カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 139 )

「私」の意識

「私」の意識があるところに世界が存在します。私の世界です。
「私」という意識はもともと自由自在なんだけど、高次元に入ることよりも、
もっぱら3次元に留まることを選んでしまいます。(無限なる進歩)
そして、その時々の意識の高さに応じた世界を体験しています。

自己意識を上昇させることを難しくしているのは、
私の場合、
潜在意識にある 恐れや不安の想いが強いから・・と思うのですが、
でも・・・、

「前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。」
だから 我即神也  です。
朝の神事があるから心強いです。 呼吸法の印があることがありがたいです♪


神性顕現の時代

あなたの今の人格が悟りを開くのではない。そうではなく、太初より救世の大光明の一員であり、
救世主として生まれてきた神。久遠実成の仏であり、
アブラハムより先の時代にも輝いていたキリスト、あなたの直霊神、本心が顕われてくるのである。
その時、あなたは別人が顕われてくるとは思わない。
『あなたの神』、我即神也が顕われてくるのである。

自己意識軸上を移動する『自分』はあなたの意識の座( 座標)に現われてくる意識を自分とみなしていた。
その『自分』は無批判に現われてくるものを概ね100%の確率で自分と思ってしまう。
いかに惨めで、恐怖と怒りに満ち、不調和であろうと、失敗した姿であろうと、
現われたものを自分と思ってしまっていた。

しかし、『自分』は「消えてゆく姿と世界平和の祈りの行」と「無限なる赦し」と「我即神也・
人類即神也の宣言と印」によって次第に訓練されてきた。
つまり、『自分』は本心と業想念の区別の仕方が解ってきたのである。

その訓練された『自分』が「直霊神こそが自分である」という確信を持つとき、
神の姿が顕現し始める。
あなたの『自分』は神性が顕われたとき、「それは自分ではない」とは絶対に言わない。
『自分』が自分に目覚めたのであり、真の自分を思い出すだけだからである。

ただ、『自分』が自分の神性を認めてこなかったため、神を顕わす
体験をしなかっただけである。

******************************************************

神性の顕現は我々の天命であり、人生の目的そのものである。
この顕現は自己意識を次元上昇させる領域であるから、自力の領域ではない。
自己意識の上昇は、他人が助けに入る余地は全くない。
自立の領域である。自己意識軸上の上昇はエレベーターの上昇のようであり、
トンネル効果である。

自己意識軸のいと高きところ、それは「我即神也」である。
それこそが聖地であり天国・御国にいたる狭き門である。

自己意識より諸々の意識・想念・信念が派生する。すべての想念の背後には自己意識がある。
意識・想念・信念はプロジェクターを使って体験を生起させる。
体験は罰によって完結するのではなく、自己意識の軌道修正を促すように生起する。
つまり、因縁因果・想念の法則である。これが一つのパラレルワールドを形成する。

それぞれの自己意識にはそれぞれのパラレルワールドが派生している。
いくつかのワールドの中で、最もエネルギーの高いものが肉体界で体験されるのである。

最も高い自己意識・我即神也に派生するワールドは天国であり、御国と呼ばれる。
既に出来上がっている世界である。因縁因果によってできた世界とは別世界である。
既に出来上がっているから果因説の世界である。

太初に『我即神也』ありき。我即神也は原初の意識であり、
永遠の生命である。
生命の響きは言であり、言によって神の歓びに溢れる世界が生まれた。
その神の歓びに溢れる世界を、我々は肉体界で体験することを選択したのである。
それは必ず大成就する定めとなっている。

宇宙神が問題視しているのは自己意識軸の領域のみである。
無明から生起した世界のすべてについて、宇宙神は不問に付しておられる。

それとは反対に、「我即神也」から生起する世界では、無為自然の内に必要なものはすべて与えられるのである。
自力で積んだ徳によって与えられるのではない。
宇宙神の賜物を分身たる直霊神が天命として受継ぐのである。

******************************************

時至れり。いよいよ、準備段階から本番の時代に入ったのである。
会員一人一人が『我即神也』の世界を肉体界に顕現する時代になったのである。
直霊の響きが言葉・想念・行為に顕われ、肉体・運命にも顕現し始める時代になったのである。

自己意識が変われば、自分が体験する世界も変わる。
我即神也という自己意識が定まれば、自分が顕わすものが神性そのものになる。
すべてが変わってくるのである。
<ピタゴラスさん 啓示録>
2008/02/28


※トンネル効果
古典物理学で考えると、アルファ粒子はエネルギーの壁を越えて、壁の外には飛び出せない。しかし、シュレーディンガーの波動方程式によるとアルファ粒子には壁の外に存在する確率がある。
実際にアルファ粒子は壁の外に飛び出して来る。これがトンネル効果と言われる現象である。

それと同様に、一般的に考えると、凡夫から神に至るにはとうてい越えることができない壁がある。
無限の努力をしても、その壁を越えることはできない。しかし、実際には壁を越えたところに、ある確率
で神としての自分が存在している( 例えば凡夫①②③、、、70%、菩薩① ②③ 、、、20%、神① ②③ 、、、10%)。そのため、人は壁を越えて神の領域に入ることができてしまう。
<ぴーさんの啓示録の解説>
[PR]

by mppoe-light | 2009-11-22 22:28 | ピタゴラスさん啓示録から

「自分が自分をどう思っているのか」



昌美先生 次元上昇 から

人間が本当に識らなければならないことは、自分の本性に対して畏敬の念をもたねばならない、そのことなのであります。
人間は決して弱きものでもなく、不完全なるものでもありません。人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。

