カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 144 )

神の創造☆

7/16の日記にこのようなことを書きまして・・・


≪ 我即神也 を宣言しながら、“完璧で、大成就している”気持ちがどこまであるのかな・・・・と気になるようになりました。 
成就を顕すのであれば、その時の気持ち (すでに成就している時の)、にならなければいけない・・・・と、思うようになりました。

成就の時の気持ちになるためには、想像が必要。 
成就した時の自分をイメージして、その感覚を思い描いていった方がいいのではないか、 と。≫


で、今回はその続きのような内容なのですが、、、

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今までは、成就することの意味とか、大切さなどを、真剣に理解しようとしていなかったのですが、・・・・(^_^;) ここんとこ、富士聖地で“成就”の神事が繰り返されていることから、
“成就”について真面目に考えるようになりました。(というか、きちんと向き合ってみました。) 


成就の体験を重ねれば、さらに我即神也への確信が持てるはず・・
よって、神性顕現の道が開ける・・
では、
我即神也として 成就を体験していくには どうすれば・・・?


祈りながらこんな風に思いました。

成就を想像して、成就したつもりになってみる。 その時、私はどのような気持ちになるか。 
創造するためにはその気持ちが必要なのでは・・・。
なぜなら、
今までは 因縁因果に慣れたままの、自己限定を前提にした思考、発想、感情ばかりで生きていた。
 だから、法則の通り、有限で限定の人生を生きてきた。
私の意識が創造の源、創造のはじまり 
だから、まず初めに、、 
過去ばかりを前提にして自己限定していた想いを止めて、
成就した時の想い、感謝、感動を、肉体側の私が思い描いてみるのはどうだろう・・・。
その心を感じることが必要なのではないかな・・・
と思いました。 

つまり想像し、創造するってこと☆
 
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我即神也 は果因説  もう思考は、因果説から果因説へ切り替える時代。

因縁因果は、有限と限定に基づいた世界。もともと神さまの世界にはないもの。
“私は神ではない”という自己否定、自己限定の世界。
 
でも我即神也 は、因縁因果を超えている。神意識は因縁因果とは一切関係ない。 

我即神也を完全に信じきった時、一体となったとき、 そこには過去もカルマもなく、
あるのは すべては完璧、欠けたるものなし、大成就。 

想像し、創造する・・・ 神の創造は果因説  なのだっ☆



想像し、創造する

『二十一世紀、人類一人一人は、自らが想像し、創造した世界を生きてゆくのです』
(2012-06; 2008-09)
『自らの人生は自らが想像し、創造するものである』(2008-09)

 想像する姿は眼に見えない姿である。眼には見えないけれども、宇宙神はその理念をしかと定められている。宇宙神の定めだから、変更できない姿である。
眼には見えていないのだが、自分自身の本性そのものの姿である。
如何なる過去もその想像を妨げることはない。
如何なる過去もその想像に入り込むことはない。宇宙神の理念、自分の本性を一言でいえば、神である。
『我即神也』を想像するのである。
 想像した姿を、言葉によって宣言すれば、必ず成就する。
その成就させる力、言霊の創造力は自己の内在する創造力に他ならない。
神なる『私』(すべての人)は創造力であり、創造者である。
『私』が語ったことはすべて現実化している。語ったことで現実化しなかったものはない。現実化したもので、語られなかったものもない。
すべては自分の責任でしかない。

 想像は五感を超えた世界への入り口である。
人間の意識は五感の世界から自由である。誰であろうと、他人の想像の自由に介入することはできない。何を想像するのか、全く自由である。
同時に、全く自己責任である。
『どんな困難のなかにあっても』、『我即神也』を想像することは可能なのである。
その可能性の中に、因縁因果を超える鍵がある。
言い方を変えると、想像のなかに、果因説につながる鍵がある。

 『我即神也』を想像するということは、『すでに成就できた状態を想像し、創造してゆくのである』(2008-09)。
『すでに我は成就したという時の、歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめることによって』(2008-09)、内在する創造力、DNAにスイッチが入るのである。

mixi ピタゴラスさんから



すべては完璧 欠けたるものなし、大成就!


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by mppoe-light | 2013-07-31 17:22 | ピタゴラスさん啓示録から

「気持ちが薄くとも、その宣言をしつづける」

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『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめること』(2008-09)

当時、昌美先生のこの言葉を読んでも、

「う~ん・・・・。。ぜんぜん感じられないものを想像するなんて・・・」
と、真剣に取り組む気もないままでした。 

まだまだ「成就」の深い意味も分からなかった私です。 
「なんで印の最後は「成就」なんだろう。
どうして神事では「成就」の言葉が必要なのだろう・・・・」と、
果因説のことが理解できていない状態だったので。(>_<)

が、今っ、
我即神也 を宣言しながら、“完璧で、大成就している”気持ちがどこまであるのかな・・・・と気になるようになりました。 
成就を顕すのであれば、その時の気持ち (すでに成就している時の)、にならなければいけない・・・・と、思うようになりました。
成就の時の気持ちになるためには、想像が必要。 
成就した時の自分をイメージして、その感覚を思い描いていった方がいいのではないか、 と。


