本心と業想念の区別

本心と業想念の区別

 五井先生は真理を知らせるために、「本心と業想念の区別」をするよう説かれた。
 この区別は理論的には明確で平易なことのように見える。しかし、問題はここにある。実は真に修得するのに年数がかかるものである。
『私』という意識は、意識の座に昇って来るものを何でも、「それは私」、「私はそれだ」と思い込んでしまう。
だから、本心であろうと業想念であろうと、どちらも意識の座に現われれば、「私」は「それが自分」と思い込んでしまうのである。
「本心と業想念」の区別とは、この「私」の習性を正すことにある。それは、「私とは何か」についての問題なのである。五井先生は、これを「消えてゆく姿」の訓練を繰り返すことによって習得するよう教えられたのである。

 「現象の世界」のものは「神の創造の世界」を一寸たりとも変更できないのである。あなたが、何をしようと、言おうと、想おうと、あなたの本心は光り輝いていて、いかなる汚れとも無縁なのである。ここに大きな安心がある。


我即神也
 多くの会員さんは「消えてゆく姿」の訓練を通して、「本心と業想念を区別」出来るようになった。
次の段階で、「私」を自由に動かす訓練が始まった。それが「我即神也」である。
何千年もの間、現象の世界の中で、過去を根拠に、「私」は「罪深く、汚れている」と認識していた。
そのような認識が「消えてゆく姿」であり、「私」は実のところ「神の姿」であると思う訓練と印が始まった。
「罪深く、汚れている消えてゆく姿」と「愛深く、汚れなき神の姿」は同時に存在している。自由自在にどこにでも動く「私」をどちらにくっ付けるのか。これが我即神也の課題であった。

 因果律の中に長きに生きてきた人類にとっては、「私の本質は神である」と認めることすら理解困難なことだ。しかし、神人はそれをクリアーしてきたのである。
もう一歩、何が必要なのか。『即』の理解だ。
『即』と言うのは、現象の世界にあって、消えてゆく姿にまみれていた「私」が、ワープつまり、瞬間移動して「私は神そのもの」であると認めることなのだ。そこには、多少のリハビリ程度の訓練はあっても、躊躇や時間的経過は不要と言う意味なのだ。
どんな状況、場合であっても「私は神そのもので、高貴に光り輝き、偉大である」と思うべきなのだ。
「富士聖地で印を組んでいるときの自分に、普段の自分が近づきたい」という想いは必要なのだろうか。
それは普段の自分を赦していないだけではないか。どんな想念を、繰り返し繰り返し出していようが、思い立った時、つまり『今』のあなたは神そのもので神聖で、汚れなく、崇高なのだ。
『今』のあなたは『過去』とは厳然と切り離されている。

『過去の償い』と称して、自分を罰するより、自分は神だと宣言して、神の姿を顕わすことに専念するという道を歩む。これが果因説の真骨頂だ。自分を赦すのに遠慮は禁物。遠慮深い小さな善人は因果律の世界に閉じこもるしかない。積極的に自分を愛することだ。「神の姿の自分」を見つめる視線を鍛えるのだ。イエス・キリストが愛深かったのは、この視線が強烈だったからだ。

 『現象の世界』から『神界、神の創造の世界』へのワープ。これが四次元なのだ。「私」は、何故ワープすることができるのか。「私」は神だからだ。
 「私」は何かに、くっ付きたがるものだ。つまり、何かと同一化したがるものだ。「私」を「現象の世界」・「過去」にくっ付けるから因果律に縛られる。「神の創造の世界」・「今」 にくっ付けるから「神の姿」を顕わすことが出来る。
 「私」は如何様にでもワープしつつ、至高の神に同一化する。これが「我即神也」とその印の意味だ。
「私」の可能性のことではない。「私」の将来性のことではない。「私」そのものの姿のことを言っているのだ。
そのワープが今まで出来なかったのは、ただ自分がワープを選択しなかっただけだ。選択肢があることを知らなかっただけだ。
 どのようにワープを実証してゆくのか?
 神語を語ることによってだ。

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ピタゴラスさん啓示録


「本心と業想念」の区別とは、この「私」の習性を正すことにある。それは、「私とは何か」についての問題なのである。
「私とは何か」 これです。
「自分が神だなんて信じられない・・・」そう思ってしまいますか?
ならば貴方は何者ですか? 人間と真実の生き方の冒頭にある
“人間は本来神の分御霊であって、業性ではなく・・・” 
これを否定しますか?

一度、空想で自分の名前を捨ててみるのも面白い。
名前のない自分は社会と切り離した自分、ただの「私」という意識。
存在するのみの「私」。

社会に合わせて活動する「私」は消えてゆく姿の私、
では 社会から切り離した名前のない この「私」とは・・・? 

こんな空想も面白い♪

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「私」は如何様にでもワープしつつ、至高の神に同一化する。これが「我即神也」とその印の意味だ。「私」の可能性のことではない。「私」の将来性のことではない。「私」そのものの姿のことを言っているのだ。そのワープが今まで出来なかったのは、ただ自分がワープを選択しなかっただけだ。選択肢があることを知らなかっただけだ。
「まだ我即神也には自信がないけど、近い将来 自分は我即神也に相応しい人間になれるだろう・・・」と 棚からぼたもち みたいに神性が天から結果としてもたらされる・・・なんて思っているでしょうか? 


