カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 139 )

私は認めたものを顕す・・・・☆

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神性とは何か

 神性とは無限なる愛、無限なる叡智、無限なる喜び、無限なる生命、、、そのものである。
すべての人の本質は神性のすべてである。すべての人のアイデンティティは神性そのものであり、神性のみである。
「自分を愛する」とは、自分のアイデンティティのすべてを知ること。認めること。思い巡らすこと。宣言することである。
「自分を赦す」とは神性ならざるものを自分のアイデンティティから切り離すことである。
自分を赦し愛す人は、すべての人を赦し愛す。そして、すべての人から赦され愛される。

 この神性の真理を忘れたことから、人間は偽りのアイデンティティを自分自身と思い込み、その姿を体験し続けている。それはカルマと呼ばれる法則に基づくものである。法則と言っても絶対法則ではない。それを法則と見なす人にとっては法則である。しかし、真理を知る人にとっては、存在しない法則である。守護の神霊にとって、超えられないカルマはない。既にカルマは光に変容され、消されているのである。
 
絶対法則とは、自己の神性に気づいた人から神性を顕現させてゆくということである。この絶対法則が神人から始まって地球人類全体に宏まるまで成就しつづけるのである。つまり世界人類の完全平和が成就するようになるのである。この連鎖反応が始まったのである。この絶対法則は果因説の法則とも呼ばれる。
 
神人の内では、神性が溢れかえり、現象の世界に溢れ出さんとしているところである。
祈りによってそうなったのではない。元々そうなっていたのである。祈りによってその事実に気づき始めたのである。
内なる事実は認めることによって、当人が気づくことによって、当人を通して現実化するのである。神性とは自分の内に存在するものである。
神性とは、その真理に気づくことによって、外の世界に吹き出てくる自分の本質である。
 この内なる神性を讃えよう。
この素晴らしき神なる自分の存在を讃えよう。
もっともっと讃えよう。
讃えた通りの姿を顕わすからだ。
至福の神々(すべての人類)よ。
自らを至福の神と讃えよう。
この世でも、讃えた通りの至福の神となるだろう。
この世のことが、至福の神から何を奪うことができようか。
至福の神を犯すものは一切何もない。
至福の神は至福の姿を顕わすだけである。
至福の神は世の人の神性を照らし出す光である。

mixiピタゴラスさん


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内なる事実は認めることによって、当人が気づくことによって、当人を通して現実化するのである。
神性とは自分の内に存在するものである。
神性とは、その真理に気づくことによって、外の世界に吹き出てくる自分の本質である。


 今、自分の言動は 何を信じ何を認めたから起きたのか。
自分の感情は 何を認めているから湧き上がってきたものか。
神性を信じ、大成就を信じたものか、 そうでないか。

自分の神性を信じる、認める。
意識「私」は、認めたものを顕す 

神性を認めることで、
本来の創造活動が始まる。 外の世界に吹き出てくる自分の本質、神の本質が形になる。
それは、グルグル回りしていた因果説から果因説に移行したから。本来因果の働きが始まる。 

c0074000_21531280.gifやっぱり究極の真理はすごいっ! 果因説は素晴らしい! これしかない!



究極の真理によって、人は迷いから解放され、神を顕わすことが出来る。
とは言っても、無意識の自我の主張を「我即神也」に置き換えてゆくには根気がいる。
同じことを何度も何度も言い聞かせる。印と言霊によって、「我即神也」をこの世に顕わしてゆくことができる。これも同様、何度も何度も印を組み、何度も何度も言霊を唱える。
無意識の主張をキャンセルし元々の自分の姿に戻るだけなのだが、根気がいる。夢から目覚めて、正気に戻るだけなのだが、根気がいる。今年も、根気よく、赦しと愛、厳然と存在する神の姿、本来の姿、完全・完璧・大調和・至福の神、それを表現する言霊、印、感謝しつづけるのである。自己意識を本来の自分と同一であると宣言しつづけるのである。
 根気がいるのだが、現象の自己を改善しようすることに較べれば易行道である。自分が自分の真の姿である神性だけを見ること。続ければ、必ず「大成就」を体験する。

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by mppoe-light | 2012-01-06 21:58 | ピタゴラスさん啓示録から

神的な認識の結果 = 成就

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宇宙神が一人一人に与えた自由意志に、自我が生じた。自我は自己と人類に勝手な「思い込み」「定義」「レッテル貼」をしてしまった。これが現象世界、知覚、体験を作り出した。知覚は自己流思い込み・定義・レッテル貼の結果なのである。
今度は自由意志で神性に意識を向けるのである。自分の神性を認識し、人類一人一人の神性を認識するのである。そして、万物の神性を認識するのである。
自己流ではない、本来の神的な認識の結果をこの世に写し出すのである。

