啓示録ファイル その後

啓示録を印刷したファイルは、今 お祈りの仲間のKさんからOさんへと渡っています。
いつも私とは話のかみ合わないKさんですが、啓示録については
「これはいいよ。読んだほうがいい 」と、みんなに薦めてくれました。(^_^)
よかったよかった♪  
今、リプトン氏の「思考のすごい力」を読んでいますが、
今度はこの本をKさんに薦めるつもりです。 Kさんは神経内科の先生なので
きっと深く理解して下さる・・・と思います☆

先日、ピーさんのmixiにて 啓示録のお礼を書き込みしたのですが、
お返事の中で 次のようなコメントを載せて下さいました。

「固焼きお煎餅」より「ヌレ煎」ぐらいを心がけるつもりです。
 ただ、私に伝わってくる強い響きを、勝手に弱める訳にもいかないことがあります。
 先日、ある会合では「『シュレディンガーの猫』は読まなくていい。でも他のはよく読んで」と責任者の方が言っていました。
それで十分です。回転寿司と同じ。気に入ったものだけを読んでもらう。
そして、何か一つをつかんでもらえばいい。


啓示という天からのメッセージを正確に伝えるとは大変なことなのだ・・・と気がつきました。
それを私の自由に使わせてもらって、感謝です。 ピタゴラスさんは、
優しくていい人でした (●^o^●) 
そんな訳で、
啓示録はもう少し続きます。 5巻に好きなところがあるので、それを載せるまで
もう少しがんばります。

最後に昌美先生の今月の法話にあったのですが、
「知識や博識でいくら真理を理解し、知っていても、その真理を完璧に実行に移し、体験として自らが納得しない限り、過去の負の遺産は消えないということである。」 
そ、そうです。。。(;一_一) 学んだら次は実行に移さねば・・・
まだまだ体験が足りませんでした。

今年もあと2日、、、
皆様、今年もじみ~な私の日記を読んで下さってありがとうございました。
来年も何卒よろしくお願い致します。

リドル
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by mppoe-light | 2009-12-30 00:39 | ピタゴラスさん啓示録から

転載☆二つの世界

ピタゴラスさんmixi日記から転載

二つの世界

人は、物質世界に限定されているものではない。
物質の法則に束縛されているものでもない。
物質世界は、ゆったりとした流れの中で、自己意識を映し出している。
量子の世界には神界の様相が織り込まれているのである。

人は、DNAに規定されているものではない。
DNAを運ぶ乗物でもない。
DNAのどの部分を読み取るのかを指示しているのは自己意識である。
DNAには肉体に神の姿を顕現する情報が組み込まれている。

人は、ニューロネット(神経経路)に規定されているものではい。
ニューロネットの感情パターンの奴隷でもない。
どのニューロネットを起動させるかは、自己意識が決めることである。
苦悩を経験していない本心のニューロネットは存在している。

人は、ペプチドやホルモンに規定されているものではない。
ペプチド(神経伝達物質)やホルモンの犠牲者でもない。
ペプチドやホルモンは、自己意識を物質に翻訳したものである。
人の脳は神の姿を顕すペプチドやホルモンを自在に創るようにできている。

人は、カルマに従って生きるものではない。
カルマから解脱できない存在でもない。
カルマを選ぶのか、天命を選ぶのか、それは自己意識次第である。
すべての人には神性顕現という天命が存在している。

二つの世界をこのように五つの側面から見ることが出来る。
二つの世界とは「恐れの世界」と「幸せの世界」である。
「凡夫の世界」と「我即神也の世界」である。
「カルマの世界」と「神性顕現の世界」である。

あなたが、過去に「凡夫の世界」の住人であったにせよ、
『今』この瞬間、『我即神也』を認めるならば、カルマなどは何の意味もない。
一つの世界のスイッチをオンにする自己意識は、他方の世界のスイッチをオフにする。
 一つの世界のスイッチをオフにする自己意識は、他方の世界のスイッチをオンにする。

 自己意識(軸)のスイッチは四次元軸のスイッチである。
 四次元のスイッチのオン・オフによって、現象界は全く別世界になる。
 この別世界には、古い世界のものは一切入り込むことは出来ない。
 カルマも、如何なる癖も、遺伝的傾向も、長年引きずった感情も入り込むことはない。

 新しいバージョンの自分には新しいバージョンの世界が開かれる。
 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることはない。
 古い自分を手放して、我即神也に徹することだ。
我即神也を深めることだ。
ピタゴラスさん27日の日記から


じわ~とハートに響いてくるなぁ・・・・・。。。
なぜピーさんの日記は じわ~と感動するのかと思うに・・・、
言葉の奥に、人間への大肯定、 完全な性善説があるから、・
そこに気持ちが惹かれて、難しい啓示録も読めるたんだなーと思いました。

(ハードな固焼き煎餅で・・・咀嚼するのに時間がかかったけど・・・(^_^;) あううぅ・・・。
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by mppoe-light | 2009-12-28 21:48 | ピタゴラスさん啓示録から

