カテゴリ:ピタゴラスさん啓示録から( 141 )

二元対立を超えた人類救済

ピタゴラスさんが引用された昌美先生の法話に感動です。
(共振共鳴する神意識の言葉  から)

「人類を浄める」というエネルギーではない。

『富める者と貧しき者、救う者と救われる者、こういう上下関係がある間は、そこには真の平和は訪れない』(00-06 P71)。

二元対立は本物ではない。


『物理的なこの世的な救済を超えて、一人一人の中に神を見る。それが我々の人類救済なのです』(00-06 P70)。


どの立場で、どの視点で人類を観るべきか・・
自己認識・意識を高く持ち続けること。
自分の意識が高ければ、相手=私 となります。 
私=私達。そこには、救う者と救われる者という二元対立は存在しません。

・・・自分の真理の取り組み方に安心しました。
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共振共鳴する神意識の言葉


『人類即神也の宣言、唱名は、人類の神性を称えるひびきである。』(2001-03日々の指針)
『人類即神也の印を組む者より真理は流れ出て、全世界を潤い尽くす。』
『いかなる心の状態で我即神也と発し、印を組んでも、その発生は、本来の崇高なる神の心より発する言霊そのものである。』(2001-01日々の指針)


 祈り、印、言霊は本心と共鳴共振するである。これはスイッチにも譬えられる。スイッチを押す手が汚れていようが、洗っていようが、スイッチを押せば電灯は輝く。
それと同様、祈るとき、印を組むとき、言霊を唱えるとき、いずれの場合もそのときの心境は問われない。徳のあるなし、業生の多寡、いずれも問われない。
直近の言動の善悪、生涯の言動の善悪すら問われない。人は皆本質において神そのものなのだから、祈り、印を組み、言霊を唱えるとき本心と共振共鳴するようになっているのである。
また、本心と共振共鳴する以外の方法で、己を鍛えなおしたところで上手くいかない。瓦はいくら磨いたところで、ダイアモンドにはならないのである。

 
祈り、印、言霊とはこのように絶対力を持つのである。この絶対力への確信があるからこそ、『人類を真理に目覚めるよう促す』という気迫が湧いてくる。
しかし、それは「人類を浄める」というエネルギーではない。

『富める者と貧しき者、救う者と救われる者、こういう上下関係がある間は、そこには真の平和は訪れない』(00-06 P71)。二元対立は本物ではない。

『物理的なこの世的な救済を超えて、一人一人の中に神を見る。それが我々の人類救済なのです』(00-06 P70)。

真の祈り、印、言霊は何も浄めようとしない。自他の本心をひたすら拝むものである。称えるものである。ひたすら本心を称えるとき、本心を邪魔するエネルギーは変容されるのである。

<白光ノート から>



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by mppoe-light | 2017-11-01 23:00 | ピタゴラスさん啓示録から

白光ノート「報道/自己決定と神魂 」から.......

今回の白光ノート「報道/自己決定と神魂 」、

この高い真理をどれほどの人が理解して下さるでしょうか。

どう受け取るかで、消えてゆく姿の理解・体得の深さが分かります。

 現象の世界の因縁因果の波に流れる自分と、五井先生が説かれる「人間は本来神の分霊」 を信じる自分「私」。

そして、

昌美先生の説かれる、人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなしを受け入れる自分「私」。

どちらが本物の自分「私」だと信じているか。

人間は現象世界を生きる80年90年がすべてではないです。

もともと私たちは永遠の命をもった神の子。神聖な存在。

この地球に神の完全性を、完璧な世界を築くために降りてきている。

今、社会を動かしているのは一人一人個人の意識の集合。

その一人一人が、究極の真理、我即神也 人類即神也に目覚めてこそ、世界は恒久平和へと進化するのだと思います。 

世界平和の祈りは、過去からの延長線上の古い組織、古い構造を良くするためにあるのではなく、

祈りで天と縦に繋がることで、神性意識から創造される、まったく新しい神性の社会を創造するために祈るものであると思います。

 

平和も憲法9条も、国民一人一人の意識が守るもの。

守ると言っても、因縁因果の二元対立の思考で守るのではなく、究極の真理=神性意識が守るもの。でなければ、恒久平和にはならない。

一時的に平和へと取り繕っても、民衆の意識が低いままで、それが神性意識によるものでなければ、本物の平和にはならない。

・・・・・私はそのように考えています。

だからこそ、一人一人が究極の真理を身に納め、自立して行かなければならないのだと思います。



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絶対なる真理7  報道/自己決定と神魂


 『いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても』よく心得て、接すべきである。同悲同喜が慈悲心であると言われることもある。しかし、真の愛は感情移入ではない。そのように「人類即神也」の宣言文は言う。

どんな出来事があろうと、『すべては自己決定である』。たとえ殺し殺されたとしても、『被害者もなければ加害者もない。加害者であろうと、被害者であろうと、魂的にお互いに納得済みである。決して偶然ではない。前生の因縁の消えてゆく姿である。原因、結果の法則によるものである。
この世における常識や観念、知識では計り知れない、奥深い自己決定によるものである』(07-11)

加害者を責めるのではない。被害者に胸を痛めるのではない。神魂を見るのである。

そのような現象に対して、『批判、非難、評価を下さず』、そして『神魂(人類即神也)を見なければならない』(07-11)

それこそが人類即神也の印であり祈りである。人類即神也の印は因縁因果に一切関知しない。人類即神也の印はすべての人の神魂を見出し、賛美する。そして、この印は人類に真理に目覚めるエネルギーを送りつづけるのである。

