カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 144 )

真理は無限なる新鮮

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祈り・神示、神語・印・呼吸法などなど・・・繰り返しながら、日々自分自身と正しく向き合うようにしています。
「今」を選択する。 即神であることを認める。 
 常時 神なる「私」が流れている。未来から新しい「神の私」がやってくる・・・と言ってもいいかも。 
真理は 常時 無限なる新鮮 なのだ!
さっきまでの「私」はもう消えてゆく姿で、悪いことだけでなく、良いことも正しいことも 
さらに高い正しさのために消え去って、、、、
無限なるもののために、これからもずっと現れては消えてゆくのだなぁ・・・。 

私は霊的な人ではないので、見えたり聞こえたりなんてことはないのだけど、 ただー・・・
なんていえばいいのか・・・ 自分の中の制約、制限を取り除いて軽くなりたい、 自分から自分を解放したい、
そうすれば 不安や恐れなど微塵もなくなり、無限の自由、しあわせ、喜びに包まれる・・・
そう思う。 
だから、これからもコツコツ 祈り、印、言霊などなど 続けていきます。 
果因説 最高ー!
我即神也 人類即神也

神文明の始まり


 五井先生の美学は俳句の美学だった。複雑のものを単純化する美学だった。『消えてゆく姿で世界平和の祈り』はその美学の究極だった。
逆に、西園寺昌美会長のミッションは五井先生が単純化された祈りを展開することだ。

 『世界人類が平和でありますように』から世界各国の祈りが生まれた。
『天命』から光明思想徹底行が生まれた。
『守護の神霊への感謝』から地球世界感謝行が生まれた。

会長は単純化も得意であった。
『我即神也・人類即神也』は世界のすべての真理を集約・単純化したものである。
 そして、『世界平和の祈り』から『神語の語り合い』が生まれた。
これはチャクラの開いた人による、言霊を用いた現実世界の創造であり、究極の祈りである。
これは『私が語る言葉は、神そのものの言葉である』の具体化であり、『我、言葉・想念・行為に0000(自分の氏名)即神也を顕現する』行為である。
神語を人に語ることは『人類即神也』の実践でもある。

『消えてゆく姿』が去った後に残るもの、それは『神の姿』である。『我即神也・人類即神也』の自分であり人類である。その『神の姿』を言葉にして、宣言しつづけるのである。
 これは『自分と人を赦し愛する』行為である。自分と人を尊敬し、畏敬し、讃美する行為である。大生命賛歌。神の栄光の賛歌である。
 これは果因説の実践である。因果律の終焉である。新しい人生と時代の創造である。
つまり、『神語の語り合い』には『世界平和の祈り』と同様、すべての真理が含まれているのである。

 五井先生は、「神界には、神としての自己自身が厳然として存在している」(注1)と説かれた。
しかし、一般の人が「神としての自己自身」に直入することの難しさを、一番よく理解されたのは五井先生であった。最も完全に達成した方が、その困難さを最も理解されていたのであった。
だからこそ、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を説かれたのであった。
守護の神霊への感謝行というバイパスを教えられたのであった。そのバイパスを行くうちに神人が現われ始めた。そして、神人たちはバイパスから本道に入り始めたのである。
本道とは、「神として自己自身」に直入する道である。果因説の道である。

 五井先生は「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を直接追いかける観念論を退け、一般生活に即した「世界平和の祈り」を説かれたのであった。
しかし、二十一世紀、西園寺昌美会長は、「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を思い描き、言葉に宣言する意識の高さを要求してこられたのである。
この教えの進化は、次元上昇によるものであり、何より五井先生の指示なのである。
 
「消えてゆく姿」の教えは、古い時代を終わらせる教えであった。
 「神の姿」を語る教えは、新しい時代の扉を開く教えである。
 物質文明は終焉を向かえた。神文明の扉は大きく開いた。


 注1   「霊性の開発」P.26         
  

ピタゴラスさん
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by mppoe-light | 2012-03-15 22:46 | ピタゴラスさん啓示録から

疑わず素直になるまで・・・☆

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神界に完成した「私」が在る。
神界は何処かの場所ではなく、今 私の中にあって、
完成した神「私」はそこにいて、いつもこう言っている

「我即神也 すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!」

これはいつも絶え間なく自分の中で響いている、はず・・・ なのだっ!