現象界という真理とは真逆のような様相の只中にあって、真理を確証するところに、真理が顕現するのである。「成就」の世界が顕われるのである。
 この「真理の確証」を行うのが赦し・愛・感謝・印である。
赦しとは自己流思い込み・定義・レッテル貼をキャンセルすることである。
周囲にいる人、街で単にすれ違う人、周囲の自然環境、社会環境、場所、物、出来事、、、ほとんどすべてに自己流の思い込みが入っていることに気づくべきだ。その思い込みが自分の人生の質を規定していたことに気づくべきだ。
その思い込みを一つ一つキャンセルして行く。そこに大いなる赦しがある。そして、すべての人、場所、物に神性を認めて行くのである。そこに大いなる愛がある。そして、すべての人、場所、物に「ありがとうございます」という言葉を投げかけて行くのである。そこに大いなる感謝がある。

mixi ピタゴラスさん の 「すべては必ずよくなる」 から
 

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「人間と真実の生き方」 みたい。(・v・)

現象界という真理とは真逆のような様相の只中にあって、真理を確証するところに、真理が顕現するのである。「成就」の世界が顕われるのである。

思い込みをキャンセルして、(消えてゆく姿にして)
すべて(自分、人類、万物)の中に神性を観ること、神性を認めることで
「成就」世界が顕現する

はじまりは いつも 「私」が何者であるか・・・ 
「私」が本来神であることを信じる。
そこから 自分、人類、万物、の神性を観る・・・「成就」が展開される

果因説のポイント ☆「実績は二の次にし、まず自分を神と宣言し、神と認める」

「我即神也」がしっかりできないと、深い「人類即神也」はできない。
「我即神也」がしっかりできたなら、自然に「人類即神也」ができる。



「私」は神、光り輝いている神そのもの。 
すべてに満たされ、すべてに愛され、すべてに抱擁され、すべてに祝福されている
完璧に大調和された存在。
大成就!
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by mppoe-light | 2011-12-26 13:13 | ピタゴラスさん啓示録から

真理に基づいて語る習慣 を作る☆

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⇩ これも一年前のものです。 その時は 何とも思わなかったけど、
今読んでみたら良かったので、⤴ 載せることに(^-^)☆

神語レッスン

いくら英語の受験勉強をしても、英語は喋れない。それと同じで、いくら宗教に入っても、神の言葉(神語)を喋る人は少ない。英語の場合、受験勉強とは別に英会話教室が必要である。同様に、神語レッスンは必要なのである。
例文を用意して、自分で唱える。人に語る。人に語ってもらう。みんなで語る。
口と耳と脳で覚えるのである。脳に新しいニューロネット(脳神経網)を形成してゆくのである。
 過去の記憶―否定的感情、現象-否定的感情の繰り返しというパターンは誰にでもある。言うまでもなく、このパターンはカルマである。カルマのニューロネットが脳に作られているのである。
それならば、新しいニューロネットを創り上げる。つまり、習慣になるほど神語を唱えるのである。過去を基にして語るのではなく、真理に基づいて語る習慣を作るのである。
これは「世界人類が平和でありますように」を繰り返すのと同じである。
しかし、神語はイメージが豊かで多様性のある点で異なるのである。

神語を語る人は、神になったつもりで語る。チャクラが開いた人が語るのであるから、語ることは現実に顕われる。神語を語ることによって、「私が語る言葉は神そのものの言葉である。我、言葉想念行為に我即神也を顕現する」という宣言文や起床時の行で使う言葉を実地に移しているのである。
神語を語るのは神である。自分の本心である。既に厳然として存在している神そのものの自分が語るのである。神が既に出来上がった完成された神の姿を語る。そして、その語ったことが現実に顕われてくる。これが果因説の原理である。

神語で語る自分の姿は過去の記憶によって汚れていない。それでいて、神語を語ると、太古の自分自身の輝かしい記憶が蘇ってくるのである。これこそが、我々が探し求めてきたものではないか。

自分の内に神を視て、神を感じ、内から神を顕わすには、「仮に」と言う言葉は許されない。それは厳しい領域である。しかし、言葉から入って真実に至る道は易行道である。
「仮に」自分は神であるとして、神の言葉を唱えればいいのである。その気があれば、誰にでもできる。喋る言葉は、現実化するのである。
「嘘から出た真」という言葉がある。『言霊は威力』と言った方が正確だ。ただ、一般には光明意識の土壌が未成熟であり、強い宗教観念があるため、神語を唱えることに抵抗感を感じる人が多いのである。

たとえ冗談であっても、否定的な言葉は、良くない状況を生み出す。カルマの姿だ。
たとえ「仮に」であっても、神の言葉は神の状況を生み出す。神の姿だ。
「消えてゆく姿」である「カルマの姿」を相手にせず、不完全な自分はさておき、意識して神語を語ることだ。
mixiピタゴラスさん
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ピタゴラスさんお奨めの神語(言霊)と+ 「地球の安寧と世界人類の平和のために・・・
全ては必ずよくなる 絶対大丈夫、大成就!」 を繰り返していますが、、、

とっさに 「絶対大丈夫、大成就!」 と 素早く意識の切り替えが出来るように、
これからも繰り返していかなければ・・と、読んで思いました。
  
習慣になるほど神語を唱えるのである。
過去を基にして語るのではなく、真理に基づいて語る習慣を作るのである。



外側の現象に気持ちがつられ過去の習慣で反応してしまう、同じような感情を繰り返す。。。(T_T)
そこから抜け出したいと思う。
 だからこそ、今 やらねばっっ ☆☆☆


すべては必ずよくなる 絶対大丈夫、大成就!

