カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 140 )

「真理は確立され、こちらに向かってきている」

 自分が自分自身を汚れていると認識すれば、カルマを体験する。
自分が神であり、宇宙神と根源でつながっていると認識すれば、途方もない贈り物を体験する。
宇宙神と自分は厳然とつながっているのだけれども、それを認識しなければ贈り物は顕われない。
その事実を思ってみなければ、贈り物は顕われない。


「我即神也」を 
認識しなければ贈り物は顕われない。


すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 
その事実を思ってみなければ、贈り物は顕われない。



 世界平和、神我一体、自他一体という真理は永遠であり、時空を超えている。
真理は時空を超えているだけではない。真理はまっしぐらに、今の自分に突進して来ているのである。
それをきちんと受け止めましょうというのが、『み心の天になる如く、地にも為さしめ給え』という祈りである。


”真理はまっしぐらに、今の自分に突進して来ているのである。”
そう思います。 今、この瞬間、即、私には(人類には) 真理が降り注がれている。
真理に貫かれている。
そのことを、一切の疑いも持たず認めるとき、 我即神也  神性がそのまま顕れる。
が・・・、
疑いの想いが真理の顕現を遮る。。。(T_T)ううぅ。。。

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 無力なる人類に共感している場合ではない。汚れを償うために犠牲と痛みを捧げている場合ではない。
共感も犠牲も痛みの受容も自我の主張に過ぎない。
共感するならば真理に共感するのである。痛みを捧げるのではなく、無限なる恵みに感謝を捧げるのである。子供の悪夢の痛みに寄り添う親はなく、悪夢を贖うために犠牲を捧げる親もいない。悪夢を払うのは目覚めしかない。目覚めとは、『我即神也』という真理に目覚めることである。

人類の消えてゆく姿(無力な人類、汚れ)や、現象に共感している場合ではない。( 厳しいと思われるけど。。。)  消えてゆく姿を改革して世界が平和になるのではない。  
世界平和は目覚めしかない。 
目覚めるとは、「我即神也」 ということ。

真理は確立され、こちらに向かって来ている。その真理と同調するのが祈りである。
真理に目覚め、同調するとき、真理は現実世界に顕現する。目覚めた人は真理を体験する。
この地において、天(宇宙神)のみ心を体現するのである。それは奇跡であり、大成就であり、天命である。
奇跡とは宇宙神の愛の拡張をブロックしている自我の思い込みを解除することである。自我の思い込みの解除に必要なのは、祈りと印である。

『私は宇宙神の根源につながった神である』(言霊)

参照:『宇宙神の根源に汝らは直結した』(2014/01/12新年祝賀祭

ピタゴラスさん 『私は宇宙神の根源につながった神である』  から

*****************************************

”真理は確立され、こちらに向かって来ている。”

”究極の真理” は、確立され常に私に流れ来ている  
我即神也、を認め
私は常に すべては完璧、欠けたるものなし、大成就  
それを信じ、同調する、受け止める。自分のものにする。

と思います。

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by mppoe-light | 2014-05-10 19:47 | ピタゴラスさん啓示録から

我即神也と成就

外の世界に私なく、私の外に神はいない。
神は私の内に在り。外の世界が存在する基盤を与えたのは『私』であり、それは私を通して働いた神である。

今、私は私自身を現象の世界に探さない。今、私は私自身を想いの世界に探さない。現象の世界も想いの世界も、すべて赦されて消えていったのだから。

 私は『私』。『私』は外の世界にいない。『私』は宇宙神の心のままに外の世界を創る者。『私』は外の世界にいないから、『私』に過去はない。
『私』にあるのは、宇宙神から贈られた神性のすべて。だから、「我即神也」。


<ピタゴラスさん “だから、「我即神也」” から>

********************************


始まり~終わり 過去⇒未来・・・などなど、直線的な思考にとっては不可解? な内容かも。
でも、繰り返し読んでいると、意識が展開する不思議な“環”の世界が感じられて、私は好きです。

外の世界が存在する基盤を与えたのは『私』であり、それは私を通して働いた神である。
いいなぁ~。(●^o^●)わくわく・・・♪ 



1秒前の凡夫の姿も、1秒の「消えてゆく姿」で無である。それが無ならば、あるものはすべての神性だけ。だから、「我即神也」。

失敗して「消えてゆく姿」を行じたならば、次にできるか否かは考えなくてもいい。繰り返して失敗してもいい。状況がどうであれ、私は『私』。『私』は神。神は私。だから、「我即神也」。

神の姿を顕せなくても、私は『私』。『私』は神。神は私。だから、「我即神也」。
神の姿を顕せなくても、「我即神也」を宣言するからこそ、神性が顕われ始める。だから、「我即神也」を今日も宣言しつづける。