神性、我即神也 は一瞬一瞬の自己意識にかかっている。
だから「今」を生きなければ・・・と感じている今日この頃です。。。

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by mppoe-light | 2010-02-28 20:40 | ピタゴラスさん啓示録から

41番ジュピターに一票♪

mixiコミュ モーツァルトで、「モーツアルトで完璧と思う作品はどれか」 というトピ立てがありまして、

読んでみると、シンフォニーでは40番41番の意見が多く、他にピアノ協奏曲20番とか33番など。
ちょっとビックリしたのは賛美歌も入ってること。

私は、41番です。とくに最後の4楽章は最高です。
私にとっては、ジュピター(41番)の最後の楽章は天上界の曲に思えてしまいます。

無限なる喜び、気高さ、賛美♪ 
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クラシックは、同じ曲でも 指揮者、奏者で違うから CDを購入する場合どれを選ぶべきか迷います。
でもオーケストラや指揮者、奏者を選べるほど知識はないし、聞き比べもないので、
並んでるCDの中から聞いたことがありそうな名前の指揮者をテキトーに選ぶだけ。。。(笑)
だからモーツアルトやチャイコフスキーのコミュに入ってマス。
 みんなの意見を読んでるといろいろ参考になりそうで。

チャイコフスキーのコミュでも、「チャイコで一番好きな曲は?」というトピがありまして、
人気はやっぱり シンフォニーでは4、5、6番、あとはバイオリン、ピアノ協奏曲、弦楽セレナーデとか・・・

うん、うん、分かる分かる(●^o^●) みんな気持ちは同じ♪

私は・・・シンフォニー5番かバイオリン協奏曲1番か、 

うー・・・これはどちらか決められない・・・!
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by mppoe-light | 2010-02-27 21:50 | どってことない話☆

ゼロ次元の「今」

ゼロ次元の「今」

すでに過ぎ去ってしまった過去のあらゆる出来事や現象そのものは、自分が
今日まで生きてきた時間軸に存在する妄想と幻覚であると思えばよい。
(真実ではあるが)。
 とすると、そういった過去の種々さまざまなる妄想や幻覚を、
現在の「今」の瞬間に、自分が改めて思い出し、掴み取らない限り ー つまり、それらを現在の「今」という瞬間に、自分が引っ張り込まない限りは、何も生じないのである、いや、現れるはずがないのである。

限りなく「今」という瞬間を、果因説(素晴らしく輝かしい自分の未来を創造してゆく想像力)に基づく生き方に徹すれば、未来における不安も恐怖も皆無なのである。

宇宙子科学においては、「今」という存在のみが唯一肯定されているのである。「今」という瞬間は点であり、
ゼロ次元なのである。ゼロ次元はすべての始まりであり終わりであり、原因であり結果であり、形があってない存在なのである。
2008 4月昌美先生の法話

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ゼロ次元はすべての始まりであり終わりであり、原因であり結果であり、形があってない存在なのである。

これだけでは、何のことなのか分からないのですが、次の啓示録を読み直してみて
思わず、「ああ、そーかぁ・・・」と、納得(それなりに・・・)した私。
啓示録の深さに、またビックリ☆。


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ゼロ次元と自己意識

神の光明波動は人の意識に働きかける。
神の光明波動は肉体に直接働きかけることはない。

神の光明波動は果因説の波に働きかける。
神の光明波動は因縁因果の波に働きかけることはない。
神の光明波動は「今」というゼロ次元で働く。(注1)
神の光明波動は時間軸で働くことはない。



「意識に働きかける」とは「想像力」を刺激することである。『素晴らしく輝かしい自分の未来を創造してゆく想像力』とは果因説のことである(注2)。
果因説の想像力とは、自分のことを、過去の神らしからぬ姿にもかかわらず、つまり、『不完全な自分はさておき』、霊妙なる神そのものであると観ることである(注3)。

「今」というゼロ次元とは「I AM.」(我在り。『私』、真我)のことである。
『私』は『すべてが発生する始点であり、すべてを吸収する終点である。
『私』は、すべての『原因であり結果である』とも言われ、『形がなく形を生み出す型』でもある(注1)。
すべての現象は『私』を原因として、『私』の定義に相応しい結果を生み出し、『私』の姿を鏡のように映し出す。いかなる現象も、『私』の定義を変えることによって、『私』に吸収され消滅してしまう。

三次元空間の時空という座標の一部を占める肉体に意識が付随しているのではない。『私』という意識が時空を投影しているのである。


21世紀、「今」というゼロ次元で、『私』は過去の神らしからぬ姿から明確に、かつ厳格に切り離される。
『私』が認めるのは『我即神也』そのものである。それのみである。『我即神也』ならば、同時に『人類即神也』である。
21世紀、瞬々、「今」というゼロ次元で、神人の『私』は『我即神也』のみを宣言する。神人の『私』は肉体を通して、神そのものを顕現してゆく。
神人たちの時代の始まり。
2008/10/31

注1 ゼロ次元の「今」白光誌2008・4
注2 白光誌2008・4
注3 「にもかかわらず祈る」白光誌2008・6
西園寺由佳会長代理

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ピタゴラスさん啓示録



私は(私たちは)自由自在に世界を創造する力を与えられています。
イメージ、言葉によって創造します。

「私」が創造している、私の世界。私がなければ私の世界は存在しない。
これから、私は自分の世界に何を画こうか・・・・光明の無限なる愛、平和、調和・・・は、
当然のことだけど、その無限なる愛で何を画きたいのだろう?・・
私は本当は何を求めてるんだろ??? んー・・・・(;一_一)
それが分からないのは、
まだ 本当の無限なる愛も平和も調和も喜びも体験していないから?
ではそれは、これからやってくる4次元世界で体験するのだろうか???

今はまず、自分の世界に住んでいる相手に、“あなたは幸せで平和で暖かい人”・・・という気持ちで
対する相手に語ってみようかなぁ・・(今年の課題のことです。)
  
私が神なら、あなたも神、交わす言葉は神様語。 なんちゃってー。


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「なかよし!、わーい♪」
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by mppoe-light | 2010-02-24 00:14 | ピタゴラスさん啓示録から

因果律を強制終了☆

白光誌1月号の昌美先生のお話から

今まで人類が長い間自らの魂に刻印しつづけていた業因縁の法則、即ち「これこれの悪業を為しつづけてきたから、よってその償いや報いを受けなければならない」という法則は、本来ないのである。
これは真理の法則ではなく、その時代、その背景、その歴史の中で築き上げられていった人為的な法則(ルール)なのである。長い間、人類はそのことに気づかず、ルールに惑わされつづけてきた。


昌美先生の法話とピタゴラスさんの最新版2つを読んで、頭の中がすっきりしてきました。 ばらばらだったピースが、一つにまとまった感じ。全体の形が観えてきたような・・・。
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↓長いけど、カタイけど、ど根性で読んでほしい・・・・。

