カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 144 )

消えてゆく姿で世界平和の祈り


毎日、世界平和を祈るうえで、大切なのは
消えてゆく姿で 世界平和の祈り  ということ。

  真の祈り

 「00が治りますように。++が無くなりますように。**が起こりませんように。癒されますように」という祈りは本物ではない。そもそも「、、、でありますように。 、、、になりますように」の祈りは数年前から禁止されている。
一度は現象を認めて「消えてゆく姿」を実行するものの、次の瞬間には「消えてゆく姿」に意識を注いではいけないのである。
瞬々、意識がどちらを向いているのか、自分で責任を持って選択するしかないのである。
 

 『苦境そのものに心を向けないで、人間本来神の子であるという神そのものの姿に心を向け、今まで見失っていた、未だ現われていなかった本来の神の子の姿を、光り輝く完全円満なる姿を呼び起こし、目覚めさすために祈りを捧げればよいのである。』

 消えてゆく姿の段階では、不完全な現象を仮に認める。しかし、祈りの段階では、不完全な現象は認めない。つまり、祈りの段階では、「すべては完璧 欠けたるものなし」の世界に飛び込むのである。
「飛び込む」とは肉体頭脳で考えないということである。それは四次元的アプローチなのである。

また、現象だけではなく因縁因果も同様である。消えてゆく姿の段階では、因縁因果も仮に認める。
しかし、祈りの段階では、因縁因果は認めない。そこでは、果因説の世界に飛び込んでゆく。
この切り替えを意識的にしているか否かが大きなポイントである。
何故なら、因縁因果説の中に留まったまま祈る人は少なくないからである。
 
 「因縁因果はない。輪廻転生はない」というのが究極の真理である。
現象の処理、解決、罪の赦しを神に祈るのではない。現象を超えた『神そのものの姿、光り輝く完全円満なる姿』は厳然と成就しているのである。暗雲の背後に隠れた太陽のように、『本来の神の子の姿』は存在しているのである。その『神の姿』に思いを馳せ、イメージし、『呼び起こし、目覚めさす』のが祈りである。この真の祈りであれば、必ず祈ったことは現実化するのである。真の祈りは必ず物質化する。
 
 『本来の祈りとは、ポジティブな祈りでなければならない。
   真の祈りとは、神の無限なるものに焦点を合わせるものである。
   真の祈りとは、人間神の子であるという真理に目覚めさせるものである。』

  我々は赦しを乞う以前に赦され、不足したものを希う以前に与えられているのである。その完全性、無限なる神性、神聖なる精神が本来の働きを開始することを祈ればいいのである。
  『完全なる健康体が現われますように。至福や繁栄がもたらされますように』という祈り方もある。「ように」という表現を避けるならば、「完全なる健康体が現われる。至福や繁栄がもたらされる」と祈ればいい。
肝心なことは何度も繰り返し繰り返し唱えることである。

注 『』はすべて(白光1992-11)より引用    


一度は現象を認めて「消えてゆく姿」を実行するものの、次の瞬間には「消えてゆく姿」に意識を注いではいけないのである。
瞬々、意識がどちらを向いているのか、自分で責任を持って選択するしかないのである。

消えてゆく姿の段階では、因縁因果も仮に認める。
しかし、祈りの段階では、因縁因果は認めない。そこでは、果因説の世界に飛び込んでゆく。
この切り替えを意識的にしているか否かが大きなポイントである。
何故なら、因縁因果説の中に留まったまま祈る人は少なくないからである。



自分の中の、本心と業想念とは別もの・・・と、知識ではなく心の中から認識していれば、

<・意識がどちらに向いているか、 ・意識的に切り替えをしているか・・・>
このことは神性顕現には重要な事であって・・・、
とはいっても、、、現実生活の中でこのことを日々繰り返すことは難しいことだけれど、
それでもそれを続けて行かなければならない・・・・
ということを実感してもらえるはず。

    
因縁因果説の中に留まったまま祈る人は少なくないからである。

私もそう思います。
自分は“我即神也”であると、自分の神性をつかむことは、そう容易なことではないと思います。 (そのために様々な行、神行を繰り返していますが)

我即神也、人類即神也 の宣言の言葉を、自分の中からの言葉として、つまり神性の私の言霊として宣言できるようになるまでに、私は何年もかかりました。
(※2012年12月の中ごろ・・・呼吸法の印を組んだあとで、ふいに
「自分は我即神也でいいのだ、そうなんだ」・・・と納得しました。 
それ以来、宣言文を読むのが好きになりました。)

消えてゆく姿は、実行すればするほど、その深さを感じます。
私も、ずいぶん消えてゆく姿が実行きるようになったな~・・・と、ちょっと満足したとたん、
“消えてゆく姿で世界平和の祈り”の教えが さらにもっともっと深いことを思い知らされたりしました。