神の姿を顕せなくても、大切なことは、私が誰であるのかという問題。現象は二の次。
大切なことは、私が私をどう思っているのか。
私は私を赦して赦して、愛して愛する。私は私を神として愛して、愛する。私は私を生命として称えて称える。私はこの事実を宇宙神に感謝し感謝する。
宇宙神も私を愛して愛して、称えて称えて、感謝し感謝して下さっている。だから、「我即神也」。

<だから、「我即神也」 から>

************************


私は神だから、愛深く、神聖で純粋で、崇高で偉大である。 
と、自分に宣言する時、 同時に この事実を宇宙神に感謝する。
その時、宇宙神も私を愛して愛して、称えて称えて、感謝し感謝して下さっている。だから、「我即神也」。
素敵だっ!!!

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最近、気になっているの言葉があります。 まず、一つは指針で指導された「感謝」
そして、昌美先生が繰り返し説かれ、私たちに体験を促している「成就」。

今回の “だから、「我即神也」 を読んで、
「成就」については、どうとらえたらいいのか、ピタゴラスさんに直接質問しました。
そのお返事がこちら。↓

神人が調った美しい姿を見せることで、人類の目覚めが始まると言われています。
人間の姿と神の姿を繋ぐものはなにか。
難行苦行に非ず。進化にあらず。
先ずは
自己意識にあり、です。
我即神也です。
これを力強く宣言できればできるほど、神性顕現が始まる。
それを見た人類の目覚めも始まる。

何か特別なことをしないと、我即神也と宣言できないと考えるのは人間の世界の考え方です。神の世界に入れない。

順序を間違えるとうまく行かない。
先ず第一に我即神也を宣言することからすべてが始まる。
成就もそこから始まる。

成就ができてから、我即神也では成就しない。
我即神也が成就をもたらす。

************************************


これを読んで、すっきりっ。 納得できました。 v(^-^)v 
余計な言葉、余分な説明なく、簡潔で解りやすい。 
たくさんの人に読んでもらいたいなーと思いました。


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by mppoe-light | 2014-04-10 22:05 | ピタゴラスさん啓示録から

果因説は発想が逆

認識が先が、現象が先か  それが問題。


  
見た目ではそうではなく、因果説から見てもそうではない。
理性も常識もそうではないと主張する。

しかし、事実はそうである。

それはもう成就しているのである。

事実を受け入れないからこそ、見た目はそうではない。

事実を受け入れ始めると、見た目も事実その通りになってくる。




これが『即』で現わされる真理の意味であり、真理の祈りであり真の言霊の神髄である。
また、この理が量子力学的とも言われるところである。色即是空 空即是色 我即神也 人類即神也 世界人類即平和也 日本即平和也 私達の天命即大成就也 地球世界即安寧也 大宇宙即大調和也、、、すべて真理そのものであり、この理に則っている。 
 

『即』の真理の中心が『我即神也』である。

『もし、人々が自分自身の姿を完全で調和したもの(人間即神の子)として認識できたならば、どうして不完全な状態が現われてくることがあろうか』(93-03)。

常識や因果説では、「自分には不完全な想いがあるから、自分は神とは言えない」と思ってしまう。
しかし、
果因説では発想が逆なのである。

「我即神也」と認識していないから、不完全な状態が現われていると考えるのが果因説なのである。
認識が先か、現象が先か。それが問題なのである。

理性も常識も、必ず現象が先にあって、それに反応するように認識を成立させているのである。
それとは逆に、果因説では、必ず認識が先にある。その認識は、存在の前提であるから、現象とは関係ない。
 

「わたしには不完全なところが残っているから、私は神とは言えない」という自我想念、三次元的思考、常識的固定観念のことである。
そのような理性的価値判断とは異なった次元で、『私』は神であり、世界人類は平和であり、地球世界は安寧なのである。



『私』は自我の価値判断では不完全ですが、そのような評価に関係なく、自分自身が神であることを認めます。
宇宙神がそのように『私』を定められたのでした。宇宙神にとって『私』は分身であり、宇宙神の御徳のすべてが『私』に備わっています。
『私』は宇宙神の血筋を引いた存在です。
宇宙神は『私』に抱え切れないほどの贈り物を用意してくださいました。
『私』に途方もないご褒美を整えて下さいました。『私』はそれを受け取ります。
宇宙神様有難うございます。   <ピタゴラスさん  『即』の理  から>

*****************************

因縁因果の思考のままでは果因説は成り立たない。   果因説は因縁因果を超えたもの、 それは我即神也 ということ。
私たちは本来神であり、 無限なるものすべてを内在している完璧、欠けたるものない存在。 

 因果説の思考のままで、目に見える現実や現象をもとに自分を理解し、自己改革しようとしても難しい。
そのままでは果因説も理解できないのでは・・・と思います。  果因説は因果の現象世界を超えてるから。