第一段階は、『自分そのもの』『今の私』と現象とを厳然と切り離すという『無限なる赦し』である。『色即是空』の段階である。「固定観念を覆す」段階である。

ここをおろそかにしては、いかんっ!
現象世界の出来事の方が、圧倒的に説得力があるんだから。ふらふらと惑わされてしまう。
「無限なる赦し」
現象と「私」を切り離すには、日々 真理を追求する気持ちが大切。

 第二段階は、『自分そのもの』『今の私』と神性を一体視するという『無限なる愛』である。『空即是色』の段階である。「我即神也を復活させる」段階である。
 
「無限なる愛」
神意識「私」の響きと 「今の私」を合わせる

我即神也 すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!

いつも絶え間なく自分の中で響いている(であろう)この言葉を疑わず素直になれるよう、
祈り、印、言霊の神示を繰り返し、そしてまた
第一、第二段階を繰り返す。 こつこつと、 こつこつと。 素直になるまで☆

でも・・・・
たまには・・・・

成果を体験したいよーっ!  

って、もしかして 気づかないところで ぽちぽち成就してるのかなぁ?(・・;)
こちらが気づかないだけ? 


仮想「我即神也」の実践

 『常に自らが完全な状態、そして欠けたるもの一切なしという状況を強くイメージしつづけることによって、その通りの現実が創られてゆく。』(2011-1日々の指針)

 祈る人の姿に「吾は神を見たる」と人々に思わせるものがなければ、地球世界の完成はない。
顕われた人格(人間性)、姿、すべては重要である。
しかし、物事には順序がある。果因説では、第一段階から完全な人格を要求されることはない。
それは赦しから始まる。
第一段階は、『自分そのもの』『今の私』と現象とを厳然と切り離すという『無限なる赦し』である。『色即是空』の段階である。「固定観念を覆す」段階である。
 第二段階は、『自分そのもの』『今の私』と神性を一体視するという『無限なる愛』である。『空即是色』の段階である。「我即神也を復活させる」段階である。

『今、私は完全である。欠けたるものなし。
私は今までずっと完全であった。欠けたるものはなかった。』

 この状況をイメージしつづけるのである。イメージがむつかしければ、言葉で宣言しつづけるのである。
神なるあなたの言葉は必ず現実化する。必ず成就する。
神性をイメージして現実化することは念力ではない。自我欲望をイメージして現実化する念力とは異なる。
神性の現実化は横取りではない。『縦取り』なのである。それは因縁因果説ではなく、果因説なのである。
神性は既に、人類一人一人の遺産として、宇宙神から無限に与えられているものなのである。
その神性を自由自在に人類が使いこなすことは、宇宙神の御心であり、意志なのである。
その宇宙神の意志を邪魔することなく、まっすぐ受け入れることは全託なのである。
「自分は至福に値しない」と思うのは、過去を根拠に考える自我の想いである。
「私は宇宙神の意志である至福を頂戴します。有難うございます」と想うのは、真理を根拠に考える神我の想いである。

 これまで、人類は現象世界の出来事、物品にことごとく心を奪われ、現象界に振り回されてきた。その人類の生き方が大転換する。これからは、自分の内なる神性にことごとく心を奪われ、現象界にそれを映し出してゆくのである。
内なる神性を隈なく思い起こし、一つの漏れなく讃え上げるのである。そして、その一つ一つを現実化してゆくのである。

 『私はわが内なる我(神)を讃美する。』(2009-4 日々の指針)
 『必ず成る。必ずよくなる。必ず成功する。必ず繁栄する。必ず癒される。必ず顕われる。
 すべてはよくなる。すべては必ず成就する。すべては調和し、すべては整い、すべては成る。』(1995-11)
 mixi ぴたごらすさん

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by mppoe-light | 2012-02-16 22:28 | ピタゴラスさん啓示録から

すでに成就している

重要なことは、完全調和した世界は既に成就している・・・・・

『この肉眼肉耳に見聞きすることは、全く暗い不完全なことが多いようですが、人間の真実の心でみている世界は、全く明るい清らかな完全調和した世界なのです。神々の光で充ち充ちている世界なのです。私はそれをはっきり知っております。   中略
 この肉体世界にいる人類は、すべて神の子であると同時に業生でもあるわけですから、神の子の住む、完全円満、大平和な世界をつくるためには、自分たち自身が、業生の想念から神の子の想念に想いを切りかえなければならないのです。』
(「愛・平和・祈り」P.116-117)

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 「業の想念が肉眼肉耳で見聞きする不完全な世界」と「神の子の想念が真実の心でみる完全調和な世界」が同時並行的に進行している。もちろん「業の世界」は「消えてゆく姿」。「神の子の世界」は「真実の姿」である。業の想念は左脳で受信されている。
他方、神の子の想念は右脳で受信されている。
人類の脳は同時に二つの世界を見て、二つの想念を受信している。
しかし、圧倒的に業生の想念が優勢になってしまっている。祈り・印・言霊は、この二つの世界の想念を切り替える方法なのである。
 
