これって果因説の威力・・・!?


朝の神事をする前に 欠かさずやっていることがあります。
自分の意識を高めるために、まず 
「守護霊さま ありがとうございます」
「守護神さま ありがとうございます」
「本心さん  ありがとうございます」
そして 我即神也の宣言をし、神事スタートです。
神事は、本心が肉体の私を通して行なっているのだ・・とイメージするためです。

先日、いつものように守護の神霊、本心に感謝をしてから神事をスタートしました。
スタートして間もなく、 宣言を口にしている自分が 
なんて尊い存在なんだろう・・・素晴らしい存在なんだろう・・と思えてきました。
自分は神なんだ、と思い出し始めたような気がしました。

その後も、いつもと違う深い気持ち、感覚につつまれながら
呼吸法の印、お祈りをしました。

自分が神である と信じる気持ちが深まるということは、
それだけ自分の抱えていた自己否定部分が癒され、
自動的に自分を赦しているのだと思います。
なぜなら
それまで、いつも引っかかっていた事が さほど気にならなくなりました。 
以前より早く我即神也に切り替えられるようになりつつあります。

自分の外の世界は自分自身の現れなのだから、外部の人や出来事に
引っかからなくなる ということは、自分が変化したのです。
自分の中で 無意識のうちに押さえ込んでいた、過去の赦せない自分を 
私は赦したのです。 本来の自分を信じることで!

これって果因説の威力・・・?!

果因説とはこういうことなのか と、思いました。

我即神也 人類即神也
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by mppoe-light | 2009-11-30 23:13 | 真理について思ったこと

「自分を愛し、人を愛す」

ピタゴラスさんの啓示録から

『自分を愛し人を愛す』

私は再び、例の菩薩に指導を受けることになった。

「人の持つプロジェクターには様々な意識が送り込まれている。
これは、『自分は肉体である』という自己意識から派生したものだ」と菩薩は言いながら、ある人の意識を言葉にして見せてくれた。

『我々は肉体に限定された存在だ。死は最も恐怖すべきものだ。
神などいない。いたとしても我々に罰を与える神だ。
私の怒りと恐れは私の本能であり、最も正当な感情だ、世の基準となるべきものだ。
人生に起こることの原因は常に外部にある。自分はいつも、その外部の存在の被害者である。
自分は愛される資格がなく、苦しんでも仕方がない存在だ。
自分の罪深さを償うには、自分が苦しみ続けることだ。

外部の物質を得ることだけが私に幸福をもたらしてくれる。嫌な人が変わるか、いなくなれば私は幸せになれる。ゼロサム社会だから、誰かが不幸になれば、私は幸福になれる。
人が幸福になれば、自分は損をする。人はすべて別々で利害は常に対立する。』(注1 )

「この他にも、こういう意識もある」と言って、菩薩は別人と思われる人の意識を見せてくれた。


『宗教の教えは大切だ。人に優しくすべきなんだ。私は本来、悪い人間だ。人に優しくしてみよう。
それが完璧にできたならば、私は人からも愛される人間になれる。
そうしたら、私は自分を心底から愛することができる。悪い人間も帳消しにすることができる。』


「いろんな人がいますね。世の中には唯物的な人が多すぎます。宗教カルマもあるし」と私は言った。

「全部、これは君の意識から読み取ったものだ」と菩薩。

一瞬、間が空いた。
二人同時に一言ずつ。

「まさか他人事のように言うとは思わなかったよ」と菩薩。

「まさか自分の事とは思わなかった」と私。

「妙に息が合ってましたね」と私はボケたことを言ってしまった。

「お互い、逆のことを言いながらね」と菩薩はすかさず突っ込みを入れてきた。

それから菩薩の説法が始まった。

肉体人間観、凡夫観を持っているからと言って、誰も君を責めることはない。
そういった意識はいつかは消えてなくなるものだ。
素晴らしい教えを説く聖なる人を尊敬する人々の集まりですら、非友好的な人間関係になりがちだ。
否、必然的にそういう結果になる定めになっている。

聖なる人を高く尊敬する人は、往々にして自分を低く汚れを持った人間と観る傾向にある。
気が優しくて、まじめで、人を大事にしようとする善意ある人でも、自己意識が低い場合が多いのだ。

その低い自己意識は、人から大事にされない状況・体験を呼び寄せるのだ。
そのような人は傷つきやすく、感情がすぐ乱れてしまいやすい。
そうすると、益々自己評価が低くなる。
そのような自分より、先ず人を愛するように、と言う教えは、決定的に救われない人間を創りだす。
宗教組織にとっては、それがまた好都合なのだ。宗教組織の継続が約束されるからだ。
花粉症の人は根本的に治癒しなくとも、少しの気休めがあれば耳鼻科に通うことになる。
結果的には耳鼻科医が繁盛し続けることになる。それと状況は全く同じだ。