「我即神也」
私は本来神である。神そのものである。一つの欠けたるものなく、余分なものなく、
まったく完璧に大調和された神そのもの。


私は宇宙神からきた光、 その私を侵すものは一切なにもない
大いなる源泉とつながる私は、その溢れ出る光を地上に放つ者。・・・・・ ☆

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by mppoe-light | 2011-12-21 18:00 | ピタゴラスさん啓示録から

『人は何であれ、自分について思い込んだ通りのものになる』。

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ぴーさんの古いファイルを取り出し、最初に開いたページにあったものです。↓
読んでみたら面白かったので再度、(一年前のもので、その時に載せたと思うけど)
ここに載せることに☆



人生に立ち向かう


『人は何であれ、自分について思い込んだ通りのものになる』。

信じる想念は途方もないエネルギーである。信じたものが現われ、疑ったことが生じる。
『私』が信じることは「我即神也、人類即神也」のみ。自分の神性を認める人は、人類の神性を認める。自分の神性を疑う人が、人類の神性を疑う。神性を認める人は、無限なる愛に満たされ、輝かしい人になる。神性を認める人は、調和して生きる。自分の自由を認める人は自由になる。

欠点、至らなさは消えてゆく姿。消えてゆく姿を世界平和の祈りに投げ込んでしまう。
不完全な自分よりも、神としての自分の素姓を信じてみよう。見える姿よりも、見えない素姓を信じてみよう。それが愛と赦しだ。自分に愛と赦しを注いでみよう。


『自分の内部には神性しかない』。
究極の真理も自分の内部にある。それを知る者は、至福に満たされる。それに気づくことが目覚めである。  自分の素姓に対する信念が自分を幸福に導く。人生は、
『自らの内なる光に導かれてゆく』。
その姿を人類に示すことが神人の天命であり、天の計画である。

『しかし、(人類一人一人に内在する)真理を欲しなければ、それはいつまで経っても表出することはない。すべては自分次第だ』。
誰かが自分を幸せにしてくれるわけではない。神人は、今日も
『究極の真理を思い出すための人生に、厳然として、一人立ち向かってゆくのである』。
 
人生に立ち向かうときに必要なのが祈りである。祈りとは、自分と人類の素姓の宣言である。素姓の宣言とは大生命賛歌である。それは神語である。

神語

『人類の自由は無限大である。
 人類の能力は無限大である。
 人類一人一人は本来、無限なる叡智、直観に包まれているのだ。
 そして、人類一人一人は本来、光り輝いているのである。』



注 『  』は白光誌2004-12

ピタゴラスさん 「人生に立ち向かう」 から
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『人は何であれ、自分について思い込んだ通りのものになる』。

『しかし、(人類一人一人に内在する)真理を欲しなければ、それはいつまで経っても表出することはない。すべては自分次第だ』。

『究極の真理を思い出すための人生に、厳然として、一人立ち向かってゆくのである』。


人生を自分のものにしたいなぁ。 
最期、自分自身を振り返った時、納得して満足できるものに、 
そして大きな達成感が持てたら最高だな~・・・と思う。(^-^)

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by mppoe-light | 2011-12-18 22:08 | ピタゴラスさん啓示録から

消えてることのない「私」は何者か☆

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「自らの神性」を貶めるような言葉、想念、行為を100パーセントつつしみ、
ただただ人が自分を見て「吾は神を見たる」と思わず思わせるほどの自分を磨き高めあげ、
神そのものとなることである。それしかない。それのみである。 
それこそが人類を導く方法、人類を救済する方法である。
<12月号 法話 から> 


意識だけが天と地を、つまり神界の成就の世界と地上の現象界を繋げてくれている。
「我即神也・成就」で意識を高めあげた私を媒体にして、私を通して、
神さまの成就している無限なるものすべてを、現象世界へ、人類へ放つ。
きっと、本来生きるってこういうことなのかも。

祈れる私は 光そのもの 真理そのもの 神の器そのもの

「我即神也」と心底思えた時、初めて人の心を動かすことが出来、共鳴させてゆくことが出来るのである。
それは、全く無意識に自然に溢れ出てくる自分の言葉が、愛と赦しと真理の言葉となり、相手に励まし勇気づける言葉となり、いかなる人の中にも「神の生命」を見出す言葉となるからである。<法話から>


本来「私」は神である。 神そのものである。無限なる愛、光、叡智、生命に充たされているのである。
本来完璧なように創られているのである。完璧そのものである。
一つの欠けたるものなく、一つの余分なものなく、まったく完璧に大調和された神そのものである。