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三次元的思考と四次元的思考の違い

『三次元の物質世界は、四次元世界の断面に過ぎない。その四次元世界も、今ここに厳然と存在しているのである。』(注1)2001-1

 三次元的思考とは因果律の思考である。四次元的思考とは果因律の思考である。
科学的な思考は仏教的なカルマを認めていない。しかし、科学的思考も因果律を究明する学問なのである。

唯物論的思考も仏教的因果律の思考も三次元的なことに変わりはない。いずれも知覚領域が限定されている。
三次元的思考では、四次元的世界から見れば、現象世界と言われるごく一部の領域がすべてなのである。知覚領域、思考の根拠となる世界が自我と言う小さな領域に限定されているのである。
三次元的思考は、その限定された領域での因果関係をすべてとする。


 三次元的思考で、「私は神である」と認めることは、断じて出来ない。「私が神になる」には無限の努力が必要になる。「私は神でない」因果を浄めて消すにも無限の時間を要する。
個人の問題だけでははい。「世界が平和である」と認めることは、断じて出来ない。「世界が平和になる」には無限の努力が必要になる。「世界が平和でない」因果を浄めて消すにも無限の時間を要する。

 そもそも、三次元的思考や因果律は神の創造の結果ではない。それは、「私は神などではない」という無知なる意識の産物にすぎない。
逆に、四次元的思考や果因律は神の創造の世界である。神そのものである。それは、「我即神也」という大叡智の意識の産物である。
 三次元的思考と四次元的思考の関係は闇と光の関係である。無知と真理の関係である。二つ同時に在ることはない。一方のオンは他方のオフである。一方のオフは他方のオンである。

次元の上昇はすべて、自己意識の転換によってなされるのである。
現象と過去を根拠に、「自分を神ではない」と自分を意識するのか。
『今ここに厳然と存在する』神なる自分を根拠に、『我即神也』と自分を意識するのか。二つの選択肢がある。どちらを選択するかによって、三次元世界に閉じ込められるのか、四次元世界に飛翔するのかの違いになる。
なすべきは、『我即神也』を追認し、自分の『神の姿』を言葉にして語ることだ。
言葉にして語ることは、言霊による現実世界の創造である。神性顕現である。
自分の『神の姿』は宇宙神の直接的で完璧な映しである。
あなたの何十年も続いた癖、遺伝、持病、感情、、、そんなものは譬えて言うと1V(ボルト)の力もない。あなたの『神の姿』には100億V以上のパワーと権限がある。それを認めることだ。

心から認めるのは、多少のリハビリが必要かもしれない。
心から認めることが出来なければ、言葉を唱え続けることだ。それは真の祈りであり、神語である。
『私』の祈りと同時に、人類の祈りをするのだ。人に神語を語りかけるのだ。自我の『消えてゆく姿』が出た直後であろうと、すぐさま、真我の『神の姿』を口に出すのだ。『神の姿』は既に成就している。
凡夫が神に成長することはない。凡夫の姿を『消えてゆく姿』にするや否や、真我の『神の姿』を言葉で讃え、感謝し、崇敬するのだ。              
注1  2001-1      


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維摩詰が説くイエスの全託
『私の願い通りではなく、神の御心のままになさしめ給え。』(マタイ伝26)
『御心の天になる如く、地にもならせ給え。』(ルカ伝22)
『天の父が完全なる如く、あなたがたも完全でありなさい。』(マタイ伝5)
 
維摩詰がイエスの全託についてかくの如く説かれました。

 真理の道は自力も他力もない絶対力だ。神力だ。それは全託だ。この全託の姿勢に、ナザレのイエスが極めた「果因説」の基本がある。
神の御心とは『自分を完全と見る神の意識』のことだ。この神の意識に写る『神の姿』は変化しようのないものだ。『神の姿』は宇宙神の光そのものに包含される光である。宇宙神の生命そのものとは分離不可能な生命の流れである。したがって、我々、人類一人一人は宇宙神を直接かつ完璧にコピーした存在だ。それについて、誰も変化させることはできない。

 この真理を忘却したところに、「私の願い、地の私の信念=人間不完全説」が覆いかぶさったのである。
これは「過てる自己意識」である。そこからあらゆる不調和が生じた。
イエスは上に引用した言葉で、「この因果律を手放します」と宣言したのだ。「私は、因縁因果の流れの中で生きるのではありません。元々ある完全な『神の姿』を顕現する果因説の中で生きます」と宣言したのだ。
イエスは宣言したことによって、その通りの人生を歩むことができた。奇跡も行うことが出来た。奇跡的な治癒力は神力であり、絶対力である。それは果因説を高度に使っているのだ。つまり、全託とは因果説の生き方を放棄して、元々ある『神の姿』をあるがままにこの現象世界に顕すことなのである。

我々、人類一人一人にも神力・絶対力を使う権限・特権が生れつき備わっている。特殊な人の特殊な能力ではない。自然な人の自然な能力なのだ。
『神の姿』がそのまま顕われるように、「自我の余分な自己意識を手放します」と宣言しなさい。それが「神の栄光を讃える」ことになる。自分を讃えることだ。イエスは奇跡的治癒を行ったあとで、「神の栄光が讃えられるためだ」と言った。

奇跡をなすことが栄光なのではない。完全な『神の姿』が『今』我々一人一人のために存在すること自体が、神の栄光なのだ。神の栄光は自分の栄光でもある。そして、人類一人一人の栄光でもある。神の栄光も、自分の栄光も、人類一人一人の栄光も顕われ、讃えられるべきだ。その栄光の『神の姿』が自分にも人類にも顕われる。これが、「神の栄光が讃える」ことの意味だ。

我々、人類一人一人には神性顕現を妨げるすべてをデリート(手放す、パソコンにあるデリートキーと同じ)する権威・権限・特権が備わっている。それを妨げるものを浄化することもない、単に真理を認めるとき、非真理は消えるのである。
光明があるところに闇はない。五井先生はこの原理を一般の人にも解かり易く、受け容れやすく、実行しやすくするために『消えてゆく姿で世界平和の祈り』を説かれたのである。五井先生ほど人間を理解して下さった方はいないのである。