神性はすべての人に厳然と存在するのだが、当人はそれを意識しないから、他を意識する分、他を体験することになっている。
本心はすべての人に厳然と輝いているのだが、当人はそれを否定するから、否定する分、苦しみを体験することになっている。
神の愛はすべての人に遍く行き渡っているのだが、当人はそれに気づかないから、気づかない分、神の愛以外のものを体験することになっている。
人には内なる無限なる能力が備わっているのだが、当人はそれを過小評価するから、評価した通りに、無力感を味わうことになっている。

神は空高くに聳え、凡夫は平地にたむろする。凡夫は無限の努力を積み重ねながら、高き岳に挑む必要があるのだろうか?因果説では然りである。だが、果因説では否である。
『人間の神性はいかなることがあろうとも、決して失われることはない。』(2008-10)

神性は既に成就しているのである。神の姿は既に完成されているのである。宇宙神は我々一人一人を完璧な存在として定められたのである。我々は神として、そして凡夫として、空高くと平地に同時に存在していると言ってもいい。だから、「現状は凡夫の世界にいるぞ。高く険しい岳を昇るぞ」と身構えることはない。

既に空高くにいる自分の姿を想像すればいいのである。
『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめること』(2008-09)
が内在の創造力を発揮させるのである。

悪想念を払って、愛深くなるのではない。「すでに我は無限なる愛を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」と気持ちを込めればいい。
気持ちが薄くとも、その宣言をしつづければいい。

体を丈夫に鍛えて、健康になるのではない。
「すでに我は無限なる健康を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

働きづめで裕福になるのではない。
「すでに我は無限なる豊かさを成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

戦争、民族問題、環境問題を解決して平和になるのではない。
「すでに世界人類は無限なる平和を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

※ピタゴラスさん「太陽の譬え」  から




「すでに我は無限なる愛を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」と気持ちを込めればいい。
気持ちが薄くとも、その宣言をしつづければいい。


そうだった、私は言霊の(神語の)力でここまで来たのでした。
言霊は威力。だから、気持ちだって厚くなるのではないか 

ピタゴラスさんちの神さまの響き(メッセージ)に感謝!

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by mppoe-light | 2013-07-16 19:53 | ピタゴラスさん啓示録から

源泉 「それを知っている」

人類は
『まさに一人一人その本質において、すべて神なのです。自分を究極なる“我即神也”そのものとして崇め奉るべきなのです』(96-02)。

 私は、人類を批判、非難、評価も下さず、人類の
『生命の尊厳を認め、褒め称え』ます。(2000-08)
 本来、人類に自我と言うものは
『空にして何も無いものである。在るものは、ただ、ただ神そのものの心なんだ』。(98-02)

 『宇宙神からの無限なる愛、無限なる能力、無限なる叡智、無限なる創造、その他、無限なるものすべて一切は、宇宙の至る所、あまねく放たれし空中から受け取るだけでよい。
宇宙空間に宇宙神の創造せし無限なるものすべてがあり、
そこから愛と讃美と繁栄と幸せをつかみとればよい』。


宇宙神と一つに結ばれているから、
『自由自在に必要なものは得られるのである』。(97-07)

このように、『人類即神也』の真理のメッセージは人類の神性を「認める光」なのである。
人類を業生の現れと見るのではなく、『現象はともかく、本来、神そのものである』と認める光なのである。
「認める光」は声高かに叫ばなくともいいのである。認めることが光となり、人類を幸せに、目覚めに導いて行くのである。

「認める光」は祈りの光であり、印の光である。
「認める光」を送ることは、どんな行動よりも偉大な行為なのである。
「認める光」は赦しであり、愛である。真(まこと)の光である。つまり、真理そのものである。
「認める光」を日々、送れる人は神そのものである。
「認める光」は神の証である。神性そのものである。感謝の光と同じである。

「認める光」が流れ出でる源泉は「それを知っている」神の意識である。
祈りとは、「それを知っている」という宣言なのである。

認めようとするのではない。そのようになるよう希望するのではない。
それが実現するよう外なる神に求めるのではない。
「それを知っている」から宣言するのである。
「認める言葉」で「認める光」を発しつづけるならば、その人は神意識そのものとなる。
「認める言葉」は成就する。


mixi ピタゴラスさん「認める光」から



 ※ 「認める光」が流れ出でる源泉は「それを知っている」神の意識である。

 ※ 祈りとは、「それを知っている」という宣言なのである。
 



奥に光がある言葉  流れの源泉、「知っている」という神意識
私が求め追究している光 その源泉、  
だから、
 
究極の真理を表すこの言葉を読んだとき、 美しさを感じました。 
ありがとうございます。



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by mppoe-light | 2013-03-31 17:35 | ピタゴラスさん啓示録から

