想念・行為・肉体を通して顕われるのである。神人は人類を真理に目覚めさせる天命を果たす。そして、地球を平和にする天命を果たす。すべては大成就。

注1  『』2011/04/03 富士聖地法話より
注2  ヨハネ伝11


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原発事故を事故と見ている限り、専門家の受け売りと評論家のまねごとしかできない。原発事故を危険と見ている限り、恐れることしかできない。

それは承知の上で、評論家のまねごとなど、さらさらする気はありません。
今、事態を速やかに改善したければ、多くの人を真理に目覚めさせること、
これが一番です。 でも、
川に流され今にも溺れそうな人を目の前にしたら、やっぱり真理を語る前に手を差し伸べたい。 真理に遠い分御霊の方(被災者の方)の心情を思うと、少しでも事態が改善されるよう祈りたい、との気持ちもあるのです。

今もこれからも、果因説で祈り、印を組み、
意識を我即神也に引き上げ、神意識ワールドを構築し
神世界の光明を地上に導き降ろす。
その光明が被災者方のの意識を支えて、これからの生きる力になってくれたら・・・、と思います。

被災された皆様即神也  原発作業員のみなさま即神也
日本人即神也 日本人即真理也

※原発の帰りに、お目当てののチェリーロードに行きました。(*^_^*) 雨が残念でしたが、すごい桜ばかりでよかった!!!
 
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by mppoe-light | 2011-04-12 13:25 | ピタゴラスさん啓示録から

自己責任の領域

また読んでいます。 固さにすっかり馴染んで、解りやすく読みやすくなった・・・☆☆☆
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我即神也を唱え、人類即神也を唱え、自己意識が高まるようになるほど、その後に生じる煩悩が気になるかも知れない。しかし、まさにそこに「消えてゆく姿」が威力を発揮する。有限の煩悩に比べようもないほどの神性を発揮しようとしている人が、有限な想いに捉われることはない。ギャップがあるのではない。
自己矛盾ではない。偽善ではない。神性と業想念とは全く別物なのだ。
あなたを責める神はいない。蔑む神はいない。怒る神もいない。常にそこにあるもの。常に一人そこで輝いている本心(宇宙神)があるだけだ。

あなたはカルマを見過ごさずに、そこにあるものを見過ごしてきた。消えてゆく姿を見過ごして、そこにあるもの、光り輝く本心を思い出しさえすればいい。
汝はそれなり。「我は、、、、Iam ….」と言う四次元軸を使うことによってのみ、人は神を顕わすことができる。宗教の奥義に達することができる。

自己意識という四次元軸上で階段のように一つずつ上るのが、祈りである。
四次元軸の上昇しつつ、上方から降りてくるものを「私である」と受け止めるのが、統一である。上方からエレベーターのように降りてきた直霊が肉体を通して光を放つのが、印である。印は神我一体の手段であると同時にその結果である。
努力して神に成る(to become)ということはない。
That Iam. 我即神也を受け入れさえすればいい。何の許可もいらない。何の資格もいら
ない。何の経歴もいらない。That Iam
我即神也は実在するものであって、現にあるもの、久遠実成なるもの。
その神が四次元軸上を降臨すること、その神の降臨を受け入れることが悟りである。神を思い出すことである。自己意識という四次元軸での上昇、降下を司るのはすべて「私は、、、
Iam …」である。そこに管理し、時に顔をしかめる神はいない。
すべて自己責任の領域である。自由意志の領域であり、自己の尊厳の領域である。
啓示録Ⅰ 「在りて在るもの」 から

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わずかなストレスであろうと、自分のストレスの責任は自分で取ろう。
そして「消えてゆく姿」を行じよう。一瞬、責任を取る。そして、自分を赦す。赦すとは批判、非難、評価を下さないこと。
責任転嫁は小我の自己満足であり、神性顕現という天命の放棄である。
自分を赦すものは、人をも赦し、人からも赦される。
自分を愛するものは、人をも愛し、人からも愛される。
自分を赦すとは自分が神を顕わすことを許すこと。自分を赦すことによって、自分を愛することができる。
自分を愛するとは、自分の内に神を見ること。
それは「自分が神である」という自由な空想を自分に許すこと。
空想は想像であり、内なる世界の想像は外なる世界の創造を生む。
その創造によって、人は神性顕現を体験することができる。
自分を愛するとは利己的に見えるが、本心に向かった「利己的なものは神的である。」神的なものなくして、人類愛は生まれない。
自分の内に神を見て、自分の神性のイメージを刻むことは、生命の自己宣言である。
自分を祝福することである。自分を賛美することである。
それは欠けたるもの、不足しているものを満たすよう神に頼むという意識ではない。
それは、本来の自分は無限なる神性であるという宣言である。自分が自分の内に見たもの、認めたもの、信じたもの、、、自分がそれを体験する。
これが神の創造原理であり、想念の法則である。そして、これこそが真の祈りの原理である。
我々は自分自身が神であることを忘れた神の化身である。
我々が神を顕わす方法は、「自分が神である」という記憶・意識を思い出すことである。神性を思い出し、認めなおし、賛美することである。それが祈りであり、統一であり、印である。

