カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 144 )

だからこそ光明思想徹底行

朝、神事を行なってから出掛けても、些細な出来事で
自己定義「我即神也」はあっというまに吹っ飛んで意識は下がってしまう・・・。
かなしー(T T)
かなしーけど、これも消えてゆく姿で、本来の自分は光輝いているんだと
ド根性で思い直す。
へこむより、思い直した自分を褒めてあげることにしよう。 
「よくやった!あんたはエライ!」

失敗しても、「我即神也」へ意識の修正をしようとする自分を褒めてあげようー。 
「私は本来、我即神也 、私は素晴らしい、!」
毎日が抜き打ちテスト?みたいなもんですね。
自分の(神意識の)実力アップに繋がると思えば、
何があっても、「いらっしゃい いらっしゃい」って感じで全てがOKになる。

素直に、シンプルに、そして明るくやっていきたいものです。


啓示録から
神の無限性
ここは、バッサリ省略して・・・)

定義が何故重要なのか? 自己定義がその人のすべてを決定するからである。
神は無限なる愛、英知、歓喜、幸せ、感謝、生命、健康、光、エネルギー、パワー、成功、供給である。
自分はその神であり、人類も同様に神である。

この定義はその通りの平和そのものの世界を創りあげる。これが宇宙の法則である。
観測者は量子の姿に、観測者が期待する姿を見る。人間関係もしかり。
人は他人の中に期待した姿をみる(ピグマリオン効果)。

自分の世界はすべて「自分が自分をどう定義したか」の結果である。
だからこそ、光明思想徹底行は重要である。
この行は神・自分・人類の定義を自分の意識に再徹底する行である。

********************************************

光明思想をよくかみしめてみよう。
神は無限なる赦しであり、私も無限に赦され、私は自分と人類を無限に赦している。
神は無限なる歓喜であり、私も人類も喜びに満たされている。
神は私・人類の想念行為によって不機嫌になることはない。
私・人類の処罰、生贄によって神は満足感を取り戻し、機嫌を直すことはありえない。
神は無限なる愛であり、私・人類と一つである。私・人類の悪行、失敗によって神は離れることはない。
神は我々を蔑むことはない。神は無限なる豊かさであり、私も人類も無限なる豊かさに恵まれている。

私も人類も自分を正しく評価できれば、因縁因果の世界で体験したことの無い豊かさを体験することができる。
世の富裕層は因縁因果の善徳によって豊かだが、神人たちは神の性質によって豊かさの中に生きることが出来る。
それがどのように、如何にしてと言うことは法則の中にある。
それが説明できないことでも、神人には調和・健康・豊かさなどすべての神性を顕わす大天命がある。
人類が未だかつてやってのけたことがないかもしれない。
しかし、神人には大天命がある。その大天命は間違いなく成就するのである。

神は無限なる神性のすべてであり、「無限なる私」である。「無限なる私」以外に「私」と言う意識は無い。
あなたの「私」も「無限なる私」以外のものになることはできない。
「無限なる私」が役割(大天命)を持って様々に顕われた「私」があるだけだ。
神の私、意識、生命、イメージは無限であり、無限なるものは一つである。

2008/05/27

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by mppoe-light | 2009-12-13 10:42 | ピタゴラスさん啓示録から

イメージについて

「弟子に心の準備ができたとき、ちょうど師匠がやってくる」

この古代中国の諺は、東洋思想の基本になる考え方をよく表わしています。
それは、人間の心の中で起こることと外界で起こる出来事、つまり内なる世界と外なる世界の微妙な
つながり方を示しています。
C・G・ユングはこの考え方を共時性(シンクロニシティ)とよび、”意味のある一致”と定義しました。
・・・・

と始まる、ユング心理学者さんの、「タオ心理学」という本の冒頭です。

10年以上前の本なので 今更・・・の内容なのですが、

「弟子に心の準備ができたとき、ちょうど師匠がやってくる」この諺はやっぱり良く出来ているなー・・・・と思いました。

今、啓示録 を読んでいます。 、日記に載せたいという目的もあって、繰り返し読んでいます。
これが1~2年前だったら、こんなに夢中にならなかったと思います。
まず、内容が今ほど理解できなかったでしょう~。(笑)

今だから 読むことの出来た啓示です。
ちょうど富士も4次元になり、果因説の共時場もできました。 だから
私の準備ができたとき、ちょうど必要なものに出会えた・・・ という感じ。

きっとこれまでも、そうだったのだと思います。  

↓今日は、イメージについてです。 

”イメージ、祈りと念力”

自己意識(自己イメージ、自己定義)には大別して、「我即神也」と「我即非神也」の二種類がある。
両者に普遍的に働いているのが、「想念の法則」=「プロジェクター作用」である。
自己意識は想念の法則・プロジェクターを通して形ある世界を創りなす原因である。

「我即非神也」の意識は輪廻する世界を創り、「我即神也」の意識は神性顕現を行う。
その現象世界を創造する作用を強化するのが、思念の力、イメージ力である。

「我即非神也」の自己意識の中で、念力、イメージ力を使うと、一時的にうまくゆくこともある。
しかし、最終的にはその「我即非神也」の自己意識を修正せざるを得ない状況に行き着くことになる。

「我即神也」の自己意識の中で、イメージ力を使うことは、果因説の生き方である。
それは神性顕現であり、祈りである。神性顕現も想念の法則を通して成就する。
別の言い方をすると、想念の法則の正体は神の無限なる創造力そのものであり、それを誤用している
のが因縁因果の法則である。
自己意識を「我即神也」に高めようとせず、意図的にこの想念の法則を誤用するのが念力である。
誤用の結末は自己意識の修正だが、それには痛み、苦悩が伴う。
そうならない為に、「我即神也」のエネルギーを高める方法がある。
しかし、それは念力ではない。
自己意識が「我即神也」にあるからであり、「我即神也」は太初からあるもの、宇宙の生地としてある
ものだからである。
「我即神也」のエネルギーを高めて、神の姿を顕現することは、大天命であり、
宇宙神の意図するところである。


”イメージ力”

西園寺由佳会長代行は祈りにもイメージ力が大切と言われた。

『神様と一体になれる心の喜びや至福、愛と光そのものになっている自分をイメージする。
生きとし生けるものすべてを救い上げる光を放射している自分の姿を、強く強く脳裏に焼き付けていく。』(注1)

西園寺昌美会長もイメージ・トレーニングを推奨しておられる。

『今やイメージ・トレーニングの時代である。彼ら(スポーツ選手等)は、
人類すべての中に無限なる能力、無限なる英知が存在しているという真理を知らなくとも、
その力を発揮しているわけであるから、我々のように真理を識っているものがイメージ・トレーニ
ングをすることは、凄いことなのである。

” 我即神也”という真理そのものをイメージするわけであるから、驚異的である。
我々自身が神そのものになったつもりでイメージ・アップする。

神の姿とは個我が全く無く、無限なる愛、無限なる英知、無限なる生命そのものである。
家族に、人々に、人類に与えつづけるのみの無限なる愛、無限なる光に徹するのである。
その神の姿を自分の心の中にイメージする、ただそれだけで、心がやわらぎ、
感情が鎮まり、トラブルが消え失せ、すべてを愛と感謝の心をもって赦せるようになるのである。
これが我々の目的である。

