カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 140 )

神性に基づいて生きる☆


我即神也 の「私」は無限なる愛、無限なる叡智・・・、無限なるものすべてが満ち溢れている存在、
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』している存在。
我即神也の「私」は、時間の流れの世界、五感の世界には生きていない。 
「私」は、常に毎瞬、宇宙神から注がれる光=意識「私」だから。 
意識は、ストロボライトのような点滅が、常時点灯しているように見えるほど高速で繰り返されるから、まるで私は過去から時間の流れる現象世界にずっと生きているように思える。
c0074000_2041199.gif(これは私の個人的イメージ、考えです、、、) 

だから、
現象世界の自分が本来の自分であると思ってしまうのだけど、
本来の「私」は瞬間瞬間に中心から降りてきて、肉体に生きている。 
瞬間中心から降りている「私」は、すべては完璧で、欠けたるものなし、大成就。
過去もカルマもなく、絶対に傷つかず、汚れない。 そして常に新しく、常に完璧な存在。 
その時、現象の中で肉体がどんな状況に置かれていても、 神「私」には一切関係ない。
だから、
神「私」を意識した時には、法則の通りに「私」は光を放つ。人類のために。
たとえ肉体や、肉体を取り巻く環境がどんな状態でも。 「私」は法則の通りに働く。

と、、、こんなことを思いました。
 
思いながら、
五井先生の“消えてゆく姿”という教えは すごいものだな・・・とまた改めて感じていました。

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人は五感に感じられない『無限なる宝庫』に気づいていない。気にかけているのは、過去、時系列、五感の世界だけである。
自分を愛する人だけが『無限なる宝庫』に思いを寄せる。

 無限なる宝庫は厳然と存在する。
 無限なる宝庫は厳然と神の子のものである。
 それは神の子が自由に使っていいものである。

 カルマがその自由を奪っているのではない。
カルマを完済すれば、その自由が戻ってくるのでもない。
自分の自由を認めない想いがカルマとなっているの過ぎない。
自分が自分に自由を認めればいいだけである。
「我即神也」とは、その自由を認める宣言である。その自由を認め、印を組み、「すべては完璧」の言霊を発することがゴールデンキーなのである。
ゴールデンキーを使うや、内なる宝庫は外に溢れ出始める。それを妨げるものは、一切何もない。


「消えてゆく姿」を産み出すエネルギーが多かろうが少なかろうが、その有限なエネルギーを超えた生き方が要求される。それは有限なものを超越した「無限なるエネルギー」に基づく生き方である。
それは果因説・本来因果の生き方である。(以上『 』は2000-02)
 因縁因果のことはさておき、内なる無限なる宝庫、自らの神性に基づいた人生を始める時代が到来した。

********************************

真の『私』は因縁因果とは無縁である。真の『私』は宇宙神の直接のコピーである。したがって、『私の世界に欠けたるもの、不足なるもの、不調和なるものなど一切ない。存在しない。私の世界に存在するものはすべてが完全で調和し、健康で豊富で、幸せそのものであることが当然である』。

 『私』は因縁因果の世界で生きる存在ではない。
 『私』は因縁因果を超越している。
 『私』は神そのものを顕現するだけである。
 それは当然である。
 『私』は神そのものなのだから。
 『私』は神から離れたのではない。
 『私』は神に近づいているのではない。
 『私』は神以外のものにはなれない、神そのものなのである。
 このゼロポイントから人生を再開するのである。
 このゼロポイントから真理を理解するのである。
 その宣言こそが『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の言霊である。

mixiピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-11-21 20:14 | ピタゴラスさん啓示録から

神だから

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あなた自身が宇宙神の光の一筋であり、聖なる存在そのものであることを、
漠然としてではなくはっきりと自覚しなければならない。   2011 2月号法話から


「私」は光から来たもの、神そのもの、
「私」は何処であろうと何時であろうと、肉体を持ったまま神の姿を顕すばかり。 
「私」には過去はなく、カルマもない。「私」は光だけですべてを描ききる。「私」が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界。


「私」は本来神だから、神そのものだから・・・、
神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む欲望に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜むネガティブな思考に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む他への依存に打ち克つ

神人たるを誇りにして自らの心の中になお潜む劣等感に打ち克つ    <1月号日々の指針から>


神であることを前提にした生き方が、意識軸で繋がっている神界の「私」と共振共鳴を起こし、
それが本当の神の姿になるのか・・・
 と思いました。


共振共鳴

『神はまず天地に分かれ、そして、その一部の光は、自然界を創造し、活動せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊とよばれて人間界を創造した。ここにおいては神は、一であり、多であることとなり、一即多神となるのである。
さて、人間の直霊、即ち神の一部の光こそ、人間そのものなのであって、この時にはいまだ業因縁は生じていないのである。』(「神と人間」三章)

 この多神の中の1ピースが自分自身なのである。
業因縁の生じる以前の自分の本心が多神の一員として存在している。その「神の姿」は今も光り輝いている。「神の姿」は後に生じた業因縁の影響を受けることはない。
そして、「神の姿」は後に生じた業因縁をすべて消してしまう光である。
宇宙神の創造されたままの「神の姿」は永遠の生命なのである。
この直霊そのものの自分は無限なる神性そのものである。それを肉体人間側から見れば、無限なる神性の宝庫である。

この直霊神と『私』は一つである。つまり、『我即神也』なのである。
すべての人に存在する『私』という意識は、直霊神と一つに繋がっているのである。
ただ、『私』という意識は現象界で生じた事象に基づくレッテルに覆われている。
その様々な自己定義が自我なのである。それが業因縁の素である。