 ここで重要なことは、完全調和した世界は既に成就しているということである。
完全調和の世界は、はるかかなたの神の世界に成就しているのではない。その真実の心・本心は、厳然と眼前に存在している上に右脳にまで貫通し切っているのである。本心こそが真実なのである。
本心のひびき、右脳が受信するひびきを、言葉にしたものが祈り言である。口に出して宣言すれば言霊(神語)である。全身で表現すれば印である。ならば、祈り言葉が肉体世界の様相と異なっていたとしても、矛盾・偽善・口先のことにはならない。

 祈り・印・言霊によって、意識は現象世界を離れて、神の世界を思い出すのである。それが次元上昇である。意識の目覚めである。その目覚めによって、神の世界がこの世に顕現するのである。これが、これから本格化する「神性復活」の原理である。

 
神性は無限にして、そのまま我々の細胞を貫通し切っているのである。否定さえしなければ、神性はいくらでも吹き出してくるものなのである。過去からの習慣の想いと、肉眼肉耳の現象に流される想いがそれを否定しているのである。
 

目覚めた意識を通して、神性がこの世に現れ、個々人が神となる。個々人が神を顕わし、世界人類が平和となる。この宇宙神の意図は成就しているし、現象界に成就するのである。これが「大成就」の意味である。

個々人が受取るものは、完全・完璧・大調和・至福のみである。人類一人一人が、完全・完璧・大調和の神である。至福の神である。真実その通りであって、現実にそうなるのである。右脳が既に感じ取っているが如く、現実の世界もそうなるのである。大成就。
 
 我即神也。我は完全・完璧・大調和の神である。至福の神である。
 人類即神也。人類は完全・完璧・大調和の神である。至福の神である。
 大成就                  

ピタゴラスさん 「大成就」 から

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宇宙神の創造は完全・完璧・大調和である。『私』はその只中にいる。永遠に至るまで、『私』はそこにいる。『私』は他の世界に行くことはなく、行く必要もない。『私』のいるところ、すべては完全・完璧・大調和である。
『いかなる状態にあろうとも、即その奥に完全なる肉体、完全なる状況、完全なる環境を自らが感じ取ってゆくことである』(注1)。

 実感、実際、現実は意識の結果である。つまり、目の前の姿は消えてゆく姿。そして、『神の姿・我即神也』は必ず、  『後から光明燦然と顕現されてくるのである』(注1)。

現象があって、それに反応することが生きることではない。真に生きるならば、意識が先行する。意識活動は、観念論では絶対に終わらない。殊に言霊があるならば、現実世界は必ずよくなるのである。
「現実・実績がなければ、大それたことを宣言してはならない」と囁くのは自我である。現実・実績がないにもかかわらず
『自分は本来完全なのだ。完璧なのだ。何一つ欠けたるものはないのだ。すべては完璧に整えられているのだ』(注1と真理の宣言をすることを習慣としてゆけばいいのである。

注1 2000-4 P.50  ピタゴラスさん 「至福」から


現象があって、それに反応することが生きることではない。真に生きるならば、意識が先行する。

意識活動は、観念論では絶対に終わらない。殊に言霊があるならば、現実世界は必ずよくなるのである。


我即神也 人類即神也  すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!


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by mppoe-light | 2012-02-05 19:55 | ピタゴラスさん啓示録から

唱える人が神だからこそ

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「祈りの言霊」で唱える最後の言霊は、素晴らしく、そして含蓄のある言霊である。
言葉が神であるのか。我々の置かれた状況が素晴らしいのか。最も根源にあるのは、それを唱える人が神であることである。
唱える人が神だからこそ、言霊が現実化するのである。
唱える人が神だからこそ、宇宙神が用意された状況を引き付け、この世に現実化させてしまうのである。
唱える人の意志を通して、すべて宇宙神の御心が成就してゆくのである。

 つい今まで、自我を自分と思い込んでいたがために、因縁因果に従って、不調和を物質界から引き付けていた人であろうと大丈夫。今、自分の神性に思いを馳せ、果因説に従って、大調和を神界から引き付けてゆくのである。大調和の姿は、既に宇宙神が用意して下さっているのである。その姿は物質世界には見えない。想像力を使って思いを馳せ、イメージするのである。その姿を言葉で宣言するのである。そうすれば、すべての体感において神を感じるようになるのである。

