カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 139 )

自分の存在そのものが「大成就」に値する

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祈りの言霊が新しくなりました。
すべては完璧、 欠けたるものなし、大成就

気に入っています。


大成就


 かつて、会長の法話には『厳然と存在する』というフレーズが数多く登場することを示した(13-8参照)。

『厳然と存在する』ものとは『我即神也』であり、神性、無限なる神性の宝庫、神意識である。
『厳然と存在する』ものは神界の神の姿である。それは既に成就している姿である。
その姿を認めさえすれば、その姿は現象界にも成就する。そうでない現象の姿は、『宇宙神の聖にして神秘なる力』によって変容されてしまう。つまり、消されてしまうのである。

 『大成就』とは『我即神也』による、神性顕現の宣言である。
『厳然と存在する』姿を現象化させる宣言である。神性の姿は宇宙神が定めた姿である。つまり、天命を完うした姿である。天命を妨げるものは一切何もない。
『大成就』つまり「天命の姿を受取る」宣言をすれば、神性そのものの姿が顕現してくるのである。『自らが望むことはただ受取ればよい』(2007-04)のである。

 『大成就』は神の宣言であるから、宇宙神の力がそこに同調するのである。
『大成就』は祈りを積み上げてきた人間の宣言ではない。祈りによって目を覚ました『我即神也』の宣言である。
『大成就』は『空即是色』の宣言である。果因説の宣言なのである。
いずれにせよ、『大成就』とは『宇宙神の御心を受取ります。有難うございます』という宣言である。
その姿は我々の内に初めからあった姿である。イエス・キリストは「天国は汝らの内にあり」と説いた。
その「内なる天国」を受取ることが『大成就』である。

 「厳然と存在する姿」=「神の姿」=「天命の姿」=「宇宙神のみ心」=「空即是色の色」=「果因説の結果」=「内なる天国」は「すべては完璧 欠けたるものなし」である。

今後、神人は「すべては完璧 欠けたるものなし」を受取るだけなのである。
受取るのに必要なのは言霊だけである。
それ以外に何か必要と考えるならば、改めて自分を赦すのだ。
自分を愛するのだ。自分を神として褒め称えるのだ。
自分の存在そのものが『大成就』に値するのだ。

自我の言葉・想念・行為は善であれ、悪であれ、自分の存在には一切関係ない。本心には一切関係ない。神性の『私』には一切関係ない。
 宇宙神の賜物を受取る時は、無条件に受取るのだ。只、感謝で受取るのだ。
受取ったことを『大成就』という言霊で確認すればいい。確認しつづければいい。


 『(神人は)欠けたるもの、余分なるもの一切なし、すべて完全円満、完璧、成就、大調和、神そのもの』である(2007-12)。

 『神人の未来はすでに宇宙の法則で定められている。最も素晴らしく、輝かしく、至福と幸せに満ちた、栄光そのものの人生が神人の前に生じるのである。神人一人一人の上に、、、、確実に!! 絶対に!!』(2007-12)

mixi ピタゴラスさん


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『大成就』は祈りを積み上げてきた人間の宣言ではない。
祈りによって目を覚ました『我即神也』の宣言である。


うんうん・・・そう、大成就は自我の宣言ではない、我即神也の宣言。
自我の宣言にしてしまうと、ツラくなる。

光を目指して自力で(自我を消し去って)登るのではなく、 
真理の言霊を積み重ね、光をこちらに引き付ける。  と、思ってる・・・・。
(私たちはすごいことを教えてもらっているのだなぁ・・・改めてびっくり☆)

そんなことがなぜ可能なのか、もちろん 私たちが「我即神也」だから!

自分の存在そのものが『大成就』に値するのだ。
神人は「すべては完璧 欠けたるものなし」を受取るだけなのである。
受取るのに必要なのは言霊だけである。それ以外に何か必要と考えるならば、改めて自分を赦すのだ。
自分を愛するのだ。自分を神として褒め称えるのだ。



な、泣ける言葉だ・・・・自分の存在そのものが「大成就」に値する・・・、 この言葉、頂きます♪・・☆

日々の日常に生きていると 今の世界が”真実”だと思い込み、
肉体側の私が本物である・・・と勘違いしてしまう。 
現象世界の私は、「影」。実体のない空っぽなもの。
それなのに
いつの間にか「影」の方が重要になり、そのことに意識が支配されてしまう。 
支配された「影」の私は、

「今の自分が言霊を繰り返すだけで、大いなるものが本当に成就するのだろうか・・・」
と、真理を疑う。成就を疑っている。 
つまり、、、本来の姿を顕現することを自分から拒否している。
これでは私の神性は顕れない。。。

 
私の命は宇宙神から流れる光。私の最も深いところで常に繋がっている。
だから私の内には 無限なるすべてが内在している。
よって、私は神性を顕す者。
祈れる私は、大成就に値するもの。 
 