この時、完璧に大調和した「私」は、大きく広がっていて、すべての人や自然界を含んでいる状態。 すべてと繋がっている状態。  だから、人類すべてが真理に目覚めなければならない、自然界は癒され回復されなければならない。 でなければ、「私」の世界も完成されない・・・。

あらゆる現象は「消えてゆく姿」  決して消えることのない 「私」という意識。
この「私」をしっかり掴んでおかなければ、と思う。 
「私」は何者なのか。
「私」は 「我即神也」      
外側の現象に反応して、忘れてしまわないように。。。。よく忘れてしまってる・・・(ーー;)ううぅ・・・
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  今、現実がどうであれ

 今、現実がどうであれ、「私はすべてに満たされている」と思い、語り、行えば、その通りになる。
(2011-12 日々の指針より)

 このワンセンテンスには深い真理が凝縮されている。「今、現実がどうであれ」とは、現実から事を始めないということである。あらゆる現象は「消えてゆく姿」である。それを浄めようとか、何とかしようとか考える必要はない。
新しい状況を創り出すには、果因説を駆使する。
現実世界ではなく、完全・完璧・大調和・至福に包まれた神なる自分から事を始める。
その姿は現実の世界にはないから「想像」するしかない。
イメージが難しければ、「今、私はすべてに満たされている」と宣言してしまえばいい。完全・完璧・大調和・至福そのものの自分は、厳然と存在している。その神なる自分は既に、救世の大光明のメンバーとして大きな働きをこなしている。その神なる自分は言うに違いない。

「今、私はすべてに満たされている」と。

肉体側の自分も同じように宣言すればいい。語ればいい。その言霊が、神たる自分の姿をこの現実世界に呼び出すのである。「神性顕現」である。「大成就」である。
神の姿が顕われてくれば、「すべては必ずよくなる。絶対大丈夫」である。

現実に対して反応することは、現実世界に変化を生み出さない。
現実批判、闘争を繰り返すこと自体が幸せではない。
現実を超えた神の世界に入り込むことが、現実世界に変化を生み出す。
「神の姿」に思いを馳せること自体が幸せである。

自分の現実を見ず、自分の神の姿を見る。
これが自分を愛することである。
自分のすべての神性を知ること、
自分のすべての神性に思いを馳せること、
自分のすべての神性を宣言すること、
これが自分を愛することである。

自分を愛することなく、人類を愛することはできない。
自分を愛する人は、同じように人類を愛することができる。
自分を愛する人は、
人類一人一人のすべての神性を知る。
人類一人一人のすべての神性に思いを馳せる。
人類一人一人のすべての神性を宣言する。   2011/11/27

mixi ピタゴラスさん 
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by mppoe-light | 2011-11-29 22:27 | ピタゴラスさん啓示録から

目指せ「自立」☆大成就!

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宇宙神の創造は既に成就している。宇宙神の世界は神界である。神界の様相は「神の姿」である。
現実世界の創造は個々人の自己責任の領域である。
宇宙神の世界と現実世界。この二つの世界を繋ぐのは意識である。五感では決して繋がれない。五感は現実世界だけを知覚する。五感は神の世界を知覚することはできない。五感から離れた意識が「神の姿」について想像力を巡らし、「神の姿」についての言霊を宣言するとき、「神の姿」は現実世界に映し出される。これが「大成就」の原理である。


 この二つの世界は厳格に分離されている。したがって、人間の過ちは物質世界開拓のプロセスで起こる「消えてゆく姿」でしかない。
「消えてゆく姿」とは現象世界の全否定である。現象世界、つまり五感が知覚する世界は「過去」なのである。

真理は現象界を超越している。しかし、真理は現象界をおろそかにはしない。真理が現象界に映し出される。それが神のみ心なのである。
現実世界は「成就」の場である。人類は「成就」を唯一絶対の使命として存在している。
「成就」するすべては「神の姿」である。「神の姿」は神性そのものである。神性のみである。

宇宙神の創造した世界は創造の結果である。そして同時に、それは「神の姿」を現象に写しだす原因である。
宇宙神の創造の結果が現象界より先にあるから果因説である。
宇宙神の創造の世界は、「神の姿」を映し出す原因だから「本来因果」といわれる。
果因説とは本来因果のことである。果因説・本来因果は「成就」を目的とする。
 
 過去はすべて「消えてゆく姿」である。
過去を持った存在が進化するのではない。
 過去を持たない無垢な神から再スタートするのである。
 『私』は、過去に関係なく、完全・完璧・大調和・至福の神である。
 『私』は、完全・完璧・大調和・至福の神としての姿をこの世に顕わす。
 すべては大成就! 

mixiピタゴラスさん 「あなたは過去のない無垢な神である」

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私のブログでは、ピタゴラスさんがmixi で公開されたものすべてを紹介してはいませんので、もっと読みたい方、真理を追求したい方は 直接ピーさんのmixi へお出かけになると良いです。 
せっかくだからマイミクになった方が手っ取り早いかな☆。