真の宗教は上記の「反省・赦し・許し・想像・創造・神性顕現」のプロセスを進めるものである。特定の場所、像、行事、決め事、書物は絶対のものではない。
そのプロセスを進行させるものであっても、無くてはならないものではない。それらは手段なのである。まして、それらは人に制約を与えるものであってはならない。
手段より大事なもの、それはあなた自身である。手段より絶対的な権限を持つもの、それは神なるあなた自身である。あなたが自分の本当の姿を思い出すことがすべてである。自分を低いものとして、外なる神のご機嫌を伺う時代ではない。自分が神であると認めるだけだ。それには奇策は無い。秘伝も無い。条件も無い。取引も無い。昌美先生もこれ以上介入できない。自分だけの領域である。
自分が自分を神と認めるだけだ。あなたは即、神なのだ。

アンダーラインは引用“Selfish is Godish."RAMTHA the White Book

啓示録Ⅰ「赦しと許しそして想像と創造」から

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by mppoe-light | 2011-04-09 22:48 | ピタゴラスさん啓示録から

久しぶりの啓示録

前回の日記を書いているとき、 思い出したことがありました。

啓示録に載っていた、ナントカ菩薩が決意して、ナントカ如来になった・といったお話です。
ナントカばっかりで(- -;) 、スミマセン。。。。
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で、久しぶりの啓示録です。

  維摩詰の悟り

『煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これを宴座となす』

煩悩などというものは、断ずるも断ぜないもない。はじめから実際にあるものではない。人間が真実、実際に自己としてあるのは、本心、み仏の心があるだけなのだ。
そういうところがわからぬ統一では、分別心の統一であって、真実のものではない。
と維摩詰はいうわけです。
全く恐れ入った大悟徹底ぶりです。
                       ※


五井先生は三十年以上も前に、この聖句を解説された。その解釈は今日も新鮮である。
だが、さらに二十一世紀的な意義を探ってみよう。
この聖句は「我即神也」「人類即神也」とどう関連しているのか。先ず、この聖句は「業想念を浄めずして、神性を顕現する」と言い換えることができる。

「我即神也」の聖句的意味は次のようになる。
「私は、因縁因果とは関係なく直霊の世界に直入し、自由自在に神性を取り出し、善なるもののみを引き付け、光明の世界をこの肉体に顕現する。」

「人類即神也」の聖句的意味は次のようになる。
「私は、自らの因縁因果はさておき、直霊をこの肉体に招き入れ、肉体を発信用アンテナとして使い、人類が真理に目覚めるよう促す光明波動を放射する。」


業を浄めるのは三次元の行為である。三次元内のエネルギーの保存則は事実ではあるが、宗教的に深い真理ではない。と維摩詰は言う。

エネルギー保存の法則に捉われている限り、四次元世界に入れない。
四次元世界に入るには、「我即神也」の自己意識を高めるしかない。
浄め、徳を積む行為は重要ではあるものの、三次元世界の行為である。
したがって、それでは四次元の世界に入れない。一歩一歩歩む行為は重要ではあるが、四次元世界に入るには更に一歩進んだ、印・果因説つまり自己意識を上昇させると言う四次元軸が必要になる。

四次元軸を上昇するには、「我即神也」と「人類即神也」の二つが必要である。
「我即神也」なくして「人類即神也」には入れない。「人類即神也」なくして「我即神也」は完成しない。自分一人では3.9 …次元まで行っても四次元には届かない。我即神也を極めるには、自分のことはさておき、人類を真理に目覚めさせる使命を完うしなければならない。十万人の神人を作り、共磁場を創らなければならない。勿論、十万人で使命は完了するのではなく、使命はすべての人が救われるまで続く。

これはまさに、法蔵菩薩の神話(仏典)のテーマである。法蔵菩薩は自分の悟りはさておき、すべての人が救われるまで光明波動を送り続けると決意した時、阿弥陀如来となったのである。
この神話はある個人の体験ではなく、人類全体の過去の成功体験なのである。我々はこの成功体験を思い出し、現在に活用する事ができるのである。それは呼吸法の人類即神也の印を組む事である。この印を組もうとする時、あなたは法蔵菩薩であって、印を組んでいる時はアミダ如来なのである。阿弥陀如来たる本心が肉体を使って印を組んでいるのである。

凡夫―菩薩―如来の三段階は三次元世界の階段状の変化ではない。
この三段階は四次元軸上の変化である。テレビの放送局の変化のようなものである。テレビと言う受信機は三次元の肉体である。放送局の変化は波動=周波数の変化のことであり、自己意識という波動=周波数の変化である。自己意識の周波数を変化させるチャンネルは「私は、、、Iam,,,」である。