初めから自分自身に対して畏敬の念をもって接するのです。自分の中にいかなる不完全さが存在ようと、
決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです。

人間の多くは、業性のみの己を見つめ、決して本心の自分、輝いた自分、神そのものの自分、
完全円満なる自分を認識する眼をもってはいません。まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。

”我即神也”  この たった四文字の中にすべての真理が含まれ、
人間そのものが言い尽くされているのであります。
自分が神なら”人類即神也”、人もまた神です。人間即神也そのものなのです。
自分自身に畏敬の念をもって接すると同時に、すべての人間に対して畏敬の念をもって接していかなれば
ならないのです。

今生に起こることはすべて偶然ではなく必然です。前生の因縁をどうしても今生において消さなければ
ならないことも多々あるものなのです。
しかし、前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。

自らの前生の因縁に把われるか把われないかは自分次第です。
把らわれつづけている人は、なかなか自らの上に神を顕現することは出来ませんが、
把われていないならば、神そのものを顕現することが出来るのです。

いかなる状況の人も、因縁は因縁で超えてゆかねばならないものです。しかし因縁とは別に、
自らを真理の光で輝かせることは出来るのです。
真理を実行する人として、
我即神也の宣言をし印を組みつづけてゆけば、いつか必ず神人としての自分を顕現することが出来るのであります。必ず、絶対に。
(1997年10月)



ピタゴラスさん 啓示録から

神との面談

あなたが存在している限り、いかなる状態、状況にあろうとも、常に自分は自分を意識している。
つまり常に、自己意識=自己イメージを持っている。

何を感じていようと、「私は、、、、と感じている。Iam feeling … …」
何を考えていようと、「私は、、、、と考えている。Iam thinkingthat… ….」
何を話していようと、「私は、、、、と話している。Iam talking about… …」
何をしていようと、「私は、、、、をしている。Iam doing …..」

このように、どのような場合でも、私は常に「私は、、、 Iam ….」を意識しているのである。

それぞれの自己意識=自己イメージが固有の波長、周波数を持つ波動を持つエネルギーである。
やがて、それらのエネルギーは一つの座標軸にまとめられ、物理的三次元世界と数学的
に統一されることになるであろう。

この自己意識は潜在意識に蓄積され、その自己意識に相応しい状況を次に来る時間の流れの中に現出させる。そして同様の意識、自己イメージを再現させてゆく。
これがいわゆる輪廻の世界である。この再現システムは因縁因果の法則、想念の法則と呼ばれる。
一般に人が言う自分とは、これらの自己意識の集積に他ならない。

ステップ① 無限なる赦し
先ず、「肉体が私であり、体験の蓄積が私である」という自己意識がある。
しかし、『すべては赦されている』という真理を受け入れよう。

これは無条件の真理である。赦されるのに善行、善徳も不要である。
自分の本心、真の自己は三次元世界の体験と完璧に切り離されている。
体験の世界は想念の法則によって投影されたものであるから、すべては空であると説かれた。
したがって、真の私は、「私は、、、、ではない。
I AM that I am not … …」としか説明できない。体験世界つまりこの三次元世界には私を定義する何ものも存在しない。


ステップ② 生地なる存在=神
宇宙全体が私であったならば、私は何を見、何を知覚できようか。
何も見ることもない。何も知覚することはない。それでも私は、今ここにいる。
あらゆる体験が始まる前から存在している。
私は光であり叡智である。
私は道である。真理である。生命である。
私とはその私である。
I am that I AM.

真の私はいつも「私は、、、」という意識の背後にある。自己意識の生地として常にそばにいた。
三次元世界の肉体の自己意識が黒雲であるならば、その背後には青空と太陽がある。
黒雲が晴れわたると、『天は澄み浄まり、太陽は輝いている』。

その青空や太陽のような生地なる自己意識は神意識であり、「私は今、ここにいる。I AM 」という自己意識である。
我即神也(God I AM.)の意識である。
その生地なる自分がそのまま顕れるから無為と説かれた。生地なる自分に任せるから全託と説かれた。


ステップ③ 無限なる創造力
今、ここで「自分が自分をどう思っているのか」。それだけが問題だ。
それ以外は問題ではない。
「自分は自分をどう思っているのか」、宇宙とはそれを映しだす鏡である。
<どう思っているのか>それが鏡のように映し出され、自分はその鏡の世界を体験する。
その映し出された世界、体験する世界が自己意識軸から発生する三次元世界である。

自己意識軸上の座標の数だけ三次元世界が存在する。
肉体界はそれらの複数の世界の合成された映像である。
観察者の自己定義が変わると、観察する世界も違って見えてくる。
これは量子力学が発見した法則だが、これが正に宇宙の法則なのである。
これは宗教と地球の科学が統一される接点でもある。

想念の法則(因縁因果の法則)とは人間に被せられた忌むべき鉄の籠にも見えるのだが、そうではない。
因縁因果の法則は神の想像力がネガティヴに回転してしまっているにすぎない。
元をただせば、その法則とは、「直霊が宇宙神を思いつつ自由に神のイメージを展開したもの
を三次元世界に顕現する」という、本来因果を現象化させるための神の創造力そのものであった。