 しかし、白光の教えは年々進化している。今日的に求められることは神語を語り続けることである。五井先生は顕すべき『神の姿』をすべて含めたものとして、世界平和の祈りを説かれた。それを敢えて具体化して神語として語るのである。

人類一人一人には完全な『神の姿』がある。人類はそれに気づかなかった。知らなかった。それについて語ろうとも思わなかった。それがために、自らを因果律の中に閉じ込めてきたのであった。
今や、その因果律を解き放ち、神を讃え、自分を讃え、人類を讃えることによって、神性を顕現する時代になったのである。
因果律を手放したとき、神性の顕現は始まる。
西園寺昌美会長は、デリートキーを使って(パソコンではCTRL キーとALTキーを押しながらデリートキーを押して強制終了する)、因果律のシステム自体を強制終了させようとしておられるのである。
デリートキーは果因説の光明。CTRLキー、ALTキーとは印、マンダラ、神語を語ること、神事等のことである。そのキーを押すのは各自である。
ピタゴラスさん啓示録
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輪廻転生説や因果応報説、因果律は、もはや人類の負の遺産となってしまった。
21世紀、人類はみな果因説に向かって、人生の方向転換を計る時に至ったのである。
それをリードしてゆくのが神人たちの天命であり、役割である。(1月の法話から)

人類が、カルマの悪循環から抜け出し自己意識を次元上昇するために、
昌美先生は、因果律のシステム自体を強制終了させようとなさっています。
そのための印、神事、そして今年、神語を語る課題が出されました。
これは私たちの天命であり、役割。

と、言うことで
長い日記を読んで下さってありがとうございました☆

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私はすっきりしました♪ 頭の中の、断片的だった理解がキレイにまとまった。
私は嬉しいー♪
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by mppoe-light | 2010-02-20 23:09 | ピタゴラスさん啓示録から

なんとなく、バシャール☆

ぷらぷらと、検索して遊んでいましたら、久しぶりに”バシャール”にたどり着きました。
随分前に、この日記でも書いた、須藤元気さんとバシャールの対談です。
バシャールも懐かしいけど、紹介サイトの ”精神世界の鉄人” さんも懐かしい☆
精神世界のサイトを訪問するのも久しぶりでした。
バシャール、精神世界の鉄人サイト は有名ですし、もう3年前の対談本ですから、読んでおられる方も多いと思いますが・・・・、
面白かったので貼り付けてみました♪
たまに、こういったお話も面白い☆

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対談ページはこちら
http://www.tomaatlas.com/lib175.htm

須藤:パラレル・リアリティへの究極の二極化が2025年から2033年に生じるとの話ですが、実際の分離プロセスは、僕らの五感ではどのように知覚され、体験されていくのでしょうか。3次元現実の住人である僕らの日常的な感覚では想像が難しいのですが、何か具体的な例で説明してもらえませんか。

バシャール:変化がどのように知覚されるかは、それぞれの人の波動によって違います。
たとえば、政治の世界で突然非常にポジティブな法案ばかりが通るようになったり、否定的でネガティブな法案が通らなくなったなと気づくかもしれません。
または、自分が出会う人はとてもポジティブな人ばかりだな、いったいネガティブな人たちはどこへ行ってしまったんだろう、と感じることがあるかもしれません。
あるいは、ある日テレビのニュース番組を見ていると、ポジティブなニュースばかりが流れている。まったくネガティブなニュースがないなと気づくかもしれません。
また、もうひとつの兆候としては、多くの子供たちがさまざまな問題の解決策を生み出していって、そしてそれがとても優れたもので、大人たちが子供たちの声に耳を傾けているということが見られるかもしれません。
そして、ポジティブなメリットだけがあり、デメリットのない新しいテクノロジーが現れてくるでしょう。
世界中でUFOが見られる件数も増えていきます。
このように、パラレルなリアリティにシフトしつつあることが、さまざまな出来事によってわかってきます。
それで質問の答えになっていますか。

須藤:マクロな視点でのリアリティの分離は何となく想像できましたが、もっとミクロな世界、たとえば身近な人間関係などでは、ポジティブなリアリティとネガティブなリアリティへの分離はどのように知覚されるのでしょう。

バシャール:しばらくの間はネガティブな人がいるでしょうが、その後で、ネガティブな人は周囲に見当たらなくなってきます。
また、もうひとつの兆候として、ある周波数に近づくと、人々のサイキック能力もテレパシー的な能力も高まって、この人はポジティブな人なのかネガティブな人なのかということがわかるようになるので、より簡単にネガティブな人を避けることになるのです。



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「寒いから~」 といって、四角い部屋を丸く掃除するのはやめましょう・・・
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by mppoe-light | 2010-02-17 22:52 | 真理について思ったこと

神の確率


「踊る物理学者」のおさらいが、お役に立ったのかどうかは判りませんが、
(10年ぶりに少し読んでみましたが、やっぱりとんでもなく難しかった!!!
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6-6  神の確率
 量子力学的に言えば、あらゆる現象は確率的に起こる。
あらゆる素粒子は確率的に存在している。素粒子は観察されている世界とは別の世界に、同時に存在する。
 あらゆる運命も確率的に起こる。どんな人の自我も、現在観察されている世界とは別の世界に、同時に存在する。

 三次元世界の因果律を遡ると、物事は必然的に起こるように見える。しかし、因果の現象化は確率的に様々に分布する多世界の中の一つに過ぎない。
三次元世界だけを見ると、必然的に物事が起こるように見える。しかし、四次元世界を見ると、別の選択肢が残されている。
三次元世界は因果の世界である。そのため、過去・現在・未来の時間軸が必要になる。
四次元世界は因果を超えた果因説の世界である。そのため時間軸は必要ない。

 90%の確率の因果が仮にあるとする。しかし、自己意識には神たる確率が必ず含まれている。
神の確率を消すことは誰にもできない。逆に、神以外の自己意識の確率は必ず消える。
 
どんな状況でも、人は自由意志と自己責任の領域おいて、『我即神也』に意識をフォーカスことができる。そうするや、『我即神也』に呼応する素粒子が集められ、『我即神也』に呼応する現象も集められる。現象があなたを求めて飛び込んでくる。これが2008年の神事で訓練していることだ。

