カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 144 )

自己像をセットするのは繰り返される思考・・・☆

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はじめて読んだ時は、どちらも あまり興味がなかったのですが、
今、久しぶりに読んでみたら・・・・

面白かった♪♪♪

  
 自分を愛する者は、神に愛される。
自分を愛する者は、宇宙に愛される。
神、宇宙に愛される者は至福を体験する。
自分をどれだけ愛しているか、今後の人生はそれを反映する。

「自分を愛する」ことの究極は「我即神也」。
 世界人類をどれだけ愛しているか、今後の世界人類の姿はそれを反映する。
「人を愛す」ことの究極は「人類即神也」。

『光る者、光そのもの
 光を反射し、光る者に光を戻すもの
 光を伝えるもの
それは宇宙であり、神であり
あなた自身である
一なるもの、在りて在るものの正体である』
 これは法則である。
 この法則の中には歓喜と感謝がある。
この中に自分がいることを再認識する為に、祈りがあり、感謝行がある。

 太陽も空も水も空気も、消えてゆく姿の自分のために存在しているのではない。
神なる自分(我即神也)のために存在している。
このため、感謝行をする人は神バージョンの自分(我即神也)を思い出す。
本来の自分の姿を思い出す。
 自分の波動を高めるとは、自分を愛することである。
神バージョンの自分の姿を観ることである。
本来の自分の姿を観ることである。

****************************

神の眼を通して自分を観る。そこに見える姿は神の姿しかない。
一般の人は、その自分の素晴らしさを見る想像力が発達していないだけである。
神々は我々に『神の眼で自分自身を観ること、この円環(わ)の中に戻ってくること、この円環の中に自分がいることを思い出すこと』だけを期待されている。

この真理=法則を認めさせないための疑い、罪悪感。その権利が自分にはないよう想わせる演出。それは業と呼ばれている。時に、それは良心のようにも見える。自分自身を赦せない良心は業に過ぎない。業を超える力は真理を知ること、思い出すこと。そのための祈りであり、感謝行である。

「神バージョンの自分」  「神の円環(わ)」 から
****************************

  前頭葉

 ラムサは、現実世界を創造するのは前頭葉の働きと説く。従来、よく言われた潜在意識の働きとは、やや違った説き方だ。
 『前頭葉、ここを天国、あるいは黄金の玉座と呼ぶ。ここは脳の中で元も重要な部分だ。何故なら、ここにやって来るものは何であろうと、法になるからだ。考え続けることによって、あなたがここに維持しているものは何であれ、あなたの人生となる。ここへ来るものは何であれ実現する。
 あなたが考えれば考えるほど、それは強力な法になる。』(注1)
 
 前頭葉は眉間のチャクラに対応しており、古代からの瞑想者たちが心を集中する場である。
前頭葉を調査すると次のようなことが書かれていた。


  人間と他の動物の脳とで大きく違うところは前頭葉。その中でも前頭前野は脳の司令塔である。それは、思考、意思決定、計画、やる気、発明、芸術的創作、集中力、アイディア、信念形成の中枢である。

  前頭前野は「自己意識」の座である。
この意識は、潜在意識にあらかじめプログラムされた行動を無効にするほど強力で、
それが自由意志の基礎になっている。(注2)

前頭葉は神の創造の場である。創造は鏡を通して行われる。
神なる観察者は鏡に映った自己像を三次元世界に投影する。自己像が設計図となる。
自己像を前頭葉にセットするのは繰り返される思考である。

あなたは何をすべきか。神なる自己像を思考しつづけることである。
真の自己意識に復帰することである。
それは「我即神也」である。肉体世界を忘れ、肉体世界に基づいて発した想念を忘れ、神なる自分の姿に思いを巡らせることである。その自己像を前頭葉に維持しつづけることである。
忘れると言っても、それは逃避することではない。不完全性を容認することでもない。
それは「すべては既に赦されている」ことを知ること。既に成就しているあなたの神の姿を思い出すことだ。

「我即神也」を実践する人の鏡の場では、自分を神と見る自分と自分に神と見られる自分が全く一つになる。あなたにとって、この瞬間ほど幸せな時はない。それは至福の時だ。
神なる観察者(注3)が望んでいるあなたの自己像は、神の姿以外にはない。

あなたが自分を尊敬することは、自分に尊敬されることである。
そのとき、あなたは観察者によって尊敬されている。観察者は尊敬されるあなたの姿を創造する。

あなたが自分を愛することは、自分に愛されることである。あなたは観察者によって愛されている。
観察者は愛されるあなたの姿を創造する。

あなたが自分を信頼することは、自分に信頼されることである。あなたは観察者によって信頼されている。
観察者は信頼されるあなたの姿を創造する。
これが「我即神也」の真理が、現実の世界に投影される原理である。


 自分が自分のことをどう考えるか。
それは強烈であり、絶対であり、正確であり、厳密である。観察者とはあなたの本心であり、あなたの神、あなた自身である。あなたの自己意識の主体である。
これが神の姿に似せて自己を創造するプロセスであり、あなたの天命である。



 ここで、神の言葉をご紹介しましょう。
  『私』という言葉は創造というエンジンをスタートさせるキーだ。『私(I am)と言う言葉は非常に強力だ。宇宙への宣言、命令なのだ。(注4)

