姓名での宣言☆


朝の神事が始まったとき、少し気になる部分がありました。

「・・・・に、本名○○○即神也を顕現す」です。

名前は過去世の因縁を現しているのだから、本名の私は消えてゆく姿の自分、神から離れていた頃の私を現している、
これからは過去の自分(本名の自分)とは違う新しい「私」を顕現していくんだ・・・
と、思ってました。
ですから神事の宣言に 「○○○即神也を顕現す」を見た時は、少し戸惑ってしまいました。 

「消えてゆく姿を現している自分の名前で宣言したくないなぁ・・・」と思いました。
“我即神也” なら受け入れたのですが、 “自分の名○○即神也” は
宣言をするのに抵抗がありました。

とは言っても、、、

「これからは肉体の私(姓名の私)を通して 我即神也を顕現していかなかればならないのだし、神事なのだから ま、いいかぁ・・・」と、
それ以上はこだわらず、考えず、朝の神事を続けていました。
(あっさり考えるのを止めるところが私の私らしいところ・・・か(笑)

それから1年以上も経って・・・

朝の神事を行なう前に、ピタゴラスさんがmixiで紹介しておられる、神性を認める宣言を声を出して読んでいるのですが、(他にも車の運転をしてるときや、一人で居るときに、
もごもご・・・ぶつぶつ・・・喋っている 我即神也 我即真理也 我即愛也。)
その時に、
“我即神也” なら素直に言えるのに、“自分の名○○即神也” では、
今でも抵抗感があることに気づきました。

「なんでだろ・・・か」(;一_一)
その後、お祈りしながら
「やっぱりまだ自分自身を完全に赦していないから、愛してないからなのかな・・・」と気づいて・・・・
で、
まあ、やっとここまできて、
“自分の名前○○即神也”について きちんと考えてみようと思いました。 
(朝の神事が始まってから一年以上も経って、やっと。。。)(~_~;)
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五井先生の「神と人間」 の問答編から

姓名学は、出産児の名前をつける時ぐらいにしておいたほうがよいのであろう。
名前など変えなくとも、自己が、自己の長所、短所をよく識って、その長所を伸ばすことに真剣になることによって、運命は変わっていくのである。
まして、真の信仰に入った人などは、そうした姓名学の範疇から超越してしまうのである。
汝の運命を、汝のうちにある神に一任すべし、と私はいいたい。
自己に荷せられた運命なら、いさぎよく受けようと、いう勇気こそ、その人の運命を切り展く、最大の力なのである。人間よ勇気を持て、である。


そうだった・・・!

もっと早く読んでいれば良かった・・・。(^ ^;) 

“真の信仰に入った人などは、そうした姓名学の範疇から超越してしまうのである。”
うっかりしてました。

因果説を超越した果因説に取り組んでいながら、まだ過去を掴んでしまっているようです。
 自分を赦し愛しきっていないのだなぁ・・・ う~。

粘り強く続けねば・・・。

<私は神だから愛深い。神だから慈しみをもっている。
神だからすべてを赦すことが出来る。
神だからすべて自分の欲することを創造してゆくことが出来る。
そして神だから神聖で、純粋で、欲がなく、崇高であり、神だから高貴で光り輝き、偉大である>

我即神也 我即愛也、我即真理也 我即光也

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by mppoe-light | 2010-04-30 21:59 | 真理について思ったこと

語る“自分”を意識する。


昌美先生の2月の富士での法話から

「どういう自分が語るのか。無意識に生きてきた自分が語るのか。過去にとらわれている自分が語るのか。そうではなく、神を顕現した“我”が語ると意識するのです。
無意識の普通の“私”は欠点だらけの相手を見ますが、“我即神也”の“私”は見る相手は“人類即神也”なのです。
 我即神也の自分は全部愛ですから、相手からの理不尽な言葉も吸収して光に返し、痛まないのです。」

過去に力を与えない
「自分は難しい試験に受かって他より優れているというエゴイスティックな自分。ブランドの洋服を着ることによって私は勝っているという気持ち・・・・・。
そういったことを思い出し語るとき、そこに自分の力を与えてしまうのです。そうすると、自分のエゴが喜び、人を責め、過去へと戻っていってしまいます。

過去の出来事、物などを思い返し、“過去”に力を与えてしまうことによって、今を生きている自分の人生にストップをかけ、自分自身を不幸にしているのです。

“過去”を自分の心から話すことによって輝かしい未来は創られていくのであり、それが五井先生の“消えてゆく姿”の教えなのです。」
<白光誌 4月号から>

今、我即神也 我即愛也 我即真理也 我即光也
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by mppoe-light | 2010-04-25 11:06 | 真理について思ったこと