神である自分は常に光り輝き、愛に満ちあふれ、生命生き生きとしているものだとイメージしてゆく。
そのうちにそれが習慣となり、潜在意識に蓄積されてゆく。
それを繰り返してゆくうちに自然に、” 我即神也”の境地そのものに達してゆく。
真の真理への目覚めに到達できるのである。』(注2)
(省略)
2008/05/02

注1 西園寺由佳会長代行白光誌2008/5 知識とイメージ力
注2 白光誌1994/4 文章の一部を省略いています。


”メイクアップからイメージアップへ”

西園寺由佳会長代行のあるエッセイを思い出してみよう。

『想像力豊かな女の子の発言にハットさせられた。
景色さえも、自分の意識次第で美しく輝かせることもできれば、
無味乾燥な存在にさせてしまう。』(注1)

意識と言う次元を想定し、そのレベルを変えると、このように同じものが全く違って見えてしまう。
我々にとって、最も根本のことは『自分が自分のことをどのように見ているか』である。
そこで、
会長代行の言葉を自己意識に当てはめると、次のようになる。

『自分自身さえも、自分の意識次第で神として美しく輝かせること
もできれば、凡夫のような存在にさせてしまう。』

この『自分が自分のことをどう見ているか』が自分の運命を決めているのだから、
人間にとっては一大事のことである。

我々は無意識のうちに自分に価値判断を加え、凡夫の自分を引きずっている。
その凡夫の自分と言う価値判断を退け、本心の自分を言葉の力で呼び出すのが祈りである。
現象の世界には無くとも、神の意識の世界に既に成就している姿を呼び出すのが祈りである。
想像力を使ったイメージ力は祈りの力を増幅するブースター(増幅装置)である。

世界平和、神の姿は現象世界では見つけがたいが、それは既に成就している。
世界人類即平和也、我即神也、人類即神也の姿として成就している世界がある。
祈りはその真の姿を呼び出す行為であり、思い出すプロセスである。

では、どのようにすれば、この原理を効果的に使えるのか。
無意識の自分に対する価値判断をやめること。本心、神としての自分自身を崇めること。
神なる自分と対座し対話し一つになること。つまりは、我即神也を極めることである。

そのための、西園寺昌美会長の推奨宣言文は次の如くである。

『私はすべてを知っている。私は真理そのものだ。私は絶対だ。
私は完全だ。私は神そのものである。私は大調和そのものだ。
私は自由そのものだ。私はすべてを創造する。私は出来る。私は在る。
私は永遠。私は全知全能だ。』(注2)

自分が神を顕現する前に、我即神也のイメージをしっかり持つ必要がある。
三次元世界で毎日メイクアップ(化粧)するのと同様、
我々は四次元軸(自己意識軸)を使って自分を毎日イメージアップする必要がある。

イメージの世界、自己意識軸上で『自分を磨き高め上げる』のである。
三次元に限定された現象界で『自分を磨き高め上げる』より、イメージの世界で『自分を磨き高め上げる』方が、易行道であり、効果的なのである。
2008/05/06
注1 白光誌2008/5 想像力について
注2 白光誌1996/4

ピタゴラスさん啓示録
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by mppoe-light | 2009-12-06 22:52 | ピタゴラスさん啓示録から

宇宙と言うウェブ

私の意識に合わせて私の世界が存在します。
すべては私の広がりだから、相対はない。
だから対立もない、だから無限なる調和、平和。

と、 神事を行ないながら こんなこと考えてました。
しばらくしてから、
私の世界と(宇宙っていってもいいけど)
私以外の人の宇宙とは どんな関係になっているのだろうか・・・??? と考えてしまいました。

で、 インドラの網 の部分を思い出し、 「なんかヒントになること書いてあったけー」
と読んでみました。



インドラの網

(省略)
神なる自分をイメージした者は必ず神なる自分を発揮する状況を引き寄せ、神なる自分を体験する。
神を顕現する。
究極の事実の宣言、確信の宣言、つまり祈りは感謝につながる。そして、祈りは神たる自分の栄光を思い出すことである。我々の自己意識の究極は「我即神也」であり、神の自己意識の一つが我々である。
我々は宇宙の自己意識である。宇宙は分霊が抱く自己イメージを通して宇宙自身を表現しつつある。
分霊の自己は自己イメージを通して宇宙を顕現しつつある。この二つは一つである。
だからこそ、『自分・私』という意識は神聖なのである。生命にしか意識はなく、
意識は神の広がりであり、延長である。

(省略)
あなたが神を顕そうとしているときは、宇宙があなたを通して顕われようとしているときである。
この二つは一つである。よって聖典に曰く、「汝の神を試みてはならない」。
神は人が顕現すべき存在である。神は人が顕わすことによって顕われる。
神はあなたが顕現しようとするところに顕われる。必ず、神はあなたの意図に応ずるようにあなたの体験する世界を創りだす。恣意的に、あるいは何かの審査結果によってあなたの意図に応ずる、
応じないと言うことはない。
(省略)
五井先生は「祈る肉体側と救済の神々と両方からトンネルを掘っていけば、いずれ、両者は通じ合う」と言われた。この科学的な意味は次の如くである。
『人が一方からトンネルを掘るとき、必ず神は他方からトンネルを掘る。この二つは必ず出会うことになる。
宇宙から切り離された人はなく、人を内に含まない物質だけの宇宙はない』。

あなたの意識は宇宙と言うウェッブ( 織物、インターネットシステム) 上にあり、孤立したことはない。「孤立している」と錯覚することはできても、孤立することはできない。その錯覚がなくなるや否や、
あなたの意識が意図することは必ず成就する。

「宇宙から切り離された自分」と言う自己イメージは凡夫の世界を創造する。
その世界の創造は神の創造力= 想念の法則= プロジェクターの働きによるのだが、
宇宙のウェッブを通して創造(仮構)作用は成就しているのである。

「我即神也」を如何なる手法によって顕現するのか。祈りと印と神事によってである。
これらもまた、宇宙のウェッブを通して成就する。あなたが単独に、
祈り、印を組み、神事をなすことはない。
そういった時には、あなたの本心、守護の神霊、諸神も必ず祈り・印・神事に参加しているのである。

さらにウェッブを通して、人類規模の光のネットワークが輝き合い、
人類が真理に目覚めるよう促しているのである。
従って、個人人類同時成道と言われる。

個人個人の自己意識軸も宇宙全体のウェッブの中に含まれている。
ウェッブも自己意識軸の座標に従って、多層に存在する。同じ層のウェッブ上の意識は磁力のように互いに引き合い、一つの共磁場を形成する

インドラの網(注1)

インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網の結ぶ目には、一つ一つに宝珠がつけられている。
その一つ一つの宝珠は他のすべての宝珠を映し出す。
その他のすべての宝珠を映し出す宝珠の姿が、再び他のすべての宝珠に映し出される。
孤立し、一つの独立者として存在するものはない。人間はインドラの網にある宝珠の如き者である。

一人の人間には宇宙全体の情報が含まれている。人間は無限なる神の一面であり、ホログラフィー(部分に全体の情報が記録されている)である。一人の人間がそのまま、アカシックレコードなのである。
啓示録から