どんな困難の中にあっても・・・

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いかなる不幸な状況においてさえも


『人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提として、健康を前提とし、豊かさを前提として語りつづけてゆくならば、必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのです。
 人類は、その真理を知らなければなりません。その生き方こそ果因説の生き方です。
 果因説とは、たとえ現在、因果律によって最も不幸な状況にあろうとも、その中で人類の偉大なる魂の存在(人類即神也)を認識して生きる術(すべ)です。』(白光誌2001-05)



 ここに引用したところには、『いかなる不幸な状況においてさえも』『たとえ現在、最も不幸な状況にあろうとも』 というフレーズが繰り返されている。
神人が神性を顕わすのに、この世的な状況は『一切関係ない』ということだ。

神性顕現と因縁因果の状況に相関関係なし。
善因縁は好都合。しかし、それで神性に近いと想うは奢りである。
悪因縁は煩わしい。しかし、それで神性からほど遠いと想うも誤りである。
現象の良し悪し、幸不幸を語るなかれ。語ることの前提は
 『我々が最後に行き着く地点であるべき』(2001-05)幸福、平安、生命である。行き着く地点とは未来である。
この「未来」とは宇宙神が創造された姿、宇宙神が定められた姿、つまり「神界の姿」「神の姿」「本来の姿」ということである。




「人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提として、健康を前提とし、豊かさを前提として語りつづけてゆくならば、必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのです。」

 

人間と真実の生き方 を思い出しました。

「※いかなる苦悩といえど、、、   今からよくなるのであるという善念を起し、
※どんな困難のなかにあっても 、 自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、
愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆく、 」


どのような苦悩、困難の中でも、こんな生き方が自分にできるのだろうか

どんな苦悩でも、それを消えてゆく姿と思い、善念を起すことが出来るのだろうか、

苦しさの中で、いったいどうやって善念を起せばいいのか、

どうやって愛と真と赦しの言行をやって行けばいいのだろうか

と、、、
「人間と真実の生き方」を初めて読んだ時は、
五井先生の示す生き方が自分に出来るのか・・・と、自信が持てなくて、少々戸惑いました。




 「神の姿」「本来の姿」とは「我即神也」であり、「人類即神也」である。これを認識するとは知ることである。
真に知るということは、それについて思い巡らせることである。
そして、それについて語ることであり、宣言することである。それは祈りである。

 この「神の姿」は個々人によって天命として異なる。しかし、万人に共通するところは、無限なる幸福、無限なる健康、無限なる豊かさ、、、である。
神人は『現象界のことはさておき』、自分の「本来の姿」を積極的に語る。
「本来の姿」を自分自身に積極的に宣言しつづける。
語ること、宣言することは、言霊の力によって、必ず現実化する。祈りは現実世界を創造するからである。



 『神人は決して遠慮せずに、自らの幸せを語りつづけてゆくべきです』(2001-05)。

決して遠慮せずに、自らの神性を称えつづけるべきである。躊躇うことなく、自らの本心の輝きを崇敬しつづけるべきである。臆することなく、「我即神也」を宣言しつづけるべきである。
遠慮、躊躇いが生じるのは、自分を赦していない結果にすぎない。
宇宙神によって, すべては赦され、癒され、光に変容されているのである。

 因果説は五感の世界を生き抜く術である。
果因説は五感の世界を超える術である。

因果説は時間の世界を生き抜く術である。
果因説は永遠の世界を生きる術である。

果因説は五感の世界よりも、真理の世界を重要と考える。
果因説は五感の世界を離れ、神の世界に直入する術である。

真理の世界、神の世界、永遠の世界には、神たる自分が厳然と光り輝いて存在する。
神人は、今まで祈り、印を組んで来たのだが、それは神たる自分が祈り、印を組んで来たのである。
神人は何度も、自分と神たる自分との重なりを体験してきたのである。それがもっと明瞭に感じられる時代になりつつある。   

mixi ピタゴラスさん


いかなる苦悩の中にあっても、私は神、即神也
だから、
善念を、起こせるはずだし、起こすべき。
真の「私」は、すべて完璧、欠けたるものなし、大成就


因果説は時間の世界を生き抜く術である。
果因説は永遠の世界を生きる術である。

果因説は五感の世界よりも、真理の世界を重要と考える。
果因説は五感の世界を離れ、神の世界に直入する術である。


私にとってどちらが本当の世界なのか、 それはもちろん永遠、真理の世界。果因説の世界。 
だから
その世界の方をひたすら信じなければ。 
信じるために 意識して 祈り、印、言霊、神語を続ける。

今、果因説を学べたことに感謝。 究極の真理に感謝。

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by mppoe-light | 2013-02-21 22:13 | ピタゴラスさん啓示録から