現象界に生きる私たちにとっては、
果因説は、我即神也があるから成り立ち、 我即神也は 消えてゆく姿=色即是空 があるから成り立つ。
今、自己認識を 「我神に非ず」 から「我即神也」 へ上昇させることが どれほど重要かを・・・ 多くの人に分かってもらいたいな・・・と思います。

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by mppoe-light | 2014-02-19 19:21 | ピタゴラスさん啓示録から

祈るとき、意識は神性へ☆

祈ることは、本来の「私」に戻ること。 本来の「私」を顕すこと、顕れている状態。
“祈り”は救ってもらうためのものではなく、カルマを浄めるためにあるのではなく、
本体と現象界の私とが真っ直ぐに繋がるもの。 本体を現象界で活動させること。
本体と繋がる時、小さな自我の“私”はいない。
繋がる時、 過去はなく、あるのは“今”だけ。 
祈りを通して、神の無限なるものが流れ出す。
これから徐々に改善される・・・のではなく、神性はいつも常に完璧、大調和している。
“祈り”は、因果の法則を超えて、神の法則に入ること。 
 

複雑なことは判らなくても、誰でも、簡単に取り組める、世界平和の祈り。
始めは何も解らなくても、祈れば神さまの働きをしていることと同じ。
世界平和の祈り 素晴らしいな・・・と思う。 

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” によって、意識はカルマから離れ、神性の方向へ。

『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。



自分が自分と向き合うところ②

 自分が自分と向き合うところ。そこは自己意識の場である。そこに原因のすべてがある。
人間存在の原点があり、カルマの出発点がある。カルマの終わるところであり、神性復活が始まるところである。
問題が起こったのはここである。だから、問題の解決はここでなされるべきである。現象界での弁済、積徳をもって解決がなされるのではない。

 この究極の場に、究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。
「我即神也」は青空の如く、元々あるものである。「我即不完全也」は雲の如く、刹那的に現われていたものである。
 この究極の場に究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。現象界はその二つのいずれをも映し出すことが出来る。
「我即神也」を映し出せば、天国、完全平和の世界。「我即不完全也」を映し出せば、苦悩を伴なう世界。

 自分が自分と向き合うところ。それは鏡と同じである。曇りなく天の理を映し出せば、「我即神也」が輝いて、現象世界に神の国を映し出してゆく。そうなれば、今まで映っていた苦悩の姿は自然消滅するしかない。現象世界は自我の想像の産物なのだから、罪も汚れもない。苦悩を伴なった現象世界の闇は、光が差せば消えるだけである。

 「我即神也」が宣言されるとき、すべては赦されている。すべては完全、完璧、大成就であり、すべての神性が与えられている。内に包まれていた神性は、開かれ、形となって輝き始める。

『本来の自分(真我)は“宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものである”と断言』
(00-09)
してゆけばいいのである。

そうすれば、

『自分が生かされていることに気づき、自分の生命の尊さ(我即神也)を心から理解できた時、地球上から天変地変や環境汚染、飢餓、病気などは消滅してしまうのである』(00-09)。

『人類すべての人々を人類即神也と受け止めることが出来た時、もはや自分の過去の一切の因縁は消滅したのである』(01-08)。

それだけでなく、

『神の神々しい光の流れが辺りを覆い尽くすのである』(00-09)。

 ここで再度強調しておくべきところは、「我即神也」の真理が受け止められ宣言されるところ、カルマは消滅してしまうということである。光と闇は同じところに存在することはできない。

 天の岩戸開きの神話はこの自己意識の場で起こったこと、これから起こることなのである。天照大神が鏡に写った自分の姿を見て、岩戸から出るのは、この自己意識による自己変革の預言なのある。これから、すべての人類に起こることである。

 この変革を先取りしていたのが『世界平和の祈り』なのである。

 『世界平和の祈りこそ、本来の自己を認識し、今までの否定的、習慣的な自己意識を徹底的に覆し、変えてゆく方法なのである。』(01-07)

 『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。
『世界平和の祈り』に天の岩戸開きの原理が込められていたわけである。
 神人たちが神の姿を顕してゆくときは近い。 
 
mixi ピタゴラスさん



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by mppoe-light | 2013-10-13 23:31 | ピタゴラスさん啓示録から

毎日の積み重ねが大切・・・なのだ☆

                            やっぱり焼きいもだよね・・・
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啓示録などを綴じているファイルを久しぶりに開けました。 その時、最初に開いたページ、
面白かった(^-^)

苦悩の中にいる自分を認めてはならない。苦悩の分析は要らない。対策も要らない。
苦悩の時が、「消えてゆく姿」を行ずる時である。
苦悩の時が、果因説に入る時である。
果因説に入るとは『我即神也』という真理に入ることである。