 ブラックホールからは光りでさえ抜け出せないと言われる。そのブラックホールから脱出する素粒子の確率は在る。実際、いくつかの素粒子は脱出して来る。
カボチャを現している素粒子には、金の馬車を顕わす確率がある。実際に、シンデレラはそれをやってのけた(注1)。
因果律から抜け出せそうにない凡夫を現す自我にも、神を顕わす確率がある。どんな人でも厳然と、神界では神として存在している。しかも、神性こそが自我の本来性である。神とは隔たって見える人が神を顕現する。これを可能にするのが印であり、神事である。印と神事の原理は四次元の原理であり、トンネル効果であり、観察効果である。
(省)
  「因果律を操作する」とは、四次元軸(自己意識軸)を使って必然性を確率の一つにしてしまい、確率の低いように見える神性の確率を必然にしてしまうことである。再び言うのだが、これを可能にするのが印であり、神事である。印を組み、神事を行う者は神のみを知るものである。

注1 ラムサより『シンデレラは実話である。』
    2008/12/14
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今、今、今・・・「今」の私は想念とは別のところに居る「私」、
・・・「今」に我即神也がある。
「私」と意識する「今」(ゼロ次元)、それが永遠にずーっと続く「今」が、4次元ってことなのだろうか・・・? 
判らないけど それはこれからのお楽しみってことに。



6-10  量子力学と宗教

 量子力学では、量子の可能性はすべて可能性として同時に並存していると説かれる。
電子の存在位置を確定することは不可能で、確率の雲のように分布している。
多世界解釈では、可能性の分だけパラレルワールドがある。複数の世界が同時に並存している。

観察者が(電子等を)観察をして初めて、存在位置が確定される。その時、確率の波は一瞬で崩壊(波束収縮)し粒子として観察される。
 量子力学以前のニュートン力学は因果律を追求する。因果律の決定論は唯物論につながる。量子力学の世界では因果律は通用しない。観察者が結果を選択することになる。これは果因説につながる。

 先ず、自己意識のレベルで様々な自己意識がそれぞれの確率を持って分布している。
自己意識には、肉体人間・凡夫等、、、、から神と種々様々ある。どんな人にも神という自己意識つまり「我即神也」の確率がある。自己意識とは観察者のことである。
 言葉のレベルでも同様の分布がある。一人の人の使う言葉の使用頻度はその人の自己意識の分布を反映している。
 細胞内及び生活環境内の量子のレベルでも確率分布がある。
 人間は自己意識に正確に対応している多世界に同時に並存している。
(省)
  現在の状態が何であろうと、意識のレベルで自己意識を神にチューニングすることは可能である。それを「統一」と言う。
言葉のレベルで、神の言葉の世界に入っていくこと、これを「祈り」と言う。真の祈りでは、言葉が祈る人の意識レベルを引き上げる。「印」を組む人は、神の意識で神の呼吸と神の動作を行う。つまり、それは「顕現、成就」の行為である。
 物質界で努力を重ねて、自己を神に変えてゆくことは宗教の本質ではない。それは修養である。無限の努力を要する。やめた方がいい。神人は自分を変えるのではない。なすべきは真理を知ることである。つまり、意識レベルで自分が神となることである。神なる自分の姿を想像しつづけることである。

注1  量子力学についての参照文献
    「量子論の基本と仕組み」竹内薫著  秀和システム
    「量子力学の世界」椎木一夫著   日本実業出版社
    「ラムサの教え」 星雲社
2008/12/29

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内容には、3次元、4次元、量子力学、時間軸などなど・・・・
非日常の言葉がいっぱい・・。理数系のせんせいなのでしょうか・・・・?

数学も物理の世界も、数式が言葉の代わりになっているみたいで、
数学者の人の話ですが、・・・
数式に美しさを感じることがあるそうです。(すごい~どんな感じなんだろうか・・・)
五井先生は、バッハの曲が一番高いと言われましたが、
バッハの晩年の平均律と言う曲は、数学的な曲と言われるそうです。

うーん・・私には数学は最も遠い世界・・・、

  
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by mppoe-light | 2010-02-15 23:15 | ピタゴラスさん啓示録から

「踊る物理学者たち」から☆part2

私たちが学校で習った原子のモデルは、太陽系みたいに、中央に原子核があってその周りを
惑星のように電子が回っている ものですが、

「学校で教えられ、いや詰め込まれているので、こういう原子モデルはおなじみのものであろう。
残念ながら、この考えは時代遅れなので、全部忘れてよろしい。現在の考え方を以下に述べよう。」

と、いうことで このあとボーアの原子構造論の説明が4ページほど続くきます。
が、長いので、さくっとカット☆ 

考えてみれば・・・原子の構成を誰も自分の目で見たことないわけで、計算上の存在。 
だから物理学の実験って、思考実験ばっかりなのか~、なおさら一般人が分かるわけない!!!

物理学には、理論物理学と実験物理学があって、日本が筑波あたりでやってる、高速加速器で素粒子同士をぶつけて壊して中から飛び出た小さな粒子を探すのは、実験物理学。 数年前にニュートリノ(だったっけ?)を発見してノーベル賞を受賞した あれも実験物理学。 
理論物理学は、実験物理学者でも歯が立たないほど難しいものなのだそうです。

いったいどんな頭脳の持ち主なんだろ~。。。(;一_一)
ちなみに、数学の世界でも 4次元、5次元 と研究が進んでるそうですが、近年になり物理学者と数学者が互いに協力し合うようになってきてるそうです。 
(今まで別々だったのが素人には不思議!)