 前頭葉に置かれた自己意識、自己定義、自己像は例外なく発注され、現実化するのである。
自分が神である? そんなはずがあろうとなかろうと、資格があろうとなかろうと関係ない。
「自分が神である」と思い続ければ、神がそれを実現させてくれる。
実現させるに必要なDNAは既に内在している。
「自分が神である」という信念が神のDNAをオンにしてしまう。
神のDNAは神のホルモンを全細胞に送り込む。神性は全開する。すべての人がそうなりますように。
So be it.(注5)


注1 『脳の構造と機能』 ラムサ
注2 『思考のすごい力』 ブルース・リプトン著
注3 観察者は量子力学の用語。ラムサが多用する。ウパニシャッドでは「見えざる見手」。
注4 『神との対話』 ニール・ドナルド・ウォルシュ著 book1 12章
注5  So be it. 「そうなりますように」はラムサがよく使う言葉。
mixi ピタゴラスさん


前頭葉は神の創造の場である。創造は鏡を通して行われる。
神なる観察者は鏡に映った自己像を三次元世界に投影する。自己像が設計図となる。
自己像を前頭葉にセットするのは繰り返される思考である。
あなたは何をすべきか。神なる自己像を思考しつづけることである。

 
前頭前野は「自己意識」の座である。この意識は、潜在意識にあらかじめプログラムされた行動を無効にするほど強力で、それが自由意志の基礎になっている。

ふむふむ・・・。

私は神、創造者。 
その私の中で繰り返されている思考は、何に基づいているか、
自我か、それとも我即神也か。
祈り、印、言霊のときは 神意識になるようにしてるけど・・・
んー、、、、。。。。思考は自我が~。 ううぅ・・・っ

いつも常に心に中に祈りの言霊があるようになりたい。
祈りの言霊が自分の言葉になるように、
と思い、
神示とは分けて、
すべては完璧・・・・の前に「私」という言葉を付け足して
宣言してみました。 良いっ♪ (^-^) 続けてみよう。 

私は完璧である、 
私は欠けたるものなし、
私は大成就している

私が完璧ならば、人類も完璧
私が欠けたるものなし ならば、人類も欠けたるものなし
私が大成就しているならば、人類も大成就!

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by mppoe-light | 2012-10-03 21:40 | ピタゴラスさん啓示録から

”神の確率”  ”量子力学と宗教”

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  神の確率

 量子力学的に言えば、あらゆる現象は確率的に起こる。
あらゆる素粒子は確率的に存在している。素粒子は観察されている世界とは別の世界に、同時に存在する。
 あらゆる運命も確率的に起こる。どんな人の自我も、現在観察されている世界とは別の世界に、同時に存在する。

 三次元世界の因果律を遡ると、物事は必然的に起こるように見える。しかし、因果の現象化は確率的に様々に分布する多世界の中の一つに過ぎない。
三次元世界だけを見ると、必然的に物事が起こるように見える。しかし、四次元世界を見ると、別の選択肢が残されている。
三次元世界は因果の世界である。そのため、過去・現在・未来の時間軸が必要になる。
四次元世界は因果を超えた果因説の世界である。そのため時間軸は必要ない。

 90%の確率の因果が仮にあるとする。しかし、自己意識には神たる確率が必ず含まれている。神の確率を消すことは誰にもできない。逆に、神以外の自己意識の確率は必ず消える。

 どんな状況でも、人は自由意志と自己責任の領域おいて、『我即神也』に意識をフォーカスことができる。そうするや、『我即神也』に呼応する素粒子が集められ、『我即神也』に呼応する現象も集められる。現象があなたを求めて飛び込んでくる。これが2008年の神事で訓練していることだ。

 ブラックホールからは光りでさえ抜け出せないと言われる。そのブラックホールから脱出する素粒子の確率は在る。実際、いくつかの素粒子は脱出して来る。カボチャを現している素粒子には、金の馬車を顕わす確率がある。実際に、シンデレラはそれをやってのけた(注1)。因果律から抜け出せそうにない凡夫を現す自我にも、神を顕わす確率がある。どんな人でも厳然と、神界では神として存在している。しかも、神性こそが自我の本来性である。神とは隔たって見える人が神を顕現する。これを可能にするのが印であり、神事である。印と神事の原理は四次元の原理であり、トンネル効果であり、観察効果である。

 『神はサイコロを振らない。』(注2)ではなく、現象界では神自身が確率的に存在している。無論、そのように『確率的に存在する』と言うのは客観的な見方ではない。数学的な記述に過ぎない。実在する神の確率は100%である。そのように知る者だけが神を顕現する。印を組み、神事に取り組む者はそのように知る者である。
 「因果律を操作する」とは、四次元軸(自己意識軸)を使って必然性を確率の一つにしてしまい、確率の低いように見える神性の確率を必然にしてしまうことである。再び言うのだが、これを可能にするのが印であり、神事である。印を組み、神事を行う者は神のみを知るものである。
注1 ラムサより『シンデレラは実話である。』
注2 アインシュタインの言葉      2008/12/14



  量子力学と宗教


 量子力学では、量子の可能性はすべて可能性として同時に並存していると説かれる。電子の存在位置を確定することは不可能で、確率の雲のように分布している。
多世界解釈では、可能性の分だけパラレルワールドがある。複数の世界が同時に並存している。観察者が(電子等を)観察をして初めて、存在位置が確定される。その時、確率の波は一瞬で崩壊(波束収縮)し粒子として観察される。