『私』は直霊神の姿をこの世に呼び出す天命がある。直霊神は『私』と言う場に降り立ち、神性を顕現する天命がある。この二つにして一つの天命を完うする方法が祈りである。

祈りは、人が神になる、神に近づくためのものではない。
祈りは、神たる存在が、神の働きをこの世で行うためのものである。
神たる存在が、言葉で宣言したことはこの世に具現化するのである。

人は神になることはない。人は神に近づくことはない。人は元々神なのである。
この「人が神である」という真理を変更することは誰にもできない。神は神以外のものにはなれないのである。どんなカルマに塗れていようとも、人は神の働きをすることによって、本来の「神の姿」を思い出すことができる。
「神の姿」を思い出した瞬間、カルマは消え失せるのである。そして、「神の姿」が顕われるのである。

真理の祈りとは『我即神也』である。『我即神也』とは、『私』は直霊神そのものであるという現象界側の宣言である。
それと同時に、『我即神也』は直霊神の「我は神そのものである」という直接の宣言なのである。
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』も同様である。
現象界の『私』は実のところ「すべては完璧」であると宣言しているのである。
そして、同時に、直霊神も「すべては完璧」と真理を宣言しているのである。
肉体側の『私』は直霊神が宣言していることを、真似るように宣言すればいいのである。
真似るように印を組めばいいのである。
真似るように「神の言葉」を語ればいいのである。
そのとき、共振共鳴が起こる。
現象界に「神の姿」が顕現し始めるのである。
『私』と直霊神は二つにして一つになっているのである。

mixi ピタゴラスさん  


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by mppoe-light | 2012-11-02 22:00 | ピタゴラスさん啓示録から

「権利」 から

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幸せや平安は、努力して忍耐して獲ちとらなければならないものだと思っている人が多いが、本当は誰もが生まれながらにして幸せになる権利を持っているのである。ただそのことを知らないだけである。
(「もっともっと幸せに」P.98)

喜びとは、勝ちとらなければならないものと思っているけれども、実際は全くそうではなくて、この世に生れ落ちた瞬間から、生まれた時の権利として本来持ち合わせているものなのである。
信ずる力さえあれば、誰でもが即幸せになれるものなのである。 1990-11

 人間は本来いかなる罪をも赦す権利があるのです。94-10
 

 西園寺会長は「権利」について言われることがある。「権利」は日本の宗教観にとって馴染みの薄い観念である。しかし、果因説では重要なキーワードなのである。



「権利」 という言葉・・・・
 初めは少々抵抗がありました。 やっぱり日本人なんですね。私は。 
謙虚で卑下することが美徳である・・・という日本人的な想いがある(笑)。

↓今年の2月くらいに書かれたものですが、
今になって この「権利」という言葉に引き付けられ、読み直してみました。

きっと、
新しい言霊  「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」 を唱えているうちに、

「真の姿は みな完璧で欠けたるもののない姿、それが真実、私達には当然のことなのだ・・・」と思い始めたので、
引きつけられたのだと思う。


 日本の宗教観、特に「人間凡夫説」では阿弥陀如来の救済力に任せることがすべてである。権利の主張など無い。また、「人間凡夫説」ならずとも、日本の宗教では謙虚、卑下が美徳とされがちである。

宗教ならずとも、一般社会では自分の不完全性を認めることが要請される。
西洋的な原罪意識はなくとも、多かれ少なかれ、罪意識から自己を開放している人は少ないのである。
 西洋文明的な権利意識と果因説の権利とは異なる。西洋文明的な権利意識は「権利を社会的に主張すべし」「権利を妨げる者とは闘争すべし」ということである。

果因説では、権利を主張するのは自分自身に対してである。
権利を妨げるのも自分の固定観念以外の何ものでもない。自分と闘争するわけではない。
この「権利」は、自分が自分の真実の姿に目覚めるために示された真理そのものである。
果因説の権利は我々が持つ生まれながらの、当然の権利である。
この権利は我々の本質に由来するものである。
この権利は我々の神性、「本来の神の分霊の姿」に由来するのである。
それは、我々の相続財産つまり遺産とも言われる。
権利と言わずとも、この遺産については聖書、仏典でも「放蕩息子」のたとえ話のテーマとなっている。

完璧で大調和している大宇宙。 当然ながら、その中に在るすべてのものも同様にすべてパーフェクト。
であるはずなのに、 
その中で私達人類は、宇宙に生かされながら わざわざ否定的で不調和な自分を体験し、不調和な世界を創造している。 なんて奇妙な体験を続けているんだろ。。。。


****************************

あらゆる現象と記憶は過去である。あらゆる過去は「あなたは神聖ではない」と言っている。
しかし、それは神であるあなたが「自分は神である」ことを失念し、「自分は神聖ではない」と意識したことが、こともあろうに神であるあなた自身の創造力によって顕現したものである。
神聖ならざるものには苦悩がつきまとう。