したがって、神人は『戦争の終結、食糧や物資の援助、救援活動は出来る人に任せておいて』(02-02)、
直接的に人類を救済するのではない。意識が現象を創ったのであるから、現象に介入するのではなく、人類の意識変革を促す印と祈りをするのである。

『二十一世紀、現在、引き起こされている戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病をなくすことには意味がない。表面的にこの状態を止めても全く無意味である』(07-12)。神人は『人類一人一人の内部にひたすら潜み、眠ったままの無限なる資質、無限なる能力、無限なる可能性を引き出す大いなる働きを担っている』(07-12)のである。

神人は人類の目覚めのために祈り、印を組む。それと同時に、自らの『信念により、欠けたるものの一切ない、大調和した輝かしい人生を創造してゆく』(07-12)のである。
神人は因縁因果という、罪滅ぼしと積徳という手法ではなく、生まれながらに備わった神性を顕現することに意識を集中してゆくのである。
しかし、この神性顕現も「心の法則」という「絶対の真理」に則って成就するのである。人類の目覚めも全く同じである。現象に現れた人間、システムを変えて改善しようとするのではない。

『誰もがその人に現れている現象の姿を見るのではなく、その人の本心、人類即神也そのものを見ようと試みるだけで、世の中は変わるし、人類の意識も変わってくる』(06-12)

先ずは、『自分の心を暗くするニュース、嫌な事件、悲しみや苦悩の映画、胸が絞めつけられるようなドラマを観るとこなどは、限りなく排除してゆくことが好ましい』(07-04)

神人は現象界ではなく、完成された平和世界、神魂に意識を集中し、その世界が降ろされることを祈り、感謝しつづけるのである。神人は現象界の玉石混交の自分ではなく、神性そのものの自分と人類に意識を集中し、その姿が顕現するようと祈りつづけるのである。
神人は自らの神性、無限なる能力、無限なる創造力を信じることで、神の姿を顕わしてゆくのである。自らの力で神の姿を顕わし、人類を真理に導いてゆくのである。

<白光ノート から>


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by mppoe-light | 2017-05-09 20:29 | ピタゴラスさん啓示録から

究極の真理 絶対なる真理 そして祈り

白光ノートから 絶対の真理1,2を読んで、五井先生が教えて下さった、祈り=命がのりだす を思い出しました。


「我即神也」が「究極の真理」である。他方、「絶対なる真理」とは、その神なる人間が自由意志と無限なる創造力によって自分の人生を創ってゆくことである。

<絶対なる真理2  自由意志と創造力 から>



縦につながった(神性につながる)人間が、自らを信頼して生きることが真に生きること。真に生きることは祈ること



祈り=生命(いのち)を動かす

縦に真っ直ぐにつながり、「神性、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」

を肉体を通して顕す。 絶対なる真理(自由意志、無限なる創造力、能力)によって。



宇宙神から放たれた光=「私」 

今までもこれからも永遠にある「私」。

素晴らしい!今、「私」はここにいる! 



「私」は、“今”にいる。 過去には存在しない。

「私」は常に創造している。自分が気付いてもいなくても創造をしている。


心が過去に向かっていれば、神性から離れた創造をし、

心が今にあれば、究極の真理を形に顕す。

意識的に生きなければ と思います。 過去に向かおうとする心を振り切り、
自分の意志と選択で「今」を選ぶ努力が必要です。

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◆絶対の真理1


究極の真理とは、「我即神也、人類即神也」のことである。

それとは別に絶対の真理と言われる法則がある。

この二つの言葉は白光誌では全く100%使い分けられているわけではない。概ねといったところである。両者とも何度も繰り返されていることなのだが、それだけ重要なのである。

究極の真理とは本質論、認識論である。本質論は、現象の如何にかかわらず不変である真理のことである。

それに対し、絶対の真理とは現象論、行動原理である。

(省略)

絶対真理とは 『あらゆる現象の原因は、すべて自分自身の内なる心にある。その内なる心が外なる現象をつくり出している』 ということとされる(05-10)。



真に生きることは 『自分自身を信じることから始まる。自分自身を信じるとは、すなわち自分は運命に翻弄されるものではなく、自らの運命を支配し、創造してゆくものであるということを信じることである』 (05-10)とされる。

絶対真理、心の法則=因縁因果の法則という単純な理解では事足りない。これは単に起きてきた物事を受容する法則でもない。神人が天命を完うしてゆく道そのものである。  



◆絶対なる真理2  自由意志と創造力


 前回見たように、「絶対なる真理」とは心の法則であり、それから派生する真理のことである。もう一つの事例を見ておく。
 『生命の尊厳』(01-02)では、「絶対なる真理」は、次のように「自由と創造力」に関するものとして説かれる。


『すべては自由と創造から成り立っている。人類に与えられている平等とは、自由と創造力そのものだ。
この自由と創造力は、皆が考えている以上の働きをする。

それは、その無限なる能力を信じ、プラス思考ですべての物事を創造してゆくならば、その人の人生は、全く方向転換してゆく。

そして、その力は大いに発揮されてゆく。
なぜならば、それこそが絶対なる真理そのものであるからである。

内なる無限なる能力を顕現することによって、自らの人生の輝かしい未来を創造してゆくのである。』(01-02



絶対の真理の根幹にあるのが「自由と創造力」である。それは生命の権利とも言われる:



『神が人類一人一人に与えた生命の権利、自由と創造ほど尊いものはない。』(00-04


また、それらを如何にして発揮してゆくかが人類の課題と説かれる:


『人類が天より与えられし無限なる創造力と自由意志、そして無限なる能力、それらの天賦の才をどのように発揮してゆくかこそが、今生を生きる人類一人一人にとっての大いなる課題なのである。』(06-01


また、『すべては個人の自由意志という絶対なる法則に委ねられている』(04-04)とも説かれる。

自由意志は創造力とともに特別に重要視される:
『すべてはこの自由意志に任されているのである。原因は同じでも、個々人の意志によって、違った結果が生じてくるのである。この自由意志というものには、すごい権限がある。真に人間を動かしているものの正体は、自由意志である。

結果に導くのは、他の力でもなければ、神でもない。あくまでも自らの自由意志によるものである。』(04-04


この聖域には宇宙神さえ介入出来ないとされる:


『宇宙神は、人類一人一人の意志決定に介入することはなさらないのである。』(03-07
『自由意志は、人類一人一人に与えられている素晴らしい叡智である。ゆえに宇宙神は、人間の意識や心を決してコントロールなどなさらない。たとえ、その自由意志が善にも悪にも応用されようとも、人類一人一人の責任と、自由意志を尊重しておられるのである。』

(06-01)


「我即神也」が「究極の真理」である。他方、「絶対なる真理」とは、その神なる人間が自由意志と無限なる創造力によって自分の人生を創ってゆくことである。


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by mppoe-light | 2017-04-25 21:24 | ピタゴラスさん啓示録から

なくそうとするのではない。変容させる。


『戦争、紛争、闘争をなくすことが目的ではない。』(09-10)

『我々の真の目的は、ただ戦争をこの世からなくすことではない。ただ飢餓を解決することではない。ただ病気を治すことでもない。ただ政治や経済の発展に寄与することでもない。ただ天変地異を防ぐことでもない。ただ人類の苦しみや痛み、そして差別や対立を正すことでもない。ただ宗教間や人種・民族間の反目を調整することでもない。ただ一つの宗教理念、哲学、倫理を促すことでもない。』(09-11)

 『現在、引き起こされている戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病をなくすことには意味がない。表面的にこの状態を止めても全く無意味である。』(07-12)


真理はしばしば逆説的である。現象の世界を「消えてゆく姿」と見送ったところに、真理はある。その真理を現象界に呼び出そうとするのが真理の祈りである。
現象は真理を覆い隠す。されど、覆い隠すものをなくそうとすることは目的ではない。真理の祈りは神性と平和を現象界に呼び出そうとする。しかし、現象界のものをなくそうとはしない。
なくそうとはしないのだが、「消えてゆく姿」と見送ることによって、それは自ずと消えてゆく。


 何であれ、現われた物事を「消えてゆく姿」と見送ることは、その物事をなくそうとすることとは異なる。
「消えてゆく姿」と見送るとき、神性を信じている。なくそうとするとき、現象を信じている。
内なる神性を信じる者は、内なる神性を体験する。これは果因説の人生である。
現象を信じる者は、再び似たような現象を体験する。これは輪廻の人生である。
 

 果因説の人生の目的は内なる神性の顕現と世界平和の成就である。内なる世界では、それはもう成就している。成就しているから、「我即神也」「人類即神也」と宣言される。

我々がなすべきことは現実世界の創造である。創造は選択―決断・決定・決行によってなされる。
創造は何かをなくすこととは異なる。創造は個々人によってなされる。社会的なものも、国家的なものも、国際的のものも、地球規模のものすべては個々人によって創造されたものである。

果因説の創造は、因縁因果によって出来上がった何かをなくすことではない。当然のことだが、果因説の創造は、因縁因果によって将来起こり得ることを変容させてしまう。大難は小難に、小難は無難に、大難すら無難にしてしまう。

「白光ノート」 冷蔵菩薩 から

私達がなすべきことは 奥の根本的な解決。神性意識による方法。究極の方法。
それは、因縁因果で出来上がった現在の状況に手を加え修正していくのではないし、
因果説で出来上がった今の混乱している世界の仕組みを、おなじ因果説の思考で修正していくのではないはずです。そもそもそれらは本物ではないのだから。色即是空の「空」なのだから。

戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病をなくそうと努力しても因果説の思考のままでは、根本の解決にはならないし、一旦解決したかのように見えても、また元のように戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病を創り上げてしまう と思います。 

私たちが人類を真に救う為には、この世の苦悩は消えてゆく姿として処理し、
因果説を超えた、まったく新しいものを創造していく。
果因説の創造を地上に降ろす。
そのために個々人の意識を神性意識に上昇させていく。
そして
因縁因果によって将来起こり得ることを変容させて いく。
大難は小難に、小難は無難に、大難すら無難に

きっと、因縁因果の思考からすれば、”変容“は、奇跡に映るかも。
過去が変えられたように映るかもしれない。
神性はつねに完璧、欠けたるものなし、大成就。
よって過去はなく、カルマもないから。 

私はずいぶん前から、昌美先生が説かれる“変容”の意味が理解できませんでした。
 今回、この記事を読み、やっと理解できるようになりました。


この世の様々な厳しい現状を見ていると、辛く悲しく苦しいことがあります。でも、どんな人も本体は神界にあります。 
どんな人も神です。本体は燦然と光り輝き、すべて完璧、大成就されています。 
表面的な姿、様相だけを見て、感情的になってはいけないと思います。(私も気を付けます。(^_^;) 奥の本体を見逃すからです。 
可哀想だ、哀れだ・・・、という感情が度を過ぎると、その方の神性を否定していることになると思います。その方の奥には厳然と無限なる能力があるからです。
厳しく悲しい状況に生きることを選択したその方の魂の強さ、尊さの方を私は見つめていきたいと思います。

世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように
日本人即神也

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by mppoe-light | 2016-09-28 17:27 | ピタゴラスさん啓示録から

『私』は何?何者?