自分を神と拝み、人を神と拝む(注2 )。私はそれを訓練してきた。あなたもそうしなさい。
自分を神と拝まないで、偉い人を拝むことがいかに危険なことか、今言った通りだ。
だから、私は君の前に三度目に現われることはない。

「五井先生!と崇拝することはどうなんでしょう?」と私は尋ねた。

五井先生はきちんと明言されている、『五井先生は、皆さんの本体なんです。
皆さんの本体も、私の本体もみんな一つなんです。宇宙は一つだから』(注3 )と。
凡夫はいつも、そういうメッセージを聞き逃すだけだ。だからと言って、誰も責められることはない。
人類即神也のプロセスがあるだけだ。人類はプロセスの中で目覚めつつある。

五井先生と自分とは自己意識軸で繋がっている。
五井先生が一度に大勢の人、一人一人を指導できるのは、各人の自己意識軸を使っているからだ。

自己意識の深いところに五井先生はおられると言うことだ。
真理は『自分を愛するものは、人を愛することができる。人を愛するものは、人からも愛される』だ。

最初にすべきことは、自分が自分自身を無条件に愛することだ。『我即神也』を極めることだ。
『最も愛情深い人間とは、最も自己中心的人間だ(注4 )。』
これが「人間と真実の生き方」にある『自分を愛し、人を愛す』の意味だ。

『我即神也』『人類即神也』のメッセージは『自分は神性そのものだ。
すべての人も、私と同様、神性そのものだ』と言うことである。
『我即神也』が初めになくして、『人類即神也』は成立しない。
しかし、『人類即神也』なくして、『我即神也』は完成しない。

自分を神と拝み、人を神と拝んだ時に湧き出る光明波動は人類を慈しんでならない。
『人類に目覚めを促す光明波動を発する神なる自分』と言う自己イメージ
を持ち続けなさい。これは九合目の教えだ。

白光誌の表紙の裏にある『世界平和の祈りをするところに必ず救世の大光明が輝く』の一つの意味を教えよう。
この説明は、白光の教えの初めの教えであった。言わば、1合目の教えであった。
五井先生は『救世の大光明を放つ自分』というイメージを作る訓練を、我々にさせて下さったのであった。
ところが、まさしくこれが九合目の教えであったのだ。五井先生の深謀遠慮には全く恐れ入る。

注1 「LoveistheAnswerやすらぎ療法」ジェラルド・G・ジャンポルスキー、ダイアン・V・シリンシォーネ春秋社参照

注2 「自分を拝み、人を拝むのが一番いいのです。それが信仰の極意であり。根本です。」(白光誌1967

注3 五井昌久著「光明の生活者」P.38
注4 「神との対話」 ニール・ドナルド・ウォルシュサンマーク出版引用


啓示録は、科学的に宗教的に、丁寧に緻密に著述されてあります。
理論的にも納得ゆくように物理学が用いられ、今私達が行なっている 消えてゆく姿、本心と業想念、
祈り、印 果因説の意義 などが解説されています。

今までは ぼんやり理解していただけの さまざまな神事の意義が、すっきりと納得できる内容でした。
(むずかしい部分は横に置いて・・・(笑)

これからは、ピタゴラスさんの啓示録のような法話(or講話)が 白光にあってもいいと感じました。 
必要としている人がいると思います。

ピタゴラスさんに啓示録の使用をOKして頂いてから、

掲載するのにややこしい・・・と思った部分は、ザックリ省いたり
部分的にだけ抜粋したり と、ホントに私の好きなように掲載させてもらっております。
(量子力学やエコー効果、ピグマリオン効果・・・ などの部分は
思いっきりバッサリ切っております。(^^;)
こんなに自由に使わせて頂いて、無限なる感謝です。

 ・・って、こんな風に書くと 啓示録も今日で終わり?みたいな
雰囲気になりますが・・・、 まだ終わりません。(笑)
無限なる愛に 感謝しつつ、
今後も、自由にコツコツと続けていこうと思います。
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by mppoe-light | 2009-11-26 23:04 | ピタゴラスさん啓示録から

「私」の意識

「私」の意識があるところに世界が存在します。私の世界です。
「私」という意識はもともと自由自在なんだけど、高次元に入ることよりも、
もっぱら3次元に留まることを選んでしまいます。(無限なる進歩)
そして、その時々の意識の高さに応じた世界を体験しています。

自己意識を上昇させることを難しくしているのは、
私の場合、
潜在意識にある 恐れや不安の想いが強いから・・と思うのですが、
でも・・・、

「前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。」
だから 我即神也  です。
朝の神事があるから心強いです。 呼吸法の印があることがありがたいです♪