苦悩を消すために祈るのではない。苦悩を消すことによって、天命が完うするのではない。天命を完うしようとしていれば、苦悩は消えてしまっているのである。


苦悩の中に入ってしまった時、意識を真理へ転換し(消えてゆく姿で世界平和の祈りor我即神也) 早く切り替えるのためにも、日々の祈りや宣言、印の積み重ねが大切・・・。
もっと光の側の「私」の存在を、自分の中で大きく広げていきたいです。
やっぱり毎日の積み重ねって大切。


我即完璧神也、人類即完璧神也

 「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」と唱えることが習慣になってきた。しかし、苦悩することがつづいた時、私は無意識に「自分に何が欠けているのだろうか」と思っていた。
「自分は確かに何かが欠けている。だから、こんなことになったのだ」
 このような声は、本心の声とは全く異なる。このような声は、因縁因果の中にいる自我の声である。
 自分は 『欠けたるもの、不調和なるもの、非真理なるものに同一化することによって初めて、その現象が現れてくる』(2003-09) のである。

苦悩の中にいる自分を認めてはならない。苦悩の分析は要らない。対策も要らない。
苦悩の時が、「消えてゆく姿」を行ずる時である。
苦悩の時が、果因説に入る時である。
果因説に入るとは『我即神也』という真理に入ることである。
それは、苦悩と苦悩を感じる自分、苦悩の原因を創った自分がいる世界を離れ、全くの別世界に入ることである。
その別世界は、宇宙神が創造された世界である。
それは既に成就している神界である。
それは既に、我々に与えられ、我々が相続した世界である。

我即完璧神也。私は至福の神である。私は健康の神である。豊かさ、繁栄、成功の神である。私は愛の神である。赦し、癒し、歓び、感謝、光の神である

『神人は、神そのものと同一化しようとするからこそ、神人として光り輝き、すべてが充足されてゆくのである。』(2003-09)
 
 相続していないものを与えることはできない。
私にはすべての神性が完璧に与えられている。
すべての神性は本心という宝庫に蓄えられている。
私はすべての神性を人類に与えることができる。私が与えるものは宝庫の中で増大する。

私の本心はすべての神性が溢れ出るところである。本心が癒せないものはない。本心が満たせない物もない。本心はすべての人類を祝福する。そして、本心は人類にすべての光を送る。本心の光は人類の神性を照らし出す光である。人類即完璧神也

『神人は、宇宙究極の真理を、無限なる愛の光をすべての魂に分かち与えるために存在しているのである。』(2003-03)

「自分に何が欠けているのだろうか」などと考えている場合ではない。「我即神也」に意識を集中し、「人類即神也」のために自分の本心を輝かせるという天命があるではないか。
苦悩を消すために祈るのではない。苦悩を消すことによって、天命が完うするのではない。天命を完うしようとしていれば、苦悩は消えてしまっているのである。

mixi ピタゴラスさんの


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by mppoe-light | 2013-09-09 17:54 | ピタゴラスさん啓示録から

私たちのミッション☆

■宇宙神は、いかなる人にもその人にとって必要なものを惜しみなく与えつづけている。しかし、受け取るべき人自身がシャットアウトしてしまう。 <9月指針>

なぜ受け取るべき人の側がシャットアウトしているのか、、、それは、自己認識が間違っているから。 
自分自身は、無力な肉体人間だ・・・というと誤解、錯覚したままの自己認識を持ちづつけているから。

本来の自己認識は、もちろん 我即神也  
そして 
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就


■心が物質のみに執着すると、すべての精神の気の流れが滞ってしまう。<9月指針>

物質というと、形のある物に執着する・・・と思いがちだけど、 (もちろんそれはそうなのだけど・・・)
形ある物以外に、外側のさまざまな現象、環境、体験も形の世界の創造物。
自分の中から湧き出た感情だって、執着すれば気の流れが滞る。。。 ううぅ・・・。



自己価値観を大きく変えてゆくというミッションがあるのです。

自分の意識が高まれば高まるほど、意識が光明思想になるのです。
いつも微笑みを放つようになるのです。


 
神性顕現の生きた証人となり、自らの体験を通して人類に神性復活を蘇らせてゆく大天命を遂行してゆくのである。

神人たちが果たしてゆく天命とは、欠けたるものなしの状態を創り上げ、過去の因縁因果から解放され、果因説による素晴らしいもの、幸せなるもの、豊かなるものを自らの現象面に引きつけ、実証させてゆくことにあるからである。