肉体を器にして形の世界で活動している『私』にとって、目に入る触れる現象世界は誘惑でいっぱい。 
自分は本来 神の分御霊である・・ことを忘れて、外側の出来事に心が奪われて自分が何者なのか・・・と言う事を忘れてしまいます。
忘れたままでは因縁因果の法則を越えることはできません。(T_T)

気が付いた時、祈る時、印を組むとき、 自分に問いかけます。

私は何なのだ? 私は何者なんだ?

その瞬間、私は “今”に帰ることができます。
私は本来、神。 私は、すべては完璧、欠けたるもののない存在

過去はない。真実の世界は“今”にある。
それは、我即神也、人類即神也 果因説の世界。

過去、現在、未来の流れの世界で“今”に集中すること、つまり本当の『私』に帰還することは根気のいる作業ですが、 でも『私』の中に無限なるものすべてが有る、
(この私の中に、すべてがあるなんて・・・!) そう思うと、もっと奥の『私』を知りたい・・と思います。

現象につられたまま、道草して遊んでしまっても、必ず 我即神也 という故郷に帰ることが出来るよう、祈り、印、言霊・・・をきちんと生活の中で続けていかなければ・・・と思いました。

新しい文明の教育

 先ず、教育は学びの場である。学びなくして教育なく、教育のあるところ学びがある。
 真の教育は自己認識の教育である。真の学びは自己認識の学びである。
今日までの教育は自然認識のための教育であった。物理化学的認識の教育としては効果を発揮した。
ところが、自然認識の方法と自己認識の方法は根本的に異なっているのである。
自己を認識する理性とし、自然を観察される物体とするならば、その科学的方法は成果を発揮する。
しかし、自己認識の分野となると、理性的な常識が一切通用しなくなるのである。

自己認識の領域は、よく言われる量子力学的世界になる。
先ず、観察者と被観察者が同じなのである。
観察者は自ら観察しようとする姿を観察する。つまり、自らの信念を自らが体験するのである。
自分が自分を凡夫と想えば、凡夫の姿を現わし、凡夫を体験する。
自分が自分を神と想えば、神の姿を顕わし、神を体験する。

また、自己認識の領域は四次元的でもある。現象的に自己は人間の姿を現わしているように見えるが、実は本心は神そのものなのである。
同じ神性が、自らの姿を忘れ、自己を汚れていると観じるならば、輪廻の姿を現わす。
同じ神性が、自らの姿を思い出し、自己を神聖と観じるならば、神の姿を顕わす。
ところが、神性は不変である。確立されている。汚れたり、減少することはない。
問題は自分が自分のことをどのように評価しているのかだけである。
この自己評価が現象の姿を決めているのである。

古い文明の発想からすれば、現実の自分(普段の自分)と理想の自分が存在する。現実と理想とのギャップが存在する。現実の自分が理想の自分に近づく方法が必要になってくる。それが古い文明の教育というものだ。
 新しい文明の発想法は全くそれとは異なる。
『私』とは本心であり、究極の理想である神そのものである。現象とは関係なく、『私は神である』と宣言していい。宣言すべきである。宣言することによってこそ、真理は現実の世界に顕われる。

『人類にとって最も価値があるのは、自らの存在そのものが、かつては神のように気高く神々しく計り知れないほどの尊厳さを持つものであったということを思い出してゆくことです。本来の自分、真なる自分、神なる自分を思い出してゆくプロセスこそが、二十一世紀の人類の学びなのです。』(2000-1白光誌)

 教育でも、学びでも「理想と現実のギャップを埋めてゆく」ことではない。現実の私を私として受け止めることが幻影であって、私は実のところ神そのものであると認識することが教育であり、学びである。
先ず、第一に問題になるのは、人が見たもしくは、自分が見た現象の姿ではない。
現象の自分とは全く関係なく、自分とは何なのか?自分とは誰なのか?
学びも教育も問題になるのは、現象界の姿ではない。
現象界とは関係なく、真実の自分の姿が何なのか。それを知ることが教育であり、学びである。

<白光ノートから>


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by mppoe-light | 2015-03-08 22:14 | ピタゴラスさん啓示録から

私の意志

『私』は過去からの延長線上にはいない。だから過去はなく、『私』は何にも汚れず傷つかず
 『私』は常に新しく。無限なる新鮮。
そしてその『私』とは、いつも完全、完璧、欠けたるものなし、大成就 している。
それが絶対変わることにない真実。
  
そして『私』は、その真実からいつでも無限のものを取り出し、顕すことが出来る。

重要なのは意識がどこを向いているのか。何を意志しているのかである。

誰かが、私の神性を顕してくれるのではないし、神さまが私の神性を顕して下さるのではなく、  
私の意志がそうする。
『私』は私の世界の唯一の決定者である。
『私』は私の世界の唯一の創造主である。
『私』は今、ここに、宇宙神の光を降ろします。
『私』は宇宙神の御心を私の世界に顕わします。
『私』は神の姿を私の世界に顕わします。
『私』はすべての神性を私の世界に顕わします。
それは私だけのためではありません。
人類が真理に目覚めるためであります。