神性顕現の時代

あなたの今の人格が悟りを開くのではない。そうではなく、太初より救世の大光明の一員であり、
救世主として生まれてきた神。久遠実成の仏であり、
アブラハムより先の時代にも輝いていたキリスト、あなたの直霊神、本心が顕われてくるのである。
その時、あなたは別人が顕われてくるとは思わない。
『あなたの神』、我即神也が顕われてくるのである。

自己意識軸上を移動する『自分』はあなたの意識の座( 座標)に現われてくる意識を自分とみなしていた。
その『自分』は無批判に現われてくるものを概ね100%の確率で自分と思ってしまう。
いかに惨めで、恐怖と怒りに満ち、不調和であろうと、失敗した姿であろうと、
現われたものを自分と思ってしまっていた。

しかし、『自分』は「消えてゆく姿と世界平和の祈りの行」と「無限なる赦し」と「我即神也・
人類即神也の宣言と印」によって次第に訓練されてきた。
つまり、『自分』は本心と業想念の区別の仕方が解ってきたのである。

その訓練された『自分』が「直霊神こそが自分である」という確信を持つとき、
神の姿が顕現し始める。
あなたの『自分』は神性が顕われたとき、「それは自分ではない」とは絶対に言わない。
『自分』が自分に目覚めたのであり、真の自分を思い出すだけだからである。

ただ、『自分』が自分の神性を認めてこなかったため、神を顕わす
体験をしなかっただけである。

******************************************************

神性の顕現は我々の天命であり、人生の目的そのものである。
この顕現は自己意識を次元上昇させる領域であるから、自力の領域ではない。
自己意識の上昇は、他人が助けに入る余地は全くない。
自立の領域である。自己意識軸上の上昇はエレベーターの上昇のようであり、
トンネル効果である。

自己意識軸のいと高きところ、それは「我即神也」である。
それこそが聖地であり天国・御国にいたる狭き門である。

自己意識より諸々の意識・想念・信念が派生する。すべての想念の背後には自己意識がある。
意識・想念・信念はプロジェクターを使って体験を生起させる。
体験は罰によって完結するのではなく、自己意識の軌道修正を促すように生起する。
つまり、因縁因果・想念の法則である。これが一つのパラレルワールドを形成する。

それぞれの自己意識にはそれぞれのパラレルワールドが派生している。
いくつかのワールドの中で、最もエネルギーの高いものが肉体界で体験されるのである。

最も高い自己意識・我即神也に派生するワールドは天国であり、御国と呼ばれる。
既に出来上がっている世界である。因縁因果によってできた世界とは別世界である。
既に出来上がっているから果因説の世界である。

太初に『我即神也』ありき。我即神也は原初の意識であり、
永遠の生命である。
生命の響きは言であり、言によって神の歓びに溢れる世界が生まれた。
その神の歓びに溢れる世界を、我々は肉体界で体験することを選択したのである。
それは必ず大成就する定めとなっている。

宇宙神が問題視しているのは自己意識軸の領域のみである。
無明から生起した世界のすべてについて、宇宙神は不問に付しておられる。

それとは反対に、「我即神也」から生起する世界では、無為自然の内に必要なものはすべて与えられるのである。
自力で積んだ徳によって与えられるのではない。
宇宙神の賜物を分身たる直霊神が天命として受継ぐのである。

******************************************

時至れり。いよいよ、準備段階から本番の時代に入ったのである。
会員一人一人が『我即神也』の世界を肉体界に顕現する時代になったのである。
直霊の響きが言葉・想念・行為に顕われ、肉体・運命にも顕現し始める時代になったのである。

自己意識が変われば、自分が体験する世界も変わる。
我即神也という自己意識が定まれば、自分が顕わすものが神性そのものになる。
すべてが変わってくるのである。
<ピタゴラスさん 啓示録>
2008/02/28


※トンネル効果
古典物理学で考えると、アルファ粒子はエネルギーの壁を越えて、壁の外には飛び出せない。しかし、シュレーディンガーの波動方程式によるとアルファ粒子には壁の外に存在する確率がある。
実際にアルファ粒子は壁の外に飛び出して来る。これがトンネル効果と言われる現象である。

それと同様に、一般的に考えると、凡夫から神に至るにはとうてい越えることができない壁がある。
無限の努力をしても、その壁を越えることはできない。しかし、実際には壁を越えたところに、ある確率
で神としての自分が存在している( 例えば凡夫①②③、、、70%、菩薩① ②③ 、、、20%、神① ②③ 、、、10%)。そのため、人は壁を越えて神の領域に入ることができてしまう。
<ぴーさんの啓示録の解説>
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by mppoe-light | 2009-11-22 22:28 | ピタゴラスさん啓示録から