前置きが長すぎました・・・先に進まねば。。。。。
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”観察者”についての説明になりそうな部分を、アバウトに抜き出してみました。
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事の本性上、我々は位置と運動量のどちらか一方しか知ることは出来ないのだから、どちらを知りたいのかは、我々の選択の問題である。
これは、形而上学的には、属性を測定するのを決めるのは我々なのだから我々がそれを創造しているのだ、と言うのにほぼ等しい。
言い換えれば、ある位置を占めるもの、例えば粒子を我々は創造できる。なぜならば、何か位置を占めるものがなければならず、位置を決めるのは我々なのだから、結局我々がそのものを創造していることになる。

宇宙は、奇妙な意味ではあるが、人が関与することによって「存在するようになる」のだろうか?
決定的な行為は関与するということである。


「客観性」という神話

科学的客観性という考えは、「こちら側」「私」があり、「あちら側」に外的世界があるのだ、という仮説に基いている。(こういう感覚は、他人を「あちら側」に置くもので、「こちら側」がとても寂しくなる)
この考えでは、大自然もその多様な一切合財を含めて「あちら側」にある。
科学者の課題は「あちら側」を出来るだけ客観的に観察することになる。
客観的に観察するとは、対象を偏見なしに観察することである。
(省略)
つまり前もって意見を持たないということである。実は意見を持たないなんて不可能である。意見とは物の見方である。
何も物の見方なしでいられるなどという見方をすること自体、すでに一つの物の見方である。

新しい物理学、量子力学が我々にはっきり教えてくれたのは、実在を変化させないで観察することは不可能であるということだ。
粒子の衝突実験を観察する場合を考えてみると、我々がもし観察してなくても結果は同じであったかどうか、確かめる方法がないということに話はとどまらず、そもそも我々が観察していたことが実験結果に影響しているのだから、観察していなかったら結果は別のものになっていただろうということしか知りえないのである。

光が波のようなものであることを示す実験もあり、光が粒子のようなものであることを示す実験もあって、両者に甲乙をつけられない。
光が粒子に似ているか、波に似ているのか、どちらかを証明したければ、目的にかなった実験をすればよいことになる。
量子力学によると客観性などというものはない。世界像から我々自身を取り除くことはできない。我々もまた自然の一部であって、自然を研究している際には、自然が自然を研究しているという事実を迂回して避けることはできない。(略)

物理学は意識構造の研究ということになる。

素粒子レベルでは、対象は観測されることによって必ず変化してしまう。世界に対して影響を与えないでありのまま観測できる観測者が世界の外側に孤立して存在することはないのである。


古典物理学の前提は、実在世界が厳密な因果法則に従って空間と時間の中で我々とは孤立に推移しているということである。
世界には感づかれることなしに、そのありのままを我々が観察できるだけでなく、初期条件に対して因果法則を適用して未来を予言することができることになる。
ニュートンの運動法則を個々の粒子に適用することはできない。粒子の位置や運動量の初期条件がわからないからであり、これこそが不確定性原理が示していることであった。つまり、ニュートン力学の法則を適用できるような仕方で素粒子を知ることは原理的にも不可能なのである。

電子のビームを考えるなら、所定の時刻、所定の場所での電子の分布を予測することは量子論にとって可能であるが、個々の電子がどうなるかを予測することは原理的にも不可能である。因果的な宇宙観は不確定性原理によって根こそぎにされた。
これに関連して、ニールス・ボーアは、量子力学が本質的に次のような結果を伴うと述べている。
・・・(それは)古典的な因果律の考え方をきっぱりと放棄する必要性と物理的実在について我々の態度を根本的に改めることである。

新しい局面
素粒子の世界に入れば科学ももはや「厳密」ではない。客観と主観の境界線は消えた。
自然が姿を現す玄関口は、自然の推移に対して無能で受動的な傍観者「私」であり、我々は、つまり取るに足らない我々は、その一人だと思われていた。
だが、自然という大機械の中の歯車のはずだった人間が、今こそ宇宙の創造者になるのだ。
新しい物理学によって我々がどこかへたどりつけるとしたら、それは我々自身へ向かうことであり、当然のことだが、我々が行けるのはそこだけしかないのである。

「踊る物理学者たち」 ゲーリー・ズーカフ著 青土社


最後まで読んで下さって有難うございました。 
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by mppoe-light | 2010-02-14 10:25 | 真理について思ったこと

ちょっとおさらい☆「踊る物理学者たち」

ピタゴラスさんの次のファイルを貼り付ける前に、
量子論について、ちょっとおさらいしてみることにしました。

といっても、私が理解できるのは、ほんの入り口程度なので
上手く書けるかどうか分からないけど~。
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リプトン博士の「思考の力」にも、ちょっと出てきた
ゲーリー・ズーカフ著 「踊る物理学者たち」  と言う本、
随分前に取り寄せて読みました。 

読む・・・と言っても理解できたのは、・・・半分程度?、
ニュートン力学、一般相対性を少々、と量子論はほんの入り口くらいです。
(難しい理論や定理は理解できない・・・)

この本は、数式をまったく使わず、文章だけで物理の理論を解説したものです。
面白いのは物理学と東洋思想を結び考察してあるところ。
(定理が理解できないと東洋思想との考察も理解できないので、
半分くらいしか分からなかった・・・(笑)

著者のズーカフ氏は精神世界の本を数冊出していて何冊か読みましたが、
どれも良かったです♪(●^o^●)「踊る物理学者」 よりずっと読みやすい♪

「踊る物理学者」から ↓
量子力学は今世紀(20世紀のこと)初頭に自ら姿を現した。

量子論では、自然は或るかたまり(量子)という形で生起するのであり、
量子力学はこの現象を研究している。

ニュートン物理学は依然としてマクロな世界にあてはまっているが、原子より小さい領域ではうまくいかない。

原子以下レベルの現象にはニュートン物理学はあてはまらない。
そこでは、粒子の位置と運動量を完全な正確さをもって同時に知ることができない。両者を近似的に知ることはできても、片方が正確になるにつれて、
もう一方が不正確になる。
このことは実験によってすでに繰り返し確証されている。


位置や運動量・・・が分かるからこそ、私たちは飛行機に乗ったり、ロケットも飛ばすことが出来ます。

原子より小さい粒子の位置と運動量の両者を決定することが出来ないのだから、我々の予測できることは多くない。
だから、量子力学は個々の事態を予測することは出来ないし、しようと思ってもできることではない。
しかし、確率を予測することはできる。
ニュートン物理学では「今これこれの状態ならば、次はこれこれの状態になる。」と表現するが、
量子力学では「今これこれの状態ならば、次にこれこれの状態になる確率はこれこれである。」と表現する。

つまり(原子以下レベルの粒子の)位置と運動量、の両方を正確に知ることが出来ないからである。どちらを正確に知りたいのか、これは我々の選択の問題であって、それによって実験も異なる。


量子論に出てくる ”確率”を、ものすごーく簡単におさらいをしてみました。 

あと、”観察者” について、説明したいんだけど・・・・書けるだろうかー。???