 『部屋が暗い暗いと言っていないで、自分で照明のスイッチを入れよう』
これはよく言われる言葉である。「スイッチを入れる」とは現象界の中で因果関係を整えることではない。「スイッチを入れる」とは祈ること、印を組むこと、言霊で宣言すること、感謝することである。
それは果因説のスタートボタンを押すことである。
自らの神性を認めた人が、「すべては必ずよくなる」「絶対大丈夫」「大成就」と唱えるだけで、宇宙神の御心がこの世に顕現するのである。自らの細胞も、環境も、万物が宇宙神の御心そのままの姿に変えられることを待ちに、待っていたのである。
 

 
「すべてのものがよくなりますように」ではない。
人間の立場で外なる神にお願いするのではない。「すべては必ずよくなる」は神の立場に立った宣言なのである。すべての真理の祈り」「真の言霊」は神が行うものである。
 
すべては必ずよくなる。絶対大丈夫。大成就。

mixiピタゴラスさん

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唱える人が神だからこそ、宇宙神が用意された状況を引き付け、この世に現実化させてしまうのである。
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なぜか今月号はまだ届かないけど・・・・  メールでお知らせを読んで
昨日から 唱えています。ヽ(^。^)ノ 
  
印を100回と言われたら・・・えぇっ! ( ̄▽ ̄;)~☆  ですが、
100回の宣言なら大丈夫みたい♪ カウンターを持ち出してカチカチやっています。
地上に刻み込む気持ちで、「大成就!」 

毎日の生活では、さまざまなことに遭遇して動揺したり心配になったりするけれど、 
 即 「絶対大丈夫、大成就」 という気持ちに切り替えれるようになりたい。
というか、ならなければ・・・ 訓練だ・・・ これって。

想いも感情も、最終的に選択、決断、決定しているのは私 。
それを光明に切り替える自由が 私にある。
リハビリのつもりで意識的に生きる ・・・・
何を基に意識的に生きるか・・・ 我即神也を基に 

ふむふむ・・・・。 ←(自分でかきながら納得している。。)

私は神だから、すべては必ずよくなる、絶対大丈夫、大成就
そして 
人類も神だから、すべては必ずよくなる、絶対大丈夫、大成就

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by mppoe-light | 2012-01-29 19:29 | ピタゴラスさん啓示録から

カルマを超える宣言

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「皆様方のその肉体、その尊い肉体。
今いかなる状況、環境にあろうとも、そんなのは現象界で、
神聖なる魂は人類のために役立つ」

↑昌美先生の今月(富士聖地)のお話の一部分から。。。。

現象に振り回されないように、形に流されないように。
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも、本来は神、我即神也

常にいつも 神聖なる「私」が自分の内に在る。  
その「私」は常に宇宙神の光に包まれ繋がっている。
その神聖なる「私」が、人類のために役立つ、働く。


『私』はかつて「過去の私が自分である」と見誤ってしまった。「過去の私」は宇宙神から見放された孤児のように見えてしまった。自分は神とは異なる存在と思い込んでしまった。その思考は、神であるからこそ持つ創造力によって、ネガティブな人、物、場所、出来事を引き付けてしまった。そのため、人類の苦悩が生じた。
『自分を苦しめ、悲しめ、混乱させ、不幸に陥れるのは、自分自身が自分のネガティブな想いを遂げさせるために、自分が引き付けているのである』(2011/12/06富士聖地)。

あるとき、智恵の仏が人類に約束事を下さった。それは「色即是空」という約束事であった。
「色即是空」とは、『現われたものすべては即、空である』と言う宣言である。
それは『今の私』にとって、「過去がない」と言うことである。
それは「人類のすべてを赦す」という宣言であった。
人類だれであろうと、如何なる過去の履歴があろうと、人類一人一人の『今の私』は『過去の姿、想いから分離されている』という約束がなされた。だから、現象を基に人類は自分自身を評価、定義、レッテル付けをしなくていいのである。

『今の私』に過去がないならば、そこに在る『今の私』は本来の姿をしている。その元々の姿とは神性そのものである。それは「我即神也」である。
過去がない『今の私』には「空即是色」の約束事が与えられている。
『今の私』は神性そのものである。そして、『今の私』は神性に見合う人、物、場所、出来事を引き付けてしまうのである。
それは苦悩ではなく至福である。宇宙神の御心が地にも成されることである。宇宙神の御心が自分の意志として成就してゆくのである。天命を完うする人生が進んでゆくのである。

 自分自身についてのこの真理を知るならば、本来カルマはないことを体験する。自分自身について思い違いをする限りにおいて、カルマは継続するのである。
自分自身についてこの真理を宣言するならば、あるように見えていたカルマは光に変容されてしまう。
「絶対大丈夫」の宣言はすべてのカルマを超えるのである。そして、宇宙神の御心が隅々に至るまで成就するのである。自分の意志を通して成就してゆくのである。宇宙神の御心は完全・完璧・大調和・至福である。
 自分自身が神性そのものであるという真理は、既に成就しており、変わることもない。
その真理は、真理として認め、思い巡らし、言霊として宣言することによって、地においても成就する。
大成就!
mixi ピタゴラスさん 「色即是空」