神性に基づいて生きる☆


我即神也 の「私」は無限なる愛、無限なる叡智・・・、無限なるものすべてが満ち溢れている存在、
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』している存在。
我即神也の「私」は、時間の流れの世界、五感の世界には生きていない。 
「私」は、常に毎瞬、宇宙神から注がれる光=意識「私」だから。 
意識は、ストロボライトのような点滅が、常時点灯しているように見えるほど高速で繰り返されるから、まるで私は過去から時間の流れる現象世界にずっと生きているように思える。
c0074000_2041199.gif(これは私の個人的イメージ、考えです、、、) 

だから、
現象世界の自分が本来の自分であると思ってしまうのだけど、
本来の「私」は瞬間瞬間に中心から降りてきて、肉体に生きている。 
瞬間中心から降りている「私」は、すべては完璧で、欠けたるものなし、大成就。
過去もカルマもなく、絶対に傷つかず、汚れない。 そして常に新しく、常に完璧な存在。 
その時、現象の中で肉体がどんな状況に置かれていても、 神「私」には一切関係ない。
だから、
神「私」を意識した時には、法則の通りに「私」は光を放つ。人類のために。
たとえ肉体や、肉体を取り巻く環境がどんな状態でも。 「私」は法則の通りに働く。

と、、、こんなことを思いました。
 
思いながら、
五井先生の“消えてゆく姿”という教えは すごいものだな・・・とまた改めて感じていました。

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人は五感に感じられない『無限なる宝庫』に気づいていない。気にかけているのは、過去、時系列、五感の世界だけである。
自分を愛する人だけが『無限なる宝庫』に思いを寄せる。

 無限なる宝庫は厳然と存在する。
 無限なる宝庫は厳然と神の子のものである。
 それは神の子が自由に使っていいものである。

 カルマがその自由を奪っているのではない。
カルマを完済すれば、その自由が戻ってくるのでもない。
自分の自由を認めない想いがカルマとなっているの過ぎない。
自分が自分に自由を認めればいいだけである。
「我即神也」とは、その自由を認める宣言である。その自由を認め、印を組み、「すべては完璧」の言霊を発することがゴールデンキーなのである。
ゴールデンキーを使うや、内なる宝庫は外に溢れ出始める。それを妨げるものは、一切何もない。


「消えてゆく姿」を産み出すエネルギーが多かろうが少なかろうが、その有限なエネルギーを超えた生き方が要求される。それは有限なものを超越した「無限なるエネルギー」に基づく生き方である。
それは果因説・本来因果の生き方である。(以上『 』は2000-02)
 因縁因果のことはさておき、内なる無限なる宝庫、自らの神性に基づいた人生を始める時代が到来した。

********************************

真の『私』は因縁因果とは無縁である。真の『私』は宇宙神の直接のコピーである。したがって、『私の世界に欠けたるもの、不足なるもの、不調和なるものなど一切ない。存在しない。私の世界に存在するものはすべてが完全で調和し、健康で豊富で、幸せそのものであることが当然である』。

 『私』は因縁因果の世界で生きる存在ではない。
 『私』は因縁因果を超越している。
 『私』は神そのものを顕現するだけである。
 それは当然である。
 『私』は神そのものなのだから。
 『私』は神から離れたのではない。
 『私』は神に近づいているのではない。
 『私』は神以外のものにはなれない、神そのものなのである。
 このゼロポイントから人生を再開するのである。
 このゼロポイントから真理を理解するのである。
 その宣言こそが『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の言霊である。

mixiピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-11-21 20:14 | ピタゴラスさん啓示録から

神だから

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あなた自身が宇宙神の光の一筋であり、聖なる存在そのものであることを、
漠然としてではなくはっきりと自覚しなければならない。   2011 2月号法話から


「私」は光から来たもの、神そのもの、
「私」は何処であろうと何時であろうと、肉体を持ったまま神の姿を顕すばかり。 
「私」には過去はなく、カルマもない。「私」は光だけですべてを描ききる。「私」が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界。


「私」は本来神だから、神そのものだから・・・、
神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む欲望に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜むネガティブな思考に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む他への依存に打ち克つ

神人たるを誇りにして自らの心の中になお潜む劣等感に打ち克つ    <1月号日々の指針から>


神であることを前提にした生き方が、意識軸で繋がっている神界の「私」と共振共鳴を起こし、
それが本当の神の姿になるのか・・・
 と思いました。


共振共鳴

『神はまず天地に分かれ、そして、その一部の光は、自然界を創造し、活動せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊とよばれて人間界を創造した。ここにおいては神は、一であり、多であることとなり、一即多神となるのである。
さて、人間の直霊、即ち神の一部の光こそ、人間そのものなのであって、この時にはいまだ業因縁は生じていないのである。』(「神と人間」三章)

 この多神の中の1ピースが自分自身なのである。
業因縁の生じる以前の自分の本心が多神の一員として存在している。その「神の姿」は今も光り輝いている。「神の姿」は後に生じた業因縁の影響を受けることはない。
そして、「神の姿」は後に生じた業因縁をすべて消してしまう光である。
宇宙神の創造されたままの「神の姿」は永遠の生命なのである。
この直霊そのものの自分は無限なる神性そのものである。それを肉体人間側から見れば、無限なる神性の宝庫である。