 量子力学以前のニュートン力学は因果律を追求する。因果律の決定論は唯物論につながる。量子力学の世界では因果律は通用しない。観察者が結果を選択することになる。これは果因説につながる。

 先ず、自己意識のレベルで様々な自己意識がそれぞれの確率を持って分布している。自己意識には、肉体人間・凡夫等、、、、から神と種々様々ある。どんな人にも神という自己意識つまり「我即神也」の確率がある。自己意識とは観察者のことである。
 言葉のレベルでも同様の分布がある。一人の人の使う言葉の使用頻度はその人の自己意識の分布を反映している。
 細胞内及び生活環境内の量子のレベルでも確率分布がある。
 人間は自己意識に正確に対応している多世界に同時に並存している。

 物質界(現象界)・肉体界は観察された世界である。この世界では多くの存在確率の中でも確率の高い状態が選択されて体験される。つまり観察される。
その時、波束は収縮する、つまり崩壊している。波動エネルギーが崩壊し粒子となったわけである。
それは「消えてゆく姿」を意味する。神の自己意識(我即神也)、神の波動エネルギーが崩壊し粒子化すると、それは「神性顕現」とか「成就」と言われる。

 現在の状態が何であろうと、意識のレベルで自己意識を神にチューニングすることは可能である。それを「統一」と言う。言葉のレベルで、神の言葉の世界に入っていくこと、これを「祈り」と言う。
真の祈りでは、言葉が祈る人の意識レベルを引き上げる。「印」を組む人は、神の意識で神の呼吸と神の動作を行う。つまり、それは「顕現、成就」の行為である。

 物質界で努力を重ねて、自己を神に変えてゆくことは宗教の本質ではない。それは修養である。無限の努力を要する。やめた方がいい。
神人は自分を変えるのではない。なすべきは真理を知ることである。つまり、意識レベルで自分が神となることである。神なる自分の姿を想像しつづけることである。

注1  量子力学についての参照文献
    「量子論の基本と仕組み」竹内薫著  秀和システム
    「量子力学の世界」椎木一夫著   日本実業出版社
    「ラムサの教え」 星雲社
2008/12/29


mixi ピタゴラスさん 啓示録から


さかのぼって読み直していて、、、
面白かった、復習にもなった☆ (^-^)

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by mppoe-light | 2012-10-02 08:16 | ピタゴラスさん啓示録から

勇気を出して信じて生きる

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シロアムの池

イエスが歩いていると、生まれつきの盲人と出会った。 弟子達はイエスに尋ねて言った。
「この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか?」
イエスは答えられた。
「どちらでもない。ただ神のみわざが彼に現われるためである」
「私は世の光である」
イエスはそう言った。
イエスは唾を吐き土とまぜ、盲人の目に塗って言われた。
「シロアムの池に行って、洗いなさい」
彼は目を洗うと見えるようになった。(ヨハネ9章)


この物語は、カルマの法則を説く仏教とイエス・キリストの教えの相違点を語っているのだろうか。そうではない。
仏教においても因縁因果説は究極のものではない。因縁因果説に留まっている限り、真理は見えてこない。光は見えてこない。
目を開けて、真理を視よ。そう真理は言っているのである。




多くの人が因縁因果説に留まっている。 過去に捉われている。
起こっている問題の原因を過去に探して、何かに(誰かに)責任を負わせて自分自身を正当化したり、
あるいは自己処罰で罪悪感に捉われたり・・・・

多くの人が、目に見える現象の中で自分が生かされている と、信じてしまい、、
閉ざされた世界で
閉ざされた思考で、閉ざされた意識で、みんな身動きが取れなくなっている。

現象世界が私を生かしているのではなく、 生かしてくれるのは神さま。


仏教でも、大乗経典になると、十二因縁等は全く否定されてしまうのである。イエスは、ユダヤ教の枠組みで教えを説いていた。
したがって、常識では因縁因果は知られていないから、先ず因縁因果を教える。
その後、因縁因果を越える大乗の教えを説くという仏教のようなプロセスはとらなかった。

現象から始まり、その原因を過去の行為の間違いにあるとする。過去の間違いを罪と見なす。罪を宗教の教えに沿って、償って勘弁してもらうことに腐心する。このような宗教をイエスも大乗仏教も否定しているのである。

根本は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」である。
これが我、人類、万象の真の姿である。宇宙神の創造による世界、天国である。本心は我即神也として光り輝いている。
だから、何か現象に不完全性があっても、そこに意識を留めない。意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。そして、神人はそのように言霊を発しつづけるならば、そのように大成就する。

人は宇宙神の創造の世界を変えることができないから、罪は起こりようがない。間違いの分析、悔恨には意味がない。目を閉じて光を見失ったのならば、目を開いて光を見ればすむこと。
不調和・不幸が過去の言動、態度、習慣の結果のように見えるかもしれない。そのように自我は責め立てるかも知れない。
しかし、イエスのようにそんなことには眼もくれなくてよい。知るべきこと、意識を集中すべきこと、それは真理である。「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」の真理である。
目を開けて真理をよく見るのである。「神のみわざが現われる」とは真理の顕現・大成就である。
原因の探求ではなく、大成就を求めるのである。それをなすのは神人の言霊である。
大成就!