「自分が自分をどう思っているのか」



昌美先生 次元上昇 から

人間が本当に識らなければならないことは、自分の本性に対して畏敬の念をもたねばならない、そのことなのであります。
人間は決して弱きものでもなく、不完全なるものでもありません。人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。

初めから自分自身に対して畏敬の念をもって接するのです。自分の中にいかなる不完全さが存在ようと、
決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです。

人間の多くは、業性のみの己を見つめ、決して本心の自分、輝いた自分、神そのものの自分、
完全円満なる自分を認識する眼をもってはいません。まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。

”我即神也”  この たった四文字の中にすべての真理が含まれ、
人間そのものが言い尽くされているのであります。
自分が神なら”人類即神也”、人もまた神です。人間即神也そのものなのです。
自分自身に畏敬の念をもって接すると同時に、すべての人間に対して畏敬の念をもって接していかなれば
ならないのです。

今生に起こることはすべて偶然ではなく必然です。前生の因縁をどうしても今生において消さなければ
ならないことも多々あるものなのです。
しかし、前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。

自らの前生の因縁に把われるか把われないかは自分次第です。
把らわれつづけている人は、なかなか自らの上に神を顕現することは出来ませんが、
把われていないならば、神そのものを顕現することが出来るのです。

いかなる状況の人も、因縁は因縁で超えてゆかねばならないものです。しかし因縁とは別に、
自らを真理の光で輝かせることは出来るのです。
真理を実行する人として、
我即神也の宣言をし印を組みつづけてゆけば、いつか必ず神人としての自分を顕現することが出来るのであります。必ず、絶対に。
(1997年10月)



ピタゴラスさん 啓示録から

神との面談

あなたが存在している限り、いかなる状態、状況にあろうとも、常に自分は自分を意識している。
つまり常に、自己意識=自己イメージを持っている。

何を感じていようと、「私は、、、、と感じている。Iam feeling … …」
何を考えていようと、「私は、、、、と考えている。Iam thinkingthat… ….」
何を話していようと、「私は、、、、と話している。Iam talking about… …」
何をしていようと、「私は、、、、をしている。Iam doing …..」

このように、どのような場合でも、私は常に「私は、、、 Iam ….」を意識しているのである。

それぞれの自己意識=自己イメージが固有の波長、周波数を持つ波動を持つエネルギーである。
やがて、それらのエネルギーは一つの座標軸にまとめられ、物理的三次元世界と数学的
に統一されることになるであろう。

この自己意識は潜在意識に蓄積され、その自己意識に相応しい状況を次に来る時間の流れの中に現出させる。そして同様の意識、自己イメージを再現させてゆく。
これがいわゆる輪廻の世界である。この再現システムは因縁因果の法則、想念の法則と呼ばれる。
一般に人が言う自分とは、これらの自己意識の集積に他ならない。

ステップ① 無限なる赦し
先ず、「肉体が私であり、体験の蓄積が私である」という自己意識がある。
しかし、『すべては赦されている』という真理を受け入れよう。

これは無条件の真理である。赦されるのに善行、善徳も不要である。
自分の本心、真の自己は三次元世界の体験と完璧に切り離されている。
体験の世界は想念の法則によって投影されたものであるから、すべては空であると説かれた。
したがって、真の私は、「私は、、、、ではない。
I AM that I am not … …」としか説明できない。体験世界つまりこの三次元世界には私を定義する何ものも存在しない。


ステップ② 生地なる存在=神
宇宙全体が私であったならば、私は何を見、何を知覚できようか。
何も見ることもない。何も知覚することはない。それでも私は、今ここにいる。
あらゆる体験が始まる前から存在している。
私は光であり叡智である。
私は道である。真理である。生命である。
私とはその私である。
I am that I AM.

真の私はいつも「私は、、、」という意識の背後にある。自己意識の生地として常にそばにいた。
三次元世界の肉体の自己意識が黒雲であるならば、その背後には青空と太陽がある。
黒雲が晴れわたると、『天は澄み浄まり、太陽は輝いている』。

その青空や太陽のような生地なる自己意識は神意識であり、「私は今、ここにいる。I AM 」という自己意識である。
我即神也(God I AM.)の意識である。
その生地なる自分がそのまま顕れるから無為と説かれた。生地なる自分に任せるから全託と説かれた。


ステップ③ 無限なる創造力
今、ここで「自分が自分をどう思っているのか」。それだけが問題だ。
それ以外は問題ではない。
「自分は自分をどう思っているのか」、宇宙とはそれを映しだす鏡である。
<どう思っているのか>それが鏡のように映し出され、自分はその鏡の世界を体験する。
その映し出された世界、体験する世界が自己意識軸から発生する三次元世界である。

