カテゴリ:真理について思ったこと( 304 )

「心についての問答」から

「阿難」の中の 心についての問答  の、ほんの一部分、
 本心と業想念を区別して考えることを説明しておられる部分です。

心についての問答

「阿難よ、おまえの心も私の心も同じだと思うし、天の倫理も同じに働くと思うが、おまえは私の法話のどこがよくて発心を興したのかな。どうして、世間の深い恩愛を捨てて
出家したのかな 」

「阿難よ、その答えも真実ではない、覚知する心と分別する心とは一つのものではない。覚知する心とは本心であり、分別したり認識したりする心は因縁性の想念である。
直覚し、知覚するのは無死無生の心、空の低にある無限の心と等しき心、仏と一つの心であり、眼で見、耳で聞き、想いで分別し、認識しようとする心、善悪を判断しようとする心等々は、すべて仏の心、自然の心に相反する業因縁の心である」

「おまえは常に如来と相対する時は、どういう心でいるのか?」

       「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。
        業は如来に相対することは出来ません」

「それでは、常に如来と倶にいる心、如来と相対する心でいられれば、阿難は、本心そのままでいられるわけであるな?」

「左様かと存じます」

「では再びいうが、昨日迄の出来事は、すべておまえの無明のなせるわざ。
けっしておまえの本心が傷ついたわけでもなければ、おまえ自体が駄目であったというわけでもない。おまえの本心は、依然汚れず痛まず、真玉の如く輝きわたっているのである。」
***********************

「おまえは常に如来と相対する時は、どういう心でいるのか?」

「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。業は如来に相対することは出来ません」

業想念の私は神性と向き合うことはない!できない!我即神也を自覚するのは真の「私」が神性だからこそ。
自分の中の神性をもっと強く認め、信じて、いつも自分の中に 我即神也 を置いておけるよう意識して生活しなければ・・・☆

神のみ心を離れて、我々に救いがあると思ってはいけません。他に何一つ救いはないのです。
なぜならば、この世に実在するのは神と神につながる生命のみであり、その他はみな消えてゆく姿だからです。

神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未来という、業性の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくことによって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。

<愛すること> から

すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

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by mppoe-light | 2016-05-05 22:52 | 真理について思ったこと

忘れてはいけないこと


五井先生 「愛すること」 から

それはあくまで今生のその人の現われでありまして、生命の本質そのものではないのですから、人をさげすむ想いとか、嫌悪の想いが心に浮かんだら、それをそのまま持続して想っていないで、すぐに消えてゆく姿として、神のみ心の中に祈り心をもって投入してしまうことが大事なのです。

そういう方法がとれるようになるためには、やはり、すべての人間の生命の尊厳さ、神の子の相を認める心にならなければならないのです。

しかしながら、人間の想いというものははなはだ厄介なもので、自分にくらべて劣っていると思う者を、どうしても下目に見がちになりますし、権力のあるもの、地位の上の者には頭が自然と下がったり、あるいは逆にわざと反抗してみたりして、生命の平等観で動けぬことが多いのです。

 そういう時に神という中心がありませんと、不平等心のままこの世を過ごしてしまいまして、
神という中心を常に心に抱いて、その中心の心に照らしてみて、自らを反省する意識がありますと、ああこれはいけないことだったな、と想いかえし、祈り心になってきます。

この世は自己の想いの置き場所によって、どんなにでも幸せになり得るのです。
常に常に世界平和の祈りによって、自己の想念を神の大光明世界に置いておくことを、日々瞬々行じていて下さい。




五井先生の「愛すること」を読んでいます。何年振りでしょうか。

お祈りに繋がったばかりのころ、五井先生の著書を繰り返し読んでいました。
この「愛すること」も大好きで、読んでいた著書のひとつです。
今思うと、、、
初めて読んだとき、消えてゆく姿の実践はおろか、意味まで深く理解できていなかったのですが、・・(笑) 
それでも一つ一つの言葉の響きが、私の心を感動させ、繰り返し読んでいました。