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自由意志

 『すべては個人の自由意志という絶対なる法則に委ねられている。
  この自由意志というものには、すごい権限がある。真に人間を動かしているものの正体は、自由意志である。
  結果に導くのは、他の人でもなければ、神でもない。あくまでも自らの自由意志によるものである。そして、この自由意志は、とてつもない力を秘めている。』(2004-04)

因縁因果の法則が相対的法則ならば、自由意志の法則は絶対なる法則である。
①因縁因果を認めない唯物的思考。
②因縁因果に制約された宗教的思考。
③因縁因果を超えた果因説を生きる思考。
①~③のすべては人間の自由意志で選択できる。

 従来の考え方では、この自由意志が尊重されていなかった。宗教的には人間の運命は過去の想念行為で決定しているとされた。また、現代文明では、過去の経験、幼児期の体験、物質的環境、遺伝子、歴史、経済環境等々が人間の人生を決定づけると考えられてきた。
しかし、人類にとって重要なのは、過去ではない。むしろ、過去は無い。物質環境でもない。
重要なのは意識がどこを向いているのか。何を意志しているのかである。

 過去が何であれ、物質環境が何であれ、因縁因果の姿が何であれ、目の前の事物に如何に反応するのかは、全く当人の自由意志の領域なのである。
人間だから誰しも怒るでしょ。誰しもすねるでしょ、、、というのは言い訳にしか過ぎない。絶対なる自由の放棄にすぎない。
この自由の領域で、「如何なる姿も消えてゆく姿である。すべては必ず良くなる」と思えるならば、その人は既に神域に達している。瞬時に、心底そう思えなくても、その方向に自分の意識を方向付けてゆくことが重要である。
 ステップとして、因縁因果の法則が必要なのは、責任問題である。現われた姿に対して「過去の自己の因縁の消えてゆく姿である」と観ることは、自己の人生の責任は全て自己の自由意志にあることを認めることである。一瞬、自己の責任を認める。その次の瞬間には、自分は創造主の立場に立っている。

「それでは、ここに宇宙神の光を降ろそう。私を通して神性を顕現しよう。自分の本当の姿である。神の姿を顕してゆこう」
そのように決意し、宣言すれば必ず宣言した通りに成就するのである。
 この『とてつもない力を秘めた自由意志』とは神としての自由と尊厳のことである。
今まで、人類はその自由意志を放棄し、自らの意志力を限定してきたのである。
それと同時に、意志の力・意識の力に気づかず、誤用して、悪想念・悪感情を再生産してきたのである。この悪想念・悪感情の再生産の仕組みが因縁因果の法則なのである。

 この因縁因果の法則は人類一人一人の無知を前提にしている。つまり、真理が示され、神性が復活する時には。この法則は機能しなくなる相対的なものである。
いよいよ、人類の神性復活の始まり。因縁因果の世界は消え去り、神の姿、神の世界、平和な世界が復活する。


<ピタゴラスさん 白光ノート>



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by mppoe-light | 2015-01-28 17:08 | ピタゴラスさん啓示録から

神だから神の立場で宣言☆


神に成るために必要なことは何もない。ただ一つ、自分が自分を神であると認めるだけでいい。
生まれ持った立場を認めればいい。
自分の神性顕現を妨げているのはただ一つ。自分の意識だけである。意識的に拒否しているだけである。

 カルマは不可抗力な力ではない。カルマは自分が認めている力である。
果因説に生きるとき、カルマはない。自分のことを汚れていると想うならば、カルマが働く。
自分のことを神聖と想うならば、カルマは働かない。

 至福がブロックされているのは、自分が自分を見損なっているからだ。人間世界の固定観念にしがみついているからだ。

人は被造物ではなく、直霊分霊だからこそ、同じ立場で自分の天地を再創造するのです。自分の世界を再創造するのです。その言霊こそ「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」です。

<ピタゴラスさんの 「神としての立場」 から>
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 『敵を認めたり、悪や不幸を認めた立場に自分たちを置くな』
 『本心と業想念を区別せよ』
 『真実の人間世界とは、神仏そのままの世界であって、業想念の波動の循環とは関係のない世界なのである』(注)

 「フセイン!浄まれ!」という祈りと「イスラエル人即神也 パレスチナ人即神也」という祈りは全く次元が異なる。
25年前の祈りと今日の祈りは違って当然である。祈る人のレベルが全く違うのだから当然そうなる。
つまり、見えている世界をがっちり掴んで、変容しますようにという祈りは昔の祈り。
見えている世界は消えてゆく姿と観じ、未だ眼に見えない完全な世界を想像し、この世に顕現するよう祈るのが今日の果因説の祈りなのである。

 このポイントは意外にややこしい。仏教も同じように誤解されている。因果応報を仏教の特徴とする人は多い。
しかし
、『釈尊は、唯心の所現等の小乗的教えの後に、人間はそのまま仏である、という法華経を説いていて、今まで説いてきた教えは真実の教えではなかった、と云っているのであります』。
つまり「人即久遠実成の仏」という因果応報を超えた究極の真理が中心教義なのだが、因果応報の二次的法則が中心教義のように解釈されているのである。
白光の教えの理解にも同様の混乱がある。因果応報を認めない唯物思想→因縁因果論→因縁因果を超えた久遠実成の仏論という三層構造を理解せず、因縁因果論と果因説の真理が混在してしまうことは少なからずある。