自己意識軸上の座標の数だけ三次元世界が存在する。
肉体界はそれらの複数の世界の合成された映像である。
観察者の自己定義が変わると、観察する世界も違って見えてくる。
これは量子力学が発見した法則だが、これが正に宇宙の法則なのである。
これは宗教と地球の科学が統一される接点でもある。

想念の法則(因縁因果の法則)とは人間に被せられた忌むべき鉄の籠にも見えるのだが、そうではない。
因縁因果の法則は神の想像力がネガティヴに回転してしまっているにすぎない。
元をただせば、その法則とは、「直霊が宇宙神を思いつつ自由に神のイメージを展開したもの
を三次元世界に顕現する」という、本来因果を現象化させるための神の創造力そのものであった。

あなたの無限なる創造力は今なお健在である。

もう一度、繰り返そう。今必要なことは何か。
「自分は自分をどう思うか」である。

自分が想像できる最高の神、自分が言葉で表現できる最高の神。その神聖者こそあなた自身である。
神はいつも『私は、、、』I am …を通してしか相見ゆることはない。
自己意識軸を通してでないと我々は神に行き着くことはできない。

道は一つしかなく、かつ狭いものなのか。その反対である。
この道は最もシンプルな道である。その道は易行道である。師もいらない。難解な経典も要らない。組織も要らない。戒律も要らない。因果の債務の返済も要らない。

只、必要なことは『私は神である。我即神也』と思うことのみ。宣言するのみ。印を組むのみ。あなたは『私は神である』と思ったことを次に来る時間の流れの中で体験することになるであ
ろう。

引用・参照文献
『天は澄み浄まり、太陽は輝いている』昌美先生の詩「地球讃歌」
「私は道であり、真理であり、生命である」ヨハネ伝14/6
「人にとって一切がアートマンそのものとなったときには、彼は何によって何をみるであろうか」、「非ず、非ずというアートマンは不可捉であります」ブリハッドアーラヌヤカウパニシャッド



※ 今、ここで「自分が自分をどう思っているのか」。それだけが問題だ。
それ以外は問題ではない。


※ 前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。


これらの言葉にひきつけられました。

普段の生活の中で起こる自分の感情やそれに伴う言動が 一体どんな自己認識や観念から発生しているのか・・・と 
あらためて考えることが出来ました。
※ 人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。
まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。
 

今、これを実践していかなければ・・・・と思うこの頃です。

我即神也 人類即神也 大成就
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by mppoe-light | 2009-11-16 23:24 | ピタゴラスさん啓示録から

素数から、ひょっこりバッハ???

いつものように 昌美先生の著書のこと、ピタゴラスさんの啓示録のこと
書こうと思ってたのですが、 
TV番組に夢中になってしまいました。
また明日にでも書くことにしまして・・・・

数学者のお話「リーマン予想に挑む数学者たち」という番組でした。
数学の素数の話です。 不思議な謎の数字。
それに翻弄されていく数学者たち。 
 
素数の意味が宇宙の法則にも繋がるはずだ・・という数学者の直感って
すごいと思いました。

当然のことながら、理論はさっぱり理解できない私ですが、
究極的に、この世界は数字で表現できるものなんだろうな・・・と感じています。

・・・ちょっと飛躍しますが バッハ。あのクラシックのバッハ。
学校の音楽室に必ず写真がある 白いくるくるカツラを被った人。
バッハの曲は晩年になるほど数学的になっているそうです。
有名なのが平均律。  
喜怒哀楽の業想念を超えたような旋律、その旋律の繰り返し。
(と、私が勝手に思うだけなんだけど・・(笑)

とある学者さんが話していたけど、宇宙物理学理論の ひも理論?(だったけ)
のお話で 「宇宙は壮大なシンフォニーを奏でている・・」 と言われました。
素敵だな・・・と思いました。

バッハの曲よりさらに次元の高い高い旋律が 宇宙で鳴り響いているのだと
想像すると  肉眼では暗いだけの宇宙空間も もしかしたら
意識のスパークで眩しいくらいに光り輝いているのかも・・・・

そんなことを つらつらと思う私です。
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by mppoe-light | 2009-11-15 22:23 | どってことない話☆

「我(私)」、私が発する「私」

昌美先生の著書 「次元上昇」から

今日まで人類が創造してきた言葉は、何億という膨大な数にのぼりますが、
その何億という言葉を、地球人類は平等に自由に使用することが出来ます。

ただし、たった一つの言葉を除いては、の話であります。

このたった一つの言葉を発することの出来るのは、地球人類の中でたった一人、自分だけです。
神さえも発することが出来ません。
このたった一つの言葉を発する者以外は、他の誰をも、この言葉を使用することは出来ないのです。