久しぶりに読んで、教えの基本である、“消えてゆく姿で世界平和の祈り”について、気付かされること、学ぶことがありました。

今は、 
我即神也 人類即神也 果因説 という究極の真理が昌美先生から出されていますが、改めて五井先生の説かれた “消えてゆく姿で世界平和の祈り”という教えが、まず基本中の基本であり、基本であるけれど、それは進むほど深く高く、これからも続いていくものなのだな・・・と思いました。



・ そういう方法がとれるようになるためには、やはり、すべての人間の生命の尊厳さ、神の子の相を認める心にならなければならない

・ 神という中心がなければ、不平等心のままこの世を過ごしてしまう

・ 神という中心を常に心に抱いて、その中心の心に照らしてみて、自らを反省する意識があると、ああこれはいけないことだったな、と想いかえし、祈り心になる。

・ 自己の想念を神の大光明世界に置いておくこと


今、究極の真理と果因説を知り、学び、五井先生の伝えたかったことが判るようになってきました。

我即神也 という、“神という中心”をいだたいて、
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 という言霊で、自分の想念を神の大光明世界に置いておくことを指導してもらっています。

五井先生、昌美先生の、み教え、指導をもっと大切に真剣に実践していかなければ・・・と反省しているところです。

肉体を器として現象界に生きる上で、忘れてはならないこと、

消えてゆく姿で世界平和の祈り=我即神也・人類即神也 大成就



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by mppoe-light | 2016-04-23 22:04 | 真理について思ったこと

今、この瞬間の「私」


今、この瞬間、現象は次々に過去になります。様々な状況、出来事 等々・・・次々と通り過ぎ、過去になります。 
でも、「私」はいつもここに在ります。いつも此処にいます。

「私」 「私」 「私」 
業想念に流れる想いの私ではなく、 いつも今、この瞬間に在る 「私」

その「私」は、どんなことが起ころうとも、どんな現象に巻き込まれたとしても、決して動かない。
変わるのは目の前の現象。

無限なるもの「私」。 一切傷つくこと、汚れること、傷むことのない「私」
 そして、すべてに祝福され、愛されている「私」
宇宙神とつながる「私」 

「私」があって、良かった!

「私」をもっと引き付けて、つかんでいたいです。

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by mppoe-light | 2016-04-15 19:34 | 真理について思ったこと

これは本来の私ではないのだから・・・

これは本来の私ではないのだから・・・

と、自分に言い聞かせて、我即神也へと意識を転換する。
眼に入る現実に没頭してしまい、形だけの現実世界に生きる自分がすべてだと誤解してしまう。そして目に入ったものを評価してしまう・・・
そんなとき、ふと「私」自身に還ってみる。
 
これは本当の私ではない! 私はこんなちっぽけな存在ではない。こんなつまらない感情想念を抱えて生きる存在ではない。
私は本来、神の分御霊。宇宙と繋がる光、創造者。「私」という認識が世界を宇宙を創造している。 私は私を愛します。

人間はともすれば現実世界に浸かりこみ評価、非難批判を繰り返す、人類的には紛争と災害が絶えない二元対立の世界に入り込んでしまっている。この世の生活の世界から超然とすることは容易なことではない。問題が起これば、解決に取り組むのは人情である。そのために祈りに入るのはよしとするにせよ、そこで止まってはいけないということである。

問題解決は守護の神霊に手放した後、問題の無い世界に直入する意識が重要なのである。

<祈りと問題解決 から>


五井先生の消えてゆく姿の教えの深さを感じます。
消えてゆく姿で世界平和の祈り それを更に発展させた、 我即神也、人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

問題を消えてゆく姿にして、祈りでもって神様の世界に入る、 それはつまり
我即神也、人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