思考回路は逆転している

果因説を取り組んで嬉しいことの一つが
スタートもゴールも、果因説を取り組む人はみな同じ とういうこと。

この啓示録の著者ピーさんも、私も、そして印を覚えてこれから
果因説を取り組む人も、すべてみんな同じで差は感じない。(プロセスの違いはあるけど)
なぜかと言えば・・・
果因説で印を組むこととは、 
完璧な自分の「我即神也」からスタートして、それは必ず成就する。
と、いうことだから、
神で始まって神でゴールする。 
神に対立はなし。
業想念の自分は神性の自分とは一切関係なく、全てプロセス。
だから他人との比較もない、他人のプロセスを見てあれこれ余計なことを思い煩うことのない。
(でも、意識が下がるとあっという間に想いが振り回されるけど、、(;一_一)
でもそれも「我即神也」に意識を修正することで、進化のプロセスになる)

きちんと取り組まねば、、です、果因説での神事、印、祈りを。

上徳は徳とせず

自分が自分をどう定義すべきなのか。神とは一体どう定義されるのか。
自分とは一体何者なのか。自分と宇宙、神との関係とは?

西園寺昌美会長の回答は実にシンプルだ。

「我即神也」:私は無条件に神そのものである。
私は神を言葉・想念・行為に顕わすべき存在である。
神の言葉・想念・行為とはあふれでる、無限なる愛、叡智、歓喜、
幸せ、生命、健康、光り、感謝、エネルギー、パワー、成功、供給
そのものである。それのみである。

「人類即神也」:自分が神であるならば、人類も神そのものである。
すべての現象は「人類即神也」を顕すためのプロセスである。
「我即神也」の自分は、人類が自己を神と見なし、人を神と見ることが
できるまで、人類に代わって、「人類即神也」の印を組み続ける。
人類に神の無限なる愛・赦し・慈しみを与え続けるのである。

「我即神也」の自分は、「不完全なる自分はさておき」、神性を顕してゆ
く。それは「成就」する。

この説は観念論ではない。印は、この説が「成就した姿」である。
ここに果因説の印の素晴らしさがある。
因縁因果は「消えてゆく姿」であり、印は「成就した姿」である。
因果説―果因説と言うように、悟りの世界は思考回路が逆転している。

老子曰く、「上徳は徳とせず。是をもって・・・・
(う・・・読めないし、難しいから・・ここはパス・・・(― ―;))」
(老子道徳経章)38章

因果説では、人は徳を積んで、神になろうとする。
印を組み続けて、人は神になろうとする。

果因説では、人は神であるから、印を組む。
人には、神になるために、組まなければならない印はない。
神人は神の印(しるし)として、印を組む。

行為の結果として、神の喜び、褒美、カルマの相殺を期待するのは真の徳ではない。
神人は神の喜びの表現として印を組む。死後の世界の良し悪しの為に組む印は無い。
神人は神だから、徳そのものだから、愛そのものだから印を組む。

(省略)
2008/06/27
__
ピタゴラスさん啓示録

悟りの世界は思考回路が逆転している。・・・以下の部分
ここは、好きな部分です。 すぱっと簡潔に書いてありすっきりします。(#^_^#)

印は成就した姿、 いや~、 嬉しいではないですか♪
神だから印を組む。喜びの表現として印を組む。
私は本来神の分御霊。
印を組むことで、神としての自分を体験している♪
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by mppoe-light | 2009-12-25 22:29 | ピタゴラスさん啓示録から

自己定義 ザ・「老子」編

老子って聞いただけで、「ぎくーっ!」と硬直してしまいそうですが・・・、
でも、この部分は読んでいくと面白いので載せることにしました♪
出来ることなら、もっと簡潔な解説、と言うか
やわらか~い、ゆる~い解説だったら・・・と思うのですが、
それでは、老子や神々さまに申し訳ない・・・かぁ。
そんな訳で
いつものように 部分的にカットしつつ、
固焼きお煎餅のような、カチカチ啓示録を掲載させて頂きます♪(●^o^●)


「老子」における自己定義

老子曰く、『名の名とすべきは、常の名に非ず。無名は天地の始め
なり。有名は万物の母なり。』(注1)
名付けるとは定義することである。

宇宙全体が「私、I am.」と言う意識であるとき、「私」を定義するものは何もない。
それが天地の始めである。宇宙神が「私」を分けて、それぞれに天命という定義を与えた。
それによって、万物が生まれた。天命(定義、本来因果)がすべてを産んだのである。

神以外のものを体験できない神は、神以外の存在がない神は、自分のことを神と呼べない。
呼ぶ必要がない。だから、「わたしは在る。I am.」としか言いようがなかったのである。

五井先生は『有名は万物の母なり』の解説で、次のような布地のたとえ話をされた。
木綿の布地がある。それを布巾と定義したとすると、それはテーブルを拭くのに使われる。
布巾は時に漂白され、いつまでも白いままだ。
また、それを雑巾と定義したとすると、それは床を拭くのに使われる。
すぐに汚れた灰色になる。
名前を付けること、つまり定義することが自己達成予言となるのである。