その言葉こそ「我」という言葉であります。 この我は私です。私そのものです。

他のいかなる人も自分以外のものに「私」という言葉で呼ぶことは決して出来ないのであります。

人類一人一人が自分の事を「私」と呼ぶ時、この言葉こそ魂の本源から響いてくるものなのです。
魂そのものが自らに与えることの出来る名前だからです。
この魂こそ本心です。 本心こそ神そのものです。

神そのものである自分の魂が肉体の自分のことを「我(私)」と呼ばせる時、
この「我(私)」を最高の存在者として認識しているのです。
魂は肉体の自分に対して神性をよみがえらせ、神性を語らせているのです。

 この「我(私)」と語る時、内なる小宇宙を指しているのです。内なる小宇宙は、絶対なる大宇宙と生命を共にしているのです。この小宇宙、「我(私)」に対しては、いかなるものも入ることも、侵すことも出来ぬ神の領域なのであります。
 ですから、自分のことを意識して「我(私)」と発する時は、魂のもっとも奥深い内なる部分から私という言葉が発せられ、響いてこなければならないのです。
自分だけが自らに与えることの出来る唯一の神性のひびきだからです。
人類一人一人はこの「我(私)」をとても大事にしなくてはならないし、尊ばなくてはならないし、愛さねばならないし、決しておろしかにしてはならないのであります。 

自分が発する「我(私)」という言葉は、神のひびきです。ということは、 “我即神也”そのものです。 
我即神也 の宣言そのものです。
 私が発する「私」という言葉が神そのものの言葉であるからには、決して否定的な言葉は一切使用できないはずです。私の責任において、私という神の名において不可能です。

 私が思う。私が望む。私が行なう。私が願う。私が欲する。私が・・・・。
これらの私という“私”の根源は、“我即神也”そのものであります。 
“我即神也”という意味が隠されているのです


(98年8月)




<ピタゴラスさん 啓示録から>

  私は在る

Now here I am. I am to be God.

(今ここに、私は在る。私は在る、神として。)
2008年、初めての啓示は何故だか英語だった。

Now here(今、ここに)は言い換えれば、「いつでも、どこでも」ということ。
『即』の意味と同じで、『いきなり、無条件』ということです。

そこに神性の永遠性、普遍性、無限性がある。それは抽象的な神性、雲の上の神性のことではない。
自分自身のことである。

条件が整ったならば、“いつか、いずれの地にて、私は神になり得る本質がある”。
このようなのん気な思考は『我即神也』の思考ではない。
そういう意識が悟りに導いてくれることはない。
「今、ここに、そのまま、なんの条件も付くことなく、私は神である」という意識こそが宇宙神の光明で
あり、我々が神を顕わすように導くのである。

『私は在る(Iam.)』という意識は、批判、非難、評価を下していない状態。
その意識の時は、いかなる価値判断もしていない。無念無想の状態。
それは神の意識である。神性の輝きである。

この意識は「宇宙神から放射された光が、今ここに、自分として輝いている」という状態だ。従って、『私は在る』(Iam.)は即ち、『私は神である』という意識そのものである。

『私は在る』と意識するや、間髪をいれず、つまり、雑念が入り込む前に、ここに在る自分は神そのものであると宣言しさえすればいい。この『我即神也』に至る方法を統一、日常生活の中で使ってみて下さい。

*********************************

我即神也を唱え、人類即神也を唱え、自己意識が高まるようになるほど、その後に生じる煩悩が気になるかも知れない。しかし、まさにそこに「消えてゆく姿」が威力を発揮する。

有限の煩悩に比べようもないほどの神性を発揮しようとしている人が、有限な想いに捉われることはない。
ギャップがあるのではない。自己矛盾ではない。偽善ではない。
神性と業想念とは全く別物なのだ。

あなたを責める神はいない。蔑む神はいない。怒る神もいない。常にそこにあるもの。常に一人そこで輝いている本心(宇宙神)があるだけだ。
あなたはカルマを見過ごさずに、そこにあるものを見過ごしてきた。消えてゆく姿を見過ごして、そこにあるもの、光り輝く本心を思い出しさえすればいい。汝はそれなり。

「我は、、、、Iam ….」と言う四次元軸を使うことによってのみ、人は神を顕わすことができる。
宗教の奥義に達することができる。

自己意識という四次元軸上で階段のように一つずつ上るのが、祈りである。四次元軸の上昇しつつ、上方から降りてくるものを「私である」と受け止めるのが、統一である。

上方からエレベーターのように降りてきた直霊が肉体を通して光を放つのが、印である。
印は神我一体の手段であると同時にその結果である。

努力して神に成る(to become)ということはない。
That I am.
我即神也を受け入れさえすればいい。何の許可もいらない。何の資格もいらない。何の経歴もいらない。
That I am
我即神也は実在するものであって、現にあるもの、久遠実成なるもの。
その神が四次元軸上を降臨すること、その神の降臨を受け入れることが悟りである。
神を思い出すことである。自己意識という四次元軸での上昇、降下を司るのはすべて「私は、、、
I am …」である。そこに管理し、時に顔をしかめる神はいない。