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どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも、
すでに成就し、完全、完璧、大調和している神聖なる魂。
神聖なる魂は人類のために役立つ。 神聖なる魂は天命を完うする。

自分の意志を通して成就してゆくのである。
宇宙神の御心が自分の意志として成就してゆくのである。
天命を完うする人生が進んでゆくのである。


我即神也 人類即神也  
すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!

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by mppoe-light | 2012-01-13 22:16 | ピタゴラスさん啓示録から

私は認めたものを顕す・・・・☆

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神性とは何か

 神性とは無限なる愛、無限なる叡智、無限なる喜び、無限なる生命、、、そのものである。
すべての人の本質は神性のすべてである。すべての人のアイデンティティは神性そのものであり、神性のみである。
「自分を愛する」とは、自分のアイデンティティのすべてを知ること。認めること。思い巡らすこと。宣言することである。
「自分を赦す」とは神性ならざるものを自分のアイデンティティから切り離すことである。
自分を赦し愛す人は、すべての人を赦し愛す。そして、すべての人から赦され愛される。

 この神性の真理を忘れたことから、人間は偽りのアイデンティティを自分自身と思い込み、その姿を体験し続けている。それはカルマと呼ばれる法則に基づくものである。法則と言っても絶対法則ではない。それを法則と見なす人にとっては法則である。しかし、真理を知る人にとっては、存在しない法則である。守護の神霊にとって、超えられないカルマはない。既にカルマは光に変容され、消されているのである。
 
絶対法則とは、自己の神性に気づいた人から神性を顕現させてゆくということである。この絶対法則が神人から始まって地球人類全体に宏まるまで成就しつづけるのである。つまり世界人類の完全平和が成就するようになるのである。この連鎖反応が始まったのである。この絶対法則は果因説の法則とも呼ばれる。
 
神人の内では、神性が溢れかえり、現象の世界に溢れ出さんとしているところである。
祈りによってそうなったのではない。元々そうなっていたのである。祈りによってその事実に気づき始めたのである。
内なる事実は認めることによって、当人が気づくことによって、当人を通して現実化するのである。神性とは自分の内に存在するものである。
神性とは、その真理に気づくことによって、外の世界に吹き出てくる自分の本質である。
 この内なる神性を讃えよう。
この素晴らしき神なる自分の存在を讃えよう。
もっともっと讃えよう。
讃えた通りの姿を顕わすからだ。
至福の神々(すべての人類)よ。
自らを至福の神と讃えよう。
この世でも、讃えた通りの至福の神となるだろう。
この世のことが、至福の神から何を奪うことができようか。
至福の神を犯すものは一切何もない。
至福の神は至福の姿を顕わすだけである。
至福の神は世の人の神性を照らし出す光である。

mixiピタゴラスさん


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内なる事実は認めることによって、当人が気づくことによって、当人を通して現実化するのである。
神性とは自分の内に存在するものである。
神性とは、その真理に気づくことによって、外の世界に吹き出てくる自分の本質である。


 今、自分の言動は 何を信じ何を認めたから起きたのか。
自分の感情は 何を認めているから湧き上がってきたものか。
神性を信じ、大成就を信じたものか、 そうでないか。

自分の神性を信じる、認める。
意識「私」は、認めたものを顕す 

神性を認めることで、
本来の創造活動が始まる。 外の世界に吹き出てくる自分の本質、神の本質が形になる。
それは、グルグル回りしていた因果説から果因説に移行したから。本来因果の働きが始まる。 

c0074000_21531280.gifやっぱり究極の真理はすごいっ! 果因説は素晴らしい! これしかない!



究極の真理によって、人は迷いから解放され、神を顕わすことが出来る。
とは言っても、無意識の自我の主張を「我即神也」に置き換えてゆくには根気がいる。
同じことを何度も何度も言い聞かせる。印と言霊によって、「我即神也」をこの世に顕わしてゆくことができる。これも同様、何度も何度も印を組み、何度も何度も言霊を唱える。
無意識の主張をキャンセルし元々の自分の姿に戻るだけなのだが、根気がいる。夢から目覚めて、正気に戻るだけなのだが、根気がいる。今年も、根気よく、赦しと愛、厳然と存在する神の姿、本来の姿、完全・完璧・大調和・至福の神、それを表現する言霊、印、感謝しつづけるのである。自己意識を本来の自分と同一であると宣言しつづけるのである。
 根気がいるのだが、現象の自己を改善しようすることに較べれば易行道である。自分が自分の真の姿である神性だけを見ること。続ければ、必ず「大成就」を体験する。