現実世界を再創造♪

久しぶりに・・・これ☆

 イエス・キリストが示したのは、人類一人一人の『我』についての真理であった。真理はこれに尽きる。あらゆる苦悩の原因はその真理を知らない無知だけである。無知は『我』についての誤解である。人類はそれを習慣にしてしまったのである。
この習慣から抜け出すために万全の方法・環境がそろった。祈り・印・呼吸法・果因説・四次元・チャクラ・神語等である。
 少しでも豊かになる。少しでも能力を開発する。少しでも体にいい物を食べる。体にいいことをする。少しでも健康になる。このような努力は因果律の世界の努力である。
なすべきは果因説の努力である。真の努力は『正しい認識』の努力と『神語を語る』努力である。『正しい認識』とは自分の神性を認めることである。自分の神性は、『自分が認めさえすれば、無限に溢れ出て、無限に実現してゆく。認めなければ何も顕われない』(注1)。

神語を語るとは自分の神性を称え、宣言すること。認めた神性を言葉にしてゆくこと。それは過去と決別すること。それはチャクラを作動させること。それは現実世界を再創造すること。

少しでも、少しでもと因果律で求めるものは、最後まで得られない。「我即愛也、我即叡智也、我即健康也、我即歓喜也、我即幸福也」と果因説の神語を宣言してゆく者は、それを顕わす。『祈るなら、既にそうなっていると信じなさい。その通りになる』(注2)と言うのは、果因説による神語の祈りのことだったのである。

「我即健康也」の宣言にすべての細胞は喜んで従おうとするのである。重要なのは食べ物、飲み物ではない。言葉なのである。『外から入って来るものは、人を創らない。人の中から出てくるものが、人を創るのである』(注3)とは、因果律の物質的努力ではなく、果因説の神語の効用を含んだ話であった。

注1  白光誌1997-2 P.17    注2  マルコ伝11-24
注3  マルコ伝7-7参照

<ピーさん>


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で、ここで、21日にも書いた昌美先生のお話をもう一度・・・


努力とは、能力を得るためにするものではありません。
過去の自分の習慣を超えるためにするのです。
なぜなら能力はみな、溢れるほどあるのです。お金も健康もあるのです。

どこで過去の自分に訣別するのか。
皆様には叡智、光、真理があるのです。本当に素晴らしい光があるのです。
素晴らしい力を持っているのです。それを信じた瞬間、過去の自分に訣別できるのです。
<4月号 昌美先生のお話>


過去の習慣を超えるためにする努力は

真の努力は『正しい認識』の努力と『神語を語る』努力である。
『正しい認識』とは自分の神性を認めることである。

どうやって過去の自分と訣別するか、
 
神語を語るとは自分の神性を称え、宣言すること。認めた神性を言葉にしてゆくこと。それは過去と決別すること。それはチャクラを作動させること。それは現実世界を再創造すること。

「我即健康也」の宣言にすべての細胞は喜んで従おうとするのである。重要なのは食べ物、飲み物ではない。言葉なのである。


あれこれ考え込む前に、

この習慣から抜け出すために万全の方法・環境がそろった。祈り・印・呼吸法・果因説・四次元・チャクラ・神語等である。
なるほど、納得☆ ラジャー!

重要なのは言葉。 自分を、世界を創造する言葉。
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by mppoe-light | 2010-04-23 11:30 | ピタゴラスさん啓示録から

横の「私」と縦の「私」

縦と横が何かってことは、 さらりとカットしつつ・・・
(五井先生の「神と人間」に出ている 図をイメージして頂けるといいかな。。)

本心と業想念の「私」
果因律と因果律の「私」、
新しい(本来の)自分と過去の自分・・・ということについてなのだけど、、、

横の因果律に生きる過去の自分と、縦の果因律の新しい(本来の)自分・・・・

縦の生き方は、瞬間瞬間が新しい「私」、過去がない「私」で、
自己の意識軸を上昇する「私」、
横の生き方は、過去の体験や思い込み観念によって作られた自分を演じて生きる生き方。

昌美先生が 何度も何度も何度も「過去はない」と言われるのが分かります。
過去を認めると、意識は因果律に入ってしまい、自己意識の上昇がおろそかになる。。

縦に生きることが ゼロ次元の今 ってことか・・・。・・・
ずーっと「今」が続く。それは、瞬間瞬間が新しい「私」なのかも。
「今」は次の瞬間には過去になるけど、
「私」と神さまは、いつも「今」 の関係。

とかなんとか、ぼーっと思う私です・・・。

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4月号の昌美先生のお話

どこで過去の自分に訣別するのか。
皆様には叡智、光、真理があるのです。本当に素晴らしい光があるのです。
素晴らしい力を持っているのです。それを信じた瞬間、過去の自分に訣別できるのです。
 
努力とは、能力を得るためにするものではありません。
過去に自分の習慣を超えるためにするのです。
なぜなら能力はみな、溢れるほどあるのです。お金も健康もあるのです。