すべて自己責任の領域である。
自由意志の領域であり、自己の尊厳の領域である

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by mppoe-light | 2009-11-05 17:44 | ピタゴラスさん啓示録から

本物体験

本物体験

脳科学者の茂木健一郎氏はアハ体験を説いている。
「今までわからなかったことがわかるようになったり、あるいは、忘れてしまったことを思い出したときの体験」を意味する。英語圏の人が何かにひらめいたときに[a-ha]と声を出すことに由来する。

茂木氏によると、人がアハ体験をすると、脳内が活性化される。思い出せなくても、思い出そうとするだけでも、脳内は活性化される。
悟りとは、「我即神也」を思い出すことである。自分が神であることを思い出すことである。
それを実現する方法が印である。

印はアハ体験以上に脳内を活性化する。
印はこの世での記憶を思い出すこと以上に、根元的な自己自身の太古の記憶を思い出させる行事である。

真の自分を思い出すこと。印の体験は本物体験である。印の体験は神の体験である。
人が神のようになりたい、神性を顕現したいと決意するならば、神らしく語り、想い、振舞うこと、と説かれる。
それを確かに行為させるのが「我即神也・人類即神也」の宣言文と印である。

騙しでもない、嘘でもない、偽善でもない。宣言文は神の降臨宣言である。
印は神のしぐさである。呼吸法は神の呼吸法である。
印が発する光は神の光である。

自己批判はいらない、自己改善もいらない、本物の自分、自分の光り輝く本心を認めること、愛すること、慈しむことだ。光明の言で、自分を祝福することだ。
自分を尊敬すること、自分を称えることだ。

人類即神也の印を組み、本心が光明波動を人類に与えていることを感じてみることだ。
五感で感じなくとも心眼で神の姿を観てみるのだ。
そこにあなたの本来の姿、神の姿がある。神になったつもりになることだ。表面の意識では「つもり」かもしれないが、脳は間違いなく本物の自己を体験している、思い出している。

会員が集まれば、集団の祈り・印に加えて、お互いに00様即神也・成就と称え合うことだ。
愛し合うことだ。神性を認め合うことだ。
光り輝く本心を見つめ合うことだ。無限なる叡智・無限なる健康・無限なるエネルギーとお互いを祝福しあうことだ。
決して必要なものを補う意味でいってはいけない。あくまでも。神性を称え合うことだ。
この世的な褒め言葉、お世辞を言われた以上に、心が嬉しくなる。
相手を称えることに、心の喜びを感じる。自分が神であることを思い出すからだ。
本物の自己を体験するからだ。

本物体験とは四次元軸の上を限りなく上昇する体験である。四次元の世界に入ってゆくことである。
本物体験こそが、自己の本心を思い出す体験である。
この一見、疑似体験のように見える本物体験が神性をこの世に引き出す基盤となる。

三次元世界内の自己が久遠実成の仏に成るわけではない。阿弥陀如来に成るわけでない。
自己の真実が久遠実成の仏であり、アミダ如来だったのだ。それを思い出すのが印である。
その本物の自己を肉体に受け入れ、実在の光を放射する行為が印である

<ピタゴラスさん啓示録から>

先月、祈りの友人から、今人気の脳科学者 茂木氏の本を薦めてもらい、読んでみました。
 私からは友人へ ピタゴラスさんの啓示録を薦めてみました。 
「全部で80枚くらいあるんだけど・・・」と言うと、いくちゃんは(祈りの友人)、ためらいながらも 
「時間があるとき読んでみるかなぁ」・・・・と言ってくれました。
そこで 第一部36ページを添付してメール。 

数日後、 内容も文体も気に入ってくれて、「一気に読める」 との返事をくれました。 
その後、残りすべて送りました。 良かった良かった☆(#^_^#)

同じ祈りの会の友人Kさん、 
私は Kさんとはいつも話がかみ合わないんだけど(笑) 
いくちゃんが気に入ってくれたことで 思い切ってKさんに 印刷してファイルにまとめた(啓示録)を 
薦めてみました。

Kさん、ぱらぱら~と目次に目を通し、 維摩詰やトンネル効果等々に気持ちが動いたらしく そのまま借りて帰ってくれました。
やっぱり 男の人は かちっとした理論的な解説が 読みやすく理解しやすいのかも。 女性とは、脳の使い方が違うんでしょうね。