究極の真理は、あらゆる現象と記憶、つまり過去に関係なく「あなたは神そのもの」なのである。あなたは神性そのものである。そのように生まれついているのである。
その本来の姿を愛して、あなたの本質を認めて、あなたの神性を賛美し、「欠けたるものなし」を体験してゆく。そうなるのである。
これが、あなたが持っている権利である。
この権利を行使するも妨げるも、自分次第である。ジャッジ役の神はいない。
あなたの外には、崇めるべき神はいない。
自分のことを神聖なる神と思えば、権利は成就する。至福を体験する。
自分のことを神聖ならざる肉体人間と思えば、権利は放棄される。苦悩を体験する。
自分の神性を認めれば、至福を体験する。
自分の人間性を認めれば、苦悩を体験する。
未来には神性が輝いている。その神性を引き付けるのだ。
過去には人間性しかない。その人間性を手放すのだ。

人間性がたとえ泥まみれであっても、あなたの神性は汚されることはない。
五感に感じられない自分の神性を讃えよう。「我即神也」
五感に感じられない自分の権利を宣言しよう。「空即是色」
五感に感じられない自分の神性を讃えるからこそ、「我即神也」「空即是色」が現象界に成就するのである。
神性に関連するすべての権利、それはあなたのものである。

ピタゴラスさん 「権利」から



神聖ならざるものには苦悩がつきまとう。

この言葉に心が留まりました。 なぜだか良くは分からないけど(笑)

思うに、、、、
心に葛藤が起こり重くなった場合、それは神様の御心から外れている状態、 どんな良いことでも。 きっと自我が動き出しているに違いない。
神聖なものは、いつでも心は明るく輝き、軽くて清々しいはずだから。


自分の求めるものは自分の内に在る。 自分を探求しよう・・・。


すべては完璧 欠けたるものなし 大成就!

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by mppoe-light | 2012-10-17 21:48 | ピタゴラスさん啓示録から

真の姿 すべては完璧


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言霊を唱えながら思うことは、、、

すべては完璧、欠けたるもののない世界が真の世界、私たちの本来の姿で、
これこそが真実。
と、言う事。

なのに私たち人類は、
人間は不完全で、欠けているもの・・・というのが当たり前の思考になっていて、
少しでも良くするためには、努力を重ねて現状を改善していかねばならない、、、
そうすることが成長であり、進化である、、、、
と、思っている。
ところが、努力をしながら、
失敗や挫折を繰り返しているうちに、結局は 
「人間だから仕方がない・・」なんて言って、未完成の状態を受け入れてしまい、
そのまま 人間は愚かなんだ・・・と納得してしまっている。。。(T_T)/~~~ 無限なる光明!

違う、違うんだよ、本当は完璧が当たり前なんだよ。 すべてが調い、完璧で、大調和した状態こそが私達自身の姿であり、私たちの世界なのに、
そこからスタートするのが本来の生き方なのに~、果因説なのに~!


“迷い”とは このことか・・・・と思いました。

“迷い”を消えてゆく姿として捨て、「私たちは本来完璧な存在」 であることを認め、次元上昇するか、
それとも
“迷い”をそのまま続けて、「私たちは結局、不完全で不調和な存在」であると思い込んで、カルマの世界で生き続けるか。
つまり、、神意識を受け入れるか、非神意識をそのまま続けるか。

神意識は究極の真理を放ち、完璧なものを創造する。

『神人は、宇宙究極の真理を、無限なる愛の光をすべての魂に分かち与えるために存在しているのである。』(2003-03) 




我即完璧神也、人類即完璧神也

 「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」と唱えることが習慣になってきた。しかし、苦悩することがつづいた時、私は無意識に「自分に何が欠けているのだろうか」と思っていた。
「自分は確かに何かが欠けている。だから、こんなことになったのだ」

 このような声は、本心の声とは全く異なる。このような声は、因縁因果の中にいる自我の声である。

 自分は『欠けたるもの、不調和なるもの、非真理なるものに同一化することによって初めて、その現象が現れてくる』
(2003-09)のである。

苦悩の中にいる自分を認めてはならない。
苦悩の分析は要らない。対策も要らない。
苦悩の時が、「消えてゆく姿」を行ずる時である。
苦悩の時が、果因説に入る時である。
果因説に入るとは『我即神也』という真理に入ることである。
それは、苦悩と苦悩を感じる自分、苦悩の原因を創った自分がいる世界を離れ、全くの別世界に入ることである。その別世界は、宇宙神が創造された世界である。
それは既に成就している神界である。
それは既に、我々に与えられ、我々が相続した世界である。

我即完璧神也。
私は至福の神である。私は健康の神である。豊かさ、繁栄、成功の神である。私は愛の神である。赦し、癒し、歓び、感謝、光の神である

『神人は、神そのものと同一化しようとするからこそ、神人として光り輝き、すべてが充足されてゆくのである。』
(2003-09)
 
 相続していないものを与えることはできない。
私にはすべての神性が完璧に与えられている。
すべての神性は本心という宝庫に蓄えられている。私はすべての神性を人類に与えることができる。

私が与えるものは宝庫の中で増大する。
私の本心はすべての神性が溢れ出るところである。
本心が癒せないものはない。本心が満たせない物もない。本心はすべての人類を祝福する。
そして、本心は人類にすべての光を送る。
本心の光は人類の神性を照らし出す光である。

人類即完璧神也

『神人は、宇宙究極の真理を、無限なる愛の光をすべての魂に分かち与えるために存在しているのである。』(2003-03)

「自分に何が欠けているのだろうか」などと考えている場合ではない。
「我即神也」に意識を集中し、「人類即神也」のために自分の本心を輝かせるという天命があるではないか。

苦悩を消すために祈るのではない。
苦悩を消すことによって、天命が完うするのではない。
天命を完うしようとしていれば、苦悩は消えてしまっているのである。

mixi ピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-10-13 21:56 | ピタゴラスさん啓示録から