それと同様、「私、I am.」(無名)と言う宇宙神から分かれた意識が人類一人一人にある。
「私」を「神、God」と定義したとすると、つまり「我即神也」と宣言すると、
神性を顕現し、いつまでも白光に輝く。
また、「私」を「神から離れたもの」と定義したとすると、「私」は凡夫になり、
カルマに汚れた姿を現わす。



ここでもまた 繰り返し、自己定義の重要性が説明されています。
「もういいよ~」って言われそうですが、私が面白いなぁと思ったのは、
この次からの部分です。 

少し前から、印を組むときに思ったことがありました。
神は無限なるものすべてなら、なぜわざわざ 「我即神也」って神を宣言するのだろう・・・???
神と言わなくても、無限なる愛 とか無限なる・・・でもいいんじゃないかなぁ・・・?
と思っていました。


我々は誰でも、「自分」と言う意識を高めてゆけば、あるいは、遡ってゆけば、高めてゆけば、宇宙神の「私、I am」と言う意識に
戻ることができる。
そのために、何故「我即神也、God I AM.」と宣言するのか。
神でないものを体験して初めて、神を意識できるのである。
「我即神也」は宇宙神にもどるための道標である。
「神」と言う言葉は月を指す指であって、月ではないかもしれない。しかし、
「神」と言う言葉によって我々は本来の姿に帰るのである。

『自分自身を定義するのは、自分でないものによってなのだ。』(注3)

自分自身を思い出すのに、本来、自分の名前はいらない。
しかし、一度、記憶が飛んでしまった場合、自分の名前が記憶を取り戻す助けとなることがある。
それが「神」という言葉なのである。
また、神以外の存在を体験していない神々にとって、神という言葉は貴重な贈り物となるのである。
つまり、神以外の体験(物質界の体験)をして神に戻るというプロセスは宇宙的に必要なプロセス
であり、意義のあることなのである。
『昔の一を得たる者。道は一を生ず。』(注4)と老子が言うように、一なる者は自分を神と意識していないのである。一者にとって、神以外の存在はないからである。
何故、このようなことを考えるのか。
これは単なる観念論ではない。人類一人一人のルーツに関わる事であり、出生に関する事だからである。
2008/06/15
注1 老子道徳経1章
注2 五井昌久著『神と人間』2章
注3 『神との対話』1巻1章
注4 老子道徳経章、章
ピタゴラスさん啓示録


自分自身を思い出すのに、本来、自分の名前はいらない。しかし、一度、記憶が飛んでしまった場合、自分の名前が記憶を取り戻す助けとなることがある。それが「神」という言葉なのである。
ここを読んだ時に、なるほど~と納得したわけです。 
本当の自分を思い出すためには、 「我即神也」が一番強力なんだ、と理解することが出来ました。 


何故、このようなことを考えるのか。
これは単なる観念論ではない。人類一人一人のルーツに関わる事であり、出生に関する事だからである。

ルーツや出生に関することが 、何故重要なんだろう・・・?
自己意識を我即神也にもっていくためには知っていると有効ってことかな。
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by mppoe-light | 2009-12-23 22:53 | ピタゴラスさん啓示録から

「常なる道」

わっ
うっかりしてました。こちらを先に載せるんでした・・・。

啓示録から
三道

『道の道とすべきは常の道にあらず。』(注1)

道と言っても「○○行き」と言う道は真の道ではない。
真の道、常なる道はどこかに至る道ではない。真の道には料金所もない。制限速度もない。
真の道にいるとき、あなたは既にゴールにいる。常にいつでも、ゴールにいる。
あなたに返すべき借りはなく、討つべき仇はなく、克服すべき欠点もなく、完成すべき修行もない。
自分で借りを返すべきであると思い込んだだけである。自分で仇を討つべきであると思い込んだだけである。

神はあなたに、何かを要求したことはない。あなたの本心は神で
あり。あなたは本心を顕わすべき存在である。
あなたがなすべきことは神を顕現することだけである。
常なる道とは自己意識を上昇する道である。自己意識軸である。四次元につながる道である。

常なる道には、「我即神也、人類即神也、成就」の三つの標識しかない。
①『我即神也』の標識の前では、「我即神也」と宣言し、
印を組む。神性そのものの自分をイメージする。

②『人類即神也』
の標識の前では、人類即神也の印を組み、人類に神性に目覚めるよう促すメッセージを送る。
光明波動を放射する。人類のところに赴き、物質を与えに行く道はない。
三次元世界の中で物質を与えることは、上からの目線で人類をみる。
人類の自己意識の上昇にはつながらない。
印で人類に祝福を与えることは、人類の自己意識の上昇に直結する。
イメージの中で人類の神性を祝福し、光明を与える。

③『成就』の標識の前では全託する。そして、神性の顕現を待つ。
印とイメージの中で、自分が神性そのものとなり、人類に神性を与える。
光明と祝福を与えるイメージは、光明と祝福を得る体験を創造する。

いつ、どのようなプロセスで顕現するのか。それは考える必要はない。
法則がそれをなす。
それが全託である。本物の道にはすべきことがない。よって無為である。
なすべきことのない道にいる神人は神を顕現する。