肝心なことは何度も繰り返し繰り返し唱えること

以前、mixiでピタゴラスさんが紹介して下さった昌美先生の法話の言葉や、
ピタゴラスさん自身が薦めて下さった神語など4~5種類を、今でもほぼ毎日唱えています。(もう5年以上やってるかな) どれも私にとっては大切な言霊です。
もちろん、我即神也の宣言文、祈り、印、も実行しています。
それらの行が、心底自分の言葉、自分の行為になるように、
意識して行っているところです。 (たまに脱線?するけど、、、がんばりま~す(^_^;)

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by mppoe-light | 2014-12-12 15:04 | ピタゴラスさん啓示録から

神意識は、いつも『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の世界を見つめる


権利

『喜びとは、勝ちとらなければならないものと思っているけれども、実際は全くそうではなくて、この世に生まれ落ちた瞬間から、生まれた時の権利として本来持ちあわせているものなのである。』(90-11)

『無限なる歓喜、繁栄、幸福、調和の心は、人類一人一人の心の中に生まれながらにして既に授かっているのである。』(92-02)

『あなたの過去の出来事一切をあなた自身が赦してよいのです。
人間は本来いかなる罪をも赦す権利があるのです。罪を赦すのは神ではありません。』(94-10)

『それ(すべてのもの)に対して自分の価値判断を一切加えないことです。
その存在に対して何故に我々が価値判断を下す権利があるというのでしょう。』(96-03)

権利について取り上げる。人は宇宙神の子として、完全完璧である
。人は被造物ではないから、自由意志を持つ。そして、人は現象世界の創造について全責任を負う。
ただし、個々人の完全完璧性、神性については宇宙神が全責任を負う。
人は自己の神性を否定する自由はある。
しかし、その神性を損なうことはできない。

 諸々の宗教観念の中では、宇宙神が認める真の権利について語られることは少なく。むしろ否定されることが多かった。
そのため、自己の正当な権利を主張することは悟りに匹敵すると言っても過言ではない。
余程、「我即神也」の真理が分かっていないと、権利の主張はしづらいものである。
神性が自己のものであり、自由に発揮していいものであると簡単には思いづらいものである。
しかし、この問題は放置してはいけない。権利の主張をする訓練を怠ってはならない。

 「自己を赦す権利」も大きなテーマである。因果応報の苦しみによって赦されるのではない。神に赦しを乞うのではない。自分が自分を赦せばいいだけである。
神仏や良心が自分を責めていたわけではない。ただ単に、自我が自己を憎んでいただけである。
人は初めから神そのものだった。それを忘れていただけである。
今から直ぐに、因縁因果の人生を止めて、神性顕現の人生を選ぶ権利。
それは万人に与えられている。明瞭な真理である。しかし、意識を心底から納得させるには訓練を要する。

 人には宇宙神の子としてのあらゆる権利が与えられている。だが、他人の自由意思に介入する権利はなく、一切を評価する権利もない。『すべては“神”の働きです』(96-03)から、『“我即神也”“人即神也”“物即神也”“生きとし生けるものすべて即神也”』(96-03)と真の評価をする訓練が要る。

 自我意識は主張すべき権利を遠慮して主張せず、謙虚を装ってきた。そして、権利もないにもかかわらず自他を批判、非難し、評価しつづけてきた。
神意識は、いつも『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の世界を見つめ、その世界を現象界に顕すよう祈りつづける。

<ピタゴラスさん>





意識を心底から納得させるには訓練を要する。



一度、真理を理解した気分になっていても、意識は心底納得しておらず、
そのため思考は元の因果説に戻ってしまいます。
だから繰り返さなければならない。 訓練が必要。

毎日、繰り返します。祈り、印、そして宣言(そして神語)
それをこつこつ積み重ねる そして意識の階段を一段、二段と登る。 
登ればそれだけ大きな広い世界に住むことができる。 意識の世界とは不思議だなぁと思う。



「自己を赦す権利」も大きなテーマである。因果応報の苦しみによって赦されるのではない。
神に赦しを乞うのではない。自分が自分を赦せばいいだけである。

自分を自分が赦す ということの難しさ。(@_@;)))
頭では解っていても、解ったつもりでもいても、!
自分の心は赦してはいない。 自分の心って手強い(笑)(^_^;)

何か大いなる存在が 「すべてを赦す!」 と言ってくれた方が どんなに楽なことか。。。 
でも、
私は本来神なのだから、仮に自分以外の誰か(神)が 「赦す」 と言ってくれても、
到底納得はできないはず。
私たちは一人一人が宇宙神の子だから。気高く、崇高な存在だから。

自分が自分を赦さない限り前に進めないし自分が自分の神性を認めない限り前に進めない
と思います。
真理への扉は自分の中にあって、鍵を握るのは「私」


神意識は、いつも『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の世界を見つめ、その世界を現象界に顕すよう祈りつづける。

こんな素晴らしい神意識が私の中にある。 嬉しい!
神意識は常に私の中にあるのだから、 だから今の私も同じように出来るはず。
すべては完璧、欠けたるもののない世界を見つめ、それを顕すように祈ればいい。  