1合目の教え、9合目の教え

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「生きる」ということは、光ること、光を放ち続けること・・・と思うようになりました。
その光は自分の内から溢れている無限なるもの。 
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就しているから、
本来の人類の役目は、その溢れ出る光、神の光明を地上に放つこと、、、、そのために今ここ居る。 そう思っています。


- それから菩薩の説法が始まった。
肉体人間観、凡夫観を持っているからと言って、誰も君を責めることはない。そういった意識はいつかは消えてなくなるものだ。
素晴らしい教えを説く聖なる人を尊敬する人々の集まりですら、非友好的な人間関係になりがちだ。否、必然的にそういう結果になる定めになっている。
聖なる人を高く尊敬する人は、往々にして自分を低く汚れを持った人間と観る傾向にある。気が優しくて、まじめで、人を大事にしようとする善意ある人でも、自己意識が低い場合が多いのだ。
その低い自己意識は、人から大事にされない状況・体験を呼び寄せるのだ。そのような人は傷つきやすく、感情がすぐ乱れてしまいやすい。そうすると、益々自己評価が低くなる。そのような自分より、先ず人を愛するように、と言う教えは、決定的に救われない人間を創りだす。
宗教組織にとっては、それがまた好都合なのだ。宗教組織の継続が約束されるからだ。花粉症の人は根本的に治癒しなくとも、少しの気休めがあれば耳鼻科に通うことになる。結果的には耳鼻科医が繁盛し続けることになる。それと状況は全く同じだ。

自分を神と拝み、人を神と拝む(注2 )。私はそれを訓練してきた。あなたもそうしなさい。自分を神と拝まないで、偉い人を拝むことがいかに危険なことか、今言った通りだ。だから、私は君の前に三度目に現われることはない。
「五井先生!と崇拝することはどうなんでしょう?」と私は尋ねた。
五井先生はきちんと明言されている、
『五井先生は、皆さんの本体なんです。皆さんの本体も、私の本体もみんな一つなんです。宇宙は一つだから』(注3 )と。
凡夫はいつも、そういうメッセージを聞き逃すだけだ。
だからと言って、誰も責められることはない。人類即神也のプロセスがあるだけだ。人類はプロセスの中で目覚めつつある。五井先生と自分とは自己意識軸で繋がっている。五井先生が一度に大勢の人、一人一人を指導できるのは、各人の自己意識軸を使っているからだ。
自己意識の深いところに五井先生はおられると言うことだ。
真理は『自分を愛するものは、人を愛することができる。人を愛するものは、人からも愛される』だ。最初にすべきことは、自分が自分自身を無条件に愛することだ。『我即神也』を極めることだ。『最も愛情深い人間とは、最も自己中心的人間だ(注4 )。』これが「人間と真実の生き方」にある『自分を愛し、人を愛す』の意味だ。

『我即神也』『人類即神也』のメッセージは『自分は神性そのものだ。すべての人も、私と同様、神性そのものだ』と言うことである。
『我即神也』が初めになくして、『人類即神也』は成立しない。しかし、『人類即神也』なくして、『我即神也』は完成しない。
自分を神と拝み、人を神と拝んだ時に湧き出る光明波動は人類を慈しんでならない。
『人類に目覚めを促す光明波動を発する神なる自分』と言う自己イメージを持ち続けなさい。これは九合目の教えだ。
白光誌の表紙の裏にある『世界平和の祈りをするところに必ず救世の大光明が輝く』の一つの意味を教えよう。この説明は、白光の教えの初めの教えであった。言わば、1合目の教えであった。五井先生は『救世の大光明を放つ自分』というイメージを作る訓練を、我々にさせて下さったのであった。ところが、まさしくこれが九合目の教えであ
ったのだ。五井先生の深謀遠慮には全く恐れ入る。

注1 「Loveisthe Answerやすらぎ療法」ジェラルド・G・ジャンポルスキー、ダイアン・
v・シリンシォーネ春秋社参照
注2 「自分を拝み、人を拝むのが一番いいのです。それが信仰の極意であり。根本です。」(白光誌1967/8)
注3 五井昌久著「光明の生活者」P.38
注4 「神との対話」1/8 ニール・ドナルド・ウォルシュサンマーク出版引用
ピタゴラスさん啓示録


『世界平和の祈りをするところに必ず救世の大光明が輝く』の一つの意味を教えよう。
この説明は、白光の教えの初めの教えであった。言わば、1合目の教えであった。
五井先生は『救世の大光明を放つ自分』というイメージを作る訓練を、我々にさせて下さったのであった。ところが、まさしくこれが九合目の教えであったのだ。


今、やっとこの意味が解るようになったみたい。 これも毎日神語を続けたおかげだと思う。 よかった。
我即神也 人類即神也



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by mppoe-light | 2012-10-08 19:08 | ピタゴラスさん啓示録から

3次元とか4次元とか・・・・☆

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三次元世界は因果の世界である。そのため、過去・現在・未来の時間軸が必要になる。
四次元世界は因果を超えた果因説の世界である。そのため時間軸は必要ない。


c0074000_22394290.gifうん、うん、 少しずつ理解できるようになった。 面白いな♪ ヽ(^。^)ノ
で、この部分を読んでいて、 4次元のことが気になり出したので、
啓示録の一番はじめの部分を読んでみました。 久しぶりです。