この直霊神と『私』は一つである。つまり、『我即神也』なのである。
すべての人に存在する『私』という意識は、直霊神と一つに繋がっているのである。
ただ、『私』という意識は現象界で生じた事象に基づくレッテルに覆われている。
その様々な自己定義が自我なのである。それが業因縁の素である。

『私』は直霊神の姿をこの世に呼び出す天命がある。直霊神は『私』と言う場に降り立ち、神性を顕現する天命がある。この二つにして一つの天命を完うする方法が祈りである。

祈りは、人が神になる、神に近づくためのものではない。
祈りは、神たる存在が、神の働きをこの世で行うためのものである。
神たる存在が、言葉で宣言したことはこの世に具現化するのである。

人は神になることはない。人は神に近づくことはない。人は元々神なのである。
この「人が神である」という真理を変更することは誰にもできない。神は神以外のものにはなれないのである。どんなカルマに塗れていようとも、人は神の働きをすることによって、本来の「神の姿」を思い出すことができる。
「神の姿」を思い出した瞬間、カルマは消え失せるのである。そして、「神の姿」が顕われるのである。

真理の祈りとは『我即神也』である。『我即神也』とは、『私』は直霊神そのものであるという現象界側の宣言である。
それと同時に、『我即神也』は直霊神の「我は神そのものである」という直接の宣言なのである。
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』も同様である。
現象界の『私』は実のところ「すべては完璧」であると宣言しているのである。
そして、同時に、直霊神も「すべては完璧」と真理を宣言しているのである。
肉体側の『私』は直霊神が宣言していることを、真似るように宣言すればいいのである。
真似るように印を組めばいいのである。
真似るように「神の言葉」を語ればいいのである。
そのとき、共振共鳴が起こる。
現象界に「神の姿」が顕現し始めるのである。
『私』と直霊神は二つにして一つになっているのである。

mixi ピタゴラスさん  


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by mppoe-light | 2012-11-02 22:00 | ピタゴラスさん啓示録から

「権利」 から

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幸せや平安は、努力して忍耐して獲ちとらなければならないものだと思っている人が多いが、本当は誰もが生まれながらにして幸せになる権利を持っているのである。ただそのことを知らないだけである。
(「もっともっと幸せに」P.98)

喜びとは、勝ちとらなければならないものと思っているけれども、実際は全くそうではなくて、この世に生れ落ちた瞬間から、生まれた時の権利として本来持ち合わせているものなのである。
信ずる力さえあれば、誰でもが即幸せになれるものなのである。 1990-11

 人間は本来いかなる罪をも赦す権利があるのです。94-10
 

 西園寺会長は「権利」について言われることがある。「権利」は日本の宗教観にとって馴染みの薄い観念である。しかし、果因説では重要なキーワードなのである。



「権利」 という言葉・・・・
 初めは少々抵抗がありました。 やっぱり日本人なんですね。私は。 
謙虚で卑下することが美徳である・・・という日本人的な想いがある(笑)。

↓今年の2月くらいに書かれたものですが、
今になって この「権利」という言葉に引き付けられ、読み直してみました。

きっと、
新しい言霊  「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」 を唱えているうちに、

「真の姿は みな完璧で欠けたるもののない姿、それが真実、私達には当然のことなのだ・・・」と思い始めたので、
引きつけられたのだと思う。


 日本の宗教観、特に「人間凡夫説」では阿弥陀如来の救済力に任せることがすべてである。権利の主張など無い。また、「人間凡夫説」ならずとも、日本の宗教では謙虚、卑下が美徳とされがちである。

宗教ならずとも、一般社会では自分の不完全性を認めることが要請される。
西洋的な原罪意識はなくとも、多かれ少なかれ、罪意識から自己を開放している人は少ないのである。
 西洋文明的な権利意識と果因説の権利とは異なる。西洋文明的な権利意識は「権利を社会的に主張すべし」「権利を妨げる者とは闘争すべし」ということである。

果因説では、権利を主張するのは自分自身に対してである。
権利を妨げるのも自分の固定観念以外の何ものでもない。自分と闘争するわけではない。
この「権利」は、自分が自分の真実の姿に目覚めるために示された真理そのものである。
果因説の権利は我々が持つ生まれながらの、当然の権利である。
この権利は我々の本質に由来するものである。
この権利は我々の神性、「本来の神の分霊の姿」に由来するのである。
それは、我々の相続財産つまり遺産とも言われる。
権利と言わずとも、この遺産については聖書、仏典でも「放蕩息子」のたとえ話のテーマとなっている。

完璧で大調和している大宇宙。 当然ながら、その中に在るすべてのものも同様にすべてパーフェクト。
であるはずなのに、 
その中で私達人類は、宇宙に生かされながら わざわざ否定的で不調和な自分を体験し、不調和な世界を創造している。 なんて奇妙な体験を続けているんだろ。。。。