あなたの無限なる創造力は今なお健在である。

もう一度、繰り返そう。今必要なことは何か。
「自分は自分をどう思うか」である。

自分が想像できる最高の神、自分が言葉で表現できる最高の神。その神聖者こそあなた自身である。
神はいつも『私は、、、』I am …を通してしか相見ゆることはない。
自己意識軸を通してでないと我々は神に行き着くことはできない。

道は一つしかなく、かつ狭いものなのか。その反対である。
この道は最もシンプルな道である。その道は易行道である。師もいらない。難解な経典も要らない。組織も要らない。戒律も要らない。因果の債務の返済も要らない。

只、必要なことは『私は神である。我即神也』と思うことのみ。宣言するのみ。印を組むのみ。あなたは『私は神である』と思ったことを次に来る時間の流れの中で体験することになるであ
ろう。

引用・参照文献
『天は澄み浄まり、太陽は輝いている』昌美先生の詩「地球讃歌」
「私は道であり、真理であり、生命である」ヨハネ伝14/6
「人にとって一切がアートマンそのものとなったときには、彼は何によって何をみるであろうか」、「非ず、非ずというアートマンは不可捉であります」ブリハッドアーラヌヤカウパニシャッド



※ 今、ここで「自分が自分をどう思っているのか」。それだけが問題だ。
それ以外は問題ではない。


※ 前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。


これらの言葉にひきつけられました。

普段の生活の中で起こる自分の感情やそれに伴う言動が 一体どんな自己認識や観念から発生しているのか・・・と 
あらためて考えることが出来ました。
※ 人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。
まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。
 

今、これを実践していかなければ・・・・と思うこの頃です。

我即神也 人類即神也 大成就
[PR]

by mppoe-light | 2009-11-16 23:24 | ピタゴラスさん啓示録から

「我(私)」、私が発する「私」

昌美先生の著書 「次元上昇」から

今日まで人類が創造してきた言葉は、何億という膨大な数にのぼりますが、
その何億という言葉を、地球人類は平等に自由に使用することが出来ます。

ただし、たった一つの言葉を除いては、の話であります。

このたった一つの言葉を発することの出来るのは、地球人類の中でたった一人、自分だけです。
神さえも発することが出来ません。
このたった一つの言葉を発する者以外は、他の誰をも、この言葉を使用することは出来ないのです。

その言葉こそ「我」という言葉であります。 この我は私です。私そのものです。

他のいかなる人も自分以外のものに「私」という言葉で呼ぶことは決して出来ないのであります。

人類一人一人が自分の事を「私」と呼ぶ時、この言葉こそ魂の本源から響いてくるものなのです。
魂そのものが自らに与えることの出来る名前だからです。
この魂こそ本心です。 本心こそ神そのものです。

神そのものである自分の魂が肉体の自分のことを「我(私)」と呼ばせる時、
この「我(私)」を最高の存在者として認識しているのです。
魂は肉体の自分に対して神性をよみがえらせ、神性を語らせているのです。

 この「我(私)」と語る時、内なる小宇宙を指しているのです。内なる小宇宙は、絶対なる大宇宙と生命を共にしているのです。この小宇宙、「我(私)」に対しては、いかなるものも入ることも、侵すことも出来ぬ神の領域なのであります。
 ですから、自分のことを意識して「我(私)」と発する時は、魂のもっとも奥深い内なる部分から私という言葉が発せられ、響いてこなければならないのです。
自分だけが自らに与えることの出来る唯一の神性のひびきだからです。
人類一人一人はこの「我(私)」をとても大事にしなくてはならないし、尊ばなくてはならないし、愛さねばならないし、決しておろしかにしてはならないのであります。 

自分が発する「我(私)」という言葉は、神のひびきです。ということは、 “我即神也”そのものです。 
我即神也 の宣言そのものです。
 私が発する「私」という言葉が神そのものの言葉であるからには、決して否定的な言葉は一切使用できないはずです。私の責任において、私という神の名において不可能です。

 私が思う。私が望む。私が行なう。私が願う。私が欲する。私が・・・・。
これらの私という“私”の根源は、“我即神也”そのものであります。 
“我即神也”という意味が隠されているのです


(98年8月)




<ピタゴラスさん 啓示録から>

  私は在る

Now here I am. I am to be God.

(今ここに、私は在る。私は在る、神として。)
2008年、初めての啓示は何故だか英語だった。

Now here(今、ここに)は言い換えれば、「いつでも、どこでも」ということ。
『即』の意味と同じで、『いきなり、無条件』ということです。

そこに神性の永遠性、普遍性、無限性がある。それは抽象的な神性、雲の上の神性のことではない。
自分自身のことである。

条件が整ったならば、“いつか、いずれの地にて、私は神になり得る本質がある”。
このようなのん気な思考は『我即神也』の思考ではない。
そういう意識が悟りに導いてくれることはない。
「今、ここに、そのまま、なんの条件も付くことなく、私は神である」という意識こそが宇宙神の光明で
あり、我々が神を顕わすように導くのである。

『私は在る(Iam.)』という意識は、批判、非難、評価を下していない状態。
その意識の時は、いかなる価値判断もしていない。無念無想の状態。
それは神の意識である。神性の輝きである。

