うさぎ・うさぎ・うさぎ・・・・☆

今年もあとわずか・・・
来年は兎年です。
なので・・・・
教室の教材も、うさぎを。

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みんなに喜んでもらえたので・・・・

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たくさん作って販売用に。 

ついでにこれも・・・
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6個のつもりが・・・10個も作ってしまいました。(ーー;)

教室をやっているお店のギャラリーで来月15日から作品展示&販売をやります☆
販売用にもう少しマスコットを作っておいたほうがいいかなぁ・・・。

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by mppoe-light | 2010-12-30 23:00 | 人形作りの話

今月号の指針を読んで☆

c0074000_22204497.gif今までとちょっと違うような・・・
先月までは、因果説っぽい指針でしたが、
今月号は、一気に果因説に突入? した気がする・・・。
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今月の指針から
“自分自身が自らの人生における重要な意志決定者である。”
“今のこの瞬間を我即神也に集中して生きるべきだ”


今、この瞬間、次の瞬間、今、自己意識は「我即神也」 
そしてそれは、「人類即神也」
過去や未来に執着しやすいので(無限なる能力)流されないよう気を付けたい。。。 


“常に自らが完全な状態、そして欠けたるもの一切なしという状況を強くイメージしつづけることによって、その通りの現実が創られていく。”

そして
言霊は威力!
科学的なことは分かりませんが、神語は効きます、そう思う☆ 

宇宙は、自由意志、自由選択 そしてすべて自己責任。
でも、
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも、そして
どんな人であろうとも、いかなる人であろうとも、
どのような姿を表現していようとも
本来、 我即神也 人類即神也

我即神也 私は神、私は光輝く神そのもの、
私は光から来た者、光を形に顕す者。
これをド根性で持続せねば。。。と思う私です。
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ピーさんの最新啓示です。 ↓

神の愛と自己宣言  
徳を積もうとしているとき、あなたは自分自身を愛していない。あなたは神の愛を疑っている。むしろ、あなたは自分を憎悪し、罪悪感を引きずり、神に愛される値打ちがないと自己を低く評価している。あなたはその状況から逃れる為の足しにするつもりで、徳を積もうとしているのだ。

誰もが自分自身を知るべきだ。宇宙神の愛は無限なる愛で、無条件の愛だ。あなたは宇宙神に無限にかつ無条件に愛されているのだ。宇宙神はあなたをこよなく愛しておられる。あなたの存在を「よし」と見ておられる。
過去がどうであれ、あなたは宇宙神の愛に値する存在なのだ。宇宙神のあなたへの愛は留まるところがない。その愛を遮るものもない。あなたはその愛を思い出せないだけだ。その愛に意識が向かなかっただけだ。宇宙神の愛はあなたを慈しみ、あなたに幸せと健康と繁栄を注いでおられる。
その神の愛を認めることは、自分自身を愛するということだ。
宇宙神が分霊を愛するのに、何かを要求されたことはない。「カルマを祓え」と言ったこともない。神は「いつでも、どこでも私の愛を受け入れるがいい」としか言っていない。

 完璧な神とその完璧な子供の関係に思いを馳せてみよう。宇宙神の子はいつも、愛され、幸せで、歓びに溢れている。あなたはその子供だ。その血統を一瞬忘れただけだ。償う何かがあるのではない。支払うべき負債があるのではない。神に嫌われるようなことをしたわけではない。その血統の素晴らしを理解するために、あなたは自分の血統を一瞬忘れただけなのだ。今、その血統を思い出すのだ。思い出しさえすればいいのだ。