私は、毎回印刷しファイルに綴じておりまして、 で、綴じたものを好きな時間に読んでいます。
毎晩寝る前には真理の本を開いて読み、それから寝る習慣になっていて、
昌美先生の法話を読んだり、ピーさんのファイルを読んだり、などなど・・・
同じ本、同じ部分を何度も目を通しています。 で、
いいなと思ったものをこのブログに載せてます。
  
おぉっ そういえば 神語・・・つまり言霊は、もう1年以上は続けている。
 

 言霊の威力を感じている今日この頃です。 おかげで、
昌美先生の法話も以前よりずっと理解できるようになったし、 降ろされている神事も 意識を集中して行えるようになりました。  嬉しいー!ヽ(^。^)ノ
 
守護神さまの響きを受けて、それを翻訳(?)し、解説して下さってるピーさんは、もちろん素晴らしいけど、
そのピタゴラスさんのことをあまり知らないまま、
啓示録に飛びついて その内容に没頭した私も かなり素晴らしいと思う!(笑)

c0074000_19553929.gif自画自賛!  無限なる直観☆

それはやっぱり守護霊守護神さまのおかげ。 

思い起こせば 18年前、
たまたま書店で手に取った五井先生の著書の先生の笑顔の写真を見て、 
「こ、これだっ・・・!!!」 と、
内容も確かめずに速攻で購入し、速攻で読みました。
宗教は嫌いだったけど、その日の夜から 世界平和の祈り を始めました。
しばらくの間は、五井先生の写真を見ては、
「なんて綺麗な人なんだろう・・・」と感動していました。

これも無限なる直観。
c0074000_19561129.gifすべて守護霊、守護神さまの導き・・・☆ 

過去には 守護霊さまに向かって ぶーぶー文句を言った時もありました。 ( ̄▽ ̄;)。。。。
周囲に言わない分を全部守護霊さまにぶつけていた。。。。 ううぅ・・・ 
c0074000_19591719.gif(未熟だったのデス・・・許してね。)

c0074000_200025.gif一所懸命に呼べば、必ず光を送って下さる(体が軽くなり、ハートがすっきり)守護霊さまです。
 「我即神也」に意識が入れない時は、今も 守護霊さま守護神さまを呼んで助けてもらいます。
今月の昌美先生の法話にもありました・・・ 
 「自立」


自立とは自分が神である、自分が自分の創造主であるという立場である。

依存のシステムは、カルマのシステムである。
人間は千差万別ではあるが、多かれ少なかれこのシステムを刷り込まれているのである。だから、基本の感情は誰でもほぼ同じなわけである。
凡夫と言う意味では、誰もが五十歩百歩というところである。

自立の立場もシステムである。
その根底にあるのは「我即神也」という自己意識である。
この自分を赦し、自分を愛し、自分を尊敬し畏敬し、自分を褒め讃美するところからシステムは成り立っている。しかも、このシステムは既に出来上がっている。完璧に大調和せし神としての自分の姿はもう既に出来上がっている。今この瞬間、神の姿は、厳然として輝いているわけです。
 この新しいシステムを積み上げてゆく必要は毛頭ないわけです。神としての自立のシステムは出来上がっている。その出来上がった姿をダウンロードすることを心がければいい。これが果因説である。

ピタゴラスさん 「自立と依存」から


目指せ自立! そのためにも・・・・ 
守護霊さま守護神さま どうぞ今後もよろしくお願いします。  
なんちゃって☆
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by mppoe-light | 2011-11-11 20:03 | ピタゴラスさん啓示録から

「過去はなく、カルマもない」 

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 <完全・完璧・大調和 から>

 赦しとは、現象に関わらず、真理を知ろうとすることである。
赦さないとは、現象を宇宙神の真理に優先させることである。
現象は過去の意識の結果である。
過去の意識とは、自分が信じたこと、自分が貼り付けたレッテル(定義、評価、価値判断)である。
それらは、神から離れて、物質的な自分が思考したことである。

 あなたは過去の意識から、過去の現象から赦されている。
神の視点からすれば、あなたに過去はなく、罪穢れなし。
神の視点である果因説があるところ、カルマの原因ー結果はない。
赦しとは、神の視点、果因説を受け入れることである。

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神の視点 果因律からすれば、「過去はない」  
神の場からすれば 過去はなく、カルマもない
我即神也の『私』 とカルマ側の「私」は両立、共存しない。
我即神也の『私』には、過去はなく、カルマもない。
『私』は光だけですべてを描ききる、
『私』が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界、 
完全・完璧・大調和の世界

と言いつつも・・・・
「過去はない」 って言っても 「でもやっぱり過去がある」 って思える。
だって、相変わらず消えてゆく姿は現れている、今までと変わらない気がする ・・・・
祈っていても、印を組んでいても 
神意識とは同時に存在しないはずの 過去・カルマ はまだあり、重なってる気がする