この意識は「宇宙神から放射された光が、今ここに、自分として輝いている」という状態だ。従って、『私は在る』(Iam.)は即ち、『私は神である』という意識そのものである。

『私は在る』と意識するや、間髪をいれず、つまり、雑念が入り込む前に、ここに在る自分は神そのものであると宣言しさえすればいい。この『我即神也』に至る方法を統一、日常生活の中で使ってみて下さい。

*********************************

我即神也を唱え、人類即神也を唱え、自己意識が高まるようになるほど、その後に生じる煩悩が気になるかも知れない。しかし、まさにそこに「消えてゆく姿」が威力を発揮する。

有限の煩悩に比べようもないほどの神性を発揮しようとしている人が、有限な想いに捉われることはない。
ギャップがあるのではない。自己矛盾ではない。偽善ではない。
神性と業想念とは全く別物なのだ。

あなたを責める神はいない。蔑む神はいない。怒る神もいない。常にそこにあるもの。常に一人そこで輝いている本心(宇宙神)があるだけだ。
あなたはカルマを見過ごさずに、そこにあるものを見過ごしてきた。消えてゆく姿を見過ごして、そこにあるもの、光り輝く本心を思い出しさえすればいい。汝はそれなり。

「我は、、、、Iam ….」と言う四次元軸を使うことによってのみ、人は神を顕わすことができる。
宗教の奥義に達することができる。

自己意識という四次元軸上で階段のように一つずつ上るのが、祈りである。四次元軸の上昇しつつ、上方から降りてくるものを「私である」と受け止めるのが、統一である。

上方からエレベーターのように降りてきた直霊が肉体を通して光を放つのが、印である。
印は神我一体の手段であると同時にその結果である。

努力して神に成る(to become)ということはない。
That I am.
我即神也を受け入れさえすればいい。何の許可もいらない。何の資格もいらない。何の経歴もいらない。
That I am
我即神也は実在するものであって、現にあるもの、久遠実成なるもの。
その神が四次元軸上を降臨すること、その神の降臨を受け入れることが悟りである。
神を思い出すことである。自己意識という四次元軸での上昇、降下を司るのはすべて「私は、、、
I am …」である。そこに管理し、時に顔をしかめる神はいない。

すべて自己責任の領域である。
自由意志の領域であり、自己の尊厳の領域である

[PR]

by mppoe-light | 2009-11-05 17:44 | ピタゴラスさん啓示録から

本物体験

本物体験

脳科学者の茂木健一郎氏はアハ体験を説いている。
「今までわからなかったことがわかるようになったり、あるいは、忘れてしまったことを思い出したときの体験」を意味する。英語圏の人が何かにひらめいたときに[a-ha]と声を出すことに由来する。

茂木氏によると、人がアハ体験をすると、脳内が活性化される。思い出せなくても、思い出そうとするだけでも、脳内は活性化される。
悟りとは、「我即神也」を思い出すことである。自分が神であることを思い出すことである。
それを実現する方法が印である。

印はアハ体験以上に脳内を活性化する。
印はこの世での記憶を思い出すこと以上に、根元的な自己自身の太古の記憶を思い出させる行事である。

真の自分を思い出すこと。印の体験は本物体験である。印の体験は神の体験である。
人が神のようになりたい、神性を顕現したいと決意するならば、神らしく語り、想い、振舞うこと、と説かれる。
それを確かに行為させるのが「我即神也・人類即神也」の宣言文と印である。

騙しでもない、嘘でもない、偽善でもない。宣言文は神の降臨宣言である。
印は神のしぐさである。呼吸法は神の呼吸法である。
印が発する光は神の光である。

自己批判はいらない、自己改善もいらない、本物の自分、自分の光り輝く本心を認めること、愛すること、慈しむことだ。光明の言で、自分を祝福することだ。
自分を尊敬すること、自分を称えることだ。

人類即神也の印を組み、本心が光明波動を人類に与えていることを感じてみることだ。
五感で感じなくとも心眼で神の姿を観てみるのだ。
そこにあなたの本来の姿、神の姿がある。神になったつもりになることだ。表面の意識では「つもり」かもしれないが、脳は間違いなく本物の自己を体験している、思い出している。

会員が集まれば、集団の祈り・印に加えて、お互いに00様即神也・成就と称え合うことだ。
愛し合うことだ。神性を認め合うことだ。
光り輝く本心を見つめ合うことだ。無限なる叡智・無限なる健康・無限なるエネルギーとお互いを祝福しあうことだ。
決して必要なものを補う意味でいってはいけない。あくまでも。神性を称え合うことだ。
この世的な褒め言葉、お世辞を言われた以上に、心が嬉しくなる。
相手を称えることに、心の喜びを感じる。自分が神であることを思い出すからだ。
本物の自己を体験するからだ。

本物体験とは四次元軸の上を限りなく上昇する体験である。四次元の世界に入ってゆくことである。
本物体験こそが、自己の本心を思い出す体験である。
この一見、疑似体験のように見える本物体験が神性をこの世に引き出す基盤となる。

三次元世界内の自己が久遠実成の仏に成るわけではない。阿弥陀如来に成るわけでない。
自己の真実が久遠実成の仏であり、アミダ如来だったのだ。それを思い出すのが印である。
その本物の自己を肉体に受け入れ、実在の光を放射する行為が印である