さらに新たに神性に目覚めた人々が次々と自分の神縁深き人々に語り継ぐことによって、
世界中至るところに神性復活の潮流が生まれ、広がってゆく。

9月号昌美先生のお話


私の私たちの、大天命。  神性復活=我即神也

天命を果たすために、 これからも自分を赦し、愛し、自己価値観を上げていかなければ・・・と思いました。


で、 久しぶりにピタゴラスさんの日記から☆ ↓

いきなり「空」・・・カタイ! でも面白かった(*^_^*)

「空」と言われると、多くの人が難しくて、カタイ話だ・・・と思い、気持ちが引いてしまうかな・・・
私なんかは、読んでスッキリしたのだけど、(究極の真理について、ここまでスパッと言い切ってもらえると、助かるのだ。(*^_^*))

カタイけど・・・
本心と業想念をきっちり分けたつもりで読むと、判り易いし、心に響くと思う・・・。
知識、観念とは違う感覚で読んでもらえたら、嬉しい☆

空と「我即神也」2

 空とは無限なる叡智の教えである(「般若波羅密多」は完成された叡智を意味する)。
空とは無限なる叡智へ向かう教えである。
空とは無限なる叡智を顕わす教えである。無限なる叡智は神性を集約したものである。
神性とは自分自身でもある。
自分自身とは神なる自分である。
空とは神性の教えであり、神性に向かい、神性を顕現する教えである。

『過去はない』。外なる世界、現象界はすべて顕われた瞬間に終了し、赦され、消えている。しかしながら、それを「在る」と想い込むならば、自分は罪人であり、肉体人間、あるいは輪廻する人間である。
外なる世界もなく、それを「在る」という思い込みもなければ、真に在るものだけが在る。真に在るものとは神性だけである。自分も神性だけであり、「我即神也」である。

『私』という存在のアイデンティティを外なる世界に求めるならば、無知である。
無知からカルマが生じる。
『私』という存在のアイデンティティを、あるがままに神であると認めるならば、悟りである。
空とは自己認識のシフトである。
空とは「余計な思い込みをなくしなさい」ということである。
余計な思い込みがなくなると、元々あった「真に在るもの」が自ずと溢れ出てくる。
空が指し示すのはその溢れ出てくるもの、つまり「我即神也 人類即神也」である。
「我即神也」とは、自分自身を神と認め、尊敬し愛し崇拝することでもある。

『私』についての認識が変われば、すべてが変わる。
『私』についての認識が変われば、将来設計も変わる。
輪廻する人々は、必ず過去と恐怖に基づいて将来を設計する。将来設計とは想像力である。神たる『私』はどう在るべきか。何ができるか。
それを自由に想像するのである。
想像できうる「神としての在るべき姿」を言葉で言ってみる。その宣言を『祈り』と言う。真の祈りはたちまち、神の創造力=言霊によって現実化する。

物質には我々の運命を決める力はない。逆に、『私』についての自己認識が、すべての幸不幸の原因なのである。
空は『私』についての意識を変革する。空は物質を認めない。空は物質の力を認めない。空は現象界を認めない。空は想念を認めない。空は過去を認めない。
空ならば、『私』が物質的状況に左右されることはない。影響されることは一切何もない。

『私』は物質的状況について何ら評価を下さない。『私』こそが状況を創り出す主体だからである。過去は『私』がかつて創ったもの。過去はない。
輪廻する人々は過去に基づき未来を創ろうとする。そうではない、未来は『神なる私』が自己の神性に基づき『自由にかつ自己の責任で』創るものである。

空とは聖人の境地ではない。空とは法則である。同次元の法則は「我即神也 人類即神也 世界人類即平和也」である。誰も法則に変化を加えることは出来ない。しかし、その法則をベースに自分の思い込みを写し出して、歪んだ現象を体験することは可能なのである。

苦悩、争い、災害、汚染、、、すべて歪んだ現象である。しかし、世界が平和であること、各人が神であること、地球世界が輝いていることは何ら変化を被ってはいない。
果因説は歪んだ現象はさておき、完成された世界へ飛翔してゆく道である。


この最後の言葉がいいな~☆(*^_^*) わくわく♪
果因説は歪んだ現象はさておき、完成された世界へ飛翔してゆく道である。

うんうん、果因説は即、完成している のだ、今の制度、仕組みが徐々に良くなる・・・のではないのだ。
 そのために、
我即神也=人類即神也!