私が私で良かった。 おめでとうー私! 私って素晴らしい人なんだ! (●^o^●)



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by mppoe-light | 2014-08-09 21:27 | ピタゴラスさん啓示録から

『個に徹する』 こと

自由意思に基づく権利

『人間はどんな状況にあっても必ず自分の自由意思を尊重し、駆使してゆくものである。それこそ神が我々人間に与えられた自由という特権なのである。
すべての人類に当てはまる唯一の真実は、人の運命はあくまでもその人自身の自由意思
の結果であるということである。』(93-06)

『人を変えることなど神様さえできない。何故ならば、皆人は自由意思に基づいて生きる権利があるからである。』(91-07)

『あくまでも人類一人一人の自由意思は尊重されます。個人の自由意思の決定に関しては、神々様さえも何ら一切関知しません。』(99-01)


 自由と責任、権利と義務、、、これらは単に法律的な問題ではない。
人間の本質に係わる問題である。人間とは何かに係わる問題である。
『自己認識に欠けたる結果』(98-04)が世の苦悩を産み、「正しい自己認識の結果」は神性顕現となる。
つまり、自己認識こそがカルマと悟りの分岐点であり、人生のすべてを決めているのである。
まさに、この自己認識の領域に人間の自由意思の領域がある。
そして、神でさえも介入できない人間が持つ尊厳の領域がある。


 『皆、本来の自分というものを錯覚しているのです』(99-04)。

 本来の自分というものがわからなければ、自分の自由と責任、権利と義務について正しく選択できない。
その錯覚に基づいたこれら四項目についての思い込みが、人生を混乱に導いてしまう。
『我即神也』と究極の真理を説かれても、人類は非真理に基づく固定観念に縛られている。
ならば、『我即神也』に基づく生き方を多方面から説き明かし、思い違いを少しずつ修正する必要がある。
そのため、この四項目については何度も何度も解説が繰り返されるのである。

 人は皆、本質において、実在において神そのものである。その神性は損なわれることなく、減少することもない。
ところが、人は自己認識において、自分を神と正視することもできるし、自分をカルマの人間と錯視することもできる。
これは自由意思の領域であって、宇宙神でさえも介入できない。神々も、覚者も、神人も介入できない。むしろ、他者の選択に対して『一切関知せず』という態度を取ることこそが宇宙の法則に適うことである。
『一切関知せず』とは『批判、非難、評価を下さない』ということである。
ただ『人類即神也』と人類の真の姿を正視するのみ。
人類一人一人を神として尊重するのみ。人類一人一人を神として愛するのみ。
それが、光となって、人類の目覚めを促す唯一の道である。

 この自由には当然ながら責任が付き纏う。組織に帰属することではなく、個に徹することが要求される。
他の判断ではなく、自己の判断が問われる。他に権能を委ねることではなく、自己責任が問われる。自由意志には厳しさが伴なうものである。

<ピタゴラスさん>



自己認識こそがカルマと悟りの分岐点であり、人生のすべてを決めているのである。まさに、この自己認識の領域に人間の自由意思の領域がある。そして、神でさえも介入できない人間が持つ尊厳の領域がある。

これこそ究極の真理っ☆ そう思いました。
神でさえも介入できない私たちが持つ尊厳性。  本来、私達一人一人は気高く崇高な存在なのだから。
けれど、

この自由には当然ながら責任が付き纏う。組織に帰属することではなく、個に徹することが要求される。他の判断ではなく、自己の判断が問われる。他に権能を委ねることではなく、自己責任が問われる。自由意志には厳しさが伴なうものである。

組織に帰属することではなく、個に徹すること。他の判断ではなく、自己判断。
「個に徹する」・・・・ この言葉に、共感と同時に深さ、重さを感じました。
とても大きく深い真理・・・☆ 

”個に徹する”こととは、自分を信じること。自分の本来の姿、神性を信じること。すべては完璧、欠けたるものなしを信じること。
どこまで信じられるか。信じる深さで、選択が変わり、人生が神性顕現へと変わり、世界が変わる・・・
そう思いました。

世界人類が平和でありますように 人類即神也



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by mppoe-light | 2014-08-04 19:12 | ピタゴラスさん啓示録から

「祈るとき意識がどこを向いていればいいのか?」

祈るとき、意識がどこを向いていればいいのか?