 宇宙神をなだめて、喜んでもらう必要はない。神は幸せそのものだ。あなたも幸せそのものだ。自分自身を思い出すこと。自分自身に対する見方を正すこと。そして、真の自分を宣言することだ。「我即神也。我即愛也。我即光也。我即生命也」と宣言しつづけることだ。
宣言は真の自分自身を内から呼び出すことだ。宣言は最も現実化すべき面を意識することだ。宣言によって、神を演じることができる。神のように振舞うことができる。神の姿を顕現することができる。
 自己宣言は必ず実現する。イエス・キリストは「我は光である。我は真理である。我は道である」と宣言して、その通りとなった。宇宙神は「私は在るものである」(I AM that I am.)と宣言されている。あなたが人生でなすべきことはただ一つ。自分が何であるかを思い出し、それを宣言することだ。「我即神也」を宣言しつづけることだけだ。

 「神界に厳然と存在する」あなたの本心はいつも宣言している。「私は宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり」と。あなたもそのように宣言すればいい。「私は宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり」と。あなたがこのように神を演じるとき、あなたは神そのものを顕わしている。神性が現象化しているのである。これが自己意識を使った真理である。言霊の威力である。果因説の科学である。

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宇宙神はこよなく私たち一人一人を愛してくださっている。
その宇宙神の愛を認めることが、自分を愛すること

私たちは常に愛されている、それも無限の愛で。
自分を愛し、人を愛す
我即神也 人類即神也
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by mppoe-light | 2010-12-28 22:26 | ピタゴラスさん啓示録から

「もっと光を!」 とかなんとか・・・

↓ 以前にも載せているものです。久しぶりに目を通したら面白かったので・・・☆ 
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肉体界だけでなく、幽界にも自己の想念がある。霊界にも自分自身が存在する。『神界には、神としての自己自身が厳然として存在している。』(「霊性の開発」)
 
 『無限なる能力をどのようにして引き出してゆくのか。それは、自らの内に厳然として存在する神そのものを認めることによって、成り立つのです。』99-1 P.10

 『生きるとは。自らの内奥に厳然と存在する神意識「我即神也」へと目覚めてゆくことである』。2008-2 P12

 五井先生がよく言われたことは、「本心と業想念を区別する」ことであった。その方法は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」であった。それは『本来の自己を認識し、今までの否定的、習慣的自己意識を徹底的に覆し、変えてゆく方法』(2001-7)であった。
 この自己認識=自己意識というものが宗教の本質なのである。この自己認識は一般科学、一般常識が通用しない領域なのである。

 肉体、幽体、霊体、神体にそれぞれ自分自身がいる。同時に様々な自分が存在しているということだ。自己意識にはこの多種多様な自分自身が、次から次へと写ってくる。
自己意識は訳も分らず、写ってきた自分の姿を自分だと想いつづける。この無節操な自己意識に、「我即人間也」を手放すよう仕向けて、『我即神也』を思い出させるのが宗教の本質である。

 一人のはずの自分が、同時に何種類も存在している。しかも、今まで自分と想ってきた自分とは、似ても似つかない『神我』の自分だけが本物で、残りは幻影に過ぎない。幻影でない『神我』は「厳然として存在している」。これらの真理は深遠で、人間知では納得しずらいものである。

西園寺会長は、その『神我』を、認めるよう要求しておられる。

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c0074000_2332274.gif『神我』の自分だけが本物で、残りは幻影に過ぎない。
今やるべきことは何か、はっきりしてくる。 果因説、我即神也。

生年月日、性別、国籍、本籍地、親類縁者、年齢、あらゆる経歴、癖、罪業、善徳、過去世。これらのパーソナリティそのものが「消えてゆく姿」である。残るもの、消えざるものは『神我』のみである。厳然と存在しているのは『神我』のみである。
ところが、パーソナリティの自我を神我に近づけようとするから、宗教はアヘンのようになる。自我はいくら鍛えても、神我になることはないのである。この二つは、別世界にある別物なのである。自己意識が錯覚を起こしているから、真理が見えてこない。