 
四次元世界・印・果因説

四次元世界とは、三次元世界に意識次元を付加したものである。
意識とは自己意識である。つまり、「自分が自己を何である」と認識するかの意識が次元としての意味を持つ。
三次元世界とは因縁因果の世界である。想念の法則により現れ、消える。
しかし、自己=肉体、幽体という意識がある限り、結果としての現象は次なる原因となる。その因縁因果は限りなく経巡る。凡夫の意識は凡夫の世界を創りだす。

しかし、「我即神也」の意識は厳然として存在する。
三次元世界の凡夫であろうと、「我即神也」を宣言したところには、時間の経過はあるものの、神なる姿が顕現する。
この神意識は三次元世界のものではない。神意識は四次元世界の意識である。しかし、神意識は「私は、、、」と言う意識の座標軸を使って三次元世界と接点を持つ事ができる。
三次元世界に四次元目の意識次元を加えると、同じ三次元世界が幾通りにも変化する。
それは、平面の二次元世界に縦の三次元世界を加えると、同じ平面座標が縦の座標によって幾通りにも変化するが如くである。
印は三次元の因縁因果の世界に意識次元の変換(上昇)を使って、「我即神也」の世界を顕現させる科学である。
印を使うと、因縁因果の流れとは関係なく、「我即神也」という意識がその意識に相応しい現象を三次元世界に顕現させてゆく。
この顕現も想念の法則を使って成就される。それは果因説と言われる。




四つ目の次元である意識次元の軸には大別して、凡夫―菩薩―神・如来の三様の座標がある。凡夫と言ってもそれは多種多様で、座標軸に幅をもつ。
しかしながら、この程度の幅は、三次元体験の中では明確に意識される事はない。
比較的激しい波長の変化があっても、「あの時、○ ○さんは別人のようだった」程度にしか知覚されていない。宗教で求められる変化は凡夫―神という大胆な変化である。
二十世紀までは、少しずつ変化する線形変化であったが、二十一世紀からは非線形の変化、いきなり起こる変化の時代になる。
それは我即神也・人類即神也の宣言と印によって起こる

三次元世界と四次元世界との違いは我即凡夫也から我即神也に至る自己意識という座標軸を認めるか否かである。
四次元世界では、我即凡夫也という自己意識を我即神也という自己意識にまで座標軸上を滑らせるだけで、人間は大きな変化を体験できる。この真理を理解し、顕現するのが会員の天命である。
それは印と呼吸法の習得によって可能である。我即神也という自己意識に到るということは我即神也を思い出すことでもある。啓示と創造の力を思い出すことである。
mixi ピタゴラスさん

で、
3次元と4次元世界の違いを考えながら、思ったのだけど、、、
3次元に意識次元を付加したものが4次元なら、、、
4次元の次は5次元で、 4次元から5次元になるために、何が加わるのんだろうか。。。。
もう今までのような現象の世界ではなく、意識の世界なのだから・・・・座標軸という直線をイメージするような世界観ではないのかな。。。? 

なんて、
まだ4次元にもならないのに、5次元のこと考えても仕方ないんだけど・・・(笑)

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by mppoe-light | 2012-10-04 22:42 | ピタゴラスさん啓示録から

自己像をセットするのは繰り返される思考・・・☆

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はじめて読んだ時は、どちらも あまり興味がなかったのですが、
今、久しぶりに読んでみたら・・・・

面白かった♪♪♪

  
 自分を愛する者は、神に愛される。
自分を愛する者は、宇宙に愛される。
神、宇宙に愛される者は至福を体験する。
自分をどれだけ愛しているか、今後の人生はそれを反映する。

「自分を愛する」ことの究極は「我即神也」。
 世界人類をどれだけ愛しているか、今後の世界人類の姿はそれを反映する。
「人を愛す」ことの究極は「人類即神也」。

『光る者、光そのもの
 光を反射し、光る者に光を戻すもの
 光を伝えるもの
それは宇宙であり、神であり
あなた自身である
一なるもの、在りて在るものの正体である』
 これは法則である。
 この法則の中には歓喜と感謝がある。
この中に自分がいることを再認識する為に、祈りがあり、感謝行がある。

 太陽も空も水も空気も、消えてゆく姿の自分のために存在しているのではない。
神なる自分(我即神也)のために存在している。
このため、感謝行をする人は神バージョンの自分(我即神也)を思い出す。
本来の自分の姿を思い出す。
 自分の波動を高めるとは、自分を愛することである。
神バージョンの自分の姿を観ることである。
本来の自分の姿を観ることである。

****************************

神の眼を通して自分を観る。そこに見える姿は神の姿しかない。
一般の人は、その自分の素晴らしさを見る想像力が発達していないだけである。
神々は我々に『神の眼で自分自身を観ること、この円環(わ)の中に戻ってくること、この円環の中に自分がいることを思い出すこと』だけを期待されている。

この真理=法則を認めさせないための疑い、罪悪感。その権利が自分にはないよう想わせる演出。それは業と呼ばれている。時に、それは良心のようにも見える。自分自身を赦せない良心は業に過ぎない。業を超える力は真理を知ること、思い出すこと。そのための祈りであり、感謝行である。

「神バージョンの自分」  「神の円環(わ)」 から
****************************

  前頭葉

 ラムサは、現実世界を創造するのは前頭葉の働きと説く。従来、よく言われた潜在意識の働きとは、やや違った説き方だ。
 『前頭葉、ここを天国、あるいは黄金の玉座と呼ぶ。ここは脳の中で元も重要な部分だ。何故なら、ここにやって来るものは何であろうと、法になるからだ。考え続けることによって、あなたがここに維持しているものは何であれ、あなたの人生となる。ここへ来るものは何であれ実現する。
 あなたが考えれば考えるほど、それは強力な法になる。』(注1)
 