神の自己意識の一つが我々である。我々は宇宙の自己意識である。
宇宙は分霊が抱く自己イメージを通して宇宙自身を表現しつつある。
分霊の自己は自己イメージを通して宇宙を顕現しつつある。
この二つは一つである。


こういった内容は、以前から大好きでした。
どこで聞いたのか、読んだのか、 
松尾みどりさんのレクチャーテープだったか、ラムサだったか、 憶えてないけど
人間が存在している意味 を見つけたような気がしました。 

こんな風に言ってもいいと思う。
「宇宙は私たちを通して自分(宇宙)の顕したものを体験している」 そう思うと、わくわくして嬉しくなります♪
ただ、、周りの仲間に このことを話すと、
みんな冷ややかな反応だったので 長い間黙ってましたが(笑)

で、はじめの疑問が解けたのか・・・・というと、 宇宙と言うウエッブが、形としてしか理解できなくて、
頭の中に、網目の模様しか浮かばない・・・。。。マスクメロン状態。。。
結局、何も解決しなかった・・・。 (T T)
でも、
それぞれの宇宙はあるんだよ、形はないけど。
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by mppoe-light | 2009-12-05 23:03 | ピタゴラスさん啓示録から

浄めから顕現へ

ピタゴラスさん啓示録から

この部分は読むたびに新しい。
読むたびに、 「あ、そうだったよー」と、脱線していた思考回路を修正します。

果因説は大きな大きな救い。でも習慣化してしまった思考回路を
急に修正するのは、正直言って難しい、 が、

朝の神事があります。呼吸法の印もあります。来年からはピラミッドも。
 
何から何まで至れり尽くせり。 すべてが用意されてあります。
だから
神さま・五井先生の計画はすごい! と思う。


「歴史の浄め」から「神性の黎明(顕現)」へ

自分が体験することは自己意識= 自己イメージ= 自己定義の結果である。
現実世界に変化をもたらすものは自己意識の変換しかない。
自分に対する定義、見方考え方を変えることが自分の人生を変える唯一の方法である。
「我即神也」という本来の自己意識に戻ることである。

神のように語り、念じ、行為する。そのように決意する。
そのようにイメージする。これが2 0 0 8 年の神事の主旨である。

自己意識が自分の住む世界を創造し、自分は意識した通りのことを体験する。
これは宗教のみならず、先端科学( 量子力学) にも共通する法則である(注1)。
この観測効果の結論は「自己意識を高め上げる」に尽きる。
ここに果因説が加われば、宗教の奥義が完結する。

それは「我即神也の意識は本源の意識であり、永劫不変の意識である。
他の意識は空性なる意識である。我々はその我即神也に意識をフォーカスすればよく、他の意識は< 放っておいてよい> と言うものである。(「放っておく」ことができないところに、消えてゆく姿のスキルが有効になる。)

本章では、観測効果+ 果因説の真理を再整理し、習慣的な思考回路に修正を試みる。
真理は次のように語りかける。

①問題を指摘し、分析し、解決を図ることをやめなさい。

完全に調和した、平和な世界を呼び出しなさい。
(2008 年2 月3 日昌美先生の吹雪の中の法話参照)

②石(不調和、欠点、悪)をパン(調和、善、神性)に改めることはやめなさい。

パン(調和)は無限なる供給によって自分の内より顕しなさい。
(聖書参照)

③煩悩を断じようとすることをやめなさい。業生を浄めようとすることをやめなさい。

光り輝く本心、我即神也を静かに見つめ、それを顕現すること
に専念しなさい。

④欲しいものを求めることはやめなさい。

現実の姿はさておき、豊かで、欠けたるものなき自分の姿を想像しなさい。

⑤他の人や他国の業生を浄めることをやめなさい。

他の人や他国の神性を認めなさい。

⑥苦悩や悲惨さを浄めることはやめなさい。

人類一人一人が真理に目覚めるよう祈りなさい。祈りと印によって、人類が自らの神性に目覚めるよう促しなさい。(注2)

⑦一歩下がって、二歩上る。向上を続ければ自分は神に近づくと言う発想をやめなさい。

あなたは即神そのものなのだ。この意味を考えてみなさい。
あなたは神以外にはなれない存在だ。あなたは光り輝いた神性そのものだ。
その本心に心を向けなさい。その本心を呼び続けなさい。

⑧過去の歴史を浄めることはやめなさい。

輝かしい未来の一転のみを見つめ、それを現実に引きつけなさい。(注3


以上は次の昌美先生の言葉に要約される。

『まず初めに、それ(我即神也)はあなたの中に既に現実のものとして存在しているのだと、想像しなければなりません。現在の不完全なる自分自身はさておき、想像の中で、自分が光り輝く神そのも
のになっていると想うのです。』(注4)


問題を認める意識は問題をなくせないのである。
問題を解決しようとして、分析し、問題と戦おうとすることが、問題に直面する自分を創り出してしまう。
何かを欲する意識は、何かが不足している状況を創り出してしまう。
業生(カルマ)と対抗する意識は業生と向き合う自分の体験を創り出そうとする。

業生を相殺しようとする意識も根源の意識ではない。
徐々に業が少なくなると言う意識も根源の意識ではない(注5)。
太初から業生のない「我即神也」の意識に心を集中させる、これが真の解決方法なのである。

自分でも人でも、自国でも他国でも、欠点を指摘し直そうとしないことである。
そんなものを凝視すればするほど、不完全な自分、不調和な国家を創り出してしまうのである。

自他の神性を拝し、各国の本源の平和な姿を祝福するのである。
お金、人間関係、肉体の不調、、、つまり肉体我の苦悩は意識すればするほど、沸き起こるかのようである。際限が無いかのようである。
そこで、祈りによって、一定時間、肉体我のことを意識から外してしまうことが必要である。
「不完全な自分はさておき、個人のことはさておき」祈りの中に入ってしまうのである。

一定の形式に従って祈る、あるいは印を組むのもよし。自由に我即神也の空想に浸るのもよし。
妙好人が唱名に明け暮れ、現世はさておき、極楽浄土の生活を夢見た如く、我即神也の夢・世界平和の夢を追いかけるのである。

『前生の因縁と神人の顕現とは、一切関係ない』(注6 )ので、現在の自分とは関係なく、自分=神の想像、イメージトレーニングに励むのである。

我即神也を顕現する第一歩は、「我即神也の意識が自分の本心として、永遠の生命として存在している」ということを信じることである。
第二歩は、「我即神也」の姿を自分の想像力でイメージすることである。
実在する「我即神也」と現象の自分をつなぐ糸口は「我即神也」をイメージすることである。


最後は、「神との対話」で神と著者のニール・ドナルド・ウォルシュの間で交わされたジョークで締めくくりましょう。(注7)

少女はクレヨンで絵を描いていました。神様の絵を描いていました。ママは言いました。
「神様がどんな方なのか、誰も知らないのよ」。
少女は楽しげに答えました。
「私が描いてしまうまで待っててね、、、」。

ウォルシュは原稿を書いていました。神様との対話を書き記していました。誰かが言いました。
「神様が何を言うか誰も知らないんだよ」。
ウォルシュは微笑んで言った。
「わたしがこの本を書き上げるまで待っててくれないか」。