<ピタゴラスさん啓示録から>

先月、祈りの友人から、今人気の脳科学者 茂木氏の本を薦めてもらい、読んでみました。
 私からは友人へ ピタゴラスさんの啓示録を薦めてみました。 
「全部で80枚くらいあるんだけど・・・」と言うと、いくちゃんは(祈りの友人)、ためらいながらも 
「時間があるとき読んでみるかなぁ」・・・・と言ってくれました。
そこで 第一部36ページを添付してメール。 

数日後、 内容も文体も気に入ってくれて、「一気に読める」 との返事をくれました。 
その後、残りすべて送りました。 良かった良かった☆(#^_^#)

同じ祈りの会の友人Kさん、 
私は Kさんとはいつも話がかみ合わないんだけど(笑) 
いくちゃんが気に入ってくれたことで 思い切ってKさんに 印刷してファイルにまとめた(啓示録)を 
薦めてみました。

Kさん、ぱらぱら~と目次に目を通し、 維摩詰やトンネル効果等々に気持ちが動いたらしく そのまま借りて帰ってくれました。
やっぱり 男の人は かちっとした理論的な解説が 読みやすく理解しやすいのかも。 女性とは、脳の使い方が違うんでしょうね。

で、
友人いくちゃんですが、茂木氏の本の中に、今年五井平和賞を受賞することになった
ブルース・リプトン氏(アメリカの細胞生物学者)著書が紹介してあり、気になって注文して購入したそうです。

「おおぉっ そういえば、ピタゴラスさんは平和賞にリプトン氏を推薦されてた。」

うーん、面白いタイミング♪ あちこちでリプトン博士♪♪

そんな訳で、私もリプトン氏の本を借りて読むことにしました。
[PR]

by mppoe-light | 2009-11-04 23:07 | ピタゴラスさん啓示録から

果因説は素晴らしい♪

富士聖地では人類の歴史を浄める“歴史の浄め祭”が、2006年から
“地球黎明祭”に進化しました。 第一回目のテーマは
「輝かしい未来の“地球黎明の息吹き”を地球に注ぎ込む」というものでした。

同じ年の「新年祝賀祭」 では、五井先生より
“もはや、人類の過去の業を浄めるために、世界各国、一国一国の祈りをする
必要はない、“
“これからは、過去を浄めるのではなく、人類の未来の輝かしき姿に意識を集中し、
素晴らしきことのみ、輝かしきことのみに意識を集中してゆくのだ“
 というメッセージがありました。

それまでは 人類を目覚めさせながら、人類のカルマを浄化することが、
(つまり過去を浄めることが)、私たちの世界平和の働き と思っていたので、
このメッセージに少々戸惑いました。
でも
「五井先生がそう言われるのだから、そうなんだ」と分からないまま納得しました。 安易な私・・・(^_^;) 
これを素直と言えばいいのか、単純と言えばいいのか・・・
ま、女性ってだいたいこんなもんですわねー(^_^;)
とりあえず納得しておけば、そのうち理解できるだろー って感じでね(笑)

浄化から顕現へ

白光の祈りにはいつも三つの働きがある。
①カルマを浄化し、消す働き。
②自己の神性顕現の働き。
③人類を真理に目覚めさせる働き、
である。
個人人類同時成道であるから、白光の祈りには常に三要素が含まれている。

しかしながら、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」では
①の個人的な救われに軸足があった。
ある時、そのカルマの浄化から神性顕現の方に、時代が求める重心が地球的規模で移動したのであっ
た。それは2006年9月24日第一回黎明祭のことであった。

西園寺昌美先生は説かれて曰く。
(黎明祭では)彼ら(神人)は過去の歴史を浄めるのではなく、
輝かしい未来の一点のみを見つめ、それを現実に引きつけたのである。
その輝かしい未来とは、対立のない、すべてが大調和した平和な世界
である。(白光誌2006年12月)

あとはいよいよ、人類の未来に輝かしき神の世界を顕わしてゆくことのみである。
地球上かつてない輝かしき未来を創造していくことに全力を注いでいくのである。

『もうこれ以上過去を浄める必要はない、ほとんど浄め去った。
白光の大天命とは、種々さまざまなるマイナスの現象を祓い浄めることではない。
苦悩や悲惨さを浄める必要はない。汝らは人類一人一人を究極の真理に目覚めさせ、地球人類を救済するという任に当たるのである』 (宇宙神の神示)。
(白光誌2007年3月) 

今、やっとこの宇宙神の神示が理解できるようになりました。

この時代の変化に、我々の思考回路を意識して合わせる必要がある。
現われた現象については、徹底した「消えてゆく姿」を行じるものの、
自分から何かを浄めると言う発想を止めることだ。
業を光に対抗、拮抗する力と見ないことだ。

我々の意識をフォーカスするポイントは『自己の神性と人類の神性を見つめること』のみである。
このポイントにエネルギーを集中することによって、我即神也は顕現を始める。

『煩悩を断ぜずして涅槃に入る』と言われるように、四次元的果因説では、因果の世界は汚れることも浄化されることもない(「不垢不浄」)ので『放っておいてよい』(同上、宇宙神の神示)。

我即神也の自己イメージに意識を集中するだけでいい。
光明燦然たる神なる本心を呼び続ければよい。
自分の直霊より愛、英知、歓喜、幸せ、、、、、、が無限に溢れ出て、人類に光明を放つ姿を思い描けばいい。
『見つめること。想うこと』だ。それが印であり、神事であり、祈りである。