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by mppoe-light | 2012-01-06 21:58 | ピタゴラスさん啓示録から

神的な認識の結果 = 成就

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宇宙神が一人一人に与えた自由意志に、自我が生じた。自我は自己と人類に勝手な「思い込み」「定義」「レッテル貼」をしてしまった。これが現象世界、知覚、体験を作り出した。知覚は自己流思い込み・定義・レッテル貼の結果なのである。
今度は自由意志で神性に意識を向けるのである。自分の神性を認識し、人類一人一人の神性を認識するのである。そして、万物の神性を認識するのである。
自己流ではない、本来の神的な認識の結果をこの世に写し出すのである。

現象界という真理とは真逆のような様相の只中にあって、真理を確証するところに、真理が顕現するのである。「成就」の世界が顕われるのである。
 この「真理の確証」を行うのが赦し・愛・感謝・印である。
赦しとは自己流思い込み・定義・レッテル貼をキャンセルすることである。
周囲にいる人、街で単にすれ違う人、周囲の自然環境、社会環境、場所、物、出来事、、、ほとんどすべてに自己流の思い込みが入っていることに気づくべきだ。その思い込みが自分の人生の質を規定していたことに気づくべきだ。
その思い込みを一つ一つキャンセルして行く。そこに大いなる赦しがある。そして、すべての人、場所、物に神性を認めて行くのである。そこに大いなる愛がある。そして、すべての人、場所、物に「ありがとうございます」という言葉を投げかけて行くのである。そこに大いなる感謝がある。

mixi ピタゴラスさん の 「すべては必ずよくなる」 から
 

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「人間と真実の生き方」 みたい。(・v・)

現象界という真理とは真逆のような様相の只中にあって、真理を確証するところに、真理が顕現するのである。「成就」の世界が顕われるのである。

思い込みをキャンセルして、(消えてゆく姿にして)
すべて(自分、人類、万物)の中に神性を観ること、神性を認めることで
「成就」世界が顕現する

はじまりは いつも 「私」が何者であるか・・・ 
「私」が本来神であることを信じる。
そこから 自分、人類、万物、の神性を観る・・・「成就」が展開される

果因説のポイント ☆「実績は二の次にし、まず自分を神と宣言し、神と認める」

「我即神也」がしっかりできないと、深い「人類即神也」はできない。
「我即神也」がしっかりできたなら、自然に「人類即神也」ができる。



「私」は神、光り輝いている神そのもの。 
すべてに満たされ、すべてに愛され、すべてに抱擁され、すべてに祝福されている
完璧に大調和された存在。
大成就!
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by mppoe-light | 2011-12-26 13:13 | ピタゴラスさん啓示録から

真理に基づいて語る習慣 を作る☆

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⇩ これも一年前のものです。 その時は 何とも思わなかったけど、
今読んでみたら良かったので、⤴ 載せることに(^-^)☆

神語レッスン

いくら英語の受験勉強をしても、英語は喋れない。それと同じで、いくら宗教に入っても、神の言葉(神語)を喋る人は少ない。英語の場合、受験勉強とは別に英会話教室が必要である。同様に、神語レッスンは必要なのである。
例文を用意して、自分で唱える。人に語る。人に語ってもらう。みんなで語る。
口と耳と脳で覚えるのである。脳に新しいニューロネット(脳神経網)を形成してゆくのである。
 過去の記憶―否定的感情、現象-否定的感情の繰り返しというパターンは誰にでもある。言うまでもなく、このパターンはカルマである。カルマのニューロネットが脳に作られているのである。
それならば、新しいニューロネットを創り上げる。つまり、習慣になるほど神語を唱えるのである。過去を基にして語るのではなく、真理に基づいて語る習慣を作るのである。
これは「世界人類が平和でありますように」を繰り返すのと同じである。
しかし、神語はイメージが豊かで多様性のある点で異なるのである。

神語を語る人は、神になったつもりで語る。チャクラが開いた人が語るのであるから、語ることは現実に顕われる。神語を語ることによって、「私が語る言葉は神そのものの言葉である。我、言葉想念行為に我即神也を顕現する」という宣言文や起床時の行で使う言葉を実地に移しているのである。
神語を語るのは神である。自分の本心である。既に厳然として存在している神そのものの自分が語るのである。神が既に出来上がった完成された神の姿を語る。そして、その語ったことが現実に顕われてくる。これが果因説の原理である。