自分が自分をどう定義するのか。これが四次元軸上の上昇のチャンネルである。その実施方法が、宣言文・印・呼吸法である。会員はたとえ5分の間であっても、凡夫―菩薩(神人)-如来(神)を行き来する。四次元とはそいうものだ。
会員は、印の経験を積み、やがて四次元軸上で「我即神也」を固定させ、更にもっともっと高めることによって、肉体に神を顕現していく。これがやがて会員が体験するであろう神性顕現の原理である。

約700年前に「南無阿弥陀仏」と唱える凡夫の救われが説かれた。
その時代だけではなく、つい最近まで、否、今でも阿弥陀仏に縋りたくもなるかもしれない凡夫の人に印が伝授された。それは「我即神也・人類即神也」つまり「我即アミダ如来也・人類即アミダ如来也」の印である。印により凡夫が瞬時にアミダ如来に化してしまう。

人類即神也の印を組んで、アミダ如来に成り切ればいい。成ったつもりになればいい。人類に光明波動を放射し続ける気分を思い出せばいい。人類を赦し、愛し、慈しむ神なる自分を褒めればいい。三次元世界の凡夫のあなたと、印を組む神なるあなたとどちらが本物なのか。神なるあなたが本物だ。この原理を知るにつれ、やがてあなたは神を体験するようになる。成就。
mixiピタゴラスさん
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日本が平和でありますように 日本人の天命がまっとうされますように
日本人即真理也 日本人即光也 日本人即愛也 日本人即叡智也 

世界平和のために日本人のことを真剣に祈るようになって、
今年届いた新年の指針のことを思い出しました。

「人の幸せだけを願っていれば、いつか必ず自分の幸せが訪れるものである」

指針を見ながら、 こういうことだったのかな・・・と思いました。

我即神也を極めるには、自分のことはさておき、人類を真理に目覚めさせる使命を完うしなければならない。十万人の神人を作り、共磁場を創らなければならない。勿論、十万人で使命は完了するのではなく、使命はすべての人が救われるまで続く。

人類即神也 大成就
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by mppoe-light | 2011-04-06 19:44 | ピタゴラスさん啓示録から

3日富士での唱和から

mixiピタゴラスさんが、コミュニティ[白光の言葉]に載せておられた唱和から。

『地球そのものを破壊尽くすような大震災に自らの器を捧げ、率先して人類救済を担った日本の神魂に無限なる感謝を捧げます。神魂さん有難うございます。』

『もうこれ以上地球人類に空気汚染・大気汚染・海汚染、植物や動物すべての生けとし生けるものを通して、真理に目覚めさせるようなことをしなくて結構です。これからは私たちが代わって真理を人類に伝えます。原発さん今までその働きを与えて下さって有難う。もう大丈夫です。もうこれ以上汚染しつづけないで下さい。私たちが代わりにいたします。』

『原発さん有難うございます。もうあなたの働きは終わりました。あなたの天命は完うされました。もうこれ以上人類に破壊を示さずとも、私たち神人がその代わりに人類を真理に目覚めさせます。原発さん有難うございます。』

『日本は世界平和の象徴。平和の型。神人は神霊意識を創る大天命を持ち、世界に先駆けて、日本から真の神霊復活が始まる。すべて神人に委ねられている。宇宙神・五井先生・大光明霊団、私たちは誓います。必ず地球を平和に致します。お任せください。』


以上の文言はいずれも4月3日の行事で唱和したものです。
(省略)
自分たちの天命をもっと理解すべきと感じた。
『必ず地球を平和に致します。お任せください。』


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これを読んで、自分が、平和への責任感が浅いことを発見してしまいました。
心の底から 『必ず地球を平和に致します。お任せください。』
なんて思ったことはありません。それどころか、
「自分にそんな責任が持てるんだろうか・・」と驚いたくらいです。
これが、私の欠けている部分なのかもしれません。


毎日、祈り、宣言し、神語を語り、印を組みます。

我即神也  
『私』は光から来た者、私は神そのもの、 『私』はどこであろうと、いつであろうと肉体を持ったまま神の姿を顕すばかり、『私』には過去はなく、カルマもない。
『私』は光だけですべてを描ききる、『私』が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界。

大いなる人生の目的地へ向かうためには 「果因説&我即神也 でいいのだ!」と思っていたけど、 
我即神也=人類即神也 
人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、・・・・
それも人生の目的地へのプロセス。
なぜなら、
私が神であるとき、人類も神。人類が神であるから私も神そのもの。
私と人類とは別々に分離することのない存在だから。

と、、、こんなことを考えていたら、 急に泣けてきてしまいました。
悲しいからか、嬉しいからなのか・・・??????


五井先生は講話の中で「みんなが救世主になる、そしてみんなが働く。」と言われました。

大いなる人生の目的地へ向かうためにも、自分の天命をちゃんと理解しなければ、
 と思っているところです。
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by mppoe-light | 2011-04-04 22:37 | 真理について思ったこと