****************************

あらゆる現象と記憶は過去である。あらゆる過去は「あなたは神聖ではない」と言っている。
しかし、それは神であるあなたが「自分は神である」ことを失念し、「自分は神聖ではない」と意識したことが、こともあろうに神であるあなた自身の創造力によって顕現したものである。
神聖ならざるものには苦悩がつきまとう。

究極の真理は、あらゆる現象と記憶、つまり過去に関係なく「あなたは神そのもの」なのである。あなたは神性そのものである。そのように生まれついているのである。
その本来の姿を愛して、あなたの本質を認めて、あなたの神性を賛美し、「欠けたるものなし」を体験してゆく。そうなるのである。
これが、あなたが持っている権利である。
この権利を行使するも妨げるも、自分次第である。ジャッジ役の神はいない。
あなたの外には、崇めるべき神はいない。
自分のことを神聖なる神と思えば、権利は成就する。至福を体験する。
自分のことを神聖ならざる肉体人間と思えば、権利は放棄される。苦悩を体験する。
自分の神性を認めれば、至福を体験する。
自分の人間性を認めれば、苦悩を体験する。
未来には神性が輝いている。その神性を引き付けるのだ。
過去には人間性しかない。その人間性を手放すのだ。

人間性がたとえ泥まみれであっても、あなたの神性は汚されることはない。
五感に感じられない自分の神性を讃えよう。「我即神也」
五感に感じられない自分の権利を宣言しよう。「空即是色」
五感に感じられない自分の神性を讃えるからこそ、「我即神也」「空即是色」が現象界に成就するのである。
神性に関連するすべての権利、それはあなたのものである。

ピタゴラスさん 「権利」から



神聖ならざるものには苦悩がつきまとう。

この言葉に心が留まりました。 なぜだか良くは分からないけど(笑)

思うに、、、、
心に葛藤が起こり重くなった場合、それは神様の御心から外れている状態、 どんな良いことでも。 きっと自我が動き出しているに違いない。
神聖なものは、いつでも心は明るく輝き、軽くて清々しいはずだから。


自分の求めるものは自分の内に在る。 自分を探求しよう・・・。


すべては完璧 欠けたるものなし 大成就!

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by mppoe-light | 2012-10-17 21:48 | ピタゴラスさん啓示録から

真の姿 すべては完璧


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言霊を唱えながら思うことは、、、

すべては完璧、欠けたるもののない世界が真の世界、私たちの本来の姿で、
これこそが真実。
と、言う事。

なのに私たち人類は、
人間は不完全で、欠けているもの・・・というのが当たり前の思考になっていて、
少しでも良くするためには、努力を重ねて現状を改善していかねばならない、、、
そうすることが成長であり、進化である、、、、
と、思っている。
ところが、努力をしながら、
失敗や挫折を繰り返しているうちに、結局は 
「人間だから仕方がない・・」なんて言って、未完成の状態を受け入れてしまい、
そのまま 人間は愚かなんだ・・・と納得してしまっている。。。(T_T)/~~~ 無限なる光明!

違う、違うんだよ、本当は完璧が当たり前なんだよ。 すべてが調い、完璧で、大調和した状態こそが私達自身の姿であり、私たちの世界なのに、
そこからスタートするのが本来の生き方なのに~、果因説なのに~!


“迷い”とは このことか・・・・と思いました。

“迷い”を消えてゆく姿として捨て、「私たちは本来完璧な存在」 であることを認め、次元上昇するか、
それとも
“迷い”をそのまま続けて、「私たちは結局、不完全で不調和な存在」であると思い込んで、カルマの世界で生き続けるか。
つまり、、神意識を受け入れるか、非神意識をそのまま続けるか。

神意識は究極の真理を放ち、完璧なものを創造する。

『神人は、宇宙究極の真理を、無限なる愛の光をすべての魂に分かち与えるために存在しているのである。』(2003-03) 




我即完璧神也、人類即完璧神也

 「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」と唱えることが習慣になってきた。しかし、苦悩することがつづいた時、私は無意識に「自分に何が欠けているのだろうか」と思っていた。
「自分は確かに何かが欠けている。だから、こんなことになったのだ」

 このような声は、本心の声とは全く異なる。このような声は、因縁因果の中にいる自我の声である。

 自分は『欠けたるもの、不調和なるもの、非真理なるものに同一化することによって初めて、その現象が現れてくる』
(2003-09)のである。

苦悩の中にいる自分を認めてはならない。
苦悩の分析は要らない。対策も要らない。
苦悩の時が、「消えてゆく姿」を行ずる時である。
苦悩の時が、果因説に入る時である。
果因説に入るとは『我即神也』という真理に入ることである。
それは、苦悩と苦悩を感じる自分、苦悩の原因を創った自分がいる世界を離れ、全くの別世界に入ることである。その別世界は、宇宙神が創造された世界である。
それは既に成就している神界である。
それは既に、我々に与えられ、我々が相続した世界である。