 この『神我』を観念論でとどめることなく、現実世界に引き出すには何が必要なのか。自我と神我が対立するような関係になれば観念論の域を脱することはない。自己意識の世界に二元論はない。同時に様々な自分が並存していても、真実の自分は唯一つなのである。自我と神我は別世界のものである。『神我』に印を組ませ、呼吸をさせ、神語を語らせるのである。これが、別世界を呼び出す有効な方法である。これが、別世界のスイッチをオンにする方法である。

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二元論の思考にすっかり慣れてるもんだから、、、気を付けないと 因果説に逆戻り?、 
うっかり消えてゆく姿という赦しの言葉に、逆に縛られて自分を責めてしまったり、、、
「もっと光を!」 とかなんとか言いながら(^_^;) 我即神也へ転換。

 『私は愛深く、慈しみに溢れている。私はすべてを赦し、すべてを創造することができる。私は神聖で、純粋で、欲がなく、崇高である。私は高貴に輝き偉大である。』

 神になったつもりで、このような神語を口にするのである。神になったつもりで、印を組むのである。神になったつもりで、呼吸法をするのである。この果因説は必ず成就する。この言霊は必ず成就する。神語によって真理を思い出すのである。
 人の言動が「厳然と存在するもう一人の自分」を忘れさせるのか。否である。自分がしっかり「厳然と存在する神我」を掴んでいないだけだ。自分がこの「厳然さ」を意識すればするほど、自分は現象界から解放される。さらに、現象界に「厳然たる神我」を顕現しようと言う気持ちが涌いてくる。

↑ピタゴラスさんの“厳然たるもの”から

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人の言動が「厳然と存在するもう一人の自分」を忘れさせるのか。否である。自分がしっかり「厳然と存在する神我」を掴んでいないだけだ

そーなんだよぉ~ 本来、自分の外側には何の力もない、自分(自我)がそう思い込んでいるだけ。
自分が本当の自分(我即神也)を忘れた分だけ、外側の事象に流される。

我即神也 我即真理也  私は光から来た者、光を形に顕す者。
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by mppoe-light | 2010-12-23 23:36 | 真理について思ったこと

宇宙は自由意思、自由選択で・・・

宇宙は、自由意思、自由選択、で・・・自己責任

と言ったのは、松尾みどりさん☆(だと思う・・・)
もうかれこれ10年以上前に聞いた言葉だけど、

宇宙の法則はとってもシンプルなんだなぁ・・・と思います。
すべて自由、そして結果は必ず自分が受け取ることになってる。
自分の意識の在り方が結果となって(形として)手元に届く、ということで
自分の創造したものを常に確認することができる。
そういう仕組みになっている。
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人類はその自己の信念を体験しながら、軌道修正しているのである。
なのに、自分が体験する出来事は、自分とは全く関係なく自分はその被害者・・・なんて思って責任転嫁したり、 または自分を責めたり・・・・・
う~ん、せっかくの軌道修正のチャンスなのに。。。
真理を学ばないで生きる生き方は、危なっかしいし、もったいないなぁ・・・ と思う。
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自分自身についての信じたことはすべて現実化する。これは『空の約束事』であった。
何を信じようと『神なる自分』はすべてを思いのままに創造することができる。神に備わった無限なる創造力と自由、供給である。その力は生命の働きそのものである。
 そこで、何も確たる信念がなければどうなるのか。平々凡々たる人類の平均値の人生が現れてくるわけではない。余計な自我の信念が、全くなければ、人は神の姿を顕わすばかりなのである。これは本来因果であり、果因律であり『空即是色』である。絶対力、神力の世界である。


この説明はありがたかったなぁ☆ 
人間は本来神の分御霊、繰り返しそれを認めねば・・・☆


 しかし、自我をなくすのではない。自我と格闘し、自我を滅却することは自力の道である。この道は困難を極める。自我は無限なる創造力を利用し、『空の約束事』を利用して、自分は神ではないという信念を現実化させている。人類はその自己の信念を体験しながら、軌道修正をしているのである。人生の中では、「消えてゆく姿」も「神性顕現」も自分で起こさない限り、何も起こらない。自分で起こしたことを体験する。これも『空の約束事』だ。