 前頭葉は眉間のチャクラに対応しており、古代からの瞑想者たちが心を集中する場である。
前頭葉を調査すると次のようなことが書かれていた。


  人間と他の動物の脳とで大きく違うところは前頭葉。その中でも前頭前野は脳の司令塔である。それは、思考、意思決定、計画、やる気、発明、芸術的創作、集中力、アイディア、信念形成の中枢である。

  前頭前野は「自己意識」の座である。
この意識は、潜在意識にあらかじめプログラムされた行動を無効にするほど強力で、
それが自由意志の基礎になっている。(注2)

前頭葉は神の創造の場である。創造は鏡を通して行われる。
神なる観察者は鏡に映った自己像を三次元世界に投影する。自己像が設計図となる。
自己像を前頭葉にセットするのは繰り返される思考である。

あなたは何をすべきか。神なる自己像を思考しつづけることである。
真の自己意識に復帰することである。
それは「我即神也」である。肉体世界を忘れ、肉体世界に基づいて発した想念を忘れ、神なる自分の姿に思いを巡らせることである。その自己像を前頭葉に維持しつづけることである。
忘れると言っても、それは逃避することではない。不完全性を容認することでもない。
それは「すべては既に赦されている」ことを知ること。既に成就しているあなたの神の姿を思い出すことだ。

「我即神也」を実践する人の鏡の場では、自分を神と見る自分と自分に神と見られる自分が全く一つになる。あなたにとって、この瞬間ほど幸せな時はない。それは至福の時だ。
神なる観察者(注3)が望んでいるあなたの自己像は、神の姿以外にはない。

あなたが自分を尊敬することは、自分に尊敬されることである。
そのとき、あなたは観察者によって尊敬されている。観察者は尊敬されるあなたの姿を創造する。

あなたが自分を愛することは、自分に愛されることである。あなたは観察者によって愛されている。
観察者は愛されるあなたの姿を創造する。

あなたが自分を信頼することは、自分に信頼されることである。あなたは観察者によって信頼されている。
観察者は信頼されるあなたの姿を創造する。
これが「我即神也」の真理が、現実の世界に投影される原理である。


 自分が自分のことをどう考えるか。
それは強烈であり、絶対であり、正確であり、厳密である。観察者とはあなたの本心であり、あなたの神、あなた自身である。あなたの自己意識の主体である。
これが神の姿に似せて自己を創造するプロセスであり、あなたの天命である。



 ここで、神の言葉をご紹介しましょう。
  『私』という言葉は創造というエンジンをスタートさせるキーだ。『私(I am)と言う言葉は非常に強力だ。宇宙への宣言、命令なのだ。(注4)

 前頭葉に置かれた自己意識、自己定義、自己像は例外なく発注され、現実化するのである。
自分が神である? そんなはずがあろうとなかろうと、資格があろうとなかろうと関係ない。
「自分が神である」と思い続ければ、神がそれを実現させてくれる。
実現させるに必要なDNAは既に内在している。
「自分が神である」という信念が神のDNAをオンにしてしまう。
神のDNAは神のホルモンを全細胞に送り込む。神性は全開する。すべての人がそうなりますように。
So be it.(注5)


注1 『脳の構造と機能』 ラムサ
注2 『思考のすごい力』 ブルース・リプトン著
注3 観察者は量子力学の用語。ラムサが多用する。ウパニシャッドでは「見えざる見手」。
注4 『神との対話』 ニール・ドナルド・ウォルシュ著 book1 12章
注5  So be it. 「そうなりますように」はラムサがよく使う言葉。
mixi ピタゴラスさん


前頭葉は神の創造の場である。創造は鏡を通して行われる。
神なる観察者は鏡に映った自己像を三次元世界に投影する。自己像が設計図となる。
自己像を前頭葉にセットするのは繰り返される思考である。
あなたは何をすべきか。神なる自己像を思考しつづけることである。

 
前頭前野は「自己意識」の座である。この意識は、潜在意識にあらかじめプログラムされた行動を無効にするほど強力で、それが自由意志の基礎になっている。

ふむふむ・・・。

私は神、創造者。 
その私の中で繰り返されている思考は、何に基づいているか、
自我か、それとも我即神也か。
祈り、印、言霊のときは 神意識になるようにしてるけど・・・
んー、、、、。。。。思考は自我が~。 ううぅ・・・っ

いつも常に心に中に祈りの言霊があるようになりたい。
祈りの言霊が自分の言葉になるように、
と思い、
神示とは分けて、
すべては完璧・・・・の前に「私」という言葉を付け足して
宣言してみました。 良いっ♪ (^-^) 続けてみよう。 

私は完璧である、 
私は欠けたるものなし、
私は大成就している

私が完璧ならば、人類も完璧
私が欠けたるものなし ならば、人類も欠けたるものなし
私が大成就しているならば、人類も大成就!