mixi ピタゴラスさん



肉体は物質で有限で不自由、 意識は無限大で自由自在。
意識が究極の真理と繋がったとき、 その時もう生きるために肉体を維持しようと何も思い煩うことはないはず。すべては完璧に整い、欠けたるものない世界が自分の前に顕れるから。 
だから、もっと勇気を出して信じる 何か現象に不完全性があっても、そこに意識を留めない。意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。
私は完璧、欠けたるものなし を信じる。
大成就。

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by mppoe-light | 2012-08-22 11:06 | ピタゴラスさん啓示録から

私がすべきこと

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宇宙神は神聖そのもの、だから私も神聖そのもの。宇宙神は完璧そのもの、だから私も完璧そのもの。宇宙神は光そのもの、だから私も光そのもの。
 私は宇宙神のように成ろうとしたのではない。宇宙神が私をそのように定めたのだ。
私は神そのものとして生まれたのだ。
今でも、神そのものとしての光が心の奥に輝いている。それが私の本心である。

私と本心は違っているように見える。しかし、それは自我の幻術にすぎない。
私が私と言えるのは本心だけ。本心は光そのもの。本心は真理そのもの。
本心は神の存在そのものなり。

私がすべきことは本心を顕わすことだけ。その他には、なすべきことはない。その他に、天命はない。
私がすべきことは神を顕わすことだけ。その他には、なすべきことはない。その他に、天命はない。

本心が自分であるとわかったならば、もうカルマの返済はしなくてもいい。
有限な借財があろうと、無限なる徳、無限なる神性という財産があるのだから。
有限なものはさておき、無限なるものの宝庫の扉を開ければいい。
そのゴールデンキーも手元にある。ゴールデンキーを使うのに何の遠慮もいらない。
はばかることは一切何もない。

私は完璧 欠けたるものなし 大成就。


***************************************

本心が自分であると知ったならば・・・、

私がすべきことは本心を顕わすことだけ。
私がすべきことは神を顕わすことだけ。
その他には、なすべきことはない。その他に、天命はない。


浄めるのではなく、果因律で本心の私を顕す

今後、神人は「すべては完璧 欠けたるものなし」を受取るだけなのである。
自分の存在そのものが『大成就』に値するのだ。
『大成就』は神の宣言であるから、宇宙神の力がそこに同調するのである。
『大成就』は祈りを積み上げてきた人間の宣言ではない。祈りによって目を覚ました『我即神也』の宣言である。
『大成就』は果因説の宣言なのである。


そして、
私の本心の輝きが、人類一人一人の本心の光明を照らし出す。私の本心の平和が、人類の本心の平和を目覚めさせる。私の本心の平和が地球世界の平和を回復させる。


<ピタゴラスさん 『本心の輝き』、『大成就』 から>


我即神也 人類即神也


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by mppoe-light | 2012-07-29 19:09 | ピタゴラスさん啓示録から

「神の器」なので・・・

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我々が神になって、自分の姿を確認するのではない。
本来、我々は神だからこそ、「神の姿」を確認するのである。

肉体身とはこの「神の姿」を顕わす場なのである。

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人は何のために今ここにいるのかって聞かれたら、、、
今の私なら、、

「宇宙の神様のところから分かれて、降りてきて
現象世界で肉体を器にして、この世界に神様の完全性を表現するため、顕現するためにここにいます。」
と答えるかな・・・。

地上に降りたものの、途中で自分が神であることを忘れてしまい、恐れと不安と罪悪感を抱えたカルマの人間になっていましたが、、。。。
今、やっと少しずつ 自分が我即神也であることを思い出してきました。

これからはカルマの因果律の創造ではなく、
言霊を使って、「すべて完璧、欠けたるもなし」 の神性による創造活動を開始します。

肉体を器にしているので、消えてゆく姿のカルマはまだくっ付いているし、見た目も普通ですが、、、
そのことと神性とは関係のないことで、
消えてゆく姿は “ある”ように見えているけど、神性の「私」にとっては、一切関係ないもの・・・。 
だって、カルマが有ろうが無かろうが、神性の創造活動には一切関係のないから。

これからは カルマを相手にするより、本来の目的である
神性顕現に心を傾け努力していかねば・・・と思うところです。 これも努力だよ~ん。
そして、
今の肉体を持った世界で、「神の姿」を少しずつ確認できればいいな・・・と思います。
あとは、
 我即神也を忘れないように、 やっぱり祈り、印、言霊なのだ・・・☆

ぉお~っやらねば~っっ☆



存在そのもの


『あなたの心が神そのものの心であることに気づけばよいのです。そして自分自身ではっきりと宣言すればよいのです。
何も躊躇することはありません。拘ることも、ためらうことも、恐れ多い等と思うこともありません。
あなたの存在そのものが神なのです。』2005-09


我々が宇宙神よりほんのわずかに分離した時、自分を自己流に定義し始めた。その瞬間、我々は「我即神也」を忘却してしまった。
自己流の定義は、神本来の創造力によって、自己流の現象を生み出して行った。
それが繰り返され、深く重なったカルマとなって行った。
我々は自分自身のことを「完璧以下」と思い込んだ。必然的に、人類のことをも「完璧以下」と思い込んで行ったのであった。

2012年、我々はカルマとは一切関係なく、「我即神也」という宇宙の真理、自己の真理に従って、輝かしい現実を取り戻す軌道に入った。
かつてより、用意されていた軌道に入ったのである。それは『すべては完璧 欠けたるものなし』を受取る道である。
ただ、そう宣言し、宣言した通りを受取る道である。この軌道は神界と五井先生との約束事であるから(2006-08)、必ず成就する。