あなたがなすべきことは神を顕現することだけである。常なる道とは自己意識を上昇す
る道である。自己意識軸である。四次元につながる道である。


啓示録は、何度も何度も繰り返し自己定義の重要性が説かれています。
自己定義「我即神也」
果因説は自分を最上級の者とするところからスタートします。
 我即神也 → 人類即神也 → 成就
印とイメージの中で、自分が神性そのものとなり、人類に神性を与える。
光明と祝福を与えるイメージは、光明と祝福を得る体験を創造する。
いつ、どのようなプロセスで顕現するのか。それは考える必要はない。
法則がそれをなす。それが全託である。本物の道にはすべきことがない。よって無為である。


私たちのやっている祈り、印、神事は、日常生活で自由にできるシンプルさなのに、
その中身はとても奥深い。 すご~い!


自己達成予言

量子力学で説かれる観察効果と対人関係でのピグマリオン効果とは元が一つで、この法則は人間の創造主としての特権を保証するものである。
社会現象でも自己達成予言と言われる同様の現象がある。
実際には起きるはずのないことでも、そうなると予言することによって、予言したことが現実になってしまう。
事例をご紹介しよう。

1973年12月、愛知県で実際に起きたことである。3人の女子高生が、通学中に就職について話していた。
一人は「○○信用金庫はつぶれるよ」と言った。それは冗談であり、経営数字上の根拠はなかった。
しかし、その話が、それを聞いた女子高生の叔母―友人―美容師―、、、クリーニング店―お客、、、、と伝わった。
すると、5日後には80名が当信用金庫から6000万円の預金を引き出した。
翌日には100名が列を作り、17億4000万円を引き出した。
一時、その地域は騒然となった。1週間後、伝わった情報がデマと判り、正しい報道により、事態はようやく収拾を得た。
たとえ嘘から生まれたものであろうと、○○信用金庫は倒産し預金が危ないと言う信念(予言)が○○信用金庫を倒産の危機に追い込んだのである
 
このように自分の信念( 予言) が自分の信念の通りの状況を創りだすのである。
自分が結果を予測し、それに見合った行動をとると、自分の行動によって自分の予測が実現してしまう。
こう言い換えることも出来る。

自分が信念を持ち、それに見合った行動を取ると、その行動によって、自分の信念が実現する。
この社会現象としての自己達成予言もピグマリオン効果も、量子力学の観察効果も同じ宇宙の法則の一側面なのである。

繰り返して言うのだが、我々にとって最も大切なことは自分に対する予言、つまり定義(イメージ)である。
本来、人間は神として、どの側面を天命として果たしてゆくのかを宣言( 予言) し、
その信念を実現するために無限なる創造力が与えられていた。
その天命はすべて成就するのである。
しかし、肉体世界の経験の中で、人間は神たる自分を見失ってしまった。
忘れかけてしまった。
「神から離れた自分」という自己定義(イメージ、意識)が生じてしまった。
そこから罪悪感、復讐心、不安感、自己防衛意識が生じ、そこから無限なる創造力によって、
諸々の消えてゆく姿が生じてしまっている。
たとえ嘘から生まれたものであろうと、その誤まてる信念が人類を危機に追い込んでしまっているのである。

神人はその自己定義を『我即神也』に復元しているわけである。
何年かのうちに、消えてゆく姿が急激に減少し、『我即神也』の宣言が成就し始めることに決められているのである。

『我即神也』のイメージのうち一番強力かつ明確なのが『人類即神也』のイメージである。
つまり、『神なる自分が人類に神の無限なる愛と赦しと慈しみの光明波動を放射する』というイメージなの
である。
この光明波動の放射は信用金庫の例にならうと、「○ ○ 信用金庫の経営状態は正常ですよ」と言う報道のようなものである。
人類に『人類一人一人は無条件に神ですよ。』と言うメッセージを放送しているのである。
これによって、個人の幸福と世界人類の平和が同時に『成就』してゆく。
2008/06/11
ピーさん啓示録から


さっ、今夜はささーっと片付けて、
リプトンの本を読む!!!
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by mppoe-light | 2009-12-17 19:27 | ピタゴラスさん啓示録から

「三つの標識」

「三つの標識」のところ、はじめは何の説明なのか混乱したのだけど、 
つまり個人人類同時常道の仕組み と言うことに・・・?。


<三つの標識>

「双子を産む意識と無限なる神性を産む意識」

一方で、「自分以外の誰かが悪い、何かが悪い。」と主張する。
この被害者意識、犠牲者意識は報復、あだ討ちを欲してやまない。
他方では、「自分には罪がある。償いをしなければならない。」と主張する。
この罪悪感は自分を処罰する。

一方では他を責め、他方では自分を責める。
この二つは対極のように見えるが、双子のように人間の心の中に同居している。

高慢と卑下慢、怒りと心配。力のある人には平身低頭と力のない人には蔑む。
これらも双子である。これらの双子たちは「神から離れた自分」と言う自己意識から生まれ出た。
この双子たちの対極は神の愛と赦しと慈しみである。