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by mppoe-light | 2010-02-12 21:57 | 真理について思ったこと

因果律の終焉・・・・

先日の祈りの会の時のことです。

Kさん  「○○さん(ピーさんのこと)の啓示録の続きがある?」
私  「ありますよ。 なんで?急に」

Kさん  「昌美先生が因縁因果はもうない と言われた意味がよく分からないんで、」
私   「もう過去はないからでしょ~」 
(と、ものすごーく適当で、いい加減な返事をしながら せっせと帰る準備・・・)

Kさん 「いやそういう意味じゃなくて・・・」
私   「うん、じゃあ次の会の時に、(ぴーさんの)ワードのファイルを持ってきます」


と言うわけで、さっそくピタゴラスさんのワードファイルを読み直してみました。

Kさんに、「過去はないから~」 なんていったものの、
私も因縁因果の法則が今後どうなるのか分かりません。 
そもそもKさんみたいに深く考えてないし・・・。(^_^;)
 
前回の日記(真の眼力)にあと 果因説の浄め の予定にしてたけど、
それよりもこちらを先に載せた方がいいかな。

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因果律時代の終焉
 因果律の時代は終焉を迎えた。そして、果因説の時代に入った。この事実を意識するか否かによって、明日からの自分の体験する世界に違いが出てくる。
 因果律の時代の終焉。それはベルリンの壁が崩壊したようなものである。ベルリンの壁の崩壊を知らずに1990年代を生きる人のように、今後において果因説を知らずに生きてゆくことは無謀でもある。

 あなたが第一になすべきことは「言葉・想念・行為を正す」ことではない。
第一義的なことは、あなた自身の意識に関すること、つまり、自己意識、自己定義、自己イメージを正すと言うことである。正しい「言葉・想念・行為」の世界は「我即神也」と言う自己意識より自然法爾に吹き出してくる。

 「言葉・想念・行為を正す」こと自体が、真理ではない。そんなことは人間を小我の中に閉じ込めるために、小我が創り上げた律法に過ぎない。それは小我の延命装置でもある。
 どんな「言葉・想念・行為」もあなた独自のものではない。すべて人類に共通する錯覚より生じた、人類共通のものである。何があろうと、同じ失敗を何度も繰り返そうと、あなたは自分を「いたらない」と評価してはならない。反省は必要であっても、自責の念・罪意識は不要である。

 「言葉・想念・行為を高め上げる」以前に、自己意識(自己定義、自己評価)を高め上げるのが果因説の奥義である。『自分を磨き高め上げる』、これは現れの自分を磨き高め上げることではない。意識の中で自己評価を高め上げることである。
 常識的に自分に責めるべきところがあるにせよ、心を翻してみる。ゼロ次元に飛び込んでみる。つまり、神の子として祝福された自分自身に意識を向けてみる。
イエス・キリストより、「あなたがたは幸いである。天国はあなたのものである。あなたがたは世の光りである。」と祝福されている自分を思い出してみる。その素晴らしい自分を印によって表現してみる。あなたには、「今」と言う瞬間、ゼロ次元に飛び込むという選択肢がある。つまり、あなたは「我即神也・人類即神也」に意識を集中することができる。印を組むことができる。
そこに神の喜びがある。
 「言葉・想念・行為を正すこと」が宗教の根本とするならば、人は宗教から抜け出せない。その試みは成就しないからだ。自己意識を正すことは、四次元世界に上昇すること。そこに宗教の根本がある。そこではすべてが成就する。

2008/11/17


  
ルーツ
 あなたのルーツは何なのか。
あなたはどこから来たのか。
 この根本的な問いについて、因果説と果因説との違いを比較する。

因果説では過去から現在に至る時間の延長線が重要になる。
時間の流れにある現象世界の推移が問われる。
その中で人は、過去にある罪悪感が人目に曝されぬよう隠蔽工作を繰り返す。
そのかたわら、人は過去にあった栄光を探し出し、自分を大きく見せるものを高く掲げる。
それが人目につかないようであれば、我慢がならない。満足感にいたることなく、「高級」と言われるものを所有し、自己意識のドレスアップに余念がない。ついには、自分より見劣りする者を蔑み、自分を認めない者がいたなら先制攻撃をしかける。
人は自分のさえないルーツに取り付かれている。「取り付かれている」と言ったが、正確には自分でそれにしがみ付いているにすぎない。その「しがみ付く」強さは、豊かさ、健康、調和を「求めても、満たされない」状況に自分を繋ぎとめる強さと全く同じである。
因果説の根源にあるのは自己定義の間違いなのである。その間違いから生じた恐怖感が根底にある。

 『消えてゆく姿』の真理は、この因果説の世界に住みながらも、一つ一つの状況において、『それは私のルーツとは関係ない。その現象化したものは消えてゆくプロセスを果たした。私のルーツは実は神なのだ。』と確認してゆく教えである。

 果因説では、自分は過去からの延長線上にはない。
あなたは、『今』つまり、いつでもどこでも、宇宙神から来たことに目覚めればいい。
あなたは過去から来たものではない。
過去が何であろうが、現況がどうであろうが、あなたのルーツは宇宙神である。
あなたは、今でも、宇宙神から分かれたままの姿を保持しており、完全な存在である。
あなたは宇宙神に祝福された神である。
あなたの肉体は完璧であり、心は聖く、澄み切っている。あなたはいつも豊かさを感じ、豊かさを顕わすことができる。あなたは光り輝く存在である。
あなたはあらゆる神性を自由自在に使いこなすことができる。あなたに不可能はない。神なるあなたに修復できないことはなく、癒せないものもない。あなたの意図はすべて成就する。あなたは、人類に真理を導く「世の光り」である。