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by mppoe-light | 2012-10-03 21:40 | ピタゴラスさん啓示録から

”神の確率”  ”量子力学と宗教”

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  神の確率

 量子力学的に言えば、あらゆる現象は確率的に起こる。
あらゆる素粒子は確率的に存在している。素粒子は観察されている世界とは別の世界に、同時に存在する。
 あらゆる運命も確率的に起こる。どんな人の自我も、現在観察されている世界とは別の世界に、同時に存在する。

 三次元世界の因果律を遡ると、物事は必然的に起こるように見える。しかし、因果の現象化は確率的に様々に分布する多世界の中の一つに過ぎない。
三次元世界だけを見ると、必然的に物事が起こるように見える。しかし、四次元世界を見ると、別の選択肢が残されている。
三次元世界は因果の世界である。そのため、過去・現在・未来の時間軸が必要になる。
四次元世界は因果を超えた果因説の世界である。そのため時間軸は必要ない。

 90%の確率の因果が仮にあるとする。しかし、自己意識には神たる確率が必ず含まれている。神の確率を消すことは誰にもできない。逆に、神以外の自己意識の確率は必ず消える。

 どんな状況でも、人は自由意志と自己責任の領域おいて、『我即神也』に意識をフォーカスことができる。そうするや、『我即神也』に呼応する素粒子が集められ、『我即神也』に呼応する現象も集められる。現象があなたを求めて飛び込んでくる。これが2008年の神事で訓練していることだ。

 ブラックホールからは光りでさえ抜け出せないと言われる。そのブラックホールから脱出する素粒子の確率は在る。実際、いくつかの素粒子は脱出して来る。カボチャを現している素粒子には、金の馬車を顕わす確率がある。実際に、シンデレラはそれをやってのけた(注1)。因果律から抜け出せそうにない凡夫を現す自我にも、神を顕わす確率がある。どんな人でも厳然と、神界では神として存在している。しかも、神性こそが自我の本来性である。神とは隔たって見える人が神を顕現する。これを可能にするのが印であり、神事である。印と神事の原理は四次元の原理であり、トンネル効果であり、観察効果である。

 『神はサイコロを振らない。』(注2)ではなく、現象界では神自身が確率的に存在している。無論、そのように『確率的に存在する』と言うのは客観的な見方ではない。数学的な記述に過ぎない。実在する神の確率は100%である。そのように知る者だけが神を顕現する。印を組み、神事に取り組む者はそのように知る者である。
 「因果律を操作する」とは、四次元軸(自己意識軸)を使って必然性を確率の一つにしてしまい、確率の低いように見える神性の確率を必然にしてしまうことである。再び言うのだが、これを可能にするのが印であり、神事である。印を組み、神事を行う者は神のみを知るものである。
注1 ラムサより『シンデレラは実話である。』
注2 アインシュタインの言葉      2008/12/14



  量子力学と宗教


 量子力学では、量子の可能性はすべて可能性として同時に並存していると説かれる。電子の存在位置を確定することは不可能で、確率の雲のように分布している。
多世界解釈では、可能性の分だけパラレルワールドがある。複数の世界が同時に並存している。観察者が(電子等を)観察をして初めて、存在位置が確定される。その時、確率の波は一瞬で崩壊(波束収縮)し粒子として観察される。

 量子力学以前のニュートン力学は因果律を追求する。因果律の決定論は唯物論につながる。量子力学の世界では因果律は通用しない。観察者が結果を選択することになる。これは果因説につながる。

 先ず、自己意識のレベルで様々な自己意識がそれぞれの確率を持って分布している。自己意識には、肉体人間・凡夫等、、、、から神と種々様々ある。どんな人にも神という自己意識つまり「我即神也」の確率がある。自己意識とは観察者のことである。
 言葉のレベルでも同様の分布がある。一人の人の使う言葉の使用頻度はその人の自己意識の分布を反映している。
 細胞内及び生活環境内の量子のレベルでも確率分布がある。
 人間は自己意識に正確に対応している多世界に同時に並存している。

 物質界(現象界)・肉体界は観察された世界である。この世界では多くの存在確率の中でも確率の高い状態が選択されて体験される。つまり観察される。
その時、波束は収縮する、つまり崩壊している。波動エネルギーが崩壊し粒子となったわけである。
それは「消えてゆく姿」を意味する。神の自己意識(我即神也)、神の波動エネルギーが崩壊し粒子化すると、それは「神性顕現」とか「成就」と言われる。

 現在の状態が何であろうと、意識のレベルで自己意識を神にチューニングすることは可能である。それを「統一」と言う。言葉のレベルで、神の言葉の世界に入っていくこと、これを「祈り」と言う。
真の祈りでは、言葉が祈る人の意識レベルを引き上げる。「印」を組む人は、神の意識で神の呼吸と神の動作を行う。つまり、それは「顕現、成就」の行為である。

 物質界で努力を重ねて、自己を神に変えてゆくことは宗教の本質ではない。それは修養である。無限の努力を要する。やめた方がいい。
神人は自分を変えるのではない。なすべきは真理を知ることである。つまり、意識レベルで自分が神となることである。神なる自分の姿を想像しつづけることである。

注1  量子力学についての参照文献
    「量子論の基本と仕組み」竹内薫著  秀和システム
    「量子力学の世界」椎木一夫著   日本実業出版社
    「ラムサの教え」 星雲社
2008/12/29


mixi ピタゴラスさん 啓示録から


さかのぼって読み直していて、、、
面白かった、復習にもなった☆ (^-^)

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by mppoe-light | 2012-10-02 08:16 | ピタゴラスさん啓示録から

勇気を出して信じて生きる

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シロアムの池

イエスが歩いていると、生まれつきの盲人と出会った。 弟子達はイエスに尋ねて言った。
「この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか?」
イエスは答えられた。
「どちらでもない。ただ神のみわざが彼に現われるためである」
「私は世の光である」
イエスはそう言った。
イエスは唾を吐き土とまぜ、盲人の目に塗って言われた。
「シロアムの池に行って、洗いなさい」
彼は目を洗うと見えるようになった。(ヨハネ9章)