では、いかにして、絶対力、神力が働く状況を顕わしてゆくのか。神性を顕現してゆくのか。それは「我即神也」の信念をもって、「我即神也」を思い出してゆくのである。「我即神也」に目覚めてゆくのである。気づいてゆくのである。
自我の業を浄めるのではなく、『もう一人の自分』に焦点を合わせてゆくのである。我々が真理に基づき、自分が誰であるか、『もう一人の自分』が何であるかを宣言しつづけるとき、『空』の原理は「空即是色」として機能する。我々は「我即神也」の真理、神性を現実世界で体験するのである。


自分の意識を内側の神さまに向かって統一していくと、
(って、こんな風に書くと大げさですが、) 
たとえば本心のつもりで神語を読んだり、神意識となったつもりで
印を組んだりしてみる、 すると意識は、歓喜、感動、広がり、豊かさ・・・(言葉でうまく表現できないけど) 広がりを感じてきます。 
その時の私は、歓喜、広がり、豊かさを法則の通りに創造しているのだろうと思う。

『私』は光から来た者。『私』は神そのもの。『私』はどこであろうと、いつであろうと、肉体を持ったまま神の姿を顕わすばかり。『私』には過去はなく、カルマもない。『私』は光だけで、すべてを描き切る。『私』が描く世界が、五井先生の説かれた平和の世界。
『私』は神。創造主。どんな場であろうと、『私』が「消えてゆく姿」と宣言した瞬間、小さい私は消え去り、『私』が蘇る。『私』の言葉は言霊。言霊はすべてを創造する威力(注2)。

光が形となると愛、真理、叡智、健康、幸せ、喜び、若さ、豊かさ、、、となる。『私』は言霊を使って、自在に光を形に顕わしてゆく。『私』は神だから自由自在。神の光には限りがなく、遮るものがない。

注2  「言霊は威力です」2010/10/03富士聖地

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『私』が「消えてゆく姿」と宣言した瞬間、小さい私は消え去り、『私』が蘇る。、
この言葉にはお世話になっとります。

そして、神語として印を組む前などに・・・ 

私は光から来た者、光を形に顕す者 

と宣言。
今この言葉が気にっています。


 宇宙神の光は地上にあまねく降り注ぐ。
どんな自分であろうともいかなる自分であろうとも、本来我即神也、人類即神也

私は神の光を形にする、宇宙の子、創造者です☆
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by mppoe-light | 2010-12-16 23:21 | 真理について思ったこと

自分を空しくする こと

「自分が無いということが一番のんきだ」

と、五井先生は仰ってました。
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自分をなくす、自分を空しくする、 
自分がなければ目に入る現象に捉われなくて、らくちんで、
いいだろうな~と思ってた時、自我と真我のことを思い出しました。

以前は、自分をなくすってことをあまり深く考えて事もなかったので
意味も分からないままでしたが・・・

自分をなくす、空しくするということは、 
つまり消えてゆく姿にする ということで
それは
自分が消えてなくなってしまう・・・ということじゃなくて、
それまでの(過去の)自分を消えてゆく姿と認めた瞬間、現れるのが 真我 つまり我即神也。
ということ。

あー、そういうことだったのか~。。。 なるほど。今やっと納得したよー!(^_^;) 気づくの遅いけど

そういえば、五井先生は 「天命を信じて人事をつくせ」 と言われました。
天命を信じると、天を信じることとは 自分が神と繋がっているということ、
つまりは
自分の神性を信じることに(我即神也)。
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こんな風に五井先生の教えの言葉を思い出してみると、どれも我即神也につながっていて
なるほどなぁ・・・と思う。
カルマの自分は消えてゆく姿として断ち切り、とにかく自分の神性を信じる、神性を認める、本来我即神也と意識する。それが全託なんだ。きっと。