『すべては完璧 欠けたるものなし』の根源にある真理は『我の存在は完璧 欠けたるものなし』である。
つまり、「我即神也」である。
今まで、我々自身が「言葉、想念、行為」によって自分自身を評価していた。そして、時に徳を積み、時に罪を重ねたように見えていた。
しかし、我々の存在そのものは、いかなる「言葉、想念、行為」によっても変わることはない。
我々の存在そのものが神なのだ。
我々の存在とは、想念を出す前の意識そのもの、生命そのもの、本心のことである。
その存在、根源の意識、生命そのものが『我』なのである。
それ以外の現われた「言葉、想念、行為」のいずれも『我』ではない。
何があろうと、なかろうと、『我』は現象には一切関係ない。
『我』と関係しないすべては『宇宙神の聖にして神秘なる力』によって光に変容されるだけなのである。
2012年、神人の内で神そのものが目覚め始めた。
神そのものの『我』の意識が長い眠りから目覚め始めたのである。


 我は本来、神である。神そのものである。
無限なる愛、光、叡智、能力、生命に充たされているのである。
本来完璧なように作られているのである。完璧そのものである。
一つの欠けたるものなく、一つの余分なものなく、まったく完璧に大調和された神そのものである。(2004-08)
 


目覚めた内なる神はこのように宣言し、人類に向かっても同様の宣言(人類即神也)を行う。目覚めた内なる神は、自分に見合った状況、人、場所、物、出来事を引き付け始めた。
言霊によって引き付け始めた。大成就。
 すべては完璧 欠けたるものなし。大成就。

mixi ピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-06-14 21:50 | ピタゴラスさん啓示録から

自分の存在そのものが「大成就」に値する

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祈りの言霊が新しくなりました。
すべては完璧、 欠けたるものなし、大成就

気に入っています。


大成就


 かつて、会長の法話には『厳然と存在する』というフレーズが数多く登場することを示した(13-8参照)。

『厳然と存在する』ものとは『我即神也』であり、神性、無限なる神性の宝庫、神意識である。
『厳然と存在する』ものは神界の神の姿である。それは既に成就している姿である。
その姿を認めさえすれば、その姿は現象界にも成就する。そうでない現象の姿は、『宇宙神の聖にして神秘なる力』によって変容されてしまう。つまり、消されてしまうのである。

 『大成就』とは『我即神也』による、神性顕現の宣言である。
『厳然と存在する』姿を現象化させる宣言である。神性の姿は宇宙神が定めた姿である。つまり、天命を完うした姿である。天命を妨げるものは一切何もない。
『大成就』つまり「天命の姿を受取る」宣言をすれば、神性そのものの姿が顕現してくるのである。『自らが望むことはただ受取ればよい』(2007-04)のである。

 『大成就』は神の宣言であるから、宇宙神の力がそこに同調するのである。
『大成就』は祈りを積み上げてきた人間の宣言ではない。祈りによって目を覚ました『我即神也』の宣言である。
『大成就』は『空即是色』の宣言である。果因説の宣言なのである。
いずれにせよ、『大成就』とは『宇宙神の御心を受取ります。有難うございます』という宣言である。
その姿は我々の内に初めからあった姿である。イエス・キリストは「天国は汝らの内にあり」と説いた。
その「内なる天国」を受取ることが『大成就』である。

 「厳然と存在する姿」=「神の姿」=「天命の姿」=「宇宙神のみ心」=「空即是色の色」=「果因説の結果」=「内なる天国」は「すべては完璧 欠けたるものなし」である。

今後、神人は「すべては完璧 欠けたるものなし」を受取るだけなのである。
受取るのに必要なのは言霊だけである。
それ以外に何か必要と考えるならば、改めて自分を赦すのだ。
自分を愛するのだ。自分を神として褒め称えるのだ。
自分の存在そのものが『大成就』に値するのだ。

自我の言葉・想念・行為は善であれ、悪であれ、自分の存在には一切関係ない。本心には一切関係ない。神性の『私』には一切関係ない。
 宇宙神の賜物を受取る時は、無条件に受取るのだ。只、感謝で受取るのだ。
受取ったことを『大成就』という言霊で確認すればいい。確認しつづければいい。


 『(神人は)欠けたるもの、余分なるもの一切なし、すべて完全円満、完璧、成就、大調和、神そのもの』である(2007-12)。

 『神人の未来はすでに宇宙の法則で定められている。最も素晴らしく、輝かしく、至福と幸せに満ちた、栄光そのものの人生が神人の前に生じるのである。神人一人一人の上に、、、、確実に!! 絶対に!!』(2007-12)

mixi ピタゴラスさん


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『大成就』は祈りを積み上げてきた人間の宣言ではない。
祈りによって目を覚ました『我即神也』の宣言である。


うんうん・・・そう、大成就は自我の宣言ではない、我即神也の宣言。
自我の宣言にしてしまうと、ツラくなる。

光を目指して自力で(自我を消し去って)登るのではなく、 
真理の言霊を積み重ね、光をこちらに引き付ける。  と、思ってる・・・・。
(私たちはすごいことを教えてもらっているのだなぁ・・・改めてびっくり☆)

そんなことがなぜ可能なのか、もちろん 私たちが「我即神也」だから!