もう一度 五井先生の講話を思い出してみる

神様を知って、自分が神の分け命だと知ったその日からはね、業はないんです、本当は。
それを信じなきゃいけません。


もう一度 今年の神示を思い出してみる

本来、我即神也の私は、あらゆる世界情勢に対して、あるいは自らの人生に生ずるあらゆる出来事に対して、すべてを心して受け止められる存在。
そればかりか、何かが起きたときに「すべては大成就」と意識することにより、
宇宙神の聖にして神秘なる力によってその真理は天に刻印され、あらゆることを光に変容できる存在。


神の視点である果因説があるところ、カルマの原因ー結果はない。

昌美先生が話された 「過去はない」とは、 神の視点、果因説からみた私たちのこと。
果因説が出たことで、私たちは 自分を過去から解放することができる

自らに対する不信感をも徹底的に光明へと変容しつづけ、究極の真理「我即神也」「人類即神也」を絶対なるものに極めることが重要である。(今月の法話)

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 「私の意志ではなく、神の御心のままになさしめ給え」とは、「自分の判断ではなく、神の視点を受け入れます」ということである。それは「自分を赦します」ということである。それはカルマの法則が成就することではない。「神の御心が隅々まで成就します。大成就!」ということである。神の御心は完全・完璧・大調和・至福である。

 神の御心によれば、あなたは完全・完璧・大調和の神である。あなたは至福に包まれた神である。現象が不完全であったとしても、絶対大丈夫。自己改造の必要すらない。未だ、自分の完全・完璧・大調和性を認めていないだけだ。未だそれを宣言していないだけだ。それは認めて、宣言すれば足りることである。あなたの神性は宇宙神の神性のすべてである。あなたの神性に量的な限りはない。

 宇宙神の御心によれば、
『神人がこれから受け取ることは、すべて善きことのみ、幸せのみ、成功のみ、繁栄のみ、、、、、、である。仮に病に侵されようとも、自らの内にある無限なる治癒力により、癒されてゆくのである。一人一人の神人が当然に受け取るものである』。
『  』白光2008-03 



究極の真理を深め、絶対なるものへと極めて
今年の神示 「何かが起きたときに「すべては大成就」と意識すること」 により、
「私」は あらゆることを光に変容できる存在に。

そうなったとき、私には「過去はない」 と実感できるのかも。


 
『私』は『光に包まれ、光の世界で生きつづける』。
『私』は光を浴び、光を放ちつづける。
『私』は光に導かれ、人類を光で導きつづける。

 『私』は『善なるもの、真理そのもの、愛そのもの、
光そのもの、赦しそのもの、感謝そのもの』。

 『私』は完全・完璧・大調和の神そのもの。
 『私』は至福の神そのもの。
 『私』は真理の神そのものである。


 自分を愛するとは、『私』のすべてを知ることである。
 自分を愛するとは、『私』のすべてを宣言することである。
 
mixiピタゴラスさん
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by mppoe-light | 2011-10-21 21:58 | ピタゴラスさん啓示録から

「真に生きるならば・・・」 のつづき☆

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いずれも、現象を整えることによって幸福になろうとしている。しかも、その意識には、「幸福になれないとどうしよう」という恐怖心が付きまとっているのである。すべて因果律の思考方法である。

さっきまで 我即神也 に意識を向けていたはずなのに、 現象に反応して出てきた想念は、恐れ、不安、罪悪感を元にして発生した想念。
あっという間に「我即神也」は吹っ飛んで、ほぼ条件反射(^_^;)のように湧き出す否定的な感情、 
無意識というか、自動的に反応してしまっている。。。(;一_一) うぅ・・・。
c0074000_20435247.gifどんだけ 恐れや罪悪感が根深いんだか、、、(T T) 
が、しかし!
底なしのように思える業想念も、果因律には敵わないのだっ・・・! ふっふっふっ・・・

どんなに深い罪悪感も、 「我即神也」を がっちり つかんでしまえば、
もうその場にはカルマはないのだっ
果因律の前には、カルマの多さ、深さは もう関係ないのだっ
あとは、どこまで「我即神也」を自分のものにするか・・・・っ 

目の前の現象が何であれ、『消えてゆく姿』を行じるから、『私』は現象に影響されない。『消え去ることのない姿』『そのままの姿』それが『我即神也』である。それは至福である。

輪廻転生によって築かれた否定的想念の習慣性を、自らが覆してゆかなければ、今生におけるすべてを終了し、完結させることは出来ないのである。
究極の真理「我即神也」 「人類即神也」を絶対なるものに極めることが重要である。
<今月の昌美先生の法話から>

祈れる私は 光そのもの 真理そのもの 神の器そのものなり
故に、いかなる時も宇宙神の光に包まれている
私○○を侵すものは一切何もない


よって 結論、
c0074000_20433061.gifこれからも こつこつ 言霊(神語)、印を繰り返すのみ。

おしっ まとまった 決まった☆
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by mppoe-light | 2011-10-14 20:58 | ピタゴラスさん啓示録から

「真に生きるならば・・・」

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自分を赦すとは、自分から神性以外の定義を手放すこと。
自分を愛するとは、自分の神性のすべてを知ること。
真理を知るとは、自分の神性のすべてを知ること。