 
自我は自己の本来の姿を認めない。
五感で知覚できない存在を認めない。自己の神性を認めない。自分は不完全で汚れたものと知覚する。
世界人類についても同じである。
世界は汚れ、不安定なものとして知覚する。人類も汚れて争い、苦しむものとして知覚する。世界にも人類も神性は認められない。

かつては自分を浄め、世界人類を浄めることが重要であった。自分が苦しい。あの人が大変だ。あの国と国が争っている、、、。眼前の状況から抜け出すことが第一であった。眼前の状況を改善することが求められた。
現象世界において、現在の姿とは夜空の星を見るが如し。
現在の姿とは『今』の姿ではない。それは一部には3万年前の姿であり、一部には10万年前の姿である。
そこに光を送ることは究極の祈りではない。つまり、困った自分、争う国々、災害に苦しむ人々の現象に向けた祈りは真理の祈りではない。


『今自分に生じている不幸や困難に対して、100パーセントの意識を集中し、その解決に向け奔走するのを一旦止めるのである。
 人間本来の姿、我即神也、人類即神也の究極なる真理を想い起こし、心に焼き付けるのである。』(2001-11)

 我々が祈るとき意識がどこを向いていればいいのか?
苦悩する自分や人類ではない。
状況とは関係なく、自分の神性、人類の神性に意識を向け、神性を認め、心に焼きつくほど神性をイメージし、その真の姿を語るのである。
 個人人類同時成道という通り、自己の願望成就、神性顕現も世界平和も同じ果因説の術を駆使して成就するのである。

 
<ピタゴラスさん 真理の祈り から>

人間は本来、神の分御霊。生命は永遠で無限。 パーフェクトな存在。
現象の消えてゆく姿を解決して平和、幸せになるのではなく、まったく新しいもの、すべては完璧なものを顕す。果因説で顕れる。なぜなら 人間は本来 神だから。それは認めることで顕れる。

日々の意識がどこに向いているのか、
困難な物事をどう見て、どうのように受け取っているか・・・が大切なのだと思います。


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by mppoe-light | 2014-08-04 11:13 | ピタゴラスさん啓示録から

「真理は確立され、こちらに向かってきている」

 自分が自分自身を汚れていると認識すれば、カルマを体験する。
自分が神であり、宇宙神と根源でつながっていると認識すれば、途方もない贈り物を体験する。
宇宙神と自分は厳然とつながっているのだけれども、それを認識しなければ贈り物は顕われない。
その事実を思ってみなければ、贈り物は顕われない。


「我即神也」を 
認識しなければ贈り物は顕われない。


すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 
その事実を思ってみなければ、贈り物は顕われない。



 世界平和、神我一体、自他一体という真理は永遠であり、時空を超えている。
真理は時空を超えているだけではない。真理はまっしぐらに、今の自分に突進して来ているのである。
それをきちんと受け止めましょうというのが、『み心の天になる如く、地にも為さしめ給え』という祈りである。


”真理はまっしぐらに、今の自分に突進して来ているのである。”
そう思います。 今、この瞬間、即、私には(人類には) 真理が降り注がれている。
真理に貫かれている。
そのことを、一切の疑いも持たず認めるとき、 我即神也  神性がそのまま顕れる。
が・・・、
疑いの想いが真理の顕現を遮る。。。(T_T)ううぅ。。。

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 無力なる人類に共感している場合ではない。汚れを償うために犠牲と痛みを捧げている場合ではない。
共感も犠牲も痛みの受容も自我の主張に過ぎない。
共感するならば真理に共感するのである。痛みを捧げるのではなく、無限なる恵みに感謝を捧げるのである。子供の悪夢の痛みに寄り添う親はなく、悪夢を贖うために犠牲を捧げる親もいない。悪夢を払うのは目覚めしかない。目覚めとは、『我即神也』という真理に目覚めることである。

人類の消えてゆく姿(無力な人類、汚れ)や、現象に共感している場合ではない。( 厳しいと思われるけど。。。)  消えてゆく姿を改革して世界が平和になるのではない。  
世界平和は目覚めしかない。 
目覚めるとは、「我即神也」 ということ。

真理は確立され、こちらに向かって来ている。その真理と同調するのが祈りである。
真理に目覚め、同調するとき、真理は現実世界に顕現する。目覚めた人は真理を体験する。
この地において、天(宇宙神)のみ心を体現するのである。それは奇跡であり、大成就であり、天命である。
奇跡とは宇宙神の愛の拡張をブロックしている自我の思い込みを解除することである。自我の思い込みの解除に必要なのは、祈りと印である。

『私は宇宙神の根源につながった神である』(言霊)

参照:『宇宙神の根源に汝らは直結した』(2014/01/12新年祝賀祭

ピタゴラスさん 『私は宇宙神の根源につながった神である』  から

*****************************************

”真理は確立され、こちらに向かって来ている。”

”究極の真理” は、確立され常に私に流れ来ている  
我即神也、を認め
私は常に すべては完璧、欠けたるものなし、大成就  
それを信じ、同調する、受け止める。自分のものにする。

と思います。

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by mppoe-light | 2014-05-10 19:47 | ピタゴラスさん啓示録から

我即神也と成就

外の世界に私なく、私の外に神はいない。
神は私の内に在り。外の世界が存在する基盤を与えたのは『私』であり、それは私を通して働いた神である。

今、私は私自身を現象の世界に探さない。今、私は私自身を想いの世界に探さない。現象の世界も想いの世界も、すべて赦されて消えていったのだから。

 私は『私』。『私』は外の世界にいない。『私』は宇宙神の心のままに外の世界を創る者。『私』は外の世界にいないから、『私』に過去はない。
『私』にあるのは、宇宙神から贈られた神性のすべて。だから、「我即神也」。