この物語は、カルマの法則を説く仏教とイエス・キリストの教えの相違点を語っているのだろうか。そうではない。
仏教においても因縁因果説は究極のものではない。因縁因果説に留まっている限り、真理は見えてこない。光は見えてこない。
目を開けて、真理を視よ。そう真理は言っているのである。




多くの人が因縁因果説に留まっている。 過去に捉われている。
起こっている問題の原因を過去に探して、何かに(誰かに)責任を負わせて自分自身を正当化したり、
あるいは自己処罰で罪悪感に捉われたり・・・・

多くの人が、目に見える現象の中で自分が生かされている と、信じてしまい、、
閉ざされた世界で
閉ざされた思考で、閉ざされた意識で、みんな身動きが取れなくなっている。

現象世界が私を生かしているのではなく、 生かしてくれるのは神さま。


仏教でも、大乗経典になると、十二因縁等は全く否定されてしまうのである。イエスは、ユダヤ教の枠組みで教えを説いていた。
したがって、常識では因縁因果は知られていないから、先ず因縁因果を教える。
その後、因縁因果を越える大乗の教えを説くという仏教のようなプロセスはとらなかった。

現象から始まり、その原因を過去の行為の間違いにあるとする。過去の間違いを罪と見なす。罪を宗教の教えに沿って、償って勘弁してもらうことに腐心する。このような宗教をイエスも大乗仏教も否定しているのである。

根本は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」である。
これが我、人類、万象の真の姿である。宇宙神の創造による世界、天国である。本心は我即神也として光り輝いている。
だから、何か現象に不完全性があっても、そこに意識を留めない。意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。そして、神人はそのように言霊を発しつづけるならば、そのように大成就する。

人は宇宙神の創造の世界を変えることができないから、罪は起こりようがない。間違いの分析、悔恨には意味がない。目を閉じて光を見失ったのならば、目を開いて光を見ればすむこと。
不調和・不幸が過去の言動、態度、習慣の結果のように見えるかもしれない。そのように自我は責め立てるかも知れない。
しかし、イエスのようにそんなことには眼もくれなくてよい。知るべきこと、意識を集中すべきこと、それは真理である。「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」の真理である。
目を開けて真理をよく見るのである。「神のみわざが現われる」とは真理の顕現・大成就である。
原因の探求ではなく、大成就を求めるのである。それをなすのは神人の言霊である。
大成就!

mixi ピタゴラスさん



肉体は物質で有限で不自由、 意識は無限大で自由自在。
意識が究極の真理と繋がったとき、 その時もう生きるために肉体を維持しようと何も思い煩うことはないはず。すべては完璧に整い、欠けたるものない世界が自分の前に顕れるから。 
だから、もっと勇気を出して信じる 何か現象に不完全性があっても、そこに意識を留めない。意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。
私は完璧、欠けたるものなし を信じる。
大成就。

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by mppoe-light | 2012-08-22 11:06 | ピタゴラスさん啓示録から

私がすべきこと

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宇宙神は神聖そのもの、だから私も神聖そのもの。宇宙神は完璧そのもの、だから私も完璧そのもの。宇宙神は光そのもの、だから私も光そのもの。
 私は宇宙神のように成ろうとしたのではない。宇宙神が私をそのように定めたのだ。
私は神そのものとして生まれたのだ。
今でも、神そのものとしての光が心の奥に輝いている。それが私の本心である。

私と本心は違っているように見える。しかし、それは自我の幻術にすぎない。
私が私と言えるのは本心だけ。本心は光そのもの。本心は真理そのもの。
本心は神の存在そのものなり。

私がすべきことは本心を顕わすことだけ。その他には、なすべきことはない。その他に、天命はない。
私がすべきことは神を顕わすことだけ。その他には、なすべきことはない。その他に、天命はない。

本心が自分であるとわかったならば、もうカルマの返済はしなくてもいい。
有限な借財があろうと、無限なる徳、無限なる神性という財産があるのだから。
有限なものはさておき、無限なるものの宝庫の扉を開ければいい。
そのゴールデンキーも手元にある。ゴールデンキーを使うのに何の遠慮もいらない。
はばかることは一切何もない。

私は完璧 欠けたるものなし 大成就。


***************************************

本心が自分であると知ったならば・・・、

私がすべきことは本心を顕わすことだけ。
私がすべきことは神を顕わすことだけ。
その他には、なすべきことはない。その他に、天命はない。


浄めるのではなく、果因律で本心の私を顕す

今後、神人は「すべては完璧 欠けたるものなし」を受取るだけなのである。
自分の存在そのものが『大成就』に値するのだ。
『大成就』は神の宣言であるから、宇宙神の力がそこに同調するのである。
『大成就』は祈りを積み上げてきた人間の宣言ではない。祈りによって目を覚ました『我即神也』の宣言である。
『大成就』は果因説の宣言なのである。


そして、
私の本心の輝きが、人類一人一人の本心の光明を照らし出す。私の本心の平和が、人類の本心の平和を目覚めさせる。私の本心の平和が地球世界の平和を回復させる。


<ピタゴラスさん 『本心の輝き』、『大成就』 から>


我即神也 人類即神也


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by mppoe-light | 2012-07-29 19:09 | ピタゴラスさん啓示録から