自分の存在そのものが『大成就』に値するのだ。
神人は「すべては完璧 欠けたるものなし」を受取るだけなのである。
受取るのに必要なのは言霊だけである。それ以外に何か必要と考えるならば、改めて自分を赦すのだ。
自分を愛するのだ。自分を神として褒め称えるのだ。



な、泣ける言葉だ・・・・自分の存在そのものが「大成就」に値する・・・、 この言葉、頂きます♪・・☆

日々の日常に生きていると 今の世界が”真実”だと思い込み、
肉体側の私が本物である・・・と勘違いしてしまう。 
現象世界の私は、「影」。実体のない空っぽなもの。
それなのに
いつの間にか「影」の方が重要になり、そのことに意識が支配されてしまう。 
支配された「影」の私は、

「今の自分が言霊を繰り返すだけで、大いなるものが本当に成就するのだろうか・・・」
と、真理を疑う。成就を疑っている。 
つまり、、、本来の姿を顕現することを自分から拒否している。
これでは私の神性は顕れない。。。

 
私の命は宇宙神から流れる光。私の最も深いところで常に繋がっている。
だから私の内には 無限なるすべてが内在している。
よって、私は神性を顕す者。
祈れる私は、大成就に値するもの。 
 
この世界は、大いなる神の完全性を顕すための場。
神の完全性を受け取り、顕す。映し出す。

そのために 真理の祈りと言霊を積み重ね、 
「神の完璧、欠けたるものなし」のを引き付ける、受け皿になる。

神性は、真理の言霊の響きに共鳴して顕れる。
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも一切関係ない。
(だって影だもんね。。。消えてゆく姿だもんね。)

神の完全性は 真理の言霊に呼応し、流れ来るのみ。


と、、、こんな風に私は理解している・・・理解することにした!・・・のだっ


受取ったことを『大成就』という言霊で確認すればいい。
・・・・・正直言って、これはまだ上手くできないなぁ。。。
果因説だからそうなのだけど、、、 これはやはり言霊を積み重ねて自分のものにしていくものか。

今は新しい言霊を唱える のみっ☆

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by mppoe-light | 2012-06-11 22:35 | ピタゴラスさん啓示録から

原因となるものは、自然についてくる

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<今月の法話から>

まず自分を認めることです。

すべての結果は自分自身の中にある。

心の中に幸せが呼び覚まされていれば、その心の持つエネルギーによって、
幸せになる原因となるすべてのものが、物質も、人間関係も、自然についてくるのです。


すべての結果は自分の中に。 
自分の中の何を選択し、認めてゆくか。。。
自分の内に在るものを体験する。

始まりは 「意識」 から。
自分の意識が変われば、体験も変わる。



「空」と「光」

 空観とは、水槽に泳ぐ金魚を見るが如きではない。それは、夜空に輝く花火を見るが如きでもない。金魚は瞬々動き回り、位置を変える。花火も瞬々の輝きである。それを空と言うのではない。

 時空は入れ物ではない。物質は入れ物の中にある素材ではない。
我々は、観察する意識であり、金魚を動かしている。我々は花火を散らす中心にあり、花火の観察者である。
我々を離れて、独立した時空はなく、素材もない。我々の意識が、時空を維持し、物質現象を維持している。我々は瞬々、現象世界の創造者であり、日々創造者である。
意識は現象となり、現象は意識に組み込まれる。しかし、いつも根源にあるのは意識である。意識が自分の領域を拡大して現象世界を創ったのである。意識は現象化する。上にあるものは、下にある。


 意識の主体は『我』であり、それは『神』である。『我』はすべてを赦す権限がある。従って、過去はない(色即是空)。
『我』はすべてを創造する権限がある。従って、自由自在である。供給そのものである(空即是色)。


 多くの人にとって、一番難しいのは、「消えてゆく姿」を認めるところである。自分が創造者であることの責任を認めるところである。花火が、自分を中心に散っていることを認めるところである。
何かの出来事について、
「いくらなんでも、自分はそんなに悪いことをしていないぞ。波動の荒い世の中だから、心配でたまらない。自分を守るには、怒って、攻撃しておくのが一番だ。当然の行為だ」と言い訳したくなるのが凡夫の常なのである。
だからこそ、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の基本を25年間も説かれていたのである。


 「消えてゆく姿」も「空」も「過去のエネルギーの受け止め」で終わることはない。過去の責任を認めれば認めるほど、創造者としての立場が益々、明瞭強固になってくるのである。
「消えてゆく姿」を認めることは、実のところ「我即神也」を認めることだったのである。
「消えてゆく姿」を認めるとは、「自分は神でない」という認識の誤りを認めることであった。
それは、同時に「我即神也」を認めることであった。
この自分の神性を認める行為が、世界平和の祈りに包含されていたのである。

<白光ノート 「空」と「光」>から


量子論に基づいた内容で、ちょっとカタイけど・・・
c0074000_9321534.gif面白~い!ヽ(^。^)ノ


                                「お・・・重っ。。。。」
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by mppoe-light | 2012-05-29 09:43 | ピタゴラスさん啓示録から

真理の祈りと真の言霊

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果因説を学んで、 祈りとはどういうことか、少しずつ理解できるようになったみたいです。 
祈りは、いのちの宣言。
神の姿を表現しようとすること、現象界に真理の世界(神の世界)を呼びこむこと、・・・と思う。