この世界は、大いなる神の完全性を顕すための場。
神の完全性を受け取り、顕す。映し出す。

そのために 真理の祈りと言霊を積み重ね、 
「神の完璧、欠けたるものなし」のを引き付ける、受け皿になる。

神性は、真理の言霊の響きに共鳴して顕れる。
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも一切関係ない。
(だって影だもんね。。。消えてゆく姿だもんね。)

神の完全性は 真理の言霊に呼応し、流れ来るのみ。


と、、、こんな風に私は理解している・・・理解することにした!・・・のだっ


受取ったことを『大成就』という言霊で確認すればいい。
・・・・・正直言って、これはまだ上手くできないなぁ。。。
果因説だからそうなのだけど、、、 これはやはり言霊を積み重ねて自分のものにしていくものか。

今は新しい言霊を唱える のみっ☆

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by mppoe-light | 2012-06-11 22:35 | ピタゴラスさん啓示録から

原因となるものは、自然についてくる

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<今月の法話から>

まず自分を認めることです。

すべての結果は自分自身の中にある。

心の中に幸せが呼び覚まされていれば、その心の持つエネルギーによって、
幸せになる原因となるすべてのものが、物質も、人間関係も、自然についてくるのです。


すべての結果は自分の中に。 
自分の中の何を選択し、認めてゆくか。。。
自分の内に在るものを体験する。

始まりは 「意識」 から。
自分の意識が変われば、体験も変わる。



「空」と「光」

 空観とは、水槽に泳ぐ金魚を見るが如きではない。それは、夜空に輝く花火を見るが如きでもない。金魚は瞬々動き回り、位置を変える。花火も瞬々の輝きである。それを空と言うのではない。

 時空は入れ物ではない。物質は入れ物の中にある素材ではない。
我々は、観察する意識であり、金魚を動かしている。我々は花火を散らす中心にあり、花火の観察者である。
我々を離れて、独立した時空はなく、素材もない。我々の意識が、時空を維持し、物質現象を維持している。我々は瞬々、現象世界の創造者であり、日々創造者である。
意識は現象となり、現象は意識に組み込まれる。しかし、いつも根源にあるのは意識である。意識が自分の領域を拡大して現象世界を創ったのである。意識は現象化する。上にあるものは、下にある。


 意識の主体は『我』であり、それは『神』である。『我』はすべてを赦す権限がある。従って、過去はない(色即是空)。
『我』はすべてを創造する権限がある。従って、自由自在である。供給そのものである(空即是色)。


 多くの人にとって、一番難しいのは、「消えてゆく姿」を認めるところである。自分が創造者であることの責任を認めるところである。花火が、自分を中心に散っていることを認めるところである。
何かの出来事について、
「いくらなんでも、自分はそんなに悪いことをしていないぞ。波動の荒い世の中だから、心配でたまらない。自分を守るには、怒って、攻撃しておくのが一番だ。当然の行為だ」と言い訳したくなるのが凡夫の常なのである。
だからこそ、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の基本を25年間も説かれていたのである。


 「消えてゆく姿」も「空」も「過去のエネルギーの受け止め」で終わることはない。過去の責任を認めれば認めるほど、創造者としての立場が益々、明瞭強固になってくるのである。
「消えてゆく姿」を認めることは、実のところ「我即神也」を認めることだったのである。
「消えてゆく姿」を認めるとは、「自分は神でない」という認識の誤りを認めることであった。
それは、同時に「我即神也」を認めることであった。
この自分の神性を認める行為が、世界平和の祈りに包含されていたのである。

<白光ノート 「空」と「光」>から


量子論に基づいた内容で、ちょっとカタイけど・・・
c0074000_9321534.gif面白~い!ヽ(^。^)ノ


                                「お・・・重っ。。。。」
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by mppoe-light | 2012-05-29 09:43 | ピタゴラスさん啓示録から

真理の祈りと真の言霊

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果因説を学んで、 祈りとはどういうことか、少しずつ理解できるようになったみたいです。 
祈りは、いのちの宣言。
神の姿を表現しようとすること、現象界に真理の世界(神の世界)を呼びこむこと、・・・と思う。

実のところ、祈りは現象世界を浄化したり、改善したりはしない。
真の祈りは神語による真理(神の姿)の宣言である。
それは宇宙神の創造(第一の創造)された既に完璧な世界、完璧な姿、神の姿を祝福し、感謝する行為なのである。
この神の姿を祝福し、感謝し、讃美し、喜ぶという祈りによって、神の姿が顕われる。
つまり現実世界が創造(宇宙神の創造に続く第二の創造)されるのである。
その結果、現象世界が浄化されたり、改善されたように見えるのである。
しかし、浄化・改善しようとする心は深い祈りではない。
それは相対的、二元的な立場に立っているからだ。

「祈りの力を100%信ぜよ」と言うのは、祈りの改善効果を信じることではない。
「既に得たり」とは既成事実としての神の姿を追認することなのである。
この果因説の祈りによって、『その通りとなる』のである。