白光の会員さんは何かをイメージしていました。我即神也をイメージしていました。
誰かが言いました。
「神様の姿なんて誰も知らないんだよ」。
会員さんは嬉しそうに言いました。
「わたしは我即神也をイメージして、神事をしている。神を顕現するまで、もうしばらく待ってて下さい」。


2008/04/11
注1 参照2008 年4 月6 日昌美先生の法話
注2 参照白光誌2007/ 8
注3 参照白光誌2006/ 12
注4 引用白光誌1995/ 8
注5 三界(現象)の世界と天国というものは全然、別なのです。違うのです。一日増しによくなるというのではなく、初めからいいのです。これが法華経、神道の極意です。
五井昌久著「明るい心」p 18 6参照

注6 白光誌1 99 7/ 1 0
注7 「神との対話」ニール・ドナルド・ウォルシュ著サンマーク出版Ⅰ巻8章
⑦一歩下がって、二歩上る。向上を続ければ自分は神に近づくと言う発想をやめなさい。
この言葉はすごいなーと思いました。 ここまで言ってくれる人ってなかなかいない。
軌道を外れないよう、釘を刺された感じ(笑)
やっぱり、ぬるま湯状態では人間って目覚めないんだよねー、なかなか。
だから人生にはあちこちに生きる難所が設けてあるんだけど。
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by mppoe-light | 2009-12-03 19:37 | ピタゴラスさん啓示録から

「自分を愛し、人を愛す」

ピタゴラスさんの啓示録から

『自分を愛し人を愛す』

私は再び、例の菩薩に指導を受けることになった。

「人の持つプロジェクターには様々な意識が送り込まれている。
これは、『自分は肉体である』という自己意識から派生したものだ」と菩薩は言いながら、ある人の意識を言葉にして見せてくれた。

『我々は肉体に限定された存在だ。死は最も恐怖すべきものだ。
神などいない。いたとしても我々に罰を与える神だ。
私の怒りと恐れは私の本能であり、最も正当な感情だ、世の基準となるべきものだ。
人生に起こることの原因は常に外部にある。自分はいつも、その外部の存在の被害者である。
自分は愛される資格がなく、苦しんでも仕方がない存在だ。
自分の罪深さを償うには、自分が苦しみ続けることだ。

外部の物質を得ることだけが私に幸福をもたらしてくれる。嫌な人が変わるか、いなくなれば私は幸せになれる。ゼロサム社会だから、誰かが不幸になれば、私は幸福になれる。
人が幸福になれば、自分は損をする。人はすべて別々で利害は常に対立する。』(注1 )

「この他にも、こういう意識もある」と言って、菩薩は別人と思われる人の意識を見せてくれた。


『宗教の教えは大切だ。人に優しくすべきなんだ。私は本来、悪い人間だ。人に優しくしてみよう。
それが完璧にできたならば、私は人からも愛される人間になれる。
そうしたら、私は自分を心底から愛することができる。悪い人間も帳消しにすることができる。』


「いろんな人がいますね。世の中には唯物的な人が多すぎます。宗教カルマもあるし」と私は言った。

「全部、これは君の意識から読み取ったものだ」と菩薩。

一瞬、間が空いた。
二人同時に一言ずつ。

「まさか他人事のように言うとは思わなかったよ」と菩薩。

「まさか自分の事とは思わなかった」と私。

「妙に息が合ってましたね」と私はボケたことを言ってしまった。

「お互い、逆のことを言いながらね」と菩薩はすかさず突っ込みを入れてきた。

それから菩薩の説法が始まった。

肉体人間観、凡夫観を持っているからと言って、誰も君を責めることはない。
そういった意識はいつかは消えてなくなるものだ。
素晴らしい教えを説く聖なる人を尊敬する人々の集まりですら、非友好的な人間関係になりがちだ。
否、必然的にそういう結果になる定めになっている。

聖なる人を高く尊敬する人は、往々にして自分を低く汚れを持った人間と観る傾向にある。
気が優しくて、まじめで、人を大事にしようとする善意ある人でも、自己意識が低い場合が多いのだ。

その低い自己意識は、人から大事にされない状況・体験を呼び寄せるのだ。
そのような人は傷つきやすく、感情がすぐ乱れてしまいやすい。
そうすると、益々自己評価が低くなる。
そのような自分より、先ず人を愛するように、と言う教えは、決定的に救われない人間を創りだす。
宗教組織にとっては、それがまた好都合なのだ。宗教組織の継続が約束されるからだ。
花粉症の人は根本的に治癒しなくとも、少しの気休めがあれば耳鼻科に通うことになる。
結果的には耳鼻科医が繁盛し続けることになる。それと状況は全く同じだ。

自分を神と拝み、人を神と拝む(注2 )。私はそれを訓練してきた。あなたもそうしなさい。
自分を神と拝まないで、偉い人を拝むことがいかに危険なことか、今言った通りだ。
だから、私は君の前に三度目に現われることはない。

「五井先生!と崇拝することはどうなんでしょう?」と私は尋ねた。

五井先生はきちんと明言されている、『五井先生は、皆さんの本体なんです。
皆さんの本体も、私の本体もみんな一つなんです。宇宙は一つだから』(注3 )と。
凡夫はいつも、そういうメッセージを聞き逃すだけだ。だからと言って、誰も責められることはない。
人類即神也のプロセスがあるだけだ。人類はプロセスの中で目覚めつつある。

五井先生と自分とは自己意識軸で繋がっている。
五井先生が一度に大勢の人、一人一人を指導できるのは、各人の自己意識軸を使っているからだ。

自己意識の深いところに五井先生はおられると言うことだ。
真理は『自分を愛するものは、人を愛することができる。人を愛するものは、人からも愛される』だ。

最初にすべきことは、自分が自分自身を無条件に愛することだ。『我即神也』を極めることだ。
『最も愛情深い人間とは、最も自己中心的人間だ(注4 )。』
これが「人間と真実の生き方」にある『自分を愛し、人を愛す』の意味だ。

『我即神也』『人類即神也』のメッセージは『自分は神性そのものだ。
すべての人も、私と同様、神性そのものだ』と言うことである。
『我即神也』が初めになくして、『人類即神也』は成立しない。
しかし、『人類即神也』なくして、『我即神也』は完成しない。

自分を神と拝み、人を神と拝んだ時に湧き出る光明波動は人類を慈しんでならない。
『人類に目覚めを促す光明波動を発する神なる自分』と言う自己イメージ
を持ち続けなさい。これは九合目の教えだ。

白光誌の表紙の裏にある『世界平和の祈りをするところに必ず救世の大光明が輝く』の一つの意味を教えよう。
この説明は、白光の教えの初めの教えであった。言わば、1合目の教えであった。
五井先生は『救世の大光明を放つ自分』というイメージを作る訓練を、我々にさせて下さったのであった。
ところが、まさしくこれが九合目の教えであったのだ。五井先生の深謀遠慮には全く恐れ入る。