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by mppoe-light | 2013-09-06 17:18 | ピタゴラスさん啓示録から

神の創造☆

7/16の日記にこのようなことを書きまして・・・


≪ 我即神也 を宣言しながら、“完璧で、大成就している”気持ちがどこまであるのかな・・・・と気になるようになりました。 
成就を顕すのであれば、その時の気持ち (すでに成就している時の)、にならなければいけない・・・・と、思うようになりました。

成就の時の気持ちになるためには、想像が必要。 
成就した時の自分をイメージして、その感覚を思い描いていった方がいいのではないか、 と。≫


で、今回はその続きのような内容なのですが、、、

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今までは、成就することの意味とか、大切さなどを、真剣に理解しようとしていなかったのですが、・・・・(^_^;) ここんとこ、富士聖地で“成就”の神事が繰り返されていることから、
“成就”について真面目に考えるようになりました。(というか、きちんと向き合ってみました。) 


成就の体験を重ねれば、さらに我即神也への確信が持てるはず・・
よって、神性顕現の道が開ける・・
では、
我即神也として 成就を体験していくには どうすれば・・・?


祈りながらこんな風に思いました。

成就を想像して、成就したつもりになってみる。 その時、私はどのような気持ちになるか。 
創造するためにはその気持ちが必要なのでは・・・。
なぜなら、
今までは 因縁因果に慣れたままの、自己限定を前提にした思考、発想、感情ばかりで生きていた。
 だから、法則の通り、有限で限定の人生を生きてきた。
私の意識が創造の源、創造のはじまり 
だから、まず初めに、、 
過去ばかりを前提にして自己限定していた想いを止めて、
成就した時の想い、感謝、感動を、肉体側の私が思い描いてみるのはどうだろう・・・。
その心を感じることが必要なのではないかな・・・
と思いました。 

つまり想像し、創造するってこと☆
 
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我即神也 は果因説  もう思考は、因果説から果因説へ切り替える時代。

因縁因果は、有限と限定に基づいた世界。もともと神さまの世界にはないもの。
“私は神ではない”という自己否定、自己限定の世界。
 
でも我即神也 は、因縁因果を超えている。神意識は因縁因果とは一切関係ない。 

我即神也を完全に信じきった時、一体となったとき、 そこには過去もカルマもなく、
あるのは すべては完璧、欠けたるものなし、大成就。 

想像し、創造する・・・ 神の創造は果因説  なのだっ☆



想像し、創造する

『二十一世紀、人類一人一人は、自らが想像し、創造した世界を生きてゆくのです』
(2012-06; 2008-09)
『自らの人生は自らが想像し、創造するものである』(2008-09)

 想像する姿は眼に見えない姿である。眼には見えないけれども、宇宙神はその理念をしかと定められている。宇宙神の定めだから、変更できない姿である。
眼には見えていないのだが、自分自身の本性そのものの姿である。
如何なる過去もその想像を妨げることはない。
如何なる過去もその想像に入り込むことはない。宇宙神の理念、自分の本性を一言でいえば、神である。
『我即神也』を想像するのである。
 想像した姿を、言葉によって宣言すれば、必ず成就する。
その成就させる力、言霊の創造力は自己の内在する創造力に他ならない。
神なる『私』(すべての人)は創造力であり、創造者である。
『私』が語ったことはすべて現実化している。語ったことで現実化しなかったものはない。現実化したもので、語られなかったものもない。
すべては自分の責任でしかない。

 想像は五感を超えた世界への入り口である。
人間の意識は五感の世界から自由である。誰であろうと、他人の想像の自由に介入することはできない。何を想像するのか、全く自由である。
同時に、全く自己責任である。
『どんな困難のなかにあっても』、『我即神也』を想像することは可能なのである。
その可能性の中に、因縁因果を超える鍵がある。
言い方を変えると、想像のなかに、果因説につながる鍵がある。

 『我即神也』を想像するということは、『すでに成就できた状態を想像し、創造してゆくのである』(2008-09)。
『すでに我は成就したという時の、歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめることによって』(2008-09)、内在する創造力、DNAにスイッチが入るのである。

mixi ピタゴラスさんから



すべては完璧 欠けたるものなし、大成就!


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by mppoe-light | 2013-07-31 17:22 | ピタゴラスさん啓示録から

「気持ちが薄くとも、その宣言をしつづける」

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『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめること』(2008-09)

当時、昌美先生のこの言葉を読んでも、

「う~ん・・・・。。ぜんぜん感じられないものを想像するなんて・・・」
と、真剣に取り組む気もないままでした。 

まだまだ「成就」の深い意味も分からなかった私です。 
「なんで印の最後は「成就」なんだろう。
どうして神事では「成就」の言葉が必要なのだろう・・・・」と、
果因説のことが理解できていない状態だったので。(>_<)

が、今っ、
我即神也 を宣言しながら、“完璧で、大成就している”気持ちがどこまであるのかな・・・・と気になるようになりました。 
成就を顕すのであれば、その時の気持ち (すでに成就している時の)、にならなければいけない・・・・と、思うようになりました。
成就の時の気持ちになるためには、想像が必要。 
成就した時の自分をイメージして、その感覚を思い描いていった方がいいのではないか、 と。