  『人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提とし、健康を前提とし、豊かさを前提として(神語を)語りつづけてゆくならば、
必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのである。』  (注1)2001-5


 神語は真理の言葉、叡智の言葉、愛の言葉である。自らの存在と人類の存在そのものを讃美する言葉である。何かの実績によるのではなく、その存在そのものが幸せなのである。素晴らしいのである。
神語による『真理の宣言は神のひびきであり、光であり、癒しそのものである』(注2)。
神語が神である自分の幸せで、素晴らしい本当の姿を思い出させてくれる。

自らの存在を幸せで、素晴らしいと思うのは生命であり、神である。
何かの実績によって素晴らしくなろうとする者は、自らの真実を忘れた者である。

自らの存在を素晴らしいと思う者は愛深い。喜びに満ちて幸せである。
何かの実績によって素晴らしくなろうとする者は、自分を赦していない。自分の過去を責めている。

仮に何かの実績を積んだとしても、振返ったとき、それは「過去」のものとなっている。自分の存在そのものは、いつも『今』にある。過去や現象世界に、何があっても無くても、自分の存在そのものは素晴らしい。自分の存在とは、本心であり、生命であり、神である。



本心を探求し、自分の内に神性を探求することは重要である。しかし、もっともっと重要なことは、神語を言霊にして、自己と人に宣言し、語り合って行くことである。
語り合ってゆくこと自体が、現実世界を創造するからだ。真の探求は哲学では終わらない。真の探求は現実世界を創造する。


次に神語の一例をご紹介しましょう。

『そもそも、自分は素晴らしい。元々、自分は素晴らしい。既に、自分は素晴らしい。初めから自分は素晴らしい。
そもそも、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。豊かだ。愛深い。能力がある。叡智に満ちている。
元々、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。豊かだ。愛深い。能力がある。叡智に満ちている。
既に、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。、、、、、、
初めから、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。、、、、、、
神そのものである私は素晴らしい。神そのものである私は幸せだ。神そのものである私は健康だ。神そのものである私は喜びに満ちている。』

「そうなりたい。そうならなきゃ。そうでありますように。そうであればいいな」を手放して、『神の楼閣』(注4)の中で、自分の幸せな姿になりきってしまうのである。そして、それを神語の言霊にして宣言してゆくのである。

 ともかく、神語を語る場合、過去や現象の姿とは関連性がなくていい。
過去や現象について『消えてゆく姿』と宣言するや否や、『不完全な自分はさておき』、『いかなる不幸な状況においてさえも』、『自分がいかなる困難を抱えていようが、絶望的な状況にあろうが』、『人類は一人残らず、外見や表象、現象はどうであれ』、自分と人類の神の姿を宣言するのである。


注2 2000-9      注3イザヤ書40-9
注4 昌美先生の言葉
過去と現象世界には根拠が無いが、真理、「我即神也」には確たる根拠がある。
その真理の場は『神の楼閣』と呼ばれる。
『神の楼閣』は『消えてゆく姿』の場のすぐ奥にある(消えてゆく姿の洗礼を通過した場である)。
他方、過去と現象世界に根拠を置く場は『砂上の楼閣』と呼ばれる。
『消えてゆく姿』のすぐ後に、『神の姿』を宣言すべきなのである。
それが真の祈りであり、神語による宣言である。

白光ノート 「真の祈りは神語による宣言」  から


・・・・真理の祈りと真の言霊を 捧げつづけるのである

すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就
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by mppoe-light | 2012-04-14 22:55 | ピタゴラスさん啓示録から

だから”我即神也”

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 あるとき、維摩詰如来がかくのごとく説法されました。


『私』が語るのだ。『私』のことを語るのだ。いずれの日にか、神を顕わすのではない。悟った暁には、そうなるのではない。今、そうなのだ。今で、ずーっとそうだったのだ。それを認めるのだ。
玉石混淆の人生を改善するのではない。それを止めるのだ。「神の天命」を完遂するのだ。「消えてゆく姿」ではない、「神の姿」を顕現するのだ。

「どのようにして」などと考えなくて良い。結果だけに意識を集中せよ。
「良くしよう、浄めよう」と思い煩うな。神界の息吹を地に吹き込むことに専念するのだ。そうすれば、すべての神性が豊かに与えられる。
「心を入れ替え、行いを正す」のではない。人格そのものを入れ替えるのだ。人の「私」ではなく、神の『私』を生きるのだ。

『私』の神性を認めるのだ。現象とは一切関係なく、それを認めるのだ。
現象よりも、神なるアイデンティティこそが真実なのだ。それを認めるのだ。それを認めることほど偉大な愛はない。