<ピタゴラスさん “だから、「我即神也」” から>

********************************


始まり~終わり 過去⇒未来・・・などなど、直線的な思考にとっては不可解? な内容かも。
でも、繰り返し読んでいると、意識が展開する不思議な“環”の世界が感じられて、私は好きです。

外の世界が存在する基盤を与えたのは『私』であり、それは私を通して働いた神である。
いいなぁ~。(●^o^●)わくわく・・・♪ 



1秒前の凡夫の姿も、1秒の「消えてゆく姿」で無である。それが無ならば、あるものはすべての神性だけ。だから、「我即神也」。

失敗して「消えてゆく姿」を行じたならば、次にできるか否かは考えなくてもいい。繰り返して失敗してもいい。状況がどうであれ、私は『私』。『私』は神。神は私。だから、「我即神也」。

神の姿を顕せなくても、私は『私』。『私』は神。神は私。だから、「我即神也」。
神の姿を顕せなくても、「我即神也」を宣言するからこそ、神性が顕われ始める。だから、「我即神也」を今日も宣言しつづける。

神の姿を顕せなくても、大切なことは、私が誰であるのかという問題。現象は二の次。
大切なことは、私が私をどう思っているのか。
私は私を赦して赦して、愛して愛する。私は私を神として愛して、愛する。私は私を生命として称えて称える。私はこの事実を宇宙神に感謝し感謝する。
宇宙神も私を愛して愛して、称えて称えて、感謝し感謝して下さっている。だから、「我即神也」。

<だから、「我即神也」 から>

************************


私は神だから、愛深く、神聖で純粋で、崇高で偉大である。 
と、自分に宣言する時、 同時に この事実を宇宙神に感謝する。
その時、宇宙神も私を愛して愛して、称えて称えて、感謝し感謝して下さっている。だから、「我即神也」。
素敵だっ!!!

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最近、気になっているの言葉があります。 まず、一つは指針で指導された「感謝」
そして、昌美先生が繰り返し説かれ、私たちに体験を促している「成就」。

今回の “だから、「我即神也」 を読んで、
「成就」については、どうとらえたらいいのか、ピタゴラスさんに直接質問しました。
そのお返事がこちら。↓

神人が調った美しい姿を見せることで、人類の目覚めが始まると言われています。
人間の姿と神の姿を繋ぐものはなにか。
難行苦行に非ず。進化にあらず。
先ずは
自己意識にあり、です。
我即神也です。
これを力強く宣言できればできるほど、神性顕現が始まる。
それを見た人類の目覚めも始まる。

何か特別なことをしないと、我即神也と宣言できないと考えるのは人間の世界の考え方です。神の世界に入れない。

順序を間違えるとうまく行かない。
先ず第一に我即神也を宣言することからすべてが始まる。
成就もそこから始まる。

成就ができてから、我即神也では成就しない。
我即神也が成就をもたらす。

************************************


これを読んで、すっきりっ。 納得できました。 v(^-^)v 
余計な言葉、余分な説明なく、簡潔で解りやすい。 
たくさんの人に読んでもらいたいなーと思いました。


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by mppoe-light | 2014-04-10 22:05 | ピタゴラスさん啓示録から

果因説は発想が逆

認識が先が、現象が先か  それが問題。


  
見た目ではそうではなく、因果説から見てもそうではない。
理性も常識もそうではないと主張する。

しかし、事実はそうである。

それはもう成就しているのである。

事実を受け入れないからこそ、見た目はそうではない。

事実を受け入れ始めると、見た目も事実その通りになってくる。




これが『即』で現わされる真理の意味であり、真理の祈りであり真の言霊の神髄である。
また、この理が量子力学的とも言われるところである。色即是空 空即是色 我即神也 人類即神也 世界人類即平和也 日本即平和也 私達の天命即大成就也 地球世界即安寧也 大宇宙即大調和也、、、すべて真理そのものであり、この理に則っている。 
 

『即』の真理の中心が『我即神也』である。

『もし、人々が自分自身の姿を完全で調和したもの(人間即神の子)として認識できたならば、どうして不完全な状態が現われてくることがあろうか』(93-03)。

常識や因果説では、「自分には不完全な想いがあるから、自分は神とは言えない」と思ってしまう。
しかし、
果因説では発想が逆なのである。

「我即神也」と認識していないから、不完全な状態が現われていると考えるのが果因説なのである。
認識が先か、現象が先か。それが問題なのである。

理性も常識も、必ず現象が先にあって、それに反応するように認識を成立させているのである。
それとは逆に、果因説では、必ず認識が先にある。その認識は、存在の前提であるから、現象とは関係ない。
 