 
因果説は横の世界。あなたはそこに自分のルーツを見出すのであろうか。
果因説は縦の世界。四次元世界だ。あなたはそこに自分のルーツを見出すのであろうか。
あなたは、いつも、この選択をする立場にある。あなたは自由に選択することができる。あなたは神としての創造者であるから。あなたは量子力学で言う観察者であるから。
観察者は自分をどのように観察(体験)するのだろうか。観察者は自分を自分で定義したように観察することになる。自らを神ならざる者と信じるならば、神ならざる自分を体験する。自らを神であると定める者のみが、神なる自分を体験する。つまり、神を顕現する者となる。
2008/11/26 

ピタゴラスさん啓示録から

この後、量子論を用いた解説が(私的に)良かったので、(量子論に興味のない方には申し訳ないのですが・・・、) つづきます☆☆☆(●^o^●)
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by mppoe-light | 2010-02-11 22:46 | ピタゴラスさん啓示録から

真の眼力

ここは、何度も読んで心に留めておきたい部分。忘れないように。
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 真の眼力

『あなた自身のこころがそのまま相手に映っていることに気づかなければならない。
相手は常に自分の鏡であることを忘れてはならない。
自分の想いが相手の鏡に反射して自分に返ってきていることを忘れてはならないのである。
我々は常に相手の中に、神を表現しつつある完全なる本質を見てゆくべきであって、不完全なる相を表現している一面には決して眼を向けてはならないのである。
ここに真の眼力が発揮されてゆくのである。
あなたが神を表現していれば、必ず相手の中にも神を見出すことが出来るのである。』
(注1)


真の眼力とは洞察力であり、神性を観る力、心の眼、愛の想像力、神の眼である。
眼力は自己意識の現われである。自己意識のレベルに応じて、眼力は異なってくる。視る主体と、眼力、認識する映像(相手の姿)は一組のものである。それらは一つの世界を構成する。
いかなる様相と言えども、人の姿を見て、心に残るもの・批判するもの・理不尽と感じるものはすべて自分の自己像の反映である。「消えてゆく姿」とは、視る主体・眼力・認識する映像と言う一組のものの消えて行く姿である。
相手を赦そうが、事象を赦そうが、究極は自己意識の赦しである。赦さずに糾弾することは自分を糾弾することである。だから、責めること自体が、人にとっては不幸と感じるのである。
人類の赦しの中で、自分も赦される。自分の赦しの中で、自分は神の自分を観ることができる。つまり、自分を愛することができる。自分を愛する者は、神を顕わす人となる。


『不完全な自分はさておき』、不完全な人類はさておき、自分に人類に神性を観る。その人は神を顕現する人となる。
「こんなことは、未熟な自分には無理」と思っても、「我即神也、人類即神也」の印を組めば、自他の神性を凝視したのも同然。神の眼力を得たのと同じ効果が発揮される。ここに五井先生、守護の神霊の救いが成就する。


完全な眼力の回復は三次元世界の事ではない。次元上昇のことである。自己意識軸上の上昇である。
眼力の回復により、同じものが全く違ったものに見えてくる。完全な眼力はすべてを神の光の中で見ることである。そのことが神性を顕現させるのである(ピグマリオン効果)。各人の眼力の回復が世界人類の平和を成就する。
完全な眼力は慈悲深い。赦して、現象の世界を見ないから。愛して、神性のみを観るから。そのあたたかい視線が神性の顕現を促すから。
2008/09/20
注1 白光誌1993・5

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ピタゴラスさん啓示録

いかなる様相と言えども、人の姿を見て、心に残るもの・批判す
るもの・理不尽と感じるものはすべて自分の自己像の反映である。


これは、スピリチュアル本によく書かれてる内容です。
多くの人は、こういった説明に はっと気づいて意識改革をスタートさせるのだと思います。

「消えてゆく姿」とは、視る主体・眼力・認識する映像と言う一組
のものの消えて行く姿である。相手を赦そうが、事象を赦そうが、究極は自己意識の赦しである。


根本は自分を赦しているか否か。
自分を癒すセミナー (インナーチャイルド等々・・) あります。
私も “消えてゆく姿”が理解できなかった時、 インナーチャイルドを癒す実践を
何度かやっていました。
でも、本当に自分を癒し、赦すためには もっと強力が光が必要だと思います。なぜなら、
しっかりした先生のもとで、大勢の仲間とともに受講していけば、徐々に癒すことも可能なのだろうけど、個人が日々の生活の中で自分を赦し、癒すというのは難しい。

それだけ人間の中の罪悪感、恐怖は重いんだと思う。 ズシッ!
それを超えるためには、無限なるパワーを持つ光が必要、それにはやっぱり意識の次元上昇、つまり自分の中に神を見出すことだと思います。

『不完全な自分はさておき』、不完全な人類はさておき、自分に
人類に神性を観る。その人は神を顕現する人となる。

自分の中に神性を観る  そんなこと今の自分には出来ない、
自分が神だなんて思えない・・・と思うなら、

「こんなことは、未熟な自分には無理」と思っても、「我即神也、人類即神也」
の印を組めば、自他の神性を凝視したのも同然。神の眼力を得たの
と同じ効果が発揮される。ここに五井先生、守護の神霊の救いが成
就する。


完全な眼力の回復は三次元世界の事ではない。次元上昇のことで
ある。自己意識軸上の上昇である。眼力の回復により、同じものが
全く違ったものに見えてくる。完全な眼力はすべてを神の光の中で
見ることである。


自分の意識をレーダーだとすると、今そのレーダーは何を捉えているだろうか。
相手の 未熟さ、愚かさばかりを捉え、それに対して無意識に批判的な感情を起こしているのなら、自己意識が下降しているということ。
周囲の状況を否定的に捉え、不安な気持ちを常に抱えるのなら、自己意識は低いままということ。

こういったことから抜け出すために、しっかり自己意識を上昇させなければならない・・・
意識が上昇することで、自分を赦せるようになり同時に真の眼力が戻ってきます。
真の眼力は神の眼、神の眼を持つことが神性を顕現させることに繋がります。
ここでも果因説の威力はすごい☆

祈り、印は、五井先生、守護の神霊の救い。
無限なる感謝です。
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by mppoe-light | 2010-02-07 13:55 | ピタゴラスさん啓示録から