過去は法則によって、すべて赦されている。
過去からの想いに流されないように。

どんな想い、出来事があろうと、過去にあなたの真実の姿はない。
どんな想い、出来事があろうと、今あなたは神そのものだ。
あなたの存在が神そのものなのだ。
その真理に意識を釘付けにするのだ。
そこに、神界の息吹がある。
その息吹を地上界に吹き込むのだ。
それが真理の祈りだ。

「神界の息吹」 から


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玉石混淆の人生を改善するのではない。それを止めるのだ。「神の天命」を完遂するのだ。「消えてゆく姿」ではない、「神の姿」を顕現するのだ。

因果律の生き方を止め、果因律の生き方に変える。 
意識改革が必要。
カルマを抱えた“私”を捨てて、神の子「私」として思考を始める。 我即神也 


「どのようにして」などと考えなくて良い。結果だけに意識を集中せよ。
欠けたるものなし 我即神也 人類即神也 

「良くしよう、浄めよう」と思い煩うな。神界の息吹を地に吹き込むことに専念するのだ。そうすれば、すべての神性が豊かに与えられる。

内にある神性のみを認める 我即神也
形ある現象ではなく、形なき無限なる愛、無限なる叡智、無限なる真理・・・に意識を注ぐ。
神界の光が流れ始め、形の世界は大成就する

あなたの存在が神そのものなのだ。
その真理に意識を釘付けにするのだ。
そこに、神界の息吹がある。
その息吹を地上界に吹き込むのだ。
それが真理の祈りだ。


我即神也の「私」が人類に光を送ります。
すべては必ず良くなる 絶対大丈夫 大成就
神だから、「私」の送った光は必ず大成就する!
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by mppoe-light | 2012-04-03 22:49 | ピタゴラスさん啓示録から

真理の言葉

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2年前の
2010/04/04に昌美先生が富士聖地で説かれた「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」

その時から、ずっと唱えています。 
一人で居るときや、車の運転しながら、お風呂とか・・・。今でも続けています。
その時の昌美先生のお話を読んで、やった方が良さそうだ・・・と思って。
短いので覚えやすいし、言いやすい。ヽ(^。^)ノ 
好きなのは、 我即真理也  
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 光明思想の言葉、我即神也、人類即神也といくつかの真理の言葉が降ろされてきた。真理は奥が深い。どこまでも深い。
 光明の言葉も初めは、天高きところにおわす神様を賛美する言葉として理解されていた。それは、地上の人間が高き天の神々に求めるものであった。それは、地上の人間に欠けたるもの、必要なもの、不足しているものであった。それは、人間が目差すべき努力目標であった。それを成就するか否かは、その人の努力次第であった。
 光明の言葉を唱えても、自分と対比する言葉であった。それは彼岸にあるもので、自分には不足しているものであった。
 我即神也も「自分の本質を引き出せばと言う条件付で、神なのです」という会員の解説が白光誌に書いてあったりもした。人類即神也についても、「我々が浄めない限り、救われがたき人類」という観念がないわけではなかった。
 
神人たちは、少しずつ真理の理解を深めてきた。そして、四次元世界に入り、チャクラが開かれたのであった。神人たちは、地上のいかなる災いとも波長が合わず、神界のものとしか波長が合わない人生を選択し始めた。
 神人たちは光明の言葉を自分のうちに既にある自分そのものとして宣言し始める。さらに、西園寺会長がチャクラをフル活用するために四つの神語を説かれた。

「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」の四つの神語である(注1)。

この神語の由来について重要な法話を思い出しました。

『神人たちは、我即神也・人類即神也という神語の中に、無限なる能力、無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和が含まれていることを意識することが大事なのである。』(注2)


意識することが大事であれば、神語として何度も繰り返し繰り返し唱えればいい。
『我即能力也、我即愛也、我即調和也、我即平和也
我々人類即能力也、我々人類即愛也、我々人類即調和也、我々人類即平和也』と。
 神性は認められることによって、顕われる。
 神性を認めることが先か、想念・行為に顕わすことが先か。この問いは、意識が先か、現象が先かの問いである。
三次元に閉じ込められた、因果説では想念・行為、物質界の現象が先なのである。しかし、絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、
自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
 
 四次元果因説とは、『自己の神性を認める』ことに全力を尽くし、現象と言う結果については全託する道である。
三次元因果説では、現象がすべてに優先すべきものであった。科学は意識を物質に付随するものと見なしていた。
新しい科学では、意識そのものが物質化することが主軸となる。

意識が多世界(パラレルワールド)的で、モザイク的な波動の世界を物質化・現実化することが新しい科学の主軸となる。神人の祈りが新しい科学を降ろすのである。
それと同時に、神人は新しい科学を使った祈りに徹するのである。それは印であり、果因説であり、自己についての神語を語ることである。
 『我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也』

注1  富士聖地法話2010/04/04
注2  白光2004-7
注3  ブルース・リプトン「思考のすごい力」参照P.211
2010/04/10
「深まる真理」から



意識が物質化するのだから

絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
自らが神であるという大前提のもと、自らの心に注意を払い、神性を自覚し、無限の可能性を引出し、開いてゆかねばならない。(3月の法話から)