 真理と幻想には繋がりがない。光と闇には繋がりはない。本心と業想念にも繋がりはない。唯一の接点は、『私』という意識そのものしかない。しかし、『私』という意識はカルマに染まったように錯覚することはあっても、カルマに汚染されることはない。『私』の神性は傷つくことなく、その神徳が減少することもない。『私』という意識は、本来常に神の座にあって、宇宙神に愛され祝福されている。
 
注 『 』は五井昌久著 「白光への道」からの引用       

<ピタゴラスさんの「神の立場で祈る 」から>

********************************

『私』は私の世界の唯一の決定者である。
『私』は私の世界の唯一の創造主である。
『私』は今、ここに、宇宙神の光を降ろします。
『私』は宇宙神の御心を私の世界に顕わします。
『私』は神の姿を私の世界に顕わします。
『私』はすべての神性を私の世界に顕わします。
それは私だけのためではありません。
人類が真理に目覚めるためであります。

『私』は今、ここに、言霊によって宇宙神の光を降ろします。
『すべては必ずよくなる 絶対大丈夫 大成就』
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』
『神性復活 大成就』
『神性顕現 大成就』

『私』は今、ここに、無限なる愛を顕わします。
『私』は今、ここに、無限なる叡智を顕わします。
『私』は今、ここに、無限なる健康を顕わします。
『私』は今、ここに、無限なる繁栄を顕わします。
『私』は今、ここに、無限なる幸福を顕わします。
 人類の幸福のため、世界の平和のため神性顕現は必ず成就します。

<ピタゴラスさんの「神性復活」から>


2015年 神聖復活が始まりました。
毎日繰り返している神語に、時々物足りなさを感じることがありました。
なので、自分なりに、
 
私は神だから、今、無限なる愛である、無限なる健康である・・・私は今神だから、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 ありがとうございます。私は幸せです。
と繰り返していました。 
そしたら、なんと、
今回のピーさんの「神性復活」の中にも“神語”が・・・ ♪
早速付け加えて宣言したいと思います。 (●^o^●) らっき~♪


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by mppoe-light | 2015-01-14 22:25 | ピタゴラスさん啓示録から

消えてゆく姿で世界平和の祈り


毎日、世界平和を祈るうえで、大切なのは
消えてゆく姿で 世界平和の祈り  ということ。

  真の祈り

 「00が治りますように。++が無くなりますように。**が起こりませんように。癒されますように」という祈りは本物ではない。そもそも「、、、でありますように。 、、、になりますように」の祈りは数年前から禁止されている。
一度は現象を認めて「消えてゆく姿」を実行するものの、次の瞬間には「消えてゆく姿」に意識を注いではいけないのである。
瞬々、意識がどちらを向いているのか、自分で責任を持って選択するしかないのである。
 

 『苦境そのものに心を向けないで、人間本来神の子であるという神そのものの姿に心を向け、今まで見失っていた、未だ現われていなかった本来の神の子の姿を、光り輝く完全円満なる姿を呼び起こし、目覚めさすために祈りを捧げればよいのである。』

 消えてゆく姿の段階では、不完全な現象を仮に認める。しかし、祈りの段階では、不完全な現象は認めない。つまり、祈りの段階では、「すべては完璧 欠けたるものなし」の世界に飛び込むのである。
「飛び込む」とは肉体頭脳で考えないということである。それは四次元的アプローチなのである。

また、現象だけではなく因縁因果も同様である。消えてゆく姿の段階では、因縁因果も仮に認める。
しかし、祈りの段階では、因縁因果は認めない。そこでは、果因説の世界に飛び込んでゆく。
この切り替えを意識的にしているか否かが大きなポイントである。
何故なら、因縁因果説の中に留まったまま祈る人は少なくないからである。
 
 「因縁因果はない。輪廻転生はない」というのが究極の真理である。
現象の処理、解決、罪の赦しを神に祈るのではない。現象を超えた『神そのものの姿、光り輝く完全円満なる姿』は厳然と成就しているのである。暗雲の背後に隠れた太陽のように、『本来の神の子の姿』は存在しているのである。その『神の姿』に思いを馳せ、イメージし、『呼び起こし、目覚めさす』のが祈りである。この真の祈りであれば、必ず祈ったことは現実化するのである。真の祈りは必ず物質化する。
 
 『本来の祈りとは、ポジティブな祈りでなければならない。
   真の祈りとは、神の無限なるものに焦点を合わせるものである。
   真の祈りとは、人間神の子であるという真理に目覚めさせるものである。』

  我々は赦しを乞う以前に赦され、不足したものを希う以前に与えられているのである。その完全性、無限なる神性、神聖なる精神が本来の働きを開始することを祈ればいいのである。
  『完全なる健康体が現われますように。至福や繁栄がもたらされますように』という祈り方もある。「ように」という表現を避けるならば、「完全なる健康体が現われる。至福や繁栄がもたらされる」と祈ればいい。
肝心なことは何度も繰り返し繰り返し唱えることである。

注 『』はすべて(白光1992-11)より引用    


一度は現象を認めて「消えてゆく姿」を実行するものの、次の瞬間には「消えてゆく姿」に意識を注いではいけないのである。
瞬々、意識がどちらを向いているのか、自分で責任を持って選択するしかないのである。