自分から何かを浄めると言う発想を止めることだ。業を光に対抗、拮抗する力と見ないことだ。
我々の意識をフォーカスするポイントは『自己の神性と人類の神性を見つめること』のみである
<ピタゴラスさん啓示録から>

果因説は素晴らしい!
宇宙神と五井先生の50年計画 は、すごい!!
[PR]

by mppoe-light | 2009-10-27 17:35 | ピタゴラスさん啓示録から

神性顕現の原理

先月だったでしょうか 少しだけハートのチャクラが開いたようで、
自分と人類が愛しい気持ちが広がりました。 ま、あっという間に閉じて元にもどるんだけど(笑)

嫌いな人がとても愛しくなる感覚、これって本心の心だな、、と思います。
「人を嫌うより、愛するほうがずっと簡単」 という気持ちが湧いてきます。
本心さんは、相手の “消えてゆく姿” などは まったく問題にしてなくて、
ただただ相手の生命を愛しておられるんだな・・・と思いました。
本心はいつも相手の“存在”を喜んで、祝福している。 

あなたの存在が、嬉しい!あなたの生命を祝福します。 おめでとう!

維摩詰の悟り

『煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これを宴座となす』

煩悩などというものは、断ずるも断ぜないもない。はじめから実際にあるものではない。
人間が真実、実際に自己としてあるのは、本心、み仏の心があるだけなのだ。
そういうところがわからぬ統一では、分別心の統一であって、真実のものではない。

と維摩詰はいうわけです。全く恐れ入った大悟徹底ぶりです。

五井先生は三十年以上も前に、この聖句を解説された。その解釈は今日も新鮮である。
だが、さらに二十一世紀的な意義を探ってみよう。

この聖句は「我即神也」「人類即神也」とどう関連しているのか。
先ず、この聖句は「業想念を浄めずして、神性を顕現する」と言い換えることができる。

「我即神也」の聖句的意味は次のようになる。
「私は、因縁因果とは関係なく直霊の世界に直入し、自由自在に神性を取り出し、善なるもののみを引き付け、光明の世界をこの肉体に顕現する。」

「人類即神也」の聖句的意味は次のようになる。
「私は、自らの因縁因果はさておき、直霊をこの肉体に招き入れ、肉体を発信用アンテナとして使い、人類が真理に目覚めるよう促す光明波動を放射する。」

業を浄めるのは三次元の行為である。
三次元内のエネルギーの保存則は事実ではあるが、宗教的に深い真理ではない。
と維摩詰は言う。

エネルギー保存の法則に捉われている限り、四次元世界に入れない。
四次元世界に入るには、「我即神也」の自己意識を高めるしかない。
浄め、徳を積む行為は重要ではあるものの、三次元世界の行為である。

したがって、それでは四次元の世界に入れない。一歩一歩歩む行為は重要ではあるが、四次元世界に入るには更に一歩進んだ、印・果因説つまり自己意識を上昇させると言う四次元軸が必要になる。

四次元軸を上昇するには、「我即神也」と「人類即神也」の二つが必要である。
「我即神也」なくして「人類即神也」には入れない。「人類即神也」なくして「我即神也」は完成しない。

自分一人では3.9 …次元まで行っても四次元には届かない。
我即神也を極めるには、自分のことはさておき、人類を真理に目覚めさせる使命を完うしなければ
ならない。
十万人の神人を作り、共磁場を創らなければならない。勿論、十万人で使命は完了するのではなく、使命はすべての人が救われるまで続く。
これはまさに、法蔵菩薩の神話(仏典)のテーマである。

法蔵菩薩は自分の悟りはさておき、すべての人が救われるまで光明波動を送り
続けると決意した時、阿弥陀如来となったのである。
この神話はある個人の体験ではなく、人類全体の過去の成功体験なのである。

我々はこの成功体験を思い出し、現在に活用する事ができるのである。
それは呼吸法の人類即神也の印を組む事である。この印を組もうとする時、あなたは法蔵菩薩であって、印を組んでいる時はアミダ如来なのである。阿弥陀如来たる本心が肉体を使って印を組んでいるのである。

凡夫―菩薩―如来の三段階は三次元世界の階段状の変化ではない。
この三段階は四次元軸上の変化である。テレビの放送局の変化のようなものである。

テレビと言う受信機は三次元の肉体である。放送局の変化は波動=周波数の変化のことであり、自己意識という波動=周波数の変化である。
自己意識の周波数を変化させるチャンネルは「私は、、、Iam,,,」である。

自分が自分をどう定義するのか。これが四次元軸上の上昇のチャンネルである。
その実施方法が、宣言文・印・呼吸法である。

会員はたとえ5分の間であっても、凡夫―菩薩(神人)-如来(神)を行き来する。
四次元とはそいうものだ。
会員は、印の経験を積み、やがて四次元軸上で「我即神也」を固定させ、更にもっともっと高めることによっ
て、肉体に神を顕現していく。これがやがて会員が体験するであろう
神性顕現の原理である
(以下省略)
<ピタゴラスさんの啓示録1から>