「神から離れた自分」という自己意識を癒すのは神の無限なる愛と赦しと慈しみである。
「我即神也」であるならば、すべては赦され、すべてを赦してしまっている。
神に愛され、人を愛すことが出来る。神の慈しみの中で人を慈しむことが出来る。
無限なる神性のすべては「我即神也」という自己意識から生まれ出る。


「再び三つの標識」

神の道には三つの標識がある。

①「我即神也」と言う標識
私の本心は光り輝いている。本心は無限なる神性を産む。本心には無限なる神性が在る。
私は私の本心を神として崇める。

②「人類即神也」と言う標識
人類の本心は光り輝いている。「人類即神也」の印によって、人類の本心が持つ神性を目覚めさせて行く。
人類に本心の栄光を讃えるメッセージを送る。私も人類も無条件に神そのものです。
私の本心は人類一人一人の神性を尊敬し、愛し、大切にいたします。

③ 「成就」と言う標識
私の本心は現象界においても光り輝く。私は人類に分かち与えた神性を言葉、想念、行為に顕現する。
それは分かち与えることによって顕現する。私は神性に満ちた人生を創造する。
自分を愛し、神に愛された者は、人に愛を送る。人に愛を送る者は、愛に満ちた人生を創造する。

自分を赦し、神に赦された者は、人に赦しを送る。人に赦しを送る者は、赦しに満ちた人生を創造する。
自分を慈しみ、神の慈しみを受けた者は、人に慈しみを送る。
人に慈しみを送る者は、慈しみに満ちた人生を創造する。
心の中で幸せな者は、人の幸せを祈ることが出来る。人の幸せを祈る者は、幸せに満ちた人生を創造する。

三つの標識の意味
6 月8 日、西園寺昌美会長は果因説に基づいて、イメージを使った成就の方法を説かれた。
何かを希望するのではなく、既に成就している状況をイメージする。すべてが可能であると説かれた。
当然、成就すべきは三次元世界の欲望を含めたものではなく、あくまでも神性顕現のことである。

神性を成就しているイメージの中で一番強力、かつ明確なイメージは何であろうか。
それは人類に神性を与えるイメージである。

例えば、健康を顕現しようとするとき、先ずは、①自分の本心、本体が全く健康であることをイメージするわけである。それに『与えよ、そうすれば、与えられるであろう。』と言う真理の法則を併用するわけである。

②人類も私と同様、健康体そのものである。人類の本心は光り輝いている。本心の内には無限なる健康がある。人類一人一人が無限なる健康に目覚めるよう光明を放つ。

つまり、人類と無限なる健康を分かち合う。人類が内なる神性に目覚めるようエネルギーを人類に与えるのである。このように祈り、イメージし、印によって人類を祝福する。

③与えたことによって、自分は健康を顕現する。健康を成就する。

①と③だけでも法則は成就する。
しかし、これに②を加えることによって、成就が何倍も確かなものとなるのである。
もちろん、自分の成就が早くなるだけではなく、人類の光明化に役立っているわけである。

これぞ正しく、個人人類同時成道の「世界人類が平和でありますように」の本質であった。
さらには、世界各国の平和の祈り、光明思想徹底行、地球世界感謝行、唱名を伴う呼吸法、人類即
神也の印、2008年御神事に共通する本質である。

意識して利用すればこの法則は個人、人類の成道に役に立つ。
2008/06/10
 ピタゴラスさん啓示録より

絶対に個人と人類は切り離されるものではないのですね。
すべてはひとつ。マグタブ

神性を成就しているイメージの中で一番強力、かつ明確なイメージは何であろうか。
それは人類に神性を与えるイメージである。

ここは、メモしておきたいところ!
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by mppoe-light | 2009-12-16 23:26 | ピタゴラスさん啓示録から

だからこそ光明思想徹底行

朝、神事を行なってから出掛けても、些細な出来事で
自己定義「我即神也」はあっというまに吹っ飛んで意識は下がってしまう・・・。
かなしー(T T)
かなしーけど、これも消えてゆく姿で、本来の自分は光輝いているんだと
ド根性で思い直す。
へこむより、思い直した自分を褒めてあげることにしよう。 
「よくやった!あんたはエライ!」

失敗しても、「我即神也」へ意識の修正をしようとする自分を褒めてあげようー。 
「私は本来、我即神也 、私は素晴らしい、!」
毎日が抜き打ちテスト?みたいなもんですね。
自分の(神意識の)実力アップに繋がると思えば、
何があっても、「いらっしゃい いらっしゃい」って感じで全てがOKになる。

素直に、シンプルに、そして明るくやっていきたいものです。


啓示録から
神の無限性
ここは、バッサリ省略して・・・)

定義が何故重要なのか? 自己定義がその人のすべてを決定するからである。
神は無限なる愛、英知、歓喜、幸せ、感謝、生命、健康、光、エネルギー、パワー、成功、供給である。
自分はその神であり、人類も同様に神である。