消えてゆく姿の段階では、因縁因果も仮に認める。
しかし、祈りの段階では、因縁因果は認めない。そこでは、果因説の世界に飛び込んでゆく。
この切り替えを意識的にしているか否かが大きなポイントである。
何故なら、因縁因果説の中に留まったまま祈る人は少なくないからである。



自分の中の、本心と業想念とは別もの・・・と、知識ではなく心の中から認識していれば、

<・意識がどちらに向いているか、 ・意識的に切り替えをしているか・・・>
このことは神性顕現には重要な事であって・・・、
とはいっても、、、現実生活の中でこのことを日々繰り返すことは難しいことだけれど、
それでもそれを続けて行かなければならない・・・・
ということを実感してもらえるはず。

    
因縁因果説の中に留まったまま祈る人は少なくないからである。

私もそう思います。
自分は“我即神也”であると、自分の神性をつかむことは、そう容易なことではないと思います。 (そのために様々な行、神行を繰り返していますが)

我即神也、人類即神也 の宣言の言葉を、自分の中からの言葉として、つまり神性の私の言霊として宣言できるようになるまでに、私は何年もかかりました。
(※2012年12月の中ごろ・・・呼吸法の印を組んだあとで、ふいに
「自分は我即神也でいいのだ、そうなんだ」・・・と納得しました。 
それ以来、宣言文を読むのが好きになりました。)

消えてゆく姿は、実行すればするほど、その深さを感じます。
私も、ずいぶん消えてゆく姿が実行きるようになったな~・・・と、ちょっと満足したとたん、
“消えてゆく姿で世界平和の祈り”の教えが さらにもっともっと深いことを思い知らされたりしました。


肝心なことは何度も繰り返し繰り返し唱えること

以前、mixiでピタゴラスさんが紹介して下さった昌美先生の法話の言葉や、
ピタゴラスさん自身が薦めて下さった神語など4~5種類を、今でもほぼ毎日唱えています。(もう5年以上やってるかな) どれも私にとっては大切な言霊です。
もちろん、我即神也の宣言文、祈り、印、も実行しています。
それらの行が、心底自分の言葉、自分の行為になるように、
意識して行っているところです。 (たまに脱線?するけど、、、がんばりま~す(^_^;)

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by mppoe-light | 2014-12-12 15:04 | ピタゴラスさん啓示録から

神意識は、いつも『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の世界を見つめる


権利

『喜びとは、勝ちとらなければならないものと思っているけれども、実際は全くそうではなくて、この世に生まれ落ちた瞬間から、生まれた時の権利として本来持ちあわせているものなのである。』(90-11)

『無限なる歓喜、繁栄、幸福、調和の心は、人類一人一人の心の中に生まれながらにして既に授かっているのである。』(92-02)

『あなたの過去の出来事一切をあなた自身が赦してよいのです。
人間は本来いかなる罪をも赦す権利があるのです。罪を赦すのは神ではありません。』(94-10)

『それ(すべてのもの)に対して自分の価値判断を一切加えないことです。
その存在に対して何故に我々が価値判断を下す権利があるというのでしょう。』(96-03)

権利について取り上げる。人は宇宙神の子として、完全完璧である
。人は被造物ではないから、自由意志を持つ。そして、人は現象世界の創造について全責任を負う。
ただし、個々人の完全完璧性、神性については宇宙神が全責任を負う。
人は自己の神性を否定する自由はある。
しかし、その神性を損なうことはできない。

 諸々の宗教観念の中では、宇宙神が認める真の権利について語られることは少なく。むしろ否定されることが多かった。
そのため、自己の正当な権利を主張することは悟りに匹敵すると言っても過言ではない。
余程、「我即神也」の真理が分かっていないと、権利の主張はしづらいものである。
神性が自己のものであり、自由に発揮していいものであると簡単には思いづらいものである。
しかし、この問題は放置してはいけない。権利の主張をする訓練を怠ってはならない。

 「自己を赦す権利」も大きなテーマである。因果応報の苦しみによって赦されるのではない。神に赦しを乞うのではない。自分が自分を赦せばいいだけである。
神仏や良心が自分を責めていたわけではない。ただ単に、自我が自己を憎んでいただけである。
人は初めから神そのものだった。それを忘れていただけである。
今から直ぐに、因縁因果の人生を止めて、神性顕現の人生を選ぶ権利。
それは万人に与えられている。明瞭な真理である。しかし、意識を心底から納得させるには訓練を要する。

 人には宇宙神の子としてのあらゆる権利が与えられている。だが、他人の自由意思に介入する権利はなく、一切を評価する権利もない。『すべては“神”の働きです』(96-03)から、『“我即神也”“人即神也”“物即神也”“生きとし生けるものすべて即神也”』(96-03)と真の評価をする訓練が要る。

 自我意識は主張すべき権利を遠慮して主張せず、謙虚を装ってきた。そして、権利もないにもかかわらず自他を批判、非難し、評価しつづけてきた。
神意識は、いつも『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の世界を見つめ、その世界を現象界に顕すよう祈りつづける。

<ピタゴラスさん>





意識を心底から納得させるには訓練を要する。



一度、真理を理解した気分になっていても、意識は心底納得しておらず、
そのため思考は元の因果説に戻ってしまいます。
だから繰り返さなければならない。 訓練が必要。

毎日、繰り返します。祈り、印、そして宣言(そして神語)
それをこつこつ積み重ねる そして意識の階段を一段、二段と登る。 
登ればそれだけ大きな広い世界に住むことができる。 意識の世界とは不思議だなぁと思う。