我即完璧神也。
私は至福の神である。私は健康の神である。豊かさ、繁栄、成功の神である。私は愛の神である。赦し、癒し、歓び、感謝、光の神である

『神人は、神そのものと同一化しようとするからこそ、神人として光り輝き、すべてが充足されてゆくのである。』
(2003-09)
 
 相続していないものを与えることはできない。
私にはすべての神性が完璧に与えられている。
すべての神性は本心という宝庫に蓄えられている。私はすべての神性を人類に与えることができる。

私が与えるものは宝庫の中で増大する。
私の本心はすべての神性が溢れ出るところである。
本心が癒せないものはない。本心が満たせない物もない。本心はすべての人類を祝福する。
そして、本心は人類にすべての光を送る。
本心の光は人類の神性を照らし出す光である。

人類即完璧神也

『神人は、宇宙究極の真理を、無限なる愛の光をすべての魂に分かち与えるために存在しているのである。』(2003-03)

「自分に何が欠けているのだろうか」などと考えている場合ではない。
「我即神也」に意識を集中し、「人類即神也」のために自分の本心を輝かせるという天命があるではないか。

苦悩を消すために祈るのではない。
苦悩を消すことによって、天命が完うするのではない。
天命を完うしようとしていれば、苦悩は消えてしまっているのである。

mixi ピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-10-13 21:56 | ピタゴラスさん啓示録から

1合目の教え、9合目の教え

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「生きる」ということは、光ること、光を放ち続けること・・・と思うようになりました。
その光は自分の内から溢れている無限なるもの。 
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就しているから、
本来の人類の役目は、その溢れ出る光、神の光明を地上に放つこと、、、、そのために今ここ居る。 そう思っています。


- それから菩薩の説法が始まった。
肉体人間観、凡夫観を持っているからと言って、誰も君を責めることはない。そういった意識はいつかは消えてなくなるものだ。
素晴らしい教えを説く聖なる人を尊敬する人々の集まりですら、非友好的な人間関係になりがちだ。否、必然的にそういう結果になる定めになっている。
聖なる人を高く尊敬する人は、往々にして自分を低く汚れを持った人間と観る傾向にある。気が優しくて、まじめで、人を大事にしようとする善意ある人でも、自己意識が低い場合が多いのだ。
その低い自己意識は、人から大事にされない状況・体験を呼び寄せるのだ。そのような人は傷つきやすく、感情がすぐ乱れてしまいやすい。そうすると、益々自己評価が低くなる。そのような自分より、先ず人を愛するように、と言う教えは、決定的に救われない人間を創りだす。
宗教組織にとっては、それがまた好都合なのだ。宗教組織の継続が約束されるからだ。花粉症の人は根本的に治癒しなくとも、少しの気休めがあれば耳鼻科に通うことになる。結果的には耳鼻科医が繁盛し続けることになる。それと状況は全く同じだ。

自分を神と拝み、人を神と拝む(注2 )。私はそれを訓練してきた。あなたもそうしなさい。自分を神と拝まないで、偉い人を拝むことがいかに危険なことか、今言った通りだ。だから、私は君の前に三度目に現われることはない。
「五井先生!と崇拝することはどうなんでしょう?」と私は尋ねた。
五井先生はきちんと明言されている、
『五井先生は、皆さんの本体なんです。皆さんの本体も、私の本体もみんな一つなんです。宇宙は一つだから』(注3 )と。
凡夫はいつも、そういうメッセージを聞き逃すだけだ。
だからと言って、誰も責められることはない。人類即神也のプロセスがあるだけだ。人類はプロセスの中で目覚めつつある。五井先生と自分とは自己意識軸で繋がっている。五井先生が一度に大勢の人、一人一人を指導できるのは、各人の自己意識軸を使っているからだ。
自己意識の深いところに五井先生はおられると言うことだ。
真理は『自分を愛するものは、人を愛することができる。人を愛するものは、人からも愛される』だ。最初にすべきことは、自分が自分自身を無条件に愛することだ。『我即神也』を極めることだ。『最も愛情深い人間とは、最も自己中心的人間だ(注4 )。』これが「人間と真実の生き方」にある『自分を愛し、人を愛す』の意味だ。

『我即神也』『人類即神也』のメッセージは『自分は神性そのものだ。すべての人も、私と同様、神性そのものだ』と言うことである。
『我即神也』が初めになくして、『人類即神也』は成立しない。しかし、『人類即神也』なくして、『我即神也』は完成しない。
自分を神と拝み、人を神と拝んだ時に湧き出る光明波動は人類を慈しんでならない。
『人類に目覚めを促す光明波動を発する神なる自分』と言う自己イメージを持ち続けなさい。これは九合目の教えだ。
白光誌の表紙の裏にある『世界平和の祈りをするところに必ず救世の大光明が輝く』の一つの意味を教えよう。この説明は、白光の教えの初めの教えであった。言わば、1合目の教えであった。五井先生は『救世の大光明を放つ自分』というイメージを作る訓練を、我々にさせて下さったのであった。ところが、まさしくこれが九合目の教えであ
ったのだ。五井先生の深謀遠慮には全く恐れ入る。