神語で語る自分の姿は過去の記憶によって汚れていない。それでいて、神語を語ると、太古の自分自身の輝かしい記憶が蘇ってくるのである。これこそが、我々が探し求めてきたものではないか。

自分の内に神を視て、神を感じ、内から神を顕わすには、「仮に」と言う言葉は許されない。それは厳しい領域である。しかし、言葉から入って真実に至る道は易行道である。
「仮に」自分は神であるとして、神の言葉を唱えればいいのである。その気があれば、誰にでもできる。喋る言葉は、現実化するのである。
「嘘から出た真」という言葉がある。『言霊は威力』と言った方が正確だ。ただ、一般には光明意識の土壌が未成熟であり、強い宗教観念があるため、神語を唱えることに抵抗感を感じる人が多いのである。

たとえ冗談であっても、否定的な言葉は、良くない状況を生み出す。カルマの姿だ。
たとえ「仮に」であっても、神の言葉は神の状況を生み出す。神の姿だ。
「消えてゆく姿」である「カルマの姿」を相手にせず、不完全な自分はさておき、意識して神語を語ることだ。
mixiピタゴラスさん
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ピタゴラスさんお奨めの神語(言霊)と+ 「地球の安寧と世界人類の平和のために・・・
全ては必ずよくなる 絶対大丈夫、大成就!」 を繰り返していますが、、、

とっさに 「絶対大丈夫、大成就!」 と 素早く意識の切り替えが出来るように、
これからも繰り返していかなければ・・と、読んで思いました。
  
習慣になるほど神語を唱えるのである。
過去を基にして語るのではなく、真理に基づいて語る習慣を作るのである。



外側の現象に気持ちがつられ過去の習慣で反応してしまう、同じような感情を繰り返す。。。(T_T)
そこから抜け出したいと思う。
 だからこそ、今 やらねばっっ ☆☆☆


すべては必ずよくなる 絶対大丈夫、大成就!

「我即神也」
私は本来神である。神そのものである。一つの欠けたるものなく、余分なものなく、
まったく完璧に大調和された神そのもの。


私は宇宙神からきた光、 その私を侵すものは一切なにもない
大いなる源泉とつながる私は、その溢れ出る光を地上に放つ者。・・・・・ ☆

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by mppoe-light | 2011-12-21 18:00 | ピタゴラスさん啓示録から

『人は何であれ、自分について思い込んだ通りのものになる』。

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ぴーさんの古いファイルを取り出し、最初に開いたページにあったものです。↓
読んでみたら面白かったので再度、(一年前のもので、その時に載せたと思うけど)
ここに載せることに☆



人生に立ち向かう


『人は何であれ、自分について思い込んだ通りのものになる』。

信じる想念は途方もないエネルギーである。信じたものが現われ、疑ったことが生じる。
『私』が信じることは「我即神也、人類即神也」のみ。自分の神性を認める人は、人類の神性を認める。自分の神性を疑う人が、人類の神性を疑う。神性を認める人は、無限なる愛に満たされ、輝かしい人になる。神性を認める人は、調和して生きる。自分の自由を認める人は自由になる。

欠点、至らなさは消えてゆく姿。消えてゆく姿を世界平和の祈りに投げ込んでしまう。
不完全な自分よりも、神としての自分の素姓を信じてみよう。見える姿よりも、見えない素姓を信じてみよう。それが愛と赦しだ。自分に愛と赦しを注いでみよう。


『自分の内部には神性しかない』。
究極の真理も自分の内部にある。それを知る者は、至福に満たされる。それに気づくことが目覚めである。  自分の素姓に対する信念が自分を幸福に導く。人生は、
『自らの内なる光に導かれてゆく』。
その姿を人類に示すことが神人の天命であり、天の計画である。

『しかし、(人類一人一人に内在する)真理を欲しなければ、それはいつまで経っても表出することはない。すべては自分次第だ』。
誰かが自分を幸せにしてくれるわけではない。神人は、今日も
『究極の真理を思い出すための人生に、厳然として、一人立ち向かってゆくのである』。
 
人生に立ち向かうときに必要なのが祈りである。祈りとは、自分と人類の素姓の宣言である。素姓の宣言とは大生命賛歌である。それは神語である。

神語

『人類の自由は無限大である。
 人類の能力は無限大である。
 人類一人一人は本来、無限なる叡智、直観に包まれているのだ。
 そして、人類一人一人は本来、光り輝いているのである。』



注 『  』は白光誌2004-12

ピタゴラスさん 「人生に立ち向かう」 から
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『人は何であれ、自分について思い込んだ通りのものになる』。