この定義はその通りの平和そのものの世界を創りあげる。これが宇宙の法則である。
観測者は量子の姿に、観測者が期待する姿を見る。人間関係もしかり。
人は他人の中に期待した姿をみる(ピグマリオン効果)。

自分の世界はすべて「自分が自分をどう定義したか」の結果である。
だからこそ、光明思想徹底行は重要である。
この行は神・自分・人類の定義を自分の意識に再徹底する行である。

********************************************

光明思想をよくかみしめてみよう。
神は無限なる赦しであり、私も無限に赦され、私は自分と人類を無限に赦している。
神は無限なる歓喜であり、私も人類も喜びに満たされている。
神は私・人類の想念行為によって不機嫌になることはない。
私・人類の処罰、生贄によって神は満足感を取り戻し、機嫌を直すことはありえない。
神は無限なる愛であり、私・人類と一つである。私・人類の悪行、失敗によって神は離れることはない。
神は我々を蔑むことはない。神は無限なる豊かさであり、私も人類も無限なる豊かさに恵まれている。

私も人類も自分を正しく評価できれば、因縁因果の世界で体験したことの無い豊かさを体験することができる。
世の富裕層は因縁因果の善徳によって豊かだが、神人たちは神の性質によって豊かさの中に生きることが出来る。
それがどのように、如何にしてと言うことは法則の中にある。
それが説明できないことでも、神人には調和・健康・豊かさなどすべての神性を顕わす大天命がある。
人類が未だかつてやってのけたことがないかもしれない。
しかし、神人には大天命がある。その大天命は間違いなく成就するのである。

神は無限なる神性のすべてであり、「無限なる私」である。「無限なる私」以外に「私」と言う意識は無い。
あなたの「私」も「無限なる私」以外のものになることはできない。
「無限なる私」が役割(大天命)を持って様々に顕われた「私」があるだけだ。
神の私、意識、生命、イメージは無限であり、無限なるものは一つである。

2008/05/27

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by mppoe-light | 2009-12-13 10:42 | ピタゴラスさん啓示録から

田中氏の国際ニュース解説


”官僚が隠す沖縄海兵隊グアム全移転”http://tanakanews.com/091210okinawa.htm

もうテレビのニュースは信じてないので
あまり見ないのだけど、 
最近この沖縄の基地移転問題について盛んに報道が流れるので 気になってました。
いったい何事なんだろう? と思って
田中氏のニュース解説にいってみました。
すると
やっぱり取り上げてありました。
面白かったです。(#^_^#)
なるほど、なるほど☆でした。

田中氏の日本政府の内情の解説、面白くて毎回読んでいます♪
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by mppoe-light | 2009-12-12 21:34 | どってことない話☆

イメージについて

「弟子に心の準備ができたとき、ちょうど師匠がやってくる」

この古代中国の諺は、東洋思想の基本になる考え方をよく表わしています。
それは、人間の心の中で起こることと外界で起こる出来事、つまり内なる世界と外なる世界の微妙な
つながり方を示しています。
C・G・ユングはこの考え方を共時性(シンクロニシティ)とよび、”意味のある一致”と定義しました。
・・・・

と始まる、ユング心理学者さんの、「タオ心理学」という本の冒頭です。

10年以上前の本なので 今更・・・の内容なのですが、

「弟子に心の準備ができたとき、ちょうど師匠がやってくる」この諺はやっぱり良く出来ているなー・・・・と思いました。

今、啓示録 を読んでいます。 、日記に載せたいという目的もあって、繰り返し読んでいます。
これが1~2年前だったら、こんなに夢中にならなかったと思います。
まず、内容が今ほど理解できなかったでしょう~。(笑)

今だから 読むことの出来た啓示です。
ちょうど富士も4次元になり、果因説の共時場もできました。 だから
私の準備ができたとき、ちょうど必要なものに出会えた・・・ という感じ。

きっとこれまでも、そうだったのだと思います。  

↓今日は、イメージについてです。 

”イメージ、祈りと念力”

自己意識(自己イメージ、自己定義)には大別して、「我即神也」と「我即非神也」の二種類がある。
両者に普遍的に働いているのが、「想念の法則」=「プロジェクター作用」である。
自己意識は想念の法則・プロジェクターを通して形ある世界を創りなす原因である。

「我即非神也」の意識は輪廻する世界を創り、「我即神也」の意識は神性顕現を行う。
その現象世界を創造する作用を強化するのが、思念の力、イメージ力である。

「我即非神也」の自己意識の中で、念力、イメージ力を使うと、一時的にうまくゆくこともある。
しかし、最終的にはその「我即非神也」の自己意識を修正せざるを得ない状況に行き着くことになる。

「我即神也」の自己意識の中で、イメージ力を使うことは、果因説の生き方である。
それは神性顕現であり、祈りである。神性顕現も想念の法則を通して成就する。
別の言い方をすると、想念の法則の正体は神の無限なる創造力そのものであり、それを誤用している
のが因縁因果の法則である。
自己意識を「我即神也」に高めようとせず、意図的にこの想念の法則を誤用するのが念力である。
誤用の結末は自己意識の修正だが、それには痛み、苦悩が伴う。
そうならない為に、「我即神也」のエネルギーを高める方法がある。
しかし、それは念力ではない。
自己意識が「我即神也」にあるからであり、「我即神也」は太初からあるもの、宇宙の生地としてある
ものだからである。
「我即神也」のエネルギーを高めて、神の姿を顕現することは、大天命であり、
宇宙神の意図するところである。