続きは来週に☆
[PR]

by mppoe-light | 2009-10-21 22:10 | ピタゴラスさん啓示録から

消えてゆく姿の次に顕れるもの

色即是空の次に顕われるもの

一切の余分な自己定義を無くすよう空の教えは言う。その後に残るものは在りて在るもの。
不空なる存在。直霊、如来、我即神也そのものだけである。
「闇が無くなると、そこに残るものは、初めからあった光しかない。
生地なる神なる自分しかない」という四次元的果因説のロジックだ。

(省略)<啓示録1>から
 色即是空の次に顕れるもの 
つまり 消えてゆく姿の次に何が顕れるのか・・・・
「闇が無くなると、そこに残るものは、初めからあった
光しかない。生地なる神なる自分しかない」

生地なる神なる自分、我即神也 です。

もう少し時代が進むと、消えてゆく姿という教えは少しずつ役目が終わりそうな気がする・・・。 
果因説の時代になると、光だけ、一元論だし・・・
と言っても、ぜんぜん必要が無くなる・・・訳ではないかな。

 “消えてゆく姿” という言葉はすごいと思います。
“すべては空” と言われても 現実に3次元世界は、目に見え、触れることの出来るリアリティの世界。
いきなり 空になれ と言われたら もーお手上げです。(^_^;)  

その点、消えてゆく姿 という言葉は、現象世界の迷いを受け入れてくれながら、、
その現実とぶつかることないように、想いを神さまへと運んでくれる。
いい言葉だなー、神さまの計らいはすごいなーと思います。


 四次元世界・印・果因説
四次元世界とは、三次元世界に意識次元を付加したものである。意識とは自己意識である。
つまり、「自分が自己を何である」と認識するかの意識が次元としての意味を持つ。

三次元世界とは因縁因果の世界である。想念の法則により現れ、消える。しかし、
自己=肉体、幽体という意識がある限り、結果としての現象は次なる原因となる。

その因縁因果は限りなく経巡る。凡夫の意識は凡夫の世界を創りだす。

しかし、「我即神也」の意識は厳然として存在する。三次元世界の凡夫であろうと、
「我即神也」を宣言したところには、時間の経過はあるものの、神なる姿が顕現する。

この神意識は三次元世界のものではない。神意識は四次元世界の意識である。
しかし、神意識は「私は、、、」と言う意識の座標軸を使って三次元世界と接点を持つ事ができる。

三次元世界に四次元目の意識次元を加えると、同じ三次元世界が幾通りにも変化する。

それは、平面の二次元世界に縦の三次元世界を加えると、同じ平面座標が縦の座標によって
幾通りにも変化するが如くである。

印は三次元の因縁因果の世界に意識次元の変換(上昇)を使って、「我即神也」の世界を顕現させる科学である。印を使うと、因縁因果の流れとは関係なく、「我即神也」という意識がその意識に相応しい
現象を三次元世界に顕現させてゆく。

この顕現も想念の法則を使って成就される。それは果印説と言われる。

因縁因果の意識次元では、凡夫―菩薩―如来という峻別された三様の変化を無限の努力によって勝ち取ってゆくことになる。
0点から100点まで努力によって積み上げてゆくことに価値が与えられる。
三次元の常識では、釈尊は出家して、悟って仏となられたのである。

しかし、法華経では、釈尊は出家して悟ったのではなく、久遠実成の仏が真実の実在と説かれる。
さらに法華経によると、常不軽と言う名前の菩薩は、相手が誰であろうと「わたしはあなたがたを軽蔑しません。
あなたがたは、みな、求道者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な悟りに到達した如来になられるでしょう」と言い続けていた。その常不軽菩薩は釈尊の過去世であった。

三次元的な仏典解釈では仏典は釈尊の個人的な悟りへの来歴を語ったものである。
しかし、仏典は神話と同様に人類の真理の記憶を語ったものである。

久遠実成の仏とは「我即神也」のことである。常不軽菩薩の経歴は人類のDNAに記録された記憶である。
未だ「我即神也」を完成せずとも、「人類即神也、人類よ、汝ら皆即神也」と宣言し、人類を目覚めに導いてゆく我々会員のこれからの天命を示していると共に、我々一人一人の過去の記憶を物語っているのである。

四次元の理論の果因説では「大初に我即神也ありきとなる。
ことの初めに、100点の神なる自分がいた。それを思い出しなさい。
そうすれば、100点の姿がこの世に顕われるのだよ。それを成就する手段が印に他ならない。」と説かれる
。< ピタゴラスさん啓示録1から>

つづく☆
[PR]

by mppoe-light | 2009-10-20 19:36 | ピタゴラスさん啓示録から

消えてゆく姿☆

消えてゆく姿の教え

どんな業想念が渦巻こうが、『こんなものは自分ではない、消えてゆくものなのだ、と否定すること。
これが宗教の根本なのです』。
そして、『人間は光そのもの、光明燦然たる生命なのだ!とつねに想い、内なる神を呼ぶのです。
ただひたすらに光明燦然たる神、直霊を見つめること、想うことです。これが根本です』(注1 )。

これは五井先生が根本と説かれる「消えてゆく姿の」教えのポイント。
一般的に、一気に「すべては空」と観じることなど困難なため、
五井先生は一歩一歩、消えてゆく姿を行じる道を説かれた。
注目すべき点が一つある。消えてゆく姿の教えは、自己意識、自己イメージの
修正を根本としている、ということだ。