注1 「LoveistheAnswerやすらぎ療法」ジェラルド・G・ジャンポルスキー、ダイアン・V・シリンシォーネ春秋社参照

注2 「自分を拝み、人を拝むのが一番いいのです。それが信仰の極意であり。根本です。」(白光誌1967

注3 五井昌久著「光明の生活者」P.38
注4 「神との対話」 ニール・ドナルド・ウォルシュサンマーク出版引用


啓示録は、科学的に宗教的に、丁寧に緻密に著述されてあります。
理論的にも納得ゆくように物理学が用いられ、今私達が行なっている 消えてゆく姿、本心と業想念、
祈り、印 果因説の意義 などが解説されています。

今までは ぼんやり理解していただけの さまざまな神事の意義が、すっきりと納得できる内容でした。
(むずかしい部分は横に置いて・・・(笑)

これからは、ピタゴラスさんの啓示録のような法話(or講話)が 白光にあってもいいと感じました。 
必要としている人がいると思います。

ピタゴラスさんに啓示録の使用をOKして頂いてから、

掲載するのにややこしい・・・と思った部分は、ザックリ省いたり
部分的にだけ抜粋したり と、ホントに私の好きなように掲載させてもらっております。
(量子力学やエコー効果、ピグマリオン効果・・・ などの部分は
思いっきりバッサリ切っております。(^^;)
こんなに自由に使わせて頂いて、無限なる感謝です。

 ・・って、こんな風に書くと 啓示録も今日で終わり?みたいな
雰囲気になりますが・・・、 まだ終わりません。(笑)
無限なる愛に 感謝しつつ、
今後も、自由にコツコツと続けていこうと思います。
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by mppoe-light | 2009-11-26 23:04 | ピタゴラスさん啓示録から

「私」の意識

「私」の意識があるところに世界が存在します。私の世界です。
「私」という意識はもともと自由自在なんだけど、高次元に入ることよりも、
もっぱら3次元に留まることを選んでしまいます。(無限なる進歩)
そして、その時々の意識の高さに応じた世界を体験しています。

自己意識を上昇させることを難しくしているのは、
私の場合、
潜在意識にある 恐れや不安の想いが強いから・・と思うのですが、
でも・・・、

「前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。」
だから 我即神也  です。
朝の神事があるから心強いです。 呼吸法の印があることがありがたいです♪


神性顕現の時代

あなたの今の人格が悟りを開くのではない。そうではなく、太初より救世の大光明の一員であり、
救世主として生まれてきた神。久遠実成の仏であり、
アブラハムより先の時代にも輝いていたキリスト、あなたの直霊神、本心が顕われてくるのである。
その時、あなたは別人が顕われてくるとは思わない。
『あなたの神』、我即神也が顕われてくるのである。

自己意識軸上を移動する『自分』はあなたの意識の座( 座標)に現われてくる意識を自分とみなしていた。
その『自分』は無批判に現われてくるものを概ね100%の確率で自分と思ってしまう。
いかに惨めで、恐怖と怒りに満ち、不調和であろうと、失敗した姿であろうと、
現われたものを自分と思ってしまっていた。

しかし、『自分』は「消えてゆく姿と世界平和の祈りの行」と「無限なる赦し」と「我即神也・
人類即神也の宣言と印」によって次第に訓練されてきた。
つまり、『自分』は本心と業想念の区別の仕方が解ってきたのである。

その訓練された『自分』が「直霊神こそが自分である」という確信を持つとき、
神の姿が顕現し始める。
あなたの『自分』は神性が顕われたとき、「それは自分ではない」とは絶対に言わない。
『自分』が自分に目覚めたのであり、真の自分を思い出すだけだからである。

ただ、『自分』が自分の神性を認めてこなかったため、神を顕わす
体験をしなかっただけである。

******************************************************

神性の顕現は我々の天命であり、人生の目的そのものである。
この顕現は自己意識を次元上昇させる領域であるから、自力の領域ではない。
自己意識の上昇は、他人が助けに入る余地は全くない。
自立の領域である。自己意識軸上の上昇はエレベーターの上昇のようであり、
トンネル効果である。

自己意識軸のいと高きところ、それは「我即神也」である。
それこそが聖地であり天国・御国にいたる狭き門である。

自己意識より諸々の意識・想念・信念が派生する。すべての想念の背後には自己意識がある。
意識・想念・信念はプロジェクターを使って体験を生起させる。
体験は罰によって完結するのではなく、自己意識の軌道修正を促すように生起する。
つまり、因縁因果・想念の法則である。これが一つのパラレルワールドを形成する。

それぞれの自己意識にはそれぞれのパラレルワールドが派生している。
いくつかのワールドの中で、最もエネルギーの高いものが肉体界で体験されるのである。

最も高い自己意識・我即神也に派生するワールドは天国であり、御国と呼ばれる。
既に出来上がっている世界である。因縁因果によってできた世界とは別世界である。
既に出来上がっているから果因説の世界である。

太初に『我即神也』ありき。我即神也は原初の意識であり、
永遠の生命である。
生命の響きは言であり、言によって神の歓びに溢れる世界が生まれた。
その神の歓びに溢れる世界を、我々は肉体界で体験することを選択したのである。
それは必ず大成就する定めとなっている。

宇宙神が問題視しているのは自己意識軸の領域のみである。
無明から生起した世界のすべてについて、宇宙神は不問に付しておられる。

それとは反対に、「我即神也」から生起する世界では、無為自然の内に必要なものはすべて与えられるのである。
自力で積んだ徳によって与えられるのではない。
宇宙神の賜物を分身たる直霊神が天命として受継ぐのである。

******************************************

時至れり。いよいよ、準備段階から本番の時代に入ったのである。
会員一人一人が『我即神也』の世界を肉体界に顕現する時代になったのである。
直霊の響きが言葉・想念・行為に顕われ、肉体・運命にも顕現し始める時代になったのである。

自己意識が変われば、自分が体験する世界も変わる。
我即神也という自己意識が定まれば、自分が顕わすものが神性そのものになる。
すべてが変わってくるのである。
<ピタゴラスさん 啓示録>
2008/02/28


※トンネル効果
古典物理学で考えると、アルファ粒子はエネルギーの壁を越えて、壁の外には飛び出せない。しかし、シュレーディンガーの波動方程式によるとアルファ粒子には壁の外に存在する確率がある。
実際にアルファ粒子は壁の外に飛び出して来る。これがトンネル効果と言われる現象である。

それと同様に、一般的に考えると、凡夫から神に至るにはとうてい越えることができない壁がある。
無限の努力をしても、その壁を越えることはできない。しかし、実際には壁を越えたところに、ある確率
で神としての自分が存在している( 例えば凡夫①②③、、、70%、菩薩① ②③ 、、、20%、神① ②③ 、、、10%)。そのため、人は壁を越えて神の領域に入ることができてしまう。
<ぴーさんの啓示録の解説>
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by mppoe-light | 2009-11-22 22:28 | ピタゴラスさん啓示録から

「自分が自分をどう思っているのか」



昌美先生 次元上昇 から

人間が本当に識らなければならないことは、自分の本性に対して畏敬の念をもたねばならない、そのことなのであります。
人間は決して弱きものでもなく、不完全なるものでもありません。人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。

初めから自分自身に対して畏敬の念をもって接するのです。自分の中にいかなる不完全さが存在ようと、
決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです。