「わたしには不完全なところが残っているから、私は神とは言えない」という自我想念、三次元的思考、常識的固定観念のことである。
そのような理性的価値判断とは異なった次元で、『私』は神であり、世界人類は平和であり、地球世界は安寧なのである。



『私』は自我の価値判断では不完全ですが、そのような評価に関係なく、自分自身が神であることを認めます。
宇宙神がそのように『私』を定められたのでした。宇宙神にとって『私』は分身であり、宇宙神の御徳のすべてが『私』に備わっています。
『私』は宇宙神の血筋を引いた存在です。
宇宙神は『私』に抱え切れないほどの贈り物を用意してくださいました。
『私』に途方もないご褒美を整えて下さいました。『私』はそれを受け取ります。
宇宙神様有難うございます。   <ピタゴラスさん  『即』の理  から>

*****************************

因縁因果の思考のままでは果因説は成り立たない。   果因説は因縁因果を超えたもの、 それは我即神也 ということ。
私たちは本来神であり、 無限なるものすべてを内在している完璧、欠けたるものない存在。 

 因果説の思考のままで、目に見える現実や現象をもとに自分を理解し、自己改革しようとしても難しい。
そのままでは果因説も理解できないのでは・・・と思います。  果因説は因果の現象世界を超えてるから。

現象界に生きる私たちにとっては、
果因説は、我即神也があるから成り立ち、 我即神也は 消えてゆく姿=色即是空 があるから成り立つ。
今、自己認識を 「我神に非ず」 から「我即神也」 へ上昇させることが どれほど重要かを・・・ 多くの人に分かってもらいたいな・・・と思います。

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by mppoe-light | 2014-02-19 19:21 | ピタゴラスさん啓示録から

祈るとき、意識は神性へ☆

祈ることは、本来の「私」に戻ること。 本来の「私」を顕すこと、顕れている状態。
“祈り”は救ってもらうためのものではなく、カルマを浄めるためにあるのではなく、
本体と現象界の私とが真っ直ぐに繋がるもの。 本体を現象界で活動させること。
本体と繋がる時、小さな自我の“私”はいない。
繋がる時、 過去はなく、あるのは“今”だけ。 
祈りを通して、神の無限なるものが流れ出す。
これから徐々に改善される・・・のではなく、神性はいつも常に完璧、大調和している。
“祈り”は、因果の法則を超えて、神の法則に入ること。 
 

複雑なことは判らなくても、誰でも、簡単に取り組める、世界平和の祈り。
始めは何も解らなくても、祈れば神さまの働きをしていることと同じ。
世界平和の祈り 素晴らしいな・・・と思う。 

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” によって、意識はカルマから離れ、神性の方向へ。

『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。



自分が自分と向き合うところ②

 自分が自分と向き合うところ。そこは自己意識の場である。そこに原因のすべてがある。
人間存在の原点があり、カルマの出発点がある。カルマの終わるところであり、神性復活が始まるところである。
問題が起こったのはここである。だから、問題の解決はここでなされるべきである。現象界での弁済、積徳をもって解決がなされるのではない。

 この究極の場に、究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。
「我即神也」は青空の如く、元々あるものである。「我即不完全也」は雲の如く、刹那的に現われていたものである。
 この究極の場に究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。現象界はその二つのいずれをも映し出すことが出来る。
「我即神也」を映し出せば、天国、完全平和の世界。「我即不完全也」を映し出せば、苦悩を伴なう世界。

 自分が自分と向き合うところ。それは鏡と同じである。曇りなく天の理を映し出せば、「我即神也」が輝いて、現象世界に神の国を映し出してゆく。そうなれば、今まで映っていた苦悩の姿は自然消滅するしかない。現象世界は自我の想像の産物なのだから、罪も汚れもない。苦悩を伴なった現象世界の闇は、光が差せば消えるだけである。

 「我即神也」が宣言されるとき、すべては赦されている。すべては完全、完璧、大成就であり、すべての神性が与えられている。内に包まれていた神性は、開かれ、形となって輝き始める。

『本来の自分(真我)は“宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものである”と断言』
(00-09)
してゆけばいいのである。

そうすれば、

『自分が生かされていることに気づき、自分の生命の尊さ(我即神也)を心から理解できた時、地球上から天変地変や環境汚染、飢餓、病気などは消滅してしまうのである』(00-09)。

『人類すべての人々を人類即神也と受け止めることが出来た時、もはや自分の過去の一切の因縁は消滅したのである』(01-08)。

それだけでなく、

『神の神々しい光の流れが辺りを覆い尽くすのである』(00-09)。

 ここで再度強調しておくべきところは、「我即神也」の真理が受け止められ宣言されるところ、カルマは消滅してしまうということである。光と闇は同じところに存在することはできない。

 天の岩戸開きの神話はこの自己意識の場で起こったこと、これから起こることなのである。天照大神が鏡に写った自分の姿を見て、岩戸から出るのは、この自己意識による自己変革の預言なのある。これから、すべての人類に起こることである。