『しかし、(人類一人一人に内在する)真理を欲しなければ、それはいつまで経っても表出することはない。すべては自分次第だ』。

『究極の真理を思い出すための人生に、厳然として、一人立ち向かってゆくのである』。


人生を自分のものにしたいなぁ。 
最期、自分自身を振り返った時、納得して満足できるものに、 
そして大きな達成感が持てたら最高だな~・・・と思う。(^-^)

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by mppoe-light | 2011-12-18 22:08 | ピタゴラスさん啓示録から

消えてることのない「私」は何者か☆

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「自らの神性」を貶めるような言葉、想念、行為を100パーセントつつしみ、
ただただ人が自分を見て「吾は神を見たる」と思わず思わせるほどの自分を磨き高めあげ、
神そのものとなることである。それしかない。それのみである。 
それこそが人類を導く方法、人類を救済する方法である。
<12月号 法話 から> 


意識だけが天と地を、つまり神界の成就の世界と地上の現象界を繋げてくれている。
「我即神也・成就」で意識を高めあげた私を媒体にして、私を通して、
神さまの成就している無限なるものすべてを、現象世界へ、人類へ放つ。
きっと、本来生きるってこういうことなのかも。

祈れる私は 光そのもの 真理そのもの 神の器そのもの

「我即神也」と心底思えた時、初めて人の心を動かすことが出来、共鳴させてゆくことが出来るのである。
それは、全く無意識に自然に溢れ出てくる自分の言葉が、愛と赦しと真理の言葉となり、相手に励まし勇気づける言葉となり、いかなる人の中にも「神の生命」を見出す言葉となるからである。<法話から>


本来「私」は神である。 神そのものである。無限なる愛、光、叡智、生命に充たされているのである。
本来完璧なように創られているのである。完璧そのものである。
一つの欠けたるものなく、一つの余分なものなく、まったく完璧に大調和された神そのものである。


この時、完璧に大調和した「私」は、大きく広がっていて、すべての人や自然界を含んでいる状態。 すべてと繋がっている状態。  だから、人類すべてが真理に目覚めなければならない、自然界は癒され回復されなければならない。 でなければ、「私」の世界も完成されない・・・。

あらゆる現象は「消えてゆく姿」  決して消えることのない 「私」という意識。
この「私」をしっかり掴んでおかなければ、と思う。 
「私」は何者なのか。
「私」は 「我即神也」      
外側の現象に反応して、忘れてしまわないように。。。。よく忘れてしまってる・・・(ーー;)ううぅ・・・
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  今、現実がどうであれ

 今、現実がどうであれ、「私はすべてに満たされている」と思い、語り、行えば、その通りになる。
(2011-12 日々の指針より)

 このワンセンテンスには深い真理が凝縮されている。「今、現実がどうであれ」とは、現実から事を始めないということである。あらゆる現象は「消えてゆく姿」である。それを浄めようとか、何とかしようとか考える必要はない。
新しい状況を創り出すには、果因説を駆使する。
現実世界ではなく、完全・完璧・大調和・至福に包まれた神なる自分から事を始める。
その姿は現実の世界にはないから「想像」するしかない。
イメージが難しければ、「今、私はすべてに満たされている」と宣言してしまえばいい。完全・完璧・大調和・至福そのものの自分は、厳然と存在している。その神なる自分は既に、救世の大光明のメンバーとして大きな働きをこなしている。その神なる自分は言うに違いない。

「今、私はすべてに満たされている」と。

肉体側の自分も同じように宣言すればいい。語ればいい。その言霊が、神たる自分の姿をこの現実世界に呼び出すのである。「神性顕現」である。「大成就」である。
神の姿が顕われてくれば、「すべては必ずよくなる。絶対大丈夫」である。

現実に対して反応することは、現実世界に変化を生み出さない。
現実批判、闘争を繰り返すこと自体が幸せではない。
現実を超えた神の世界に入り込むことが、現実世界に変化を生み出す。
「神の姿」に思いを馳せること自体が幸せである。

自分の現実を見ず、自分の神の姿を見る。
これが自分を愛することである。
自分のすべての神性を知ること、
自分のすべての神性に思いを馳せること、
自分のすべての神性を宣言すること、
これが自分を愛することである。

自分を愛することなく、人類を愛することはできない。
自分を愛する人は、同じように人類を愛することができる。
自分を愛する人は、
人類一人一人のすべての神性を知る。
人類一人一人のすべての神性に思いを馳せる。
人類一人一人のすべての神性を宣言する。   2011/11/27

mixi ピタゴラスさん 
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by mppoe-light | 2011-11-29 22:27 | ピタゴラスさん啓示録から