神性はすべての人に厳然と存在するのだが、当人はそれを意識しないから、他を意識する分、他を体験することになっている。
本心はすべての人に厳然と輝いているのだが、当人はそれを否定するから、否定する分、苦しみを体験することになっている。
神の愛はすべての人に遍く行き渡っているのだが、当人はそれに気づかないから、気づかない分、神の愛以外のものを体験することになっている。
人には内なる無限なる能力が備わっているのだが、当人はそれを過小評価するから、評価した通りに、無力感を味わうことになっている。

神は空高くに聳え、凡夫は平地にたむろする。凡夫は無限の努力を積み重ねながら、高き岳に挑む必要があるのだろうか?因果説では然りである。だが、果因説では否である。
『人間の神性はいかなることがあろうとも、決して失われることはない。』(2008-10)

神性は既に成就しているのである。神の姿は既に完成されているのである。宇宙神は我々一人一人を完璧な存在として定められたのである。我々は神として、そして凡夫として、空高くと平地に同時に存在していると言ってもいい。だから、「現状は凡夫の世界にいるぞ。高く険しい岳を昇るぞ」と身構えることはない。

既に空高くにいる自分の姿を想像すればいいのである。
『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめること』(2008-09)
が内在の創造力を発揮させるのである。

悪想念を払って、愛深くなるのではない。「すでに我は無限なる愛を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」と気持ちを込めればいい。
気持ちが薄くとも、その宣言をしつづければいい。

体を丈夫に鍛えて、健康になるのではない。
「すでに我は無限なる健康を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

働きづめで裕福になるのではない。
「すでに我は無限なる豊かさを成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

戦争、民族問題、環境問題を解決して平和になるのではない。
「すでに世界人類は無限なる平和を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

※ピタゴラスさん「太陽の譬え」  から




「すでに我は無限なる愛を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」と気持ちを込めればいい。
気持ちが薄くとも、その宣言をしつづければいい。


そうだった、私は言霊の(神語の)力でここまで来たのでした。
言霊は威力。だから、気持ちだって厚くなるのではないか 

ピタゴラスさんちの神さまの響き(メッセージ)に感謝!

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by mppoe-light | 2013-07-16 19:53 | ピタゴラスさん啓示録から

源泉 「それを知っている」

人類は
『まさに一人一人その本質において、すべて神なのです。自分を究極なる“我即神也”そのものとして崇め奉るべきなのです』(96-02)。

 私は、人類を批判、非難、評価も下さず、人類の
『生命の尊厳を認め、褒め称え』ます。(2000-08)
 本来、人類に自我と言うものは
『空にして何も無いものである。在るものは、ただ、ただ神そのものの心なんだ』。(98-02)

 『宇宙神からの無限なる愛、無限なる能力、無限なる叡智、無限なる創造、その他、無限なるものすべて一切は、宇宙の至る所、あまねく放たれし空中から受け取るだけでよい。
宇宙空間に宇宙神の創造せし無限なるものすべてがあり、
そこから愛と讃美と繁栄と幸せをつかみとればよい』。


宇宙神と一つに結ばれているから、
『自由自在に必要なものは得られるのである』。(97-07)

このように、『人類即神也』の真理のメッセージは人類の神性を「認める光」なのである。
人類を業生の現れと見るのではなく、『現象はともかく、本来、神そのものである』と認める光なのである。
「認める光」は声高かに叫ばなくともいいのである。認めることが光となり、人類を幸せに、目覚めに導いて行くのである。

「認める光」は祈りの光であり、印の光である。
「認める光」を送ることは、どんな行動よりも偉大な行為なのである。
「認める光」は赦しであり、愛である。真(まこと)の光である。つまり、真理そのものである。
「認める光」を日々、送れる人は神そのものである。
「認める光」は神の証である。神性そのものである。感謝の光と同じである。

「認める光」が流れ出でる源泉は「それを知っている」神の意識である。
祈りとは、「それを知っている」という宣言なのである。

認めようとするのではない。そのようになるよう希望するのではない。
それが実現するよう外なる神に求めるのではない。
「それを知っている」から宣言するのである。
「認める言葉」で「認める光」を発しつづけるならば、その人は神意識そのものとなる。
「認める言葉」は成就する。


mixi ピタゴラスさん「認める光」から



 ※ 「認める光」が流れ出でる源泉は「それを知っている」神の意識である。

 ※ 祈りとは、「それを知っている」という宣言なのである。
 



奥に光がある言葉  流れの源泉、「知っている」という神意識
私が求め追究している光 その源泉、  
だから、
 
究極の真理を表すこの言葉を読んだとき、 美しさを感じました。 
ありがとうございます。



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by mppoe-light | 2013-03-31 17:35 | ピタゴラスさん啓示録から