 この変革を先取りしていたのが『世界平和の祈り』なのである。

 『世界平和の祈りこそ、本来の自己を認識し、今までの否定的、習慣的な自己意識を徹底的に覆し、変えてゆく方法なのである。』(01-07)

 『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。
『世界平和の祈り』に天の岩戸開きの原理が込められていたわけである。
 神人たちが神の姿を顕してゆくときは近い。 
 
mixi ピタゴラスさん



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by mppoe-light | 2013-10-13 23:31 | ピタゴラスさん啓示録から

毎日の積み重ねが大切・・・なのだ☆

                            やっぱり焼きいもだよね・・・
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啓示録などを綴じているファイルを久しぶりに開けました。 その時、最初に開いたページ、
面白かった(^-^)

苦悩の中にいる自分を認めてはならない。苦悩の分析は要らない。対策も要らない。
苦悩の時が、「消えてゆく姿」を行ずる時である。
苦悩の時が、果因説に入る時である。
果因説に入るとは『我即神也』という真理に入ることである。

苦悩を消すために祈るのではない。苦悩を消すことによって、天命が完うするのではない。天命を完うしようとしていれば、苦悩は消えてしまっているのである。


苦悩の中に入ってしまった時、意識を真理へ転換し(消えてゆく姿で世界平和の祈りor我即神也) 早く切り替えるのためにも、日々の祈りや宣言、印の積み重ねが大切・・・。
もっと光の側の「私」の存在を、自分の中で大きく広げていきたいです。
やっぱり毎日の積み重ねって大切。


我即完璧神也、人類即完璧神也

 「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」と唱えることが習慣になってきた。しかし、苦悩することがつづいた時、私は無意識に「自分に何が欠けているのだろうか」と思っていた。
「自分は確かに何かが欠けている。だから、こんなことになったのだ」
 このような声は、本心の声とは全く異なる。このような声は、因縁因果の中にいる自我の声である。
 自分は 『欠けたるもの、不調和なるもの、非真理なるものに同一化することによって初めて、その現象が現れてくる』(2003-09) のである。

苦悩の中にいる自分を認めてはならない。苦悩の分析は要らない。対策も要らない。
苦悩の時が、「消えてゆく姿」を行ずる時である。
苦悩の時が、果因説に入る時である。
果因説に入るとは『我即神也』という真理に入ることである。
それは、苦悩と苦悩を感じる自分、苦悩の原因を創った自分がいる世界を離れ、全くの別世界に入ることである。
その別世界は、宇宙神が創造された世界である。
それは既に成就している神界である。
それは既に、我々に与えられ、我々が相続した世界である。

我即完璧神也。私は至福の神である。私は健康の神である。豊かさ、繁栄、成功の神である。私は愛の神である。赦し、癒し、歓び、感謝、光の神である

『神人は、神そのものと同一化しようとするからこそ、神人として光り輝き、すべてが充足されてゆくのである。』(2003-09)
 
 相続していないものを与えることはできない。
私にはすべての神性が完璧に与えられている。
すべての神性は本心という宝庫に蓄えられている。
私はすべての神性を人類に与えることができる。私が与えるものは宝庫の中で増大する。

私の本心はすべての神性が溢れ出るところである。本心が癒せないものはない。本心が満たせない物もない。本心はすべての人類を祝福する。そして、本心は人類にすべての光を送る。本心の光は人類の神性を照らし出す光である。人類即完璧神也

『神人は、宇宙究極の真理を、無限なる愛の光をすべての魂に分かち与えるために存在しているのである。』(2003-03)

「自分に何が欠けているのだろうか」などと考えている場合ではない。「我即神也」に意識を集中し、「人類即神也」のために自分の本心を輝かせるという天命があるではないか。
苦悩を消すために祈るのではない。苦悩を消すことによって、天命が完うするのではない。天命を完うしようとしていれば、苦悩は消えてしまっているのである。

mixi ピタゴラスさんの


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by mppoe-light | 2013-09-09 17:54 | ピタゴラスさん啓示録から

私たちのミッション☆

■宇宙神は、いかなる人にもその人にとって必要なものを惜しみなく与えつづけている。しかし、受け取るべき人自身がシャットアウトしてしまう。 <9月指針>

なぜ受け取るべき人の側がシャットアウトしているのか、、、それは、自己認識が間違っているから。 
自分自身は、無力な肉体人間だ・・・というと誤解、錯覚したままの自己認識を持ちづつけているから。

本来の自己認識は、もちろん 我即神也  
そして 
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就


■心が物質のみに執着すると、すべての精神の気の流れが滞ってしまう。<9月指針>

物質というと、形のある物に執着する・・・と思いがちだけど、 (もちろんそれはそうなのだけど・・・)
形ある物以外に、外側のさまざまな現象、環境、体験も形の世界の創造物。
自分の中から湧き出た感情だって、執着すれば気の流れが滞る。。。 ううぅ・・・。