 真理を知るとは、因縁因果を知ることではない。因縁因果という夢の世界から目覚めることである。果因説に目覚めることである。宇宙神に抱擁された、宇宙神の愛し子(めぐしご)として、自分を見ることである。

 宇宙神の創造は完全・完璧・大調和である。『私』はその只中にいる。永遠に至るまで、『私』はそこにいる。『私』は他の世界に行くことはなく、行く必要もない。
『私』のいるところ、すべては完全・完璧・大調和である。

『いかなる状態にあろうとも、即その奥に完全なる肉体、完全なる状況、完全なる環境を自らが感じ取ってゆくことである』 (2000-4 P.50

 実感、実際、現実は意識の結果である。つまり、目の前の姿は消えてゆく姿。
そして、
『神の姿・我即神也』は必ず、『後から光明燦然と顕現されてくるのである』(2000-4 P.50)。

現象があって、それに反応することが生きることではない。真に生きるならば、意識が先行する。意識活動は、観念論では絶対に終わらない。殊に言霊があるならば、現実世界は必ずよくなるのである。
「現実・実績がなければ、大それたことを宣言してはならない」と囁くのは自我である。現実・実績がないにもかかわらず、
『自分は本来完全なのだ。完璧なのだ。何一つ欠けたるものはないのだ。すべては完璧に整えられているのだ』(2000-4 P.50)
と真理の宣言をすることを習慣としてゆけばいいのである。

 『私』について真理を宣言できるならば、即『私達人類』についての宣言もできるのである。『私』が神ならば、即『人類即神也』なのである。 

 00があれば幸せになれる。××がなければ幸せになれる。00を所有すれば幸せになれる。
このように、一般に人は現象があって、それに反応する幸福を求めている。自ら設定した良い条件を満たすことによって、幸福になろうとしている。また、自ら設定した、悪い条件から開放されることによって、幸福になろうとしている。いずれも、現象を整えることによって幸福になろうとしている。
しかも、その意識には、「幸福になれないとどうしよう」という恐怖心が付きまとっているのである。
すべて因果律の思考方法である。

 ここに登場するのが果因説。思考回路が全く逆。太初(はじめ)に無限なる幸福ありき。
『私』は無限なる幸福そのもの。
『私』は幸福そのものとして宇宙神と共にある。『私』の心には、無限なる幸福が溢れている。
『私』の存在そのものが幸福であり、至福感に包まれたのが『私』の存在である。
目の前の現象が何であれ、『消えてゆく姿』を行じるから、『私』は現象に影響されない。『消え去ることのない姿』『そのままの姿』それが『我即神也』である。それは至福である。
 ピタゴラスさんの 至福 から

          
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現象があって、それに反応することが生きることではない。真に生きるならば、意識が先行する。意識活動は、観念論では絶対に終わらない。殊に言霊があるならば、現実世界は必ずよくなるのである。
この部分が好きで、何度も読んでるところ。

本当に“生きる”ためには(自分の生命を活かすためには) どうすればいいのかなーと思ってるので、
真に生きるならば、意識が先行する
この言葉が、とくに気に入っているのだけど 気になってもいる部分。
 
日常を暮らすためには、発生する物事にちゃんと対応して、きちんと処理していかなければなりません。それは常に 自分の外側と関わることばかり。 ま、当然のことなんだけど。(ーー;)
外側の関わりは、
仕事であったり、ご近所のお付き合いであったり、友人との交流、家族との関わり・・・などなど、自分の外側。

現象があって、それに反応することが生きることではない。
この 反応する(無意識に反応してしまうのだけど(^_^;)) の意味は、解ることは解るのだけど・・・・、
では具体的に どうやればいいのかー、。。。 意識を先にするってことは、 つまりは・・・

五井先生が教えて下さった、祈り心で生きる ということと同じなのか。
いつでも何処でも  消えてゆく姿で世界平和の祈り、 消えてゆく姿で「我即神也」
いつもいつも 自分が光の子であることを忘れないように、

『いかなる状態にあろうとも、即その奥に完全なる肉体、完全なる状況、完全なる環境を自らが感じ取ってゆくことである』 (2000-4 P.50

無意識に生きることが どれだけ危なっかしいことか。
意識的に生きることは、いかなる状態であろうとも、自分が「我即神也」 であることを思い出すこと。 
 んー、、、
やっぱりこれって 「我即神也」の理解を深め、自分のものにしていく以外にないのだ☆。

で、
つづく☆
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by mppoe-light | 2011-10-13 22:41 | ピタゴラスさん啓示録から

気ままに意識と脳の話☆

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「意識の入力」について重要なことは、「物質世界、経験の世界、形ある世界」からの入力を拒否することである。内部入力である「真理の入力」から始めることである