人間の多くは、業性のみの己を見つめ、決して本心の自分、輝いた自分、神そのものの自分、
完全円満なる自分を認識する眼をもってはいません。まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。

”我即神也”  この たった四文字の中にすべての真理が含まれ、
人間そのものが言い尽くされているのであります。
自分が神なら”人類即神也”、人もまた神です。人間即神也そのものなのです。
自分自身に畏敬の念をもって接すると同時に、すべての人間に対して畏敬の念をもって接していかなれば
ならないのです。

今生に起こることはすべて偶然ではなく必然です。前生の因縁をどうしても今生において消さなければ
ならないことも多々あるものなのです。
しかし、前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。

自らの前生の因縁に把われるか把われないかは自分次第です。
把らわれつづけている人は、なかなか自らの上に神を顕現することは出来ませんが、
把われていないならば、神そのものを顕現することが出来るのです。

いかなる状況の人も、因縁は因縁で超えてゆかねばならないものです。しかし因縁とは別に、
自らを真理の光で輝かせることは出来るのです。
真理を実行する人として、
我即神也の宣言をし印を組みつづけてゆけば、いつか必ず神人としての自分を顕現することが出来るのであります。必ず、絶対に。
(1997年10月)



ピタゴラスさん 啓示録から

神との面談

あなたが存在している限り、いかなる状態、状況にあろうとも、常に自分は自分を意識している。
つまり常に、自己意識=自己イメージを持っている。

何を感じていようと、「私は、、、、と感じている。Iam feeling … …」
何を考えていようと、「私は、、、、と考えている。Iam thinkingthat… ….」
何を話していようと、「私は、、、、と話している。Iam talking about… …」
何をしていようと、「私は、、、、をしている。Iam doing …..」

このように、どのような場合でも、私は常に「私は、、、 Iam ….」を意識しているのである。

それぞれの自己意識=自己イメージが固有の波長、周波数を持つ波動を持つエネルギーである。
やがて、それらのエネルギーは一つの座標軸にまとめられ、物理的三次元世界と数学的
に統一されることになるであろう。

この自己意識は潜在意識に蓄積され、その自己意識に相応しい状況を次に来る時間の流れの中に現出させる。そして同様の意識、自己イメージを再現させてゆく。
これがいわゆる輪廻の世界である。この再現システムは因縁因果の法則、想念の法則と呼ばれる。
一般に人が言う自分とは、これらの自己意識の集積に他ならない。

ステップ① 無限なる赦し
先ず、「肉体が私であり、体験の蓄積が私である」という自己意識がある。
しかし、『すべては赦されている』という真理を受け入れよう。

これは無条件の真理である。赦されるのに善行、善徳も不要である。
自分の本心、真の自己は三次元世界の体験と完璧に切り離されている。
体験の世界は想念の法則によって投影されたものであるから、すべては空であると説かれた。
したがって、真の私は、「私は、、、、ではない。
I AM that I am not … …」としか説明できない。体験世界つまりこの三次元世界には私を定義する何ものも存在しない。


ステップ② 生地なる存在=神
宇宙全体が私であったならば、私は何を見、何を知覚できようか。
何も見ることもない。何も知覚することはない。それでも私は、今ここにいる。
あらゆる体験が始まる前から存在している。
私は光であり叡智である。
私は道である。真理である。生命である。
私とはその私である。
I am that I AM.

真の私はいつも「私は、、、」という意識の背後にある。自己意識の生地として常にそばにいた。
三次元世界の肉体の自己意識が黒雲であるならば、その背後には青空と太陽がある。
黒雲が晴れわたると、『天は澄み浄まり、太陽は輝いている』。

その青空や太陽のような生地なる自己意識は神意識であり、「私は今、ここにいる。I AM 」という自己意識である。
我即神也(God I AM.)の意識である。
その生地なる自分がそのまま顕れるから無為と説かれた。生地なる自分に任せるから全託と説かれた。


ステップ③ 無限なる創造力
今、ここで「自分が自分をどう思っているのか」。それだけが問題だ。
それ以外は問題ではない。
「自分は自分をどう思っているのか」、宇宙とはそれを映しだす鏡である。
<どう思っているのか>それが鏡のように映し出され、自分はその鏡の世界を体験する。
その映し出された世界、体験する世界が自己意識軸から発生する三次元世界である。

自己意識軸上の座標の数だけ三次元世界が存在する。
肉体界はそれらの複数の世界の合成された映像である。
観察者の自己定義が変わると、観察する世界も違って見えてくる。
これは量子力学が発見した法則だが、これが正に宇宙の法則なのである。
これは宗教と地球の科学が統一される接点でもある。

想念の法則(因縁因果の法則)とは人間に被せられた忌むべき鉄の籠にも見えるのだが、そうではない。
因縁因果の法則は神の想像力がネガティヴに回転してしまっているにすぎない。
元をただせば、その法則とは、「直霊が宇宙神を思いつつ自由に神のイメージを展開したもの
を三次元世界に顕現する」という、本来因果を現象化させるための神の創造力そのものであった。

あなたの無限なる創造力は今なお健在である。

もう一度、繰り返そう。今必要なことは何か。
「自分は自分をどう思うか」である。

自分が想像できる最高の神、自分が言葉で表現できる最高の神。その神聖者こそあなた自身である。
神はいつも『私は、、、』I am …を通してしか相見ゆることはない。
自己意識軸を通してでないと我々は神に行き着くことはできない。

道は一つしかなく、かつ狭いものなのか。その反対である。
この道は最もシンプルな道である。その道は易行道である。師もいらない。難解な経典も要らない。組織も要らない。戒律も要らない。因果の債務の返済も要らない。

只、必要なことは『私は神である。我即神也』と思うことのみ。宣言するのみ。印を組むのみ。あなたは『私は神である』と思ったことを次に来る時間の流れの中で体験することになるであ
ろう。

引用・参照文献
『天は澄み浄まり、太陽は輝いている』昌美先生の詩「地球讃歌」
「私は道であり、真理であり、生命である」ヨハネ伝14/6
「人にとって一切がアートマンそのものとなったときには、彼は何によって何をみるであろうか」、「非ず、非ずというアートマンは不可捉であります」ブリハッドアーラヌヤカウパニシャッド



※ 今、ここで「自分が自分をどう思っているのか」。それだけが問題だ。
それ以外は問題ではない。


※ 前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。


これらの言葉にひきつけられました。

普段の生活の中で起こる自分の感情やそれに伴う言動が 一体どんな自己認識や観念から発生しているのか・・・と 
あらためて考えることが出来ました。
※ 人間は完全にして完璧なものであるという認識をもって、自分自身を見つめ直していかなければなりません。
まず自分自身を尊敬し、愛し、そして自分自身を畏敬の念をもって認めてゆくことから始めるのです。
 

今、これを実践していかなければ・・・・と思うこの頃です。

我即神也 人類即神也 大成就
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by mppoe-light | 2009-11-16 23:24 | ピタゴラスさん啓示録から