習慣の想いをカットできれば、自然に本来の輝いている姿を現すことが出来ます。

誰しもに平等に与えられている光、叡智を閉ざしているのは、自らの過去の習慣の想い以外にない、ということを知ってください。


意識が横に広がるのをやめて、縦の意識で、さらに上昇できるように、
習慣の想いから抜け出すために、
倦まず弛まず祈る、果因律で我即神也、我即真理也、我即愛也、我即光也。
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我即神也にしっかり定着したとき、”神人”の人が取れて、 「神」 になるってことかな?
消えてゆく姿は、 完全に我即神也に定着するまでの・・・ ことなのかも。
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by mppoe-light | 2010-04-20 22:28 | 真理について思ったこと

あるのは自分と神との関係で。。。

神性は認められることによって、顕われる。
 神性を認めることが先か、想念・行為に顕わすことが先か。この問いは、意識が先か、現象が先かの問いである。三次元に閉じ込められた、因果説では想念・行為、物質界の現象が先なのである。しかし、絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
  四次元果因説とは、『自己の神性を認める』ことに全力を尽くし、
現象と言う結果については全託する道である。


今後の世界に今までとは全く異なる違いを創り出すのは、何か。
それは、深い確信を伴った『我即神也・人類即神也』である。

我即神也
我即光也
我即愛也
我即真理也
 意識がこの言霊に浸っている限り、そこにはいかなる災いも入り込むことはできない。
波長が合わない。波長が合うのは歓喜、喜び、幸せ、平和、生命だけである。

<ピタゴラスさん日記より>

「深い確信を持って自己の神性を認め、結果は全託する
意識が 我即・・・・という言霊に浸る」

その時、意識は開いているんだ・・・言霊に浸るという表現はいいな♪♪
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どんな生き方も、自分の世界が(意識が)閉じているのか、開かれた自由なスペース状態か、そのどちらか。
自分が発したエネルギーが自分に戻るという法則において、すべての人は平等で、そしてみんなに世界を創造する力が備わっています。
本来、言葉は会話をするためにあったのではなくて。
自分に向かって語ることで世界を創造するために使われていたのだから、

“我即神也、我即愛也、我即真理也、我即光也・・・” 
忘れていた神性を思い出すために、自分に向かって語ります。
もう一度 自分を初めから創造するつもりにでもなれば 面白い☆

自分の過去、現在について、自分以外の誰かに申し開きをする必要などないし、 
あるのは自分と神との関係だけ。「私」と神のことだけ。
遠慮はいらない。
“我即神也、我即愛也、我即真理也、我即光也・・・” 
堂々と悠々と自分に語っていけばいい。

・・・・と、思っています。
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by mppoe-light | 2010-04-16 21:41 | 真理について思ったこと

原始の宇宙、古すぎ?

先ほどTVで「ハッブル宇宙望遠鏡・原始の宇宙の撮影
をやってました。その中で・・・
日本の学者さんが、コンピューターで7年をかけて計算したものを
CG化した映像が写されました。 それを見ていて リモートビューイングを
思い出し ものすごく久しぶりに 足立育郎さんの形態波動のページへ
いってみました。 新しいものが更新されてないかなー と期待したのだけど
まーったく同じものでちょっと残念。 残念と言うよりこんなんでいいのかなーと
思ってしまうほどで、 もともと研究内容は理解できないのだからいいのだけど(笑)
ちんぷんかんぷんで考えるのもつらい。。。(^_^;)

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絵を見て(今になって)気がついたのだけど 宇宙の成り立ちの年数がものすごく古い・・・
この年数は正しいものなんだろうか????
9844億年前 最初の銀河系誕生 とか
544億年8453万年前 12回目のビッグバンとか・・・・
そんなことってあるんだろうか・・・??????

かなり前ですが、育郎さんの講演会のお話は面白かったし、育郎さん自身も良い人だなーと思いました。http://www.ifue-finf.jp/true_earth/true_earth_j.html
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by mppoe-light | 2010-04-11 23:28 | 真理について思ったこと

認識の旅

おすすめ☆ お読みください♪


認識の旅

『人類一人一人に与えられている使命は、自分の内なる神そのものを探求し、認識することのみである。』白光誌2001-8 P.8

 『人類すべての人々を人類即神也と受け止めることが出来た時、もはや自分の過去の一切の因縁は消滅したのである。』2001-8 P.20
 
 『決して観念論であってはならない』(注1)のだが、先ず初めになすべきことは『自分の内なる神そのものを認識する』ことであり、人類を『人類即神也と受け止める』ことである。
 「観念論ではない」と言うことは、真理には神性顕現が伴うと言うことである。
しかし、ここで重要なことは「我即神也」の場合、「自分の神性を認める」→「神の姿」を顕わすと言う順序である。「人類即神也」の場合では、「人類の神性を認める」→「自分の因果律の消滅」→「我・人類の神性顕現」と言う順序になる。