実のところ、祈りは現象世界を浄化したり、改善したりはしない。
真の祈りは神語による真理(神の姿)の宣言である。
それは宇宙神の創造(第一の創造)された既に完璧な世界、完璧な姿、神の姿を祝福し、感謝する行為なのである。
この神の姿を祝福し、感謝し、讃美し、喜ぶという祈りによって、神の姿が顕われる。
つまり現実世界が創造(宇宙神の創造に続く第二の創造)されるのである。
その結果、現象世界が浄化されたり、改善されたように見えるのである。
しかし、浄化・改善しようとする心は深い祈りではない。
それは相対的、二元的な立場に立っているからだ。

「祈りの力を100%信ぜよ」と言うのは、祈りの改善効果を信じることではない。
「既に得たり」とは既成事実としての神の姿を追認することなのである。
この果因説の祈りによって、『その通りとなる』のである。



  『人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提とし、健康を前提とし、豊かさを前提として(神語を)語りつづけてゆくならば、
必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのである。』  (注1)2001-5


 神語は真理の言葉、叡智の言葉、愛の言葉である。自らの存在と人類の存在そのものを讃美する言葉である。何かの実績によるのではなく、その存在そのものが幸せなのである。素晴らしいのである。
神語による『真理の宣言は神のひびきであり、光であり、癒しそのものである』(注2)。
神語が神である自分の幸せで、素晴らしい本当の姿を思い出させてくれる。

自らの存在を幸せで、素晴らしいと思うのは生命であり、神である。
何かの実績によって素晴らしくなろうとする者は、自らの真実を忘れた者である。

自らの存在を素晴らしいと思う者は愛深い。喜びに満ちて幸せである。
何かの実績によって素晴らしくなろうとする者は、自分を赦していない。自分の過去を責めている。

仮に何かの実績を積んだとしても、振返ったとき、それは「過去」のものとなっている。自分の存在そのものは、いつも『今』にある。過去や現象世界に、何があっても無くても、自分の存在そのものは素晴らしい。自分の存在とは、本心であり、生命であり、神である。



本心を探求し、自分の内に神性を探求することは重要である。しかし、もっともっと重要なことは、神語を言霊にして、自己と人に宣言し、語り合って行くことである。
語り合ってゆくこと自体が、現実世界を創造するからだ。真の探求は哲学では終わらない。真の探求は現実世界を創造する。


次に神語の一例をご紹介しましょう。

『そもそも、自分は素晴らしい。元々、自分は素晴らしい。既に、自分は素晴らしい。初めから自分は素晴らしい。
そもそも、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。豊かだ。愛深い。能力がある。叡智に満ちている。
元々、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。豊かだ。愛深い。能力がある。叡智に満ちている。
既に、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。、、、、、、
初めから、自分は幸せだ。健康だ。喜びに満ちている。、、、、、、
神そのものである私は素晴らしい。神そのものである私は幸せだ。神そのものである私は健康だ。神そのものである私は喜びに満ちている。』

「そうなりたい。そうならなきゃ。そうでありますように。そうであればいいな」を手放して、『神の楼閣』(注4)の中で、自分の幸せな姿になりきってしまうのである。そして、それを神語の言霊にして宣言してゆくのである。

 ともかく、神語を語る場合、過去や現象の姿とは関連性がなくていい。
過去や現象について『消えてゆく姿』と宣言するや否や、『不完全な自分はさておき』、『いかなる不幸な状況においてさえも』、『自分がいかなる困難を抱えていようが、絶望的な状況にあろうが』、『人類は一人残らず、外見や表象、現象はどうであれ』、自分と人類の神の姿を宣言するのである。


注2 2000-9      注3イザヤ書40-9
注4 昌美先生の言葉
過去と現象世界には根拠が無いが、真理、「我即神也」には確たる根拠がある。
その真理の場は『神の楼閣』と呼ばれる。
『神の楼閣』は『消えてゆく姿』の場のすぐ奥にある(消えてゆく姿の洗礼を通過した場である)。
他方、過去と現象世界に根拠を置く場は『砂上の楼閣』と呼ばれる。
『消えてゆく姿』のすぐ後に、『神の姿』を宣言すべきなのである。
それが真の祈りであり、神語による宣言である。

白光ノート 「真の祈りは神語による宣言」  から


・・・・真理の祈りと真の言霊を 捧げつづけるのである

すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就
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by mppoe-light | 2012-04-14 22:55 | ピタゴラスさん啓示録から

だから”我即神也”

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 あるとき、維摩詰如来がかくのごとく説法されました。


『私』が語るのだ。『私』のことを語るのだ。いずれの日にか、神を顕わすのではない。悟った暁には、そうなるのではない。今、そうなのだ。今で、ずーっとそうだったのだ。それを認めるのだ。
玉石混淆の人生を改善するのではない。それを止めるのだ。「神の天命」を完遂するのだ。「消えてゆく姿」ではない、「神の姿」を顕現するのだ。

「どのようにして」などと考えなくて良い。結果だけに意識を集中せよ。
「良くしよう、浄めよう」と思い煩うな。神界の息吹を地に吹き込むことに専念するのだ。そうすれば、すべての神性が豊かに与えられる。
「心を入れ替え、行いを正す」のではない。人格そのものを入れ替えるのだ。人の「私」ではなく、神の『私』を生きるのだ。

『私』の神性を認めるのだ。現象とは一切関係なく、それを認めるのだ。
現象よりも、神なるアイデンティティこそが真実なのだ。それを認めるのだ。それを認めることほど偉大な愛はない。