「我(私)」、私が発する「私」

昌美先生の著書 「次元上昇」から

今日まで人類が創造してきた言葉は、何億という膨大な数にのぼりますが、
その何億という言葉を、地球人類は平等に自由に使用することが出来ます。

ただし、たった一つの言葉を除いては、の話であります。

このたった一つの言葉を発することの出来るのは、地球人類の中でたった一人、自分だけです。
神さえも発することが出来ません。
このたった一つの言葉を発する者以外は、他の誰をも、この言葉を使用することは出来ないのです。

その言葉こそ「我」という言葉であります。 この我は私です。私そのものです。

他のいかなる人も自分以外のものに「私」という言葉で呼ぶことは決して出来ないのであります。

人類一人一人が自分の事を「私」と呼ぶ時、この言葉こそ魂の本源から響いてくるものなのです。
魂そのものが自らに与えることの出来る名前だからです。
この魂こそ本心です。 本心こそ神そのものです。

神そのものである自分の魂が肉体の自分のことを「我(私)」と呼ばせる時、
この「我(私)」を最高の存在者として認識しているのです。
魂は肉体の自分に対して神性をよみがえらせ、神性を語らせているのです。

 この「我(私)」と語る時、内なる小宇宙を指しているのです。内なる小宇宙は、絶対なる大宇宙と生命を共にしているのです。この小宇宙、「我(私)」に対しては、いかなるものも入ることも、侵すことも出来ぬ神の領域なのであります。
 ですから、自分のことを意識して「我(私)」と発する時は、魂のもっとも奥深い内なる部分から私という言葉が発せられ、響いてこなければならないのです。
自分だけが自らに与えることの出来る唯一の神性のひびきだからです。
人類一人一人はこの「我(私)」をとても大事にしなくてはならないし、尊ばなくてはならないし、愛さねばならないし、決しておろしかにしてはならないのであります。 

自分が発する「我(私)」という言葉は、神のひびきです。ということは、 “我即神也”そのものです。 
我即神也 の宣言そのものです。
 私が発する「私」という言葉が神そのものの言葉であるからには、決して否定的な言葉は一切使用できないはずです。私の責任において、私という神の名において不可能です。

 私が思う。私が望む。私が行なう。私が願う。私が欲する。私が・・・・。
これらの私という“私”の根源は、“我即神也”そのものであります。 
“我即神也”という意味が隠されているのです


(98年8月)




<ピタゴラスさん 啓示録から>

  私は在る

Now here I am. I am to be God.

(今ここに、私は在る。私は在る、神として。)
2008年、初めての啓示は何故だか英語だった。

Now here(今、ここに)は言い換えれば、「いつでも、どこでも」ということ。
『即』の意味と同じで、『いきなり、無条件』ということです。

そこに神性の永遠性、普遍性、無限性がある。それは抽象的な神性、雲の上の神性のことではない。
自分自身のことである。

条件が整ったならば、“いつか、いずれの地にて、私は神になり得る本質がある”。
このようなのん気な思考は『我即神也』の思考ではない。
そういう意識が悟りに導いてくれることはない。
「今、ここに、そのまま、なんの条件も付くことなく、私は神である」という意識こそが宇宙神の光明で
あり、我々が神を顕わすように導くのである。

『私は在る(Iam.)』という意識は、批判、非難、評価を下していない状態。
その意識の時は、いかなる価値判断もしていない。無念無想の状態。
それは神の意識である。神性の輝きである。

この意識は「宇宙神から放射された光が、今ここに、自分として輝いている」という状態だ。従って、『私は在る』(Iam.)は即ち、『私は神である』という意識そのものである。

『私は在る』と意識するや、間髪をいれず、つまり、雑念が入り込む前に、ここに在る自分は神そのものであると宣言しさえすればいい。この『我即神也』に至る方法を統一、日常生活の中で使ってみて下さい。

*********************************

我即神也を唱え、人類即神也を唱え、自己意識が高まるようになるほど、その後に生じる煩悩が気になるかも知れない。しかし、まさにそこに「消えてゆく姿」が威力を発揮する。

有限の煩悩に比べようもないほどの神性を発揮しようとしている人が、有限な想いに捉われることはない。
ギャップがあるのではない。自己矛盾ではない。偽善ではない。
神性と業想念とは全く別物なのだ。

あなたを責める神はいない。蔑む神はいない。怒る神もいない。常にそこにあるもの。常に一人そこで輝いている本心(宇宙神)があるだけだ。
あなたはカルマを見過ごさずに、そこにあるものを見過ごしてきた。消えてゆく姿を見過ごして、そこにあるもの、光り輝く本心を思い出しさえすればいい。汝はそれなり。

「我は、、、、Iam ….」と言う四次元軸を使うことによってのみ、人は神を顕わすことができる。
宗教の奥義に達することができる。

自己意識という四次元軸上で階段のように一つずつ上るのが、祈りである。四次元軸の上昇しつつ、上方から降りてくるものを「私である」と受け止めるのが、統一である。

上方からエレベーターのように降りてきた直霊が肉体を通して光を放つのが、印である。
印は神我一体の手段であると同時にその結果である。

努力して神に成る(to become)ということはない。
That I am.
我即神也を受け入れさえすればいい。何の許可もいらない。何の資格もいらない。何の経歴もいらない。
That I am
我即神也は実在するものであって、現にあるもの、久遠実成なるもの。
その神が四次元軸上を降臨すること、その神の降臨を受け入れることが悟りである。
神を思い出すことである。自己意識という四次元軸での上昇、降下を司るのはすべて「私は、、、
I am …」である。そこに管理し、時に顔をしかめる神はいない。

すべて自己責任の領域である。
自由意志の領域であり、自己の尊厳の領域である

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by mppoe-light | 2009-11-05 17:44 | ピタゴラスさん啓示録から

本物体験

本物体験

脳科学者の茂木健一郎氏はアハ体験を説いている。
「今までわからなかったことがわかるようになったり、あるいは、忘れてしまったことを思い出したときの体験」を意味する。英語圏の人が何かにひらめいたときに[a-ha]と声を出すことに由来する。

茂木氏によると、人がアハ体験をすると、脳内が活性化される。思い出せなくても、思い出そうとするだけでも、脳内は活性化される。
悟りとは、「我即神也」を思い出すことである。自分が神であることを思い出すことである。
それを実現する方法が印である。

印はアハ体験以上に脳内を活性化する。
印はこの世での記憶を思い出すこと以上に、根元的な自己自身の太古の記憶を思い出させる行事である。

真の自分を思い出すこと。印の体験は本物体験である。印の体験は神の体験である。
人が神のようになりたい、神性を顕現したいと決意するならば、神らしく語り、想い、振舞うこと、と説かれる。
それを確かに行為させるのが「我即神也・人類即神也」の宣言文と印である。

騙しでもない、嘘でもない、偽善でもない。宣言文は神の降臨宣言である。
印は神のしぐさである。呼吸法は神の呼吸法である。
印が発する光は神の光である。

自己批判はいらない、自己改善もいらない、本物の自分、自分の光り輝く本心を認めること、愛すること、慈しむことだ。光明の言で、自分を祝福することだ。
自分を尊敬すること、自分を称えることだ。