注1「生命光り輝け」P.10-15
<マイミク・ピタゴラスさん 啓示録1から>

世界平和の祈りには、まず始めに 消えてゆく姿の教えがあります。
始めは、「世界人類が平和でありますように」だけでもいい。
でも
本来は、 消えてゆく姿で世界平和の祈り でなければならない。
祈りを続けていけば、
「業想念と本心が別れてくる、そうなったらしめたもの。」←これ五井先生の言葉です。

意識が本心の場にあることで、 業想念は本物ではなく消えてゆく姿(すべては空)だと
認めることができるのに、消えてゆく姿といいながら、意識は業想念の中に居る。
消えてゆく姿を理解するのに 始めは四苦八苦したものです。 

本心と業想念を分ける事、そして・・・
「注目すべき点が一つある。消えてゆく姿の教えは、自己意識、自己イメージの
修正を根本としている、ということだ。」


これがとても大切なことだ・・・と理解できるようになったのは、
やはり 我即神也、人類即神也の印のおかげだと思います。


凡夫は本来的に空なる現象界を見て、条件反射的に反応しながら言葉・想念・行為を現わす(注2 )。
凡夫はその世界の中で自己を定義する。
その自己イメージはプロジェクターにセットし直される。そして、不調和な世界が再生産される。色即是空とは、それらのすべての現象、知覚、反応、言葉・想念・行為、自己定義(イメージ)は無であると言う意味。

この空の教えも『どんな想念が渦巻こうと、こんなもの自分ではない。
空なるものを根拠に自分を定義することはできない。』という自己認識・自己定義の教えなのであった。

つまり、「自分は神以外の存在である」と定義するあらゆる事象、証拠らしきものはすべて空である。
本来性のものではない。無である。すべては赦されている、と言う教えである。


注2 三次元的因果説の凡夫は、外なる現象に対して条件反射的に反応しながら、
言葉・想念・行為を現わす。
四次元果因説の「我即神也」は内なる無限なる神性を、外なる現象界の言葉・想念・行為に顕現する
< 啓示録1から>


ごちゃごちゃしたノイズのような想念に意識を置いていると、
駄目な自分を本当の自分と想いこんでしまう。
そのため 我即神也 という言葉に抵抗感が出るのだと思います。
(業想念の中の罪悪感が「自分が神だとは思えない・・・」と足を引っ張る・・・)

業想念の自分は、3次元世界で創造された錯覚のような幻の自分、
だから、所詮は消え去るだけのもの。

人間と真実の生き方 では、
人間は本来、神の分霊であって、業性ではなく、  
と、はっきり書かれています。

古い過去の自分は、どんどん流して、本来の自分(神の分霊)を思い出さねば・・・です。

だから自分自身に呼びかけています。
我即神也! と。
[PR]

by mppoe-light | 2009-10-19 19:43 | ピタゴラスさん啓示録から

果因説のいわれ☆

果因説の謂われ(いわれ)

そもそも、何故「果因説」と言われるのか。西園寺昌美会長によると、
結果はすでに心の中に存在している「無限なる愛、健康、繁栄、幸福、、、、」である。
こういった無限なるものに心を合わせていけば、自然に原因はそれについてまわってくる。

『自分の意識を自分の目指す最終目標(我即神也)に合わせるのである。
要するに、意識を目指す結果に集中させて行けばよいのである。』(注1)

会長にとって無限なる神性は結果であり、その神性に意識を集中
させることによって、それを顕現してゆくが故に「果因説」と説かれる。

会長は因果説とは異なる生き方を強調するために果因説と命名された。
伝統的な解釈では、神を「第一原因」とも呼んでいるので、イメージする神性を原因(因縁因果の原因とは異なる)として、現象界に顕われた姿を結果と呼んでも同じことである。

果因説とは空即実相・本来因果・縦取りの生き方(注2)・実相顕現(注3)のことである。
会員の神性意識の土壌が出来るまで、五井先生は果因説を封印なさっていたのである。
地に足の着かない観念論、偽善、実相を説きながら想念の法則で人を裁く矛盾をご覧になった五井先生は、あえて封印されたかのようであった。

注1 白光誌2003/6
注2 空即実相・本来因果・縦取り、いずれも「神と人間」
注3 白光誌2001/9

<ミクシィ、マイミクのピタゴラスさんの啓示録2から>


この日記に、頻繁に使ってる 果因説 という言葉があります。
本来なら因果説が普通なのですが、 今 私ども
世界平和&印、呼吸法を実践しているメンバーは
果因説という生き方を行なっています。

「果因説」・・・始めは意味を深く考えていなかった私ですが、
ピタゴラスさんの啓示録を読み とても深い意味があることに気づきました。
さらに今は、因果説から果因説に移行するのは当然のことで、
次元上昇には必要なものだ・・・と思っています。

先日、この日記でも書きましたが・・・
 導師Kさんとの会話をしたことで、また啓示録を読み直しています。
最初に送って頂いて読んだ時には 深く考えないままサラリと読んでいた部分が
今は 頬をパシッと平手打ちするようなインパクトで 目に飛び込んできます。

同様に、五井先生の 「神と人間」も
「人間と真実の生き方」も 今は新しい段階で心に入ってきます。

人間の理解の仕方には段階があって、面白いものだなぁ・・・と思います。 
[PR]

by mppoe-light | 2009-10-18 19:38 | ピタゴラスさん啓示録から