”イメージ力”

西園寺由佳会長代行は祈りにもイメージ力が大切と言われた。

『神様と一体になれる心の喜びや至福、愛と光そのものになっている自分をイメージする。
生きとし生けるものすべてを救い上げる光を放射している自分の姿を、強く強く脳裏に焼き付けていく。』(注1)

西園寺昌美会長もイメージ・トレーニングを推奨しておられる。

『今やイメージ・トレーニングの時代である。彼ら(スポーツ選手等)は、
人類すべての中に無限なる能力、無限なる英知が存在しているという真理を知らなくとも、
その力を発揮しているわけであるから、我々のように真理を識っているものがイメージ・トレーニ
ングをすることは、凄いことなのである。

” 我即神也”という真理そのものをイメージするわけであるから、驚異的である。
我々自身が神そのものになったつもりでイメージ・アップする。

神の姿とは個我が全く無く、無限なる愛、無限なる英知、無限なる生命そのものである。
家族に、人々に、人類に与えつづけるのみの無限なる愛、無限なる光に徹するのである。
その神の姿を自分の心の中にイメージする、ただそれだけで、心がやわらぎ、
感情が鎮まり、トラブルが消え失せ、すべてを愛と感謝の心をもって赦せるようになるのである。
これが我々の目的である。

神である自分は常に光り輝き、愛に満ちあふれ、生命生き生きとしているものだとイメージしてゆく。
そのうちにそれが習慣となり、潜在意識に蓄積されてゆく。
それを繰り返してゆくうちに自然に、” 我即神也”の境地そのものに達してゆく。
真の真理への目覚めに到達できるのである。』(注2)
(省略)
2008/05/02

注1 西園寺由佳会長代行白光誌2008/5 知識とイメージ力
注2 白光誌1994/4 文章の一部を省略いています。


”メイクアップからイメージアップへ”

西園寺由佳会長代行のあるエッセイを思い出してみよう。

『想像力豊かな女の子の発言にハットさせられた。
景色さえも、自分の意識次第で美しく輝かせることもできれば、
無味乾燥な存在にさせてしまう。』(注1)

意識と言う次元を想定し、そのレベルを変えると、このように同じものが全く違って見えてしまう。
我々にとって、最も根本のことは『自分が自分のことをどのように見ているか』である。
そこで、
会長代行の言葉を自己意識に当てはめると、次のようになる。

『自分自身さえも、自分の意識次第で神として美しく輝かせること
もできれば、凡夫のような存在にさせてしまう。』

この『自分が自分のことをどう見ているか』が自分の運命を決めているのだから、
人間にとっては一大事のことである。

我々は無意識のうちに自分に価値判断を加え、凡夫の自分を引きずっている。
その凡夫の自分と言う価値判断を退け、本心の自分を言葉の力で呼び出すのが祈りである。
現象の世界には無くとも、神の意識の世界に既に成就している姿を呼び出すのが祈りである。
想像力を使ったイメージ力は祈りの力を増幅するブースター(増幅装置)である。

世界平和、神の姿は現象世界では見つけがたいが、それは既に成就している。
世界人類即平和也、我即神也、人類即神也の姿として成就している世界がある。
祈りはその真の姿を呼び出す行為であり、思い出すプロセスである。

では、どのようにすれば、この原理を効果的に使えるのか。
無意識の自分に対する価値判断をやめること。本心、神としての自分自身を崇めること。
神なる自分と対座し対話し一つになること。つまりは、我即神也を極めることである。

そのための、西園寺昌美会長の推奨宣言文は次の如くである。

『私はすべてを知っている。私は真理そのものだ。私は絶対だ。
私は完全だ。私は神そのものである。私は大調和そのものだ。
私は自由そのものだ。私はすべてを創造する。私は出来る。私は在る。
私は永遠。私は全知全能だ。』(注2)

自分が神を顕現する前に、我即神也のイメージをしっかり持つ必要がある。
三次元世界で毎日メイクアップ(化粧)するのと同様、
我々は四次元軸(自己意識軸)を使って自分を毎日イメージアップする必要がある。

イメージの世界、自己意識軸上で『自分を磨き高め上げる』のである。
三次元に限定された現象界で『自分を磨き高め上げる』より、イメージの世界で『自分を磨き高め上げる』方が、易行道であり、効果的なのである。
2008/05/06
注1 白光誌2008/5 想像力について
注2 白光誌1996/4

ピタゴラスさん啓示録
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by mppoe-light | 2009-12-06 22:52 | ピタゴラスさん啓示録から