「自己を赦す権利」も大きなテーマである。因果応報の苦しみによって赦されるのではない。
神に赦しを乞うのではない。自分が自分を赦せばいいだけである。

自分を自分が赦す ということの難しさ。(@_@;)))
頭では解っていても、解ったつもりでもいても、!
自分の心は赦してはいない。 自分の心って手強い(笑)(^_^;)

何か大いなる存在が 「すべてを赦す!」 と言ってくれた方が どんなに楽なことか。。。 
でも、
私は本来神なのだから、仮に自分以外の誰か(神)が 「赦す」 と言ってくれても、
到底納得はできないはず。
私たちは一人一人が宇宙神の子だから。気高く、崇高な存在だから。

自分が自分を赦さない限り前に進めないし自分が自分の神性を認めない限り前に進めない
と思います。
真理への扉は自分の中にあって、鍵を握るのは「私」


神意識は、いつも『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の世界を見つめ、その世界を現象界に顕すよう祈りつづける。

こんな素晴らしい神意識が私の中にある。 嬉しい!
神意識は常に私の中にあるのだから、 だから今の私も同じように出来るはず。
すべては完璧、欠けたるもののない世界を見つめ、それを顕すように祈ればいい。  

私が私で良かった。 おめでとうー私! 私って素晴らしい人なんだ! (●^o^●)



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by mppoe-light | 2014-08-09 21:27 | ピタゴラスさん啓示録から

『個に徹する』 こと

自由意思に基づく権利

『人間はどんな状況にあっても必ず自分の自由意思を尊重し、駆使してゆくものである。それこそ神が我々人間に与えられた自由という特権なのである。
すべての人類に当てはまる唯一の真実は、人の運命はあくまでもその人自身の自由意思
の結果であるということである。』(93-06)

『人を変えることなど神様さえできない。何故ならば、皆人は自由意思に基づいて生きる権利があるからである。』(91-07)

『あくまでも人類一人一人の自由意思は尊重されます。個人の自由意思の決定に関しては、神々様さえも何ら一切関知しません。』(99-01)


 自由と責任、権利と義務、、、これらは単に法律的な問題ではない。
人間の本質に係わる問題である。人間とは何かに係わる問題である。
『自己認識に欠けたる結果』(98-04)が世の苦悩を産み、「正しい自己認識の結果」は神性顕現となる。
つまり、自己認識こそがカルマと悟りの分岐点であり、人生のすべてを決めているのである。
まさに、この自己認識の領域に人間の自由意思の領域がある。
そして、神でさえも介入できない人間が持つ尊厳の領域がある。


 『皆、本来の自分というものを錯覚しているのです』(99-04)。

 本来の自分というものがわからなければ、自分の自由と責任、権利と義務について正しく選択できない。
その錯覚に基づいたこれら四項目についての思い込みが、人生を混乱に導いてしまう。
『我即神也』と究極の真理を説かれても、人類は非真理に基づく固定観念に縛られている。
ならば、『我即神也』に基づく生き方を多方面から説き明かし、思い違いを少しずつ修正する必要がある。
そのため、この四項目については何度も何度も解説が繰り返されるのである。

 人は皆、本質において、実在において神そのものである。その神性は損なわれることなく、減少することもない。
ところが、人は自己認識において、自分を神と正視することもできるし、自分をカルマの人間と錯視することもできる。
これは自由意思の領域であって、宇宙神でさえも介入できない。神々も、覚者も、神人も介入できない。むしろ、他者の選択に対して『一切関知せず』という態度を取ることこそが宇宙の法則に適うことである。
『一切関知せず』とは『批判、非難、評価を下さない』ということである。
ただ『人類即神也』と人類の真の姿を正視するのみ。
人類一人一人を神として尊重するのみ。人類一人一人を神として愛するのみ。
それが、光となって、人類の目覚めを促す唯一の道である。

 この自由には当然ながら責任が付き纏う。組織に帰属することではなく、個に徹することが要求される。
他の判断ではなく、自己の判断が問われる。他に権能を委ねることではなく、自己責任が問われる。自由意志には厳しさが伴なうものである。

<ピタゴラスさん>



自己認識こそがカルマと悟りの分岐点であり、人生のすべてを決めているのである。まさに、この自己認識の領域に人間の自由意思の領域がある。そして、神でさえも介入できない人間が持つ尊厳の領域がある。

これこそ究極の真理っ☆ そう思いました。
神でさえも介入できない私たちが持つ尊厳性。  本来、私達一人一人は気高く崇高な存在なのだから。
けれど、

この自由には当然ながら責任が付き纏う。組織に帰属することではなく、個に徹することが要求される。他の判断ではなく、自己の判断が問われる。他に権能を委ねることではなく、自己責任が問われる。自由意志には厳しさが伴なうものである。

組織に帰属することではなく、個に徹すること。他の判断ではなく、自己判断。
「個に徹する」・・・・ この言葉に、共感と同時に深さ、重さを感じました。
とても大きく深い真理・・・☆ 

”個に徹する”こととは、自分を信じること。自分の本来の姿、神性を信じること。すべては完璧、欠けたるものなしを信じること。
どこまで信じられるか。信じる深さで、選択が変わり、人生が神性顕現へと変わり、世界が変わる・・・
そう思いました。

世界人類が平和でありますように 人類即神也



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by mppoe-light | 2014-08-04 19:12 | ピタゴラスさん啓示録から