どんな困難の中にあっても・・・

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いかなる不幸な状況においてさえも


『人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提として、健康を前提とし、豊かさを前提として語りつづけてゆくならば、必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのです。
 人類は、その真理を知らなければなりません。その生き方こそ果因説の生き方です。
 果因説とは、たとえ現在、因果律によって最も不幸な状況にあろうとも、その中で人類の偉大なる魂の存在(人類即神也)を認識して生きる術(すべ)です。』(白光誌2001-05)



 ここに引用したところには、『いかなる不幸な状況においてさえも』『たとえ現在、最も不幸な状況にあろうとも』 というフレーズが繰り返されている。
神人が神性を顕わすのに、この世的な状況は『一切関係ない』ということだ。

神性顕現と因縁因果の状況に相関関係なし。
善因縁は好都合。しかし、それで神性に近いと想うは奢りである。
悪因縁は煩わしい。しかし、それで神性からほど遠いと想うも誤りである。
現象の良し悪し、幸不幸を語るなかれ。語ることの前提は
 『我々が最後に行き着く地点であるべき』(2001-05)幸福、平安、生命である。行き着く地点とは未来である。
この「未来」とは宇宙神が創造された姿、宇宙神が定められた姿、つまり「神界の姿」「神の姿」「本来の姿」ということである。




「人間は、いかなる不幸な状況においてさえも、幸福を前提として、健康を前提とし、豊かさを前提として語りつづけてゆくならば、必ずその語りつづけた通りの状況を自らが創造してゆけるのです。」

 

人間と真実の生き方 を思い出しました。

「※いかなる苦悩といえど、、、   今からよくなるのであるという善念を起し、
※どんな困難のなかにあっても 、 自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、
愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆく、 」


どのような苦悩、困難の中でも、こんな生き方が自分にできるのだろうか

どんな苦悩でも、それを消えてゆく姿と思い、善念を起すことが出来るのだろうか、

苦しさの中で、いったいどうやって善念を起せばいいのか、

どうやって愛と真と赦しの言行をやって行けばいいのだろうか

と、、、
「人間と真実の生き方」を初めて読んだ時は、
五井先生の示す生き方が自分に出来るのか・・・と、自信が持てなくて、少々戸惑いました。




 「神の姿」「本来の姿」とは「我即神也」であり、「人類即神也」である。これを認識するとは知ることである。
真に知るということは、それについて思い巡らせることである。
そして、それについて語ることであり、宣言することである。それは祈りである。

 この「神の姿」は個々人によって天命として異なる。しかし、万人に共通するところは、無限なる幸福、無限なる健康、無限なる豊かさ、、、である。
神人は『現象界のことはさておき』、自分の「本来の姿」を積極的に語る。
「本来の姿」を自分自身に積極的に宣言しつづける。
語ること、宣言することは、言霊の力によって、必ず現実化する。祈りは現実世界を創造するからである。



 『神人は決して遠慮せずに、自らの幸せを語りつづけてゆくべきです』(2001-05)。

決して遠慮せずに、自らの神性を称えつづけるべきである。躊躇うことなく、自らの本心の輝きを崇敬しつづけるべきである。臆することなく、「我即神也」を宣言しつづけるべきである。
遠慮、躊躇いが生じるのは、自分を赦していない結果にすぎない。
宇宙神によって, すべては赦され、癒され、光に変容されているのである。

 因果説は五感の世界を生き抜く術である。
果因説は五感の世界を超える術である。

因果説は時間の世界を生き抜く術である。
果因説は永遠の世界を生きる術である。

果因説は五感の世界よりも、真理の世界を重要と考える。
果因説は五感の世界を離れ、神の世界に直入する術である。

真理の世界、神の世界、永遠の世界には、神たる自分が厳然と光り輝いて存在する。
神人は、今まで祈り、印を組んで来たのだが、それは神たる自分が祈り、印を組んで来たのである。
神人は何度も、自分と神たる自分との重なりを体験してきたのである。それがもっと明瞭に感じられる時代になりつつある。   

mixi ピタゴラスさん


いかなる苦悩の中にあっても、私は神、即神也
だから、
善念を、起こせるはずだし、起こすべき。
真の「私」は、すべて完璧、欠けたるものなし、大成就


因果説は時間の世界を生き抜く術である。
果因説は永遠の世界を生きる術である。

果因説は五感の世界よりも、真理の世界を重要と考える。
果因説は五感の世界を離れ、神の世界に直入する術である。


私にとってどちらが本当の世界なのか、 それはもちろん永遠、真理の世界。果因説の世界。 
だから
その世界の方をひたすら信じなければ。 
信じるために 意識して 祈り、印、言霊、神語を続ける。

今、果因説を学べたことに感謝。 究極の真理に感謝。

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by mppoe-light | 2013-02-21 22:13 | ピタゴラスさん啓示録から