宇宙と言うウェブ

私の意識に合わせて私の世界が存在します。
すべては私の広がりだから、相対はない。
だから対立もない、だから無限なる調和、平和。

と、 神事を行ないながら こんなこと考えてました。
しばらくしてから、
私の世界と(宇宙っていってもいいけど)
私以外の人の宇宙とは どんな関係になっているのだろうか・・・??? と考えてしまいました。

で、 インドラの網 の部分を思い出し、 「なんかヒントになること書いてあったけー」
と読んでみました。



インドラの網

(省略)
神なる自分をイメージした者は必ず神なる自分を発揮する状況を引き寄せ、神なる自分を体験する。
神を顕現する。
究極の事実の宣言、確信の宣言、つまり祈りは感謝につながる。そして、祈りは神たる自分の栄光を思い出すことである。我々の自己意識の究極は「我即神也」であり、神の自己意識の一つが我々である。
我々は宇宙の自己意識である。宇宙は分霊が抱く自己イメージを通して宇宙自身を表現しつつある。
分霊の自己は自己イメージを通して宇宙を顕現しつつある。この二つは一つである。
だからこそ、『自分・私』という意識は神聖なのである。生命にしか意識はなく、
意識は神の広がりであり、延長である。

(省略)
あなたが神を顕そうとしているときは、宇宙があなたを通して顕われようとしているときである。
この二つは一つである。よって聖典に曰く、「汝の神を試みてはならない」。
神は人が顕現すべき存在である。神は人が顕わすことによって顕われる。
神はあなたが顕現しようとするところに顕われる。必ず、神はあなたの意図に応ずるようにあなたの体験する世界を創りだす。恣意的に、あるいは何かの審査結果によってあなたの意図に応ずる、
応じないと言うことはない。
(省略)
五井先生は「祈る肉体側と救済の神々と両方からトンネルを掘っていけば、いずれ、両者は通じ合う」と言われた。この科学的な意味は次の如くである。
『人が一方からトンネルを掘るとき、必ず神は他方からトンネルを掘る。この二つは必ず出会うことになる。
宇宙から切り離された人はなく、人を内に含まない物質だけの宇宙はない』。

あなたの意識は宇宙と言うウェッブ( 織物、インターネットシステム) 上にあり、孤立したことはない。「孤立している」と錯覚することはできても、孤立することはできない。その錯覚がなくなるや否や、
あなたの意識が意図することは必ず成就する。

「宇宙から切り離された自分」と言う自己イメージは凡夫の世界を創造する。
その世界の創造は神の創造力= 想念の法則= プロジェクターの働きによるのだが、
宇宙のウェッブを通して創造(仮構)作用は成就しているのである。

「我即神也」を如何なる手法によって顕現するのか。祈りと印と神事によってである。
これらもまた、宇宙のウェッブを通して成就する。あなたが単独に、
祈り、印を組み、神事をなすことはない。
そういった時には、あなたの本心、守護の神霊、諸神も必ず祈り・印・神事に参加しているのである。

さらにウェッブを通して、人類規模の光のネットワークが輝き合い、
人類が真理に目覚めるよう促しているのである。
従って、個人人類同時成道と言われる。

個人個人の自己意識軸も宇宙全体のウェッブの中に含まれている。
ウェッブも自己意識軸の座標に従って、多層に存在する。同じ層のウェッブ上の意識は磁力のように互いに引き合い、一つの共磁場を形成する

インドラの網(注1)

インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網の結ぶ目には、一つ一つに宝珠がつけられている。
その一つ一つの宝珠は他のすべての宝珠を映し出す。
その他のすべての宝珠を映し出す宝珠の姿が、再び他のすべての宝珠に映し出される。
孤立し、一つの独立者として存在するものはない。人間はインドラの網にある宝珠の如き者である。

一人の人間には宇宙全体の情報が含まれている。人間は無限なる神の一面であり、ホログラフィー(部分に全体の情報が記録されている)である。一人の人間がそのまま、アカシックレコードなのである。
啓示録から


神の自己意識の一つが我々である。我々は宇宙の自己意識である。
宇宙は分霊が抱く自己イメージを通して宇宙自身を表現しつつある。
分霊の自己は自己イメージを通して宇宙を顕現しつつある。
この二つは一つである。


こういった内容は、以前から大好きでした。
どこで聞いたのか、読んだのか、 
松尾みどりさんのレクチャーテープだったか、ラムサだったか、 憶えてないけど
人間が存在している意味 を見つけたような気がしました。 

こんな風に言ってもいいと思う。
「宇宙は私たちを通して自分(宇宙)の顕したものを体験している」 そう思うと、わくわくして嬉しくなります♪
ただ、、周りの仲間に このことを話すと、
みんな冷ややかな反応だったので 長い間黙ってましたが(笑)

で、はじめの疑問が解けたのか・・・・というと、 宇宙と言うウエッブが、形としてしか理解できなくて、
頭の中に、網目の模様しか浮かばない・・・。。。マスクメロン状態。。。
結局、何も解決しなかった・・・。 (T T)
でも、
それぞれの宇宙はあるんだよ、形はないけど。
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by mppoe-light | 2009-12-05 23:03 | ピタゴラスさん啓示録から