祈りの言霊 「地球の安寧と・・・・ 大成就」 を唱える時も、
神性を自覚して唱えていきたい。
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by mppoe-light | 2012-03-16 23:28 | ピタゴラスさん啓示録から

真理は無限なる新鮮

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祈り・神示、神語・印・呼吸法などなど・・・繰り返しながら、日々自分自身と正しく向き合うようにしています。
「今」を選択する。 即神であることを認める。 
 常時 神なる「私」が流れている。未来から新しい「神の私」がやってくる・・・と言ってもいいかも。 
真理は 常時 無限なる新鮮 なのだ!
さっきまでの「私」はもう消えてゆく姿で、悪いことだけでなく、良いことも正しいことも 
さらに高い正しさのために消え去って、、、、
無限なるもののために、これからもずっと現れては消えてゆくのだなぁ・・・。 

私は霊的な人ではないので、見えたり聞こえたりなんてことはないのだけど、 ただー・・・
なんていえばいいのか・・・ 自分の中の制約、制限を取り除いて軽くなりたい、 自分から自分を解放したい、
そうすれば 不安や恐れなど微塵もなくなり、無限の自由、しあわせ、喜びに包まれる・・・
そう思う。 
だから、これからもコツコツ 祈り、印、言霊などなど 続けていきます。 
果因説 最高ー!
我即神也 人類即神也

神文明の始まり


 五井先生の美学は俳句の美学だった。複雑のものを単純化する美学だった。『消えてゆく姿で世界平和の祈り』はその美学の究極だった。
逆に、西園寺昌美会長のミッションは五井先生が単純化された祈りを展開することだ。

 『世界人類が平和でありますように』から世界各国の祈りが生まれた。
『天命』から光明思想徹底行が生まれた。
『守護の神霊への感謝』から地球世界感謝行が生まれた。

会長は単純化も得意であった。
『我即神也・人類即神也』は世界のすべての真理を集約・単純化したものである。
 そして、『世界平和の祈り』から『神語の語り合い』が生まれた。
これはチャクラの開いた人による、言霊を用いた現実世界の創造であり、究極の祈りである。
これは『私が語る言葉は、神そのものの言葉である』の具体化であり、『我、言葉・想念・行為に0000(自分の氏名)即神也を顕現する』行為である。
神語を人に語ることは『人類即神也』の実践でもある。

『消えてゆく姿』が去った後に残るもの、それは『神の姿』である。『我即神也・人類即神也』の自分であり人類である。その『神の姿』を言葉にして、宣言しつづけるのである。
 これは『自分と人を赦し愛する』行為である。自分と人を尊敬し、畏敬し、讃美する行為である。大生命賛歌。神の栄光の賛歌である。
 これは果因説の実践である。因果律の終焉である。新しい人生と時代の創造である。
つまり、『神語の語り合い』には『世界平和の祈り』と同様、すべての真理が含まれているのである。

 五井先生は、「神界には、神としての自己自身が厳然として存在している」(注1)と説かれた。
しかし、一般の人が「神としての自己自身」に直入することの難しさを、一番よく理解されたのは五井先生であった。最も完全に達成した方が、その困難さを最も理解されていたのであった。
だからこそ、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を説かれたのであった。
守護の神霊への感謝行というバイパスを教えられたのであった。そのバイパスを行くうちに神人が現われ始めた。そして、神人たちはバイパスから本道に入り始めたのである。
本道とは、「神として自己自身」に直入する道である。果因説の道である。

 五井先生は「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を直接追いかける観念論を退け、一般生活に即した「世界平和の祈り」を説かれたのであった。
しかし、二十一世紀、西園寺昌美会長は、「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を思い描き、言葉に宣言する意識の高さを要求してこられたのである。
この教えの進化は、次元上昇によるものであり、何より五井先生の指示なのである。
 
「消えてゆく姿」の教えは、古い時代を終わらせる教えであった。
 「神の姿」を語る教えは、新しい時代の扉を開く教えである。
 物質文明は終焉を向かえた。神文明の扉は大きく開いた。


 注1   「霊性の開発」P.26         
  

ピタゴラスさん
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by mppoe-light | 2012-03-15 22:46 | ピタゴラスさん啓示録から

疑わず素直になるまで・・・☆

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神界に完成した「私」が在る。
神界は何処かの場所ではなく、今 私の中にあって、
完成した神「私」はそこにいて、いつもこう言っている

「我即神也 すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!」

これはいつも絶え間なく自分の中で響いている、はず・・・ なのだっ!