人類即神也の印を組み、本心が光明波動を人類に与えていることを感じてみることだ。
五感で感じなくとも心眼で神の姿を観てみるのだ。
そこにあなたの本来の姿、神の姿がある。神になったつもりになることだ。表面の意識では「つもり」かもしれないが、脳は間違いなく本物の自己を体験している、思い出している。

会員が集まれば、集団の祈り・印に加えて、お互いに00様即神也・成就と称え合うことだ。
愛し合うことだ。神性を認め合うことだ。
光り輝く本心を見つめ合うことだ。無限なる叡智・無限なる健康・無限なるエネルギーとお互いを祝福しあうことだ。
決して必要なものを補う意味でいってはいけない。あくまでも。神性を称え合うことだ。
この世的な褒め言葉、お世辞を言われた以上に、心が嬉しくなる。
相手を称えることに、心の喜びを感じる。自分が神であることを思い出すからだ。
本物の自己を体験するからだ。

本物体験とは四次元軸の上を限りなく上昇する体験である。四次元の世界に入ってゆくことである。
本物体験こそが、自己の本心を思い出す体験である。
この一見、疑似体験のように見える本物体験が神性をこの世に引き出す基盤となる。

三次元世界内の自己が久遠実成の仏に成るわけではない。阿弥陀如来に成るわけでない。
自己の真実が久遠実成の仏であり、アミダ如来だったのだ。それを思い出すのが印である。
その本物の自己を肉体に受け入れ、実在の光を放射する行為が印である

<ピタゴラスさん啓示録から>

先月、祈りの友人から、今人気の脳科学者 茂木氏の本を薦めてもらい、読んでみました。
 私からは友人へ ピタゴラスさんの啓示録を薦めてみました。 
「全部で80枚くらいあるんだけど・・・」と言うと、いくちゃんは(祈りの友人)、ためらいながらも 
「時間があるとき読んでみるかなぁ」・・・・と言ってくれました。
そこで 第一部36ページを添付してメール。 

数日後、 内容も文体も気に入ってくれて、「一気に読める」 との返事をくれました。 
その後、残りすべて送りました。 良かった良かった☆(#^_^#)

同じ祈りの会の友人Kさん、 
私は Kさんとはいつも話がかみ合わないんだけど(笑) 
いくちゃんが気に入ってくれたことで 思い切ってKさんに 印刷してファイルにまとめた(啓示録)を 
薦めてみました。

Kさん、ぱらぱら~と目次に目を通し、 維摩詰やトンネル効果等々に気持ちが動いたらしく そのまま借りて帰ってくれました。
やっぱり 男の人は かちっとした理論的な解説が 読みやすく理解しやすいのかも。 女性とは、脳の使い方が違うんでしょうね。

で、
友人いくちゃんですが、茂木氏の本の中に、今年五井平和賞を受賞することになった
ブルース・リプトン氏(アメリカの細胞生物学者)著書が紹介してあり、気になって注文して購入したそうです。

「おおぉっ そういえば、ピタゴラスさんは平和賞にリプトン氏を推薦されてた。」

うーん、面白いタイミング♪ あちこちでリプトン博士♪♪

そんな訳で、私もリプトン氏の本を借りて読むことにしました。
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by mppoe-light | 2009-11-04 23:07 | ピタゴラスさん啓示録から

果因説は素晴らしい♪

富士聖地では人類の歴史を浄める“歴史の浄め祭”が、2006年から
“地球黎明祭”に進化しました。 第一回目のテーマは
「輝かしい未来の“地球黎明の息吹き”を地球に注ぎ込む」というものでした。

同じ年の「新年祝賀祭」 では、五井先生より
“もはや、人類の過去の業を浄めるために、世界各国、一国一国の祈りをする
必要はない、“
“これからは、過去を浄めるのではなく、人類の未来の輝かしき姿に意識を集中し、
素晴らしきことのみ、輝かしきことのみに意識を集中してゆくのだ“
 というメッセージがありました。

それまでは 人類を目覚めさせながら、人類のカルマを浄化することが、
(つまり過去を浄めることが)、私たちの世界平和の働き と思っていたので、
このメッセージに少々戸惑いました。
でも
「五井先生がそう言われるのだから、そうなんだ」と分からないまま納得しました。 安易な私・・・(^_^;) 
これを素直と言えばいいのか、単純と言えばいいのか・・・
ま、女性ってだいたいこんなもんですわねー(^_^;)
とりあえず納得しておけば、そのうち理解できるだろー って感じでね(笑)

浄化から顕現へ

白光の祈りにはいつも三つの働きがある。
①カルマを浄化し、消す働き。
②自己の神性顕現の働き。
③人類を真理に目覚めさせる働き、
である。
個人人類同時成道であるから、白光の祈りには常に三要素が含まれている。

しかしながら、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」では
①の個人的な救われに軸足があった。
ある時、そのカルマの浄化から神性顕現の方に、時代が求める重心が地球的規模で移動したのであっ
た。それは2006年9月24日第一回黎明祭のことであった。

西園寺昌美先生は説かれて曰く。
(黎明祭では)彼ら(神人)は過去の歴史を浄めるのではなく、
輝かしい未来の一点のみを見つめ、それを現実に引きつけたのである。
その輝かしい未来とは、対立のない、すべてが大調和した平和な世界
である。(白光誌2006年12月)

あとはいよいよ、人類の未来に輝かしき神の世界を顕わしてゆくことのみである。
地球上かつてない輝かしき未来を創造していくことに全力を注いでいくのである。

『もうこれ以上過去を浄める必要はない、ほとんど浄め去った。
白光の大天命とは、種々さまざまなるマイナスの現象を祓い浄めることではない。
苦悩や悲惨さを浄める必要はない。汝らは人類一人一人を究極の真理に目覚めさせ、地球人類を救済するという任に当たるのである』 (宇宙神の神示)。
(白光誌2007年3月) 

今、やっとこの宇宙神の神示が理解できるようになりました。

この時代の変化に、我々の思考回路を意識して合わせる必要がある。
現われた現象については、徹底した「消えてゆく姿」を行じるものの、
自分から何かを浄めると言う発想を止めることだ。
業を光に対抗、拮抗する力と見ないことだ。

我々の意識をフォーカスするポイントは『自己の神性と人類の神性を見つめること』のみである。
このポイントにエネルギーを集中することによって、我即神也は顕現を始める。

『煩悩を断ぜずして涅槃に入る』と言われるように、四次元的果因説では、因果の世界は汚れることも浄化されることもない(「不垢不浄」)ので『放っておいてよい』(同上、宇宙神の神示)。

我即神也の自己イメージに意識を集中するだけでいい。
光明燦然たる神なる本心を呼び続ければよい。
自分の直霊より愛、英知、歓喜、幸せ、、、、、、が無限に溢れ出て、人類に光明を放つ姿を思い描けばいい。
『見つめること。想うこと』だ。それが印であり、神事であり、祈りである。

自分から何かを浄めると言う発想を止めることだ。業を光に対抗、拮抗する力と見ないことだ。
我々の意識をフォーカスするポイントは『自己の神性と人類の神性を見つめること』のみである
<ピタゴラスさん啓示録から>

果因説は素晴らしい!
宇宙神と五井先生の50年計画 は、すごい!!
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by mppoe-light | 2009-10-27 17:35 | ピタゴラスさん啓示録から