自己価値観を大きく変えてゆくというミッションがあるのです。

自分の意識が高まれば高まるほど、意識が光明思想になるのです。
いつも微笑みを放つようになるのです。


 
神性顕現の生きた証人となり、自らの体験を通して人類に神性復活を蘇らせてゆく大天命を遂行してゆくのである。

神人たちが果たしてゆく天命とは、欠けたるものなしの状態を創り上げ、過去の因縁因果から解放され、果因説による素晴らしいもの、幸せなるもの、豊かなるものを自らの現象面に引きつけ、実証させてゆくことにあるからである。

さらに新たに神性に目覚めた人々が次々と自分の神縁深き人々に語り継ぐことによって、
世界中至るところに神性復活の潮流が生まれ、広がってゆく。

9月号昌美先生のお話


私の私たちの、大天命。  神性復活=我即神也

天命を果たすために、 これからも自分を赦し、愛し、自己価値観を上げていかなければ・・・と思いました。


で、 久しぶりにピタゴラスさんの日記から☆ ↓

いきなり「空」・・・カタイ! でも面白かった(*^_^*)

「空」と言われると、多くの人が難しくて、カタイ話だ・・・と思い、気持ちが引いてしまうかな・・・
私なんかは、読んでスッキリしたのだけど、(究極の真理について、ここまでスパッと言い切ってもらえると、助かるのだ。(*^_^*))

カタイけど・・・
本心と業想念をきっちり分けたつもりで読むと、判り易いし、心に響くと思う・・・。
知識、観念とは違う感覚で読んでもらえたら、嬉しい☆

空と「我即神也」2

 空とは無限なる叡智の教えである(「般若波羅密多」は完成された叡智を意味する)。
空とは無限なる叡智へ向かう教えである。
空とは無限なる叡智を顕わす教えである。無限なる叡智は神性を集約したものである。
神性とは自分自身でもある。
自分自身とは神なる自分である。
空とは神性の教えであり、神性に向かい、神性を顕現する教えである。

『過去はない』。外なる世界、現象界はすべて顕われた瞬間に終了し、赦され、消えている。しかしながら、それを「在る」と想い込むならば、自分は罪人であり、肉体人間、あるいは輪廻する人間である。
外なる世界もなく、それを「在る」という思い込みもなければ、真に在るものだけが在る。真に在るものとは神性だけである。自分も神性だけであり、「我即神也」である。

『私』という存在のアイデンティティを外なる世界に求めるならば、無知である。
無知からカルマが生じる。
『私』という存在のアイデンティティを、あるがままに神であると認めるならば、悟りである。
空とは自己認識のシフトである。
空とは「余計な思い込みをなくしなさい」ということである。
余計な思い込みがなくなると、元々あった「真に在るもの」が自ずと溢れ出てくる。
空が指し示すのはその溢れ出てくるもの、つまり「我即神也 人類即神也」である。
「我即神也」とは、自分自身を神と認め、尊敬し愛し崇拝することでもある。

『私』についての認識が変われば、すべてが変わる。
『私』についての認識が変われば、将来設計も変わる。
輪廻する人々は、必ず過去と恐怖に基づいて将来を設計する。将来設計とは想像力である。神たる『私』はどう在るべきか。何ができるか。
それを自由に想像するのである。
想像できうる「神としての在るべき姿」を言葉で言ってみる。その宣言を『祈り』と言う。真の祈りはたちまち、神の創造力=言霊によって現実化する。

物質には我々の運命を決める力はない。逆に、『私』についての自己認識が、すべての幸不幸の原因なのである。
空は『私』についての意識を変革する。空は物質を認めない。空は物質の力を認めない。空は現象界を認めない。空は想念を認めない。空は過去を認めない。
空ならば、『私』が物質的状況に左右されることはない。影響されることは一切何もない。

『私』は物質的状況について何ら評価を下さない。『私』こそが状況を創り出す主体だからである。過去は『私』がかつて創ったもの。過去はない。
輪廻する人々は過去に基づき未来を創ろうとする。そうではない、未来は『神なる私』が自己の神性に基づき『自由にかつ自己の責任で』創るものである。

空とは聖人の境地ではない。空とは法則である。同次元の法則は「我即神也 人類即神也 世界人類即平和也」である。誰も法則に変化を加えることは出来ない。しかし、その法則をベースに自分の思い込みを写し出して、歪んだ現象を体験することは可能なのである。

苦悩、争い、災害、汚染、、、すべて歪んだ現象である。しかし、世界が平和であること、各人が神であること、地球世界が輝いていることは何ら変化を被ってはいない。
果因説は歪んだ現象はさておき、完成された世界へ飛翔してゆく道である。


この最後の言葉がいいな~☆(*^_^*) わくわく♪
果因説は歪んだ現象はさておき、完成された世界へ飛翔してゆく道である。

うんうん、果因説は即、完成している のだ、今の制度、仕組みが徐々に良くなる・・・のではないのだ。
 そのために、
我即神也=人類即神也!



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by mppoe-light | 2013-09-06 17:18 | ピタゴラスさん啓示録から