第一段階は、『自分そのもの』『今の私』と現象とを厳然と切り離すという『無限なる赦し』である。『色即是空』の段階である。「固定観念を覆す」段階である。

ここをおろそかにしては、いかんっ!
現象世界の出来事の方が、圧倒的に説得力があるんだから。ふらふらと惑わされてしまう。
「無限なる赦し」
現象と「私」を切り離すには、日々 真理を追求する気持ちが大切。

 第二段階は、『自分そのもの』『今の私』と神性を一体視するという『無限なる愛』である。『空即是色』の段階である。「我即神也を復活させる」段階である。
 
「無限なる愛」
神意識「私」の響きと 「今の私」を合わせる

我即神也 すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!

いつも絶え間なく自分の中で響いている(であろう)この言葉を疑わず素直になれるよう、
祈り、印、言霊の神示を繰り返し、そしてまた
第一、第二段階を繰り返す。 こつこつと、 こつこつと。 素直になるまで☆

でも・・・・
たまには・・・・

成果を体験したいよーっ!  

って、もしかして 気づかないところで ぽちぽち成就してるのかなぁ?(・・;)
こちらが気づかないだけ? 


仮想「我即神也」の実践

 『常に自らが完全な状態、そして欠けたるもの一切なしという状況を強くイメージしつづけることによって、その通りの現実が創られてゆく。』(2011-1日々の指針)

 祈る人の姿に「吾は神を見たる」と人々に思わせるものがなければ、地球世界の完成はない。
顕われた人格(人間性)、姿、すべては重要である。
しかし、物事には順序がある。果因説では、第一段階から完全な人格を要求されることはない。
それは赦しから始まる。
第一段階は、『自分そのもの』『今の私』と現象とを厳然と切り離すという『無限なる赦し』である。『色即是空』の段階である。「固定観念を覆す」段階である。
 第二段階は、『自分そのもの』『今の私』と神性を一体視するという『無限なる愛』である。『空即是色』の段階である。「我即神也を復活させる」段階である。

『今、私は完全である。欠けたるものなし。
私は今までずっと完全であった。欠けたるものはなかった。』

 この状況をイメージしつづけるのである。イメージがむつかしければ、言葉で宣言しつづけるのである。
神なるあなたの言葉は必ず現実化する。必ず成就する。
神性をイメージして現実化することは念力ではない。自我欲望をイメージして現実化する念力とは異なる。
神性の現実化は横取りではない。『縦取り』なのである。それは因縁因果説ではなく、果因説なのである。
神性は既に、人類一人一人の遺産として、宇宙神から無限に与えられているものなのである。
その神性を自由自在に人類が使いこなすことは、宇宙神の御心であり、意志なのである。
その宇宙神の意志を邪魔することなく、まっすぐ受け入れることは全託なのである。
「自分は至福に値しない」と思うのは、過去を根拠に考える自我の想いである。
「私は宇宙神の意志である至福を頂戴します。有難うございます」と想うのは、真理を根拠に考える神我の想いである。

 これまで、人類は現象世界の出来事、物品にことごとく心を奪われ、現象界に振り回されてきた。その人類の生き方が大転換する。これからは、自分の内なる神性にことごとく心を奪われ、現象界にそれを映し出してゆくのである。
内なる神性を隈なく思い起こし、一つの漏れなく讃え上げるのである。そして、その一つ一つを現実化してゆくのである。

 『私はわが内なる我(神)を讃美する。』(2009-4 日々の指針)
 『必ず成る。必ずよくなる。必ず成功する。必ず繁栄する。必ず癒される。必ず顕われる。
 すべてはよくなる。すべては必ず成就する。すべては調和し、すべては整い、すべては成る。』(1995-11)
 mixi ぴたごらすさん

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by mppoe-light | 2012-02-16 22:28 | ピタゴラスさん啓示録から

すでに成就している

重要なことは、完全調和した世界は既に成就している・・・・・

『この肉眼肉耳に見聞きすることは、全く暗い不完全なことが多いようですが、人間の真実の心でみている世界は、全く明るい清らかな完全調和した世界なのです。神々の光で充ち充ちている世界なのです。私はそれをはっきり知っております。   中略
 この肉体世界にいる人類は、すべて神の子であると同時に業生でもあるわけですから、神の子の住む、完全円満、大平和な世界をつくるためには、自分たち自身が、業生の想念から神の子の想念に想いを切りかえなければならないのです。』
(「愛・平和・祈り」P.116-117)

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 「業の想念が肉眼肉耳で見聞きする不完全な世界」と「神の子の想念が真実の心でみる完全調和な世界」が同時並行的に進行している。もちろん「業の世界」は「消えてゆく姿」。「神の子の世界」は「真実の姿」である。業の想念は左脳で受信されている。
他方、神の子の想念は右脳で受信されている。
人類の脳は同時に二つの世界を見て、二つの想念を受信している。
しかし、圧倒的に業生の想念が優勢になってしまっている。祈り・印・言霊は、この二つの世界の想念を切り替える方法なのである。
 