ここからは ざっくりと私的に書き直してしまいます ♪ 
ヽ(^。^)ノ~☆ ♪

「意識の入力」 つまり 「私」が何を真実として認めるのか、、、とうことで、
重要なのは 「物質世界、経験の世界、形ある世界」は消えてゆく姿として拒否すること! 
そして、
本来認めなければいけない「真理」を認めること!
究極の真理「我即神也」を認め、そこから始める。


私たちは習慣として無意識に、外部入力(外側の現象)「物質世界、経験の世界、形ある世界」からの情報を認めることを選んでしまう。
それに加えて、「テープレコーダー入力」が関わっている。(過去からの過てる想念が関わっている)

新しいポジティブ「私」を創造するために そして、ポジティブな世界を創造するために 意識に新たな入力(ポジティブな情報を認めさせる)しようとしても、 常に「テープレコーダー入力」が回っているて「過去の感情」と言う色眼鏡を被せてしまう。 

3次元意識の中だけで、意識変革して現象を好転させようとしても、
テープレコーダーの波にまかれながら、3次元ををくるくる回ってるだけなので、
改善には途方もない時間と労力が必要。。。。これでは一般人は 徒労に終わりそう。。。。
で、
この「意識の入力」を神の世界から始めるというのが果因説なのである。  
ジャジャーン! 神は完全、完璧  絶対大丈夫 大成就!


c0074000_21524398.gifわーい、やっとここまで書けた! 
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『我即神也』は遠い目標でもない。彼岸でもない。既成事実なのである。
この事実は、時空を貫いている。
人の右脳はこの既成事実・真理からの入力に基づいて、恒常的に活動している。
他方、人の左脳は外部入力と過去入力に基づいて、継続的に活動している。

右脳の自己意識軸は常時「我即神也」に固定されている。それは絶対にぶれることはない。
左脳による自己意識軸は常時揺れ動いている。一般に人は左脳優位に生きているのである。 

宇宙神からの響きは止むことなく、人の右脳に流れ込む。しかし、肉体意識としては同調できないのである。本来の祈りは、その同調を妨げる「外部入力・過去入力」を排除する。
そして、
『本来の祈りとは、自らの肉体意識を宇宙神の無限なるものすべてに同調させることである』(03-11)。

真の祈りは、左脳を黙らせ、右脳を開放すること。真の祈りは自我を黙らせ、神我を目覚めさせることである。

 『我即神也』は宇宙神の創造の結果として、宇宙神の分け生命として厳然と存在している。しかも、右脳はその響きを常時、受信しているのである。肉体意識では、それを簡単には認識できない。その響きは、雑音によってかき消されているからである。
しかし、いかなる人間の言動行為といえども、『我即神也』の響きを消したり、『我即神也』の存在を汚したり、破損することはできないのである。かつまた、いかなる言動行為も宇宙神を不機嫌にすることはできないのである。
宇宙神はいつも『我即神也』の姿を見据え、愛し、『完璧・完全・大調和・宇宙神にそっくり(似姿)』として喜んでいて下さっているのである。

 『人は誰でも、自己の内より祈りと印が常に湧き出ており、それらは常に天とヴァイブレーションを全く一つにしているのである。内なる神我は常に、天地一体となって祈り、印を組んでいるのである。』(03-11)
 
 この『内なる神我』は『我即神也』であり、本体・本心である。
『自分』『私』とはその本体・本心だけなのである。
『自分』『私』について自我がどのような証拠をつきつけ、どのように定義し、どのように評価しようとも、すべての人の『私』は神そのものなのである。
人類即神也。  
 ぴたごらすさんの 自己意識の入力 から


宇宙神からの響きは止むことなく、人の右脳に流れ込む。

ここ読んだときには、びっくり☆ でも、嬉しかった♪
「我即神也」 は、遠い遠い目標ではなく、既成事実、常に常に 自分と共にある響き。
 自分の右脳まで神の響きが来ていると思うと、神意識が身近に思えてきます。


しかし、肉体意識としては同調できないのである。本来の祈りは、その同調を妨げる「外部入力・過去入力」を排除する。そして、
真の祈りは、左脳を黙らせ、右脳を開放すること。真の祈りは自我を黙らせ、神我を目覚めさせることである。

消えてゆく姿で「我即神也」  だぜぃ!

自らが自らの神、即ち「我即神也」に対する信をもっともっと強力にし、信を固め、・・・・
神人がが神意識で一つ一つの言の葉に魂を込め、全身全力にて事に臨めば、必ず人類救済は成る。それは絶対である。 (今月の昌美先生の法話から)


今月の法話を読んだとき、ピーさん推薦の 神語(言霊なんだけど) を続け来てよかったな~と思いました。
これからも 続けます。

で、 右脳についての補足☆
日記上で、次のようにコメントされていたので、ご紹介します。

右脳については会長が白光2008年7月号で書いておられます。
詳しくは「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著に
科学者が、脳梗塞で左脳の機能を失った体験として書かれています。


さっそく2008年の7月号を読んでみました。 (*^_^*)  面白かった、良かったです。

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by mppoe-light | 2011-09-30 22:03 | ピタゴラスさん啓示録から