で、
友人いくちゃんですが、茂木氏の本の中に、今年五井平和賞を受賞することになった
ブルース・リプトン氏(アメリカの細胞生物学者)著書が紹介してあり、気になって注文して購入したそうです。

「おおぉっ そういえば、ピタゴラスさんは平和賞にリプトン氏を推薦されてた。」

うーん、面白いタイミング♪ あちこちでリプトン博士♪♪

そんな訳で、私もリプトン氏の本を借りて読むことにしました。
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by mppoe-light | 2009-11-04 23:07 | ピタゴラスさん啓示録から

ジョナサン・その後

その後もジョナサンは、長老の指導をうけて 新しい思考をどんどん吸収していきます。
そして長老が さらに次元上昇するときが やってきました。

「もっと他人を愛することを学ぶことだ。」
長老は、ジョナサンに最後の言葉を贈り、光と共に消えてゆきます。


日が経つにつれ、ジョナサンは自分がときどき、おきざりにしてきた地上のことを思い出します。

「むこうにも、自分の限界を突破しようと苦闘しているカモメがいるのではなかろうか。」
優しさについて学べば学ぶほど、また、愛の意味を知ろうとつとめればつとめるほど、
ジョナサンは、一層、地上へ帰りたいという思いにかられ、異端者として自分を追放した
地上の群れの元へ帰る決心をします。



地上では、かつてジョナサンがそうだったように 異端者として追われたカモメたちがいました。

集まった生徒達にジョナサンは語ります。 

「われわれ一羽一羽が、まさしく偉大なカモメの思想であり、自由という無限の思想なのだ」
「きみたちの全身は、翼の端から端まで、それは目に見える形をとった、きみたちの思考そのものにすぎない。」


(この本が出版された30年前、この言葉をどれだけの人が理解できたんだろ・・・
登場するの カモメだし・・・・)(^_^;)


教師の役目を 一番最初の生徒フレッチャーに任せられるほど
彼が成長したとき、ジョナサンも地上から発つ時期がやってきました。

ジョナサンから、自分が次の教師になると告げられたフレッチャーは慌て、抵抗します。

「あなたは群れに戻って彼らの学習を手助けすることこそ、群れを愛することなのだ、とおっしゃった。
もう少しで自分を殺しかねないほど暴徒化した鳥達を、どうして愛せるのか、ぼくには分かりませんね。
僕はただの平凡なカモメに過ぎない。」


「もうきみにはわたしは必要じゃないんだよ。きみに必要なのは、毎日少しずつ、自分が真の、無限なるフレッチャーであると発見しつづけることなのだ。
そのフレッチャーがきみの教師だ。きみに必要なのは、その師の言葉を理解し、
その命ずるところを行なうことなのだ」
「目に見えるものには、みんな限りがある。きみの心の目で見るんだ。すでに知っているものを探すのだ」

そういって ジョナサンはフレッチャーを残し、光とともに虚空に消え去ります。

残されたフレッチャー・・・・。

しばらくして、フレッチャーは重い心でようやく空に舞い上がり、最初の授業を待っている生徒達のグループと
向かい合い、指導を始めます。

「まずはじめに
カモメとは、自由という無限の思想であり、また<偉大なカモメ>のいわば化身であって、体全体が翼の端から端まで、きみらがそれと考えているもの以外の何ものでもないことを理解しなければならん」

若いカモメたちは、呆れたように彼を眺めた。 おやおや、どうやらいつもの宙返りの法則とはちょいと違うようだぜ、と、彼らは思った。

フレッチャーはため息をつき、もう一度繰り返した。「ふむ、いや・・・まあ、よろしい」
彼はそう言うと、彼らの能力を推し量るような目つきで生徒達を眺めた。

「では水平飛行から始めるとしよう」
そう言ったとき、彼は即座にあの友が、今の自分と同じように、
まさしく聖者なんぞではなかったことを悟ったのだった。

 無限なんですね、ジョナサン? 彼は心の中でつぶやいた。 

フレッチャーは自分の生徒達に、厳しい教師と見られるよう振舞おうと務めたが、しかし彼は突然、
ほんの一瞬にしろ、生徒達全員の本来の姿を見たのだ。
そして彼は自分が見抜いた真の彼らの姿に、好意どころか、愛さえおぼえたのだった。

無限なんですね、ジョナサン、そうでしょう? 彼は思った。そして微笑した。
完全なるものへの彼の歩みは、すでにはじまっていたのだった。
<かもめのジョナサン> リチャード・バック著 新潮文庫 から
この最後の場面が好きです。(^_^)

”リーダーのリーダー”
 この言葉から、 かもめのジョナサンのラストを思い出し書いてみました。
 これで おわります☆
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by mppoe-light | 2009-11-01 21:09 | 真理について思ったこと