 ここで重要なことは、完全調和した世界は既に成就しているということである。
完全調和の世界は、はるかかなたの神の世界に成就しているのではない。その真実の心・本心は、厳然と眼前に存在している上に右脳にまで貫通し切っているのである。本心こそが真実なのである。
本心のひびき、右脳が受信するひびきを、言葉にしたものが祈り言である。口に出して宣言すれば言霊(神語)である。全身で表現すれば印である。ならば、祈り言葉が肉体世界の様相と異なっていたとしても、矛盾・偽善・口先のことにはならない。

 祈り・印・言霊によって、意識は現象世界を離れて、神の世界を思い出すのである。それが次元上昇である。意識の目覚めである。その目覚めによって、神の世界がこの世に顕現するのである。これが、これから本格化する「神性復活」の原理である。

 
神性は無限にして、そのまま我々の細胞を貫通し切っているのである。否定さえしなければ、神性はいくらでも吹き出してくるものなのである。過去からの習慣の想いと、肉眼肉耳の現象に流される想いがそれを否定しているのである。
 

目覚めた意識を通して、神性がこの世に現れ、個々人が神となる。個々人が神を顕わし、世界人類が平和となる。この宇宙神の意図は成就しているし、現象界に成就するのである。これが「大成就」の意味である。

個々人が受取るものは、完全・完璧・大調和・至福のみである。人類一人一人が、完全・完璧・大調和の神である。至福の神である。真実その通りであって、現実にそうなるのである。右脳が既に感じ取っているが如く、現実の世界もそうなるのである。大成就。
 
 我即神也。我は完全・完璧・大調和の神である。至福の神である。
 人類即神也。人類は完全・完璧・大調和の神である。至福の神である。
 大成就                  

ピタゴラスさん 「大成就」 から

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宇宙神の創造は完全・完璧・大調和である。『私』はその只中にいる。永遠に至るまで、『私』はそこにいる。『私』は他の世界に行くことはなく、行く必要もない。『私』のいるところ、すべては完全・完璧・大調和である。
『いかなる状態にあろうとも、即その奥に完全なる肉体、完全なる状況、完全なる環境を自らが感じ取ってゆくことである』(注1)。

 実感、実際、現実は意識の結果である。つまり、目の前の姿は消えてゆく姿。そして、『神の姿・我即神也』は必ず、  『後から光明燦然と顕現されてくるのである』(注1)。

現象があって、それに反応することが生きることではない。真に生きるならば、意識が先行する。意識活動は、観念論では絶対に終わらない。殊に言霊があるならば、現実世界は必ずよくなるのである。
「現実・実績がなければ、大それたことを宣言してはならない」と囁くのは自我である。現実・実績がないにもかかわらず
『自分は本来完全なのだ。完璧なのだ。何一つ欠けたるものはないのだ。すべては完璧に整えられているのだ』(注1と真理の宣言をすることを習慣としてゆけばいいのである。

注1 2000-4 P.50  ピタゴラスさん 「至福」から


現象があって、それに反応することが生きることではない。真に生きるならば、意識が先行する。

意識活動は、観念論では絶対に終わらない。殊に言霊があるならば、現実世界は必ずよくなるのである。


我即神也 人類即神也  すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!


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by mppoe-light | 2012-02-05 19:55 | ピタゴラスさん啓示録から

唱える人が神だからこそ

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「祈りの言霊」で唱える最後の言霊は、素晴らしく、そして含蓄のある言霊である。
言葉が神であるのか。我々の置かれた状況が素晴らしいのか。最も根源にあるのは、それを唱える人が神であることである。
唱える人が神だからこそ、言霊が現実化するのである。
唱える人が神だからこそ、宇宙神が用意された状況を引き付け、この世に現実化させてしまうのである。
唱える人の意志を通して、すべて宇宙神の御心が成就してゆくのである。

 つい今まで、自我を自分と思い込んでいたがために、因縁因果に従って、不調和を物質界から引き付けていた人であろうと大丈夫。今、自分の神性に思いを馳せ、果因説に従って、大調和を神界から引き付けてゆくのである。大調和の姿は、既に宇宙神が用意して下さっているのである。その姿は物質世界には見えない。想像力を使って思いを馳せ、イメージするのである。その姿を言葉で宣言するのである。そうすれば、すべての体感において神を感じるようになるのである。

 『部屋が暗い暗いと言っていないで、自分で照明のスイッチを入れよう』
これはよく言われる言葉である。「スイッチを入れる」とは現象界の中で因果関係を整えることではない。「スイッチを入れる」とは祈ること、印を組むこと、言霊で宣言すること、感謝することである。
それは果因説のスタートボタンを押すことである。
自らの神性を認めた人が、「すべては必ずよくなる」「絶対大丈夫」「大成就」と唱えるだけで、宇宙神の御心がこの世に顕現するのである。自らの細胞も、環境も、万物が宇宙神の御心そのままの姿に変えられることを待ちに、待っていたのである。
 