注1 「Loveisthe Answerやすらぎ療法」ジェラルド・G・ジャンポルスキー、ダイアン・
v・シリンシォーネ春秋社参照
注2 「自分を拝み、人を拝むのが一番いいのです。それが信仰の極意であり。根本です。」(白光誌1967/8)
注3 五井昌久著「光明の生活者」P.38
注4 「神との対話」1/8 ニール・ドナルド・ウォルシュサンマーク出版引用
ピタゴラスさん啓示録


『世界平和の祈りをするところに必ず救世の大光明が輝く』の一つの意味を教えよう。
この説明は、白光の教えの初めの教えであった。言わば、1合目の教えであった。
五井先生は『救世の大光明を放つ自分』というイメージを作る訓練を、我々にさせて下さったのであった。ところが、まさしくこれが九合目の教えであったのだ。


今、やっとこの意味が解るようになったみたい。 これも毎日神語を続けたおかげだと思う。 よかった。
我即神也 人類即神也



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by mppoe-light | 2012-10-08 19:08 | ピタゴラスさん啓示録から

3次元とか4次元とか・・・・☆

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三次元世界は因果の世界である。そのため、過去・現在・未来の時間軸が必要になる。
四次元世界は因果を超えた果因説の世界である。そのため時間軸は必要ない。


c0074000_22394290.gifうん、うん、 少しずつ理解できるようになった。 面白いな♪ ヽ(^。^)ノ
で、この部分を読んでいて、 4次元のことが気になり出したので、
啓示録の一番はじめの部分を読んでみました。 久しぶりです。

 
四次元世界・印・果因説

四次元世界とは、三次元世界に意識次元を付加したものである。
意識とは自己意識である。つまり、「自分が自己を何である」と認識するかの意識が次元としての意味を持つ。
三次元世界とは因縁因果の世界である。想念の法則により現れ、消える。
しかし、自己=肉体、幽体という意識がある限り、結果としての現象は次なる原因となる。その因縁因果は限りなく経巡る。凡夫の意識は凡夫の世界を創りだす。

しかし、「我即神也」の意識は厳然として存在する。
三次元世界の凡夫であろうと、「我即神也」を宣言したところには、時間の経過はあるものの、神なる姿が顕現する。
この神意識は三次元世界のものではない。神意識は四次元世界の意識である。しかし、神意識は「私は、、、」と言う意識の座標軸を使って三次元世界と接点を持つ事ができる。
三次元世界に四次元目の意識次元を加えると、同じ三次元世界が幾通りにも変化する。
それは、平面の二次元世界に縦の三次元世界を加えると、同じ平面座標が縦の座標によって幾通りにも変化するが如くである。
印は三次元の因縁因果の世界に意識次元の変換(上昇)を使って、「我即神也」の世界を顕現させる科学である。
印を使うと、因縁因果の流れとは関係なく、「我即神也」という意識がその意識に相応しい現象を三次元世界に顕現させてゆく。
この顕現も想念の法則を使って成就される。それは果因説と言われる。




四つ目の次元である意識次元の軸には大別して、凡夫―菩薩―神・如来の三様の座標がある。凡夫と言ってもそれは多種多様で、座標軸に幅をもつ。
しかしながら、この程度の幅は、三次元体験の中では明確に意識される事はない。
比較的激しい波長の変化があっても、「あの時、○ ○さんは別人のようだった」程度にしか知覚されていない。宗教で求められる変化は凡夫―神という大胆な変化である。
二十世紀までは、少しずつ変化する線形変化であったが、二十一世紀からは非線形の変化、いきなり起こる変化の時代になる。
それは我即神也・人類即神也の宣言と印によって起こる

三次元世界と四次元世界との違いは我即凡夫也から我即神也に至る自己意識という座標軸を認めるか否かである。
四次元世界では、我即凡夫也という自己意識を我即神也という自己意識にまで座標軸上を滑らせるだけで、人間は大きな変化を体験できる。この真理を理解し、顕現するのが会員の天命である。
それは印と呼吸法の習得によって可能である。我即神也という自己意識に到るということは我即神也を思い出すことでもある。啓示と創造の力を思い出すことである。
mixi ピタゴラスさん

で、
3次元と4次元世界の違いを考えながら、思ったのだけど、、、
3次元に意識次元を付加したものが4次元なら、、、
4次元の次は5次元で、 4次元から5次元になるために、何が加わるのんだろうか。。。。
もう今までのような現象の世界ではなく、意識の世界なのだから・・・・座標軸という直線をイメージするような世界観ではないのかな。。。? 

なんて、
まだ4次元にもならないのに、5次元のこと考えても仕方ないんだけど・・・(笑)

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by mppoe-light | 2012-10-04 22:42 | ピタゴラスさん啓示録から