過去は法則によって、すべて赦されている。
過去からの想いに流されないように。

どんな想い、出来事があろうと、過去にあなたの真実の姿はない。
どんな想い、出来事があろうと、今あなたは神そのものだ。
あなたの存在が神そのものなのだ。
その真理に意識を釘付けにするのだ。
そこに、神界の息吹がある。
その息吹を地上界に吹き込むのだ。
それが真理の祈りだ。

「神界の息吹」 から


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玉石混淆の人生を改善するのではない。それを止めるのだ。「神の天命」を完遂するのだ。「消えてゆく姿」ではない、「神の姿」を顕現するのだ。

因果律の生き方を止め、果因律の生き方に変える。 
意識改革が必要。
カルマを抱えた“私”を捨てて、神の子「私」として思考を始める。 我即神也 


「どのようにして」などと考えなくて良い。結果だけに意識を集中せよ。
欠けたるものなし 我即神也 人類即神也 

「良くしよう、浄めよう」と思い煩うな。神界の息吹を地に吹き込むことに専念するのだ。そうすれば、すべての神性が豊かに与えられる。

内にある神性のみを認める 我即神也
形ある現象ではなく、形なき無限なる愛、無限なる叡智、無限なる真理・・・に意識を注ぐ。
神界の光が流れ始め、形の世界は大成就する

あなたの存在が神そのものなのだ。
その真理に意識を釘付けにするのだ。
そこに、神界の息吹がある。
その息吹を地上界に吹き込むのだ。
それが真理の祈りだ。


我即神也の「私」が人類に光を送ります。
すべては必ず良くなる 絶対大丈夫 大成就
神だから、「私」の送った光は必ず大成就する!
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by mppoe-light | 2012-04-03 22:49 | ピタゴラスさん啓示録から

真理の言葉

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2年前の
2010/04/04に昌美先生が富士聖地で説かれた「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」

その時から、ずっと唱えています。 
一人で居るときや、車の運転しながら、お風呂とか・・・。今でも続けています。
その時の昌美先生のお話を読んで、やった方が良さそうだ・・・と思って。
短いので覚えやすいし、言いやすい。ヽ(^。^)ノ 
好きなのは、 我即真理也  
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 光明思想の言葉、我即神也、人類即神也といくつかの真理の言葉が降ろされてきた。真理は奥が深い。どこまでも深い。
 光明の言葉も初めは、天高きところにおわす神様を賛美する言葉として理解されていた。それは、地上の人間が高き天の神々に求めるものであった。それは、地上の人間に欠けたるもの、必要なもの、不足しているものであった。それは、人間が目差すべき努力目標であった。それを成就するか否かは、その人の努力次第であった。
 光明の言葉を唱えても、自分と対比する言葉であった。それは彼岸にあるもので、自分には不足しているものであった。
 我即神也も「自分の本質を引き出せばと言う条件付で、神なのです」という会員の解説が白光誌に書いてあったりもした。人類即神也についても、「我々が浄めない限り、救われがたき人類」という観念がないわけではなかった。
 
神人たちは、少しずつ真理の理解を深めてきた。そして、四次元世界に入り、チャクラが開かれたのであった。神人たちは、地上のいかなる災いとも波長が合わず、神界のものとしか波長が合わない人生を選択し始めた。
 神人たちは光明の言葉を自分のうちに既にある自分そのものとして宣言し始める。さらに、西園寺会長がチャクラをフル活用するために四つの神語を説かれた。

「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」の四つの神語である(注1)。

この神語の由来について重要な法話を思い出しました。

『神人たちは、我即神也・人類即神也という神語の中に、無限なる能力、無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和が含まれていることを意識することが大事なのである。』(注2)


意識することが大事であれば、神語として何度も繰り返し繰り返し唱えればいい。
『我即能力也、我即愛也、我即調和也、我即平和也
我々人類即能力也、我々人類即愛也、我々人類即調和也、我々人類即平和也』と。
 神性は認められることによって、顕われる。
 神性を認めることが先か、想念・行為に顕わすことが先か。この問いは、意識が先か、現象が先かの問いである。
三次元に閉じ込められた、因果説では想念・行為、物質界の現象が先なのである。しかし、絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、
自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
 
 四次元果因説とは、『自己の神性を認める』ことに全力を尽くし、現象と言う結果については全託する道である。
三次元因果説では、現象がすべてに優先すべきものであった。科学は意識を物質に付随するものと見なしていた。
新しい科学では、意識そのものが物質化することが主軸となる。

意識が多世界(パラレルワールド)的で、モザイク的な波動の世界を物質化・現実化することが新しい科学の主軸となる。神人の祈りが新しい科学を降ろすのである。
それと同時に、神人は新しい科学を使った祈りに徹するのである。それは印であり、果因説であり、自己についての神語を語ることである。
 『我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也』

注1  富士聖地法話2010/04/04
注2  白光2004-7
注3  ブルース・リプトン「思考のすごい力」参照P.211
2010/04/10
「深まる真理」から



意識が物質化するのだから

絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
自らが神であるという大前提のもと、自らの心に注意を払い、神性を自覚し、無限の可能性を引出し、開いてゆかねばならない。(3月の法話から)

祈りの言霊 「地球の安寧と・・・・ 大成就」 を唱える時も、
神性を自覚して唱えていきたい。
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by mppoe-light | 2012-03-16 23:28 | ピタゴラスさん啓示録から