 「我即神也」「人類即神也」。この真理はもともと奥が深い。この真理を疑い、否定する習慣が染み付いているからだ。しかし、それ以上に強烈に我々の存在そのものが神の光によって貫かれている。この真理を倦まず弛まず認めつづけるしかない。そのためにも、神語を駆使して、「我即神也・人類即神也」を様々な角度から、語りつづけてゆくのである。

 人間の習慣として、「神の姿の顕現」→「我即神也」という順序でないと納得できない。「神の姿ではない」→「我即人間也」という習慣の想いが根強いのである。「神の姿でない凡夫の姿」は何年継続しようが、すべては「過去」である。それについて、神々は「消えてゆく姿」として赦しに赦されているのである。

「我即神也」と言うならば、それを顕わしてからにしなさい。西園寺会長はそんなことは一言も言われていない。
「我即神也を思い出す」のですよ。「我即神也に目覚める」のですよ。「我即神也を認める」のですよ。
「自らの内に厳然として存在する神そのものを認める」ことによって、「内なる神性を引き出すのですよ」。
自分の内に存在する「我即神也」を知ることによって、「神の姿を顕現させてゆくのですよ」と会長は繰り返しておられる。「自らが自らを神と認めた瞬間、神と成る」(注2)のである。

「我即神也」と「人類即神也」は、人間社会において人間が社長に成るとか、議員・大臣に成るとか、競技の代表選手に成るのと全く意味が違うのである。それらは因縁因果の世界の話であり、条件が整って成就する世界の話である。三次元世界の話にすぎない。それと違って、「我即神也」「人類即神也」は変化しない事実であり、真理そのものである。無条件に成就している真理そのものである。果因説の真理であり、四次元の真理である。
 「我即神也・人類即神也」は認識の問題、意識の問題である。日常繰り返される想念行為とは全く関係なく、現われている姿とは全く関係なく「我即神也・人類即神也」を「力強く確信をもって宣言を下す時、その瞬間こそが至福であり、歓喜であり、復活である」(注3)。
 この深い認識の旅には言霊(神語)、印、呼吸法という大いなる神器が用意されていた。それに加えて、四次元、そしてチャクラが開かれたのである。開かれたチャクラを使いこなす方法として新たな神語が示された(注4)。
我即神也
我即光也
我即愛也
我即真理也
 意識がこの言霊に浸っている限り、そこにはいかなる災いも入り込むことはできない。波長が合わない。波長が合うのは歓喜、喜び、幸せ、平和、生命だけである。この秘法、使わないと損。使わないと、開いたチャクラも閉じてしまう。大いに活用してまいりましょう。

注1 白光誌2001-8
注2 この節の「  」は白光誌1999-1より引用。
注3 白光誌2004-1  
注4 2010/04/04 富士聖地の法話より
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<ピタゴラスさん>

印刷して次の祈りの会に持って行くつもりです。みんなに読んでもらいたい!
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『人類すべての人々を人類即神也と受け止めることが出来た時、もはや自分の過去の一切の因縁は消滅したのである。』2001-8 P.20

「今が一番、今を解決すれば、過去が解決できる」 と松尾みどりさんも話しておられたけど、今、自分が我即神也であると意識することが、すべてを解決していく・・・。


一日24時間、睡眠時間を除いた時間に、自分がどれだけ我即神也を選んでいるだろうか・・・とこのごろ思います。
祈り、印、呼吸法の時は、自分を神として意識するものの、その以外の日常生活の中で、どれだけ自分が神であると意識しているか・・・
惰性で生きると、意識は簡単に「神ではない自分」に流れてしまい、。
 低い意識が不安な思考を生み、その不安を少しでも解消するための行動をとっています。

だら~と無意識に生活してると、気がついたら、不安、不幸を前提とした行動をやっている。
神であるなら、幸せ、豊かさ、喜びを前提とした行動をしたいんだけど・・・

うーん。。。・・・もうこれ以上考えるのやめよ(笑)。無限なる進歩!

「我即神也」「人類即神也」。この真理はもともと奥が深い。この真理を疑い、否定する習慣が染み付いているからだ。しかし、それ以上に強烈に我々の存在そのものが神の光によって貫かれている。この真理を倦まず弛まず認めつづけるしかない。そのためにも、神語を駆使して、「我即神也・人類即神也」を様々な角度から、語りつづけてゆくのである。

真理を倦まず弛まず認めつづける。
そのためにも、神語を駆使して、
「我即神也・人類即神也」を様々な角度から、語りつづけてゆく。

今はこれを実践していくのが一番いい!
我即神也 人類即神也
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by mppoe-light | 2010-04-09 23:39 | ピタゴラスさん啓示録から