我即神也、人類即神也 
真理!
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mixi拾い写真☆↑
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by mppoe-light | 2010-12-12 22:25 | 真理について思ったこと

あちらの「私」と こちらの「私」

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自分と、神意識(我即神也) は、自己意識「私」によってつながってる。 これは、
神意識「私」から見れば、、、意識を3次元世界まで伸ばしている・・・といえるかも。。
だから、
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも 常にいつも
私たちは本来、我即神也 人類即神也 ということ。
そして、それを顕すためには、まず自分がそれを認めること。

どんな自分であろうとも
現れた姿(体験する現象のすべて)は、自分の意識の結果。自己意識の結果。
よって人生は自分の人生に対するイメージの結果 だから。
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真理の鍵を握っているのは、いつも『自分』である。真理の核心は、いつも『自分』についての認識である。
自分が変われば、自分の世界も変わる。自分の意識レベルを高める。波動を高める。これらはすべて自己認識の問題なのである。
 一般的に、人間は因縁因果の自分を見過ごすことはない。そして、神そのものの自分を見過ごしてしまっているのである。
赦しとは、因縁因果の自分を消えてゆく姿と見過ごすことである。愛とは、神そのものの自分を自分として見過ごさないことである。

↑“見過ごす見過ごさない


変わらなければならないのは現象ではない。自分が自分をどう見るのか。その見方を変えるのである。自分の自分自身を見る見方が変われば、現象は変わるのである。自分を赦し、自分を愛し、自分を神と認め、神と崇め、神と讃えるのである。

究極の真理は「我即神也」なのである。自分を神と認めないから、神とは異なった姿が現われるのである。神とは違った姿を体験するのである。現象の(過去の)姿から目を離し、自分の「真の姿」「神の姿」に思いを馳せるのである。

↑“見えるものの彼方に


だけど・・・
カルマを残している自分が神の姿を顕すことが本当にできるのだろうか?
カルマを残したまま 我即神也 を受け入れたら 思い上がった人間になって、
歯止めが利かなくなってしまうのではないか・・・。
と、以前は無意識にそう思っていたけど、

神だから愛深い、神だから慈しみを持っている、神だから神聖で、純粋で、清らかで、美しい。
神だから大丈夫。
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カルマは、それを作った主人の元に帰って行くエネルギーである。我即神也になるとは、カルマを受ける主人がいなくなることである。カルマがあっても、その主人がいなくなってしまえば、カルマの意味はなくなる。この果因説の原理は、カルマの浄化という因果説の原理とは異なる。

↑“カルマと神性顕現

3次元の現象界の世界に肉体を置いていても、
消えてゆく姿の私の世界と 我即神也の私の世界は別の世界。自己意識の高さが異なれば、
異なる世界が広がる。 異なる世界をつなげるのは、自己意識「私」。
「私」が何を信じて何を受け入れるかで、住む世界が別れる。別の世界が展開されていく。

五井先生は、守護霊さま守護神さまに感謝しなさい、「五井先生!」と呼びなさい と
言ってくださいました。 まだ幼くて 光のレールに乗るためには保護者が必要だったので、
守護の神霊 あるいは五井先生と呼ぶことで、 光のレールに乗せてもらって、本心(我即神也)にまで意識がとどくようにして下さったのだと思う。。 
今は自立できるところまで来たので、自分でレールに乗って、意識を神意識につなげる

世界人類が平和でありますように 我即神也 人類即神也


あちらの私は神意識の「私」 こちらの私は、肉体側の今の「私」
自己意識「私」を通じて、二つの「私」を一直線に統一し、神意識の活動を地上に顕現する。
それが生命の本来の目的。 大きな役目を担っているようだけど、
その役目は きっと感動と喜びに溢れたものになるのだろうな・・・と思う。

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by mppoe-light | 2010-12-05 09:30 | 真理について思ったこと