 
「すべてのものがよくなりますように」ではない。
人間の立場で外なる神にお願いするのではない。「すべては必ずよくなる」は神の立場に立った宣言なのである。すべての真理の祈り」「真の言霊」は神が行うものである。
 
すべては必ずよくなる。絶対大丈夫。大成就。

mixiピタゴラスさん

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唱える人が神だからこそ、宇宙神が用意された状況を引き付け、この世に現実化させてしまうのである。
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なぜか今月号はまだ届かないけど・・・・  メールでお知らせを読んで
昨日から 唱えています。ヽ(^。^)ノ 
  
印を100回と言われたら・・・えぇっ! ( ̄▽ ̄;)~☆  ですが、
100回の宣言なら大丈夫みたい♪ カウンターを持ち出してカチカチやっています。
地上に刻み込む気持ちで、「大成就!」 

毎日の生活では、さまざまなことに遭遇して動揺したり心配になったりするけれど、 
 即 「絶対大丈夫、大成就」 という気持ちに切り替えれるようになりたい。
というか、ならなければ・・・ 訓練だ・・・ これって。

想いも感情も、最終的に選択、決断、決定しているのは私 。
それを光明に切り替える自由が 私にある。
リハビリのつもりで意識的に生きる ・・・・
何を基に意識的に生きるか・・・ 我即神也を基に 

ふむふむ・・・・。 ←(自分でかきながら納得している。。)

私は神だから、すべては必ずよくなる、絶対大丈夫、大成就
そして 
人類も神だから、すべては必ずよくなる、絶対大丈夫、大成就

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by mppoe-light | 2012-01-29 19:29 | ピタゴラスさん啓示録から

カルマを超える宣言

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「皆様方のその肉体、その尊い肉体。
今いかなる状況、環境にあろうとも、そんなのは現象界で、
神聖なる魂は人類のために役立つ」

↑昌美先生の今月(富士聖地)のお話の一部分から。。。。

現象に振り回されないように、形に流されないように。
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも、本来は神、我即神也

常にいつも 神聖なる「私」が自分の内に在る。  
その「私」は常に宇宙神の光に包まれ繋がっている。
その神聖なる「私」が、人類のために役立つ、働く。


『私』はかつて「過去の私が自分である」と見誤ってしまった。「過去の私」は宇宙神から見放された孤児のように見えてしまった。自分は神とは異なる存在と思い込んでしまった。その思考は、神であるからこそ持つ創造力によって、ネガティブな人、物、場所、出来事を引き付けてしまった。そのため、人類の苦悩が生じた。
『自分を苦しめ、悲しめ、混乱させ、不幸に陥れるのは、自分自身が自分のネガティブな想いを遂げさせるために、自分が引き付けているのである』(2011/12/06富士聖地)。

あるとき、智恵の仏が人類に約束事を下さった。それは「色即是空」という約束事であった。
「色即是空」とは、『現われたものすべては即、空である』と言う宣言である。
それは『今の私』にとって、「過去がない」と言うことである。
それは「人類のすべてを赦す」という宣言であった。
人類だれであろうと、如何なる過去の履歴があろうと、人類一人一人の『今の私』は『過去の姿、想いから分離されている』という約束がなされた。だから、現象を基に人類は自分自身を評価、定義、レッテル付けをしなくていいのである。

『今の私』に過去がないならば、そこに在る『今の私』は本来の姿をしている。その元々の姿とは神性そのものである。それは「我即神也」である。
過去がない『今の私』には「空即是色」の約束事が与えられている。
『今の私』は神性そのものである。そして、『今の私』は神性に見合う人、物、場所、出来事を引き付けてしまうのである。
それは苦悩ではなく至福である。宇宙神の御心が地にも成されることである。宇宙神の御心が自分の意志として成就してゆくのである。天命を完うする人生が進んでゆくのである。

 自分自身についてのこの真理を知るならば、本来カルマはないことを体験する。自分自身について思い違いをする限りにおいて、カルマは継続するのである。
自分自身についてこの真理を宣言するならば、あるように見えていたカルマは光に変容されてしまう。
「絶対大丈夫」の宣言はすべてのカルマを超えるのである。そして、宇宙神の御心が隅々に至るまで成就するのである。自分の意志を通して成就してゆくのである。宇宙神の御心は完全・完璧・大調和・至福である。
 自分自身が神性そのものであるという真理は、既に成就しており、変わることもない。
その真理は、真理として認め、思い巡らし、言霊として宣言することによって、地においても成就する。
大成就!
mixi ピタゴラスさん 「色即是空」

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どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも、
すでに成就し、完全、完璧、大調和している神聖なる魂。
神聖なる魂は人類のために役立つ。 神聖なる魂は天命を完うする。

自分の意志を通して成就してゆくのである。
宇宙神の御心が自分の意志として成就してゆくのである。
天命を完うする人生が進んでゆくのである。


我即神也 人類即神也  
すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就!

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by mppoe-light | 2012-01-13 22:16 | ピタゴラスさん啓示録から