二元対立を越え、因果説を越え、果因説の思考に自分の意識を置く努力をする。
そのために、消えてゆく姿に徹し自分を赦し、“我即神也”で、自分を認め、愛する。

本来の私は、こんな小さな存在ではない。こんなつまらない感情想念に流される存在ではない。
私は 我即神也なのだ。 宇宙と繋がる創造者。 世界を創造する創造者。
私が在るから私は世界を創造し、創造した物を体験し、感じることができる。
ありがとうございます。 
「私」いつもここに在る。ありがとう「私」。

祈りと問題解決

『祈りや印は、問題解決策ではなく、自らを“我即神也”そのものに至らせるための道しるべである。
自らを輝かし、自らを尊び、敬い、愛し、慈しみ、また自らに感謝するための方法なのである。』(04-02)

『宇宙神は“これらのマイナスの現象を一つ一つ解決する必要はない。これらの現象はすべて人類即神也を顕わすためのプロセスなり”と述べておられるのである。』(00-09)

『一気に真理の極みから臨んでゆくことである。今自分に生じている不幸や困難に対して、100パーセントの意識を集中し、その解決に向け奔走するのを一旦止めるのである。
そして、自分の意識を高い真理にまで引き上げ、そこから自分を導いてゆくことである。』(01-11)

『さまざまな問題解決のための一生ではなく、それすらを超えてゆく生き方を求めることが先決なのである。
それが即ち自分自身を知ることであり、人間神の子について深く深く極めてゆく生き方こそ、真実の生なのである。』(91-12)

 問題解決は祈りの入口である。だが、目的ではない。
祈りの根本は「我即神也」に目覚めることである。
表面的な解決に取り組むだけで、根本解決がなければ、新たな問題が生じるだけである。
『神示によれば、“徹底的に二元対立を超えたところで生きよ”ということである』(01-03)。
二元対立を超えるとは「我即神也、人類即神也、すべては完璧、世界人類即平和也」に徹するということである。そこに意識を集中させよということである。

 人間はともすれば現実世界に浸かりこみ評価、非難批判を繰り返す、人類的には紛争と災害が絶えない二元対立の世界に入り込んでしまっている。この世の生活の世界から超然とすることは容易なことではない。
問題が起これば、解決に取り組むのは人情である。
そのために祈りに入るのはよしとするにせよ、そこで止まってはいけないということである。

因果説は二元対立の世界の法則である。それに対し、
『果因説はすべての対立をすでに超えてしまっているところから始まる』(01-11)。

果因説の真理はすべての不調和、不完全さが初めから無いところで確立している。
祈って、その神の世界に入り込むのが果因説である。問題を解決しようとする意識は、問題が初めから無い神の世界に入り込む意識とは全く異なる。前者は因果説の意識であり、後者は果因説の意識である。つまり、問題解決は守護の神霊に手放した後、問題の無い世界に直入する意識が重要なのである。

 『今あなたがたとえ不幸の最中にあって喘いでいたとしても』(01-11)、『我即神也』を前提にして語り、念じ、行為する選択をすることが果因説の生き方である。
不完全な自分、あらゆる苦悩、、、、何があろうとなかろうと、現象界のことは守護の神霊に預けて、神に成り切るのである。
新たに神に成るわけではない。『私』は元々神であり、神そのものであり、神以外のものにはなり得ない。その神の姿を思い浮かべるのである。イメージを描くのが苦手ならば、神の言葉を語ってみればいい。
 『私は、常に宇宙神から流れくる無限なる生命力に満たされ、周囲に愛と赦しと感謝の光を放ちつづけるのである。』(07-07) 

<ピタゴラスさん>   




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by mppoe-light | 2016-03-20 21:51 | 真理について思ったこと

「生きる」こと「命を生かす」こと


「私」 が在る、ここに! 「私」は宇宙神の光の子。
70億の人類の「私」、 70億の「私」がある。そのすべてが宇宙神の光の子。

「私」があるから、私は世界を創造し、体験することができる。 
私は、見て、触れて、感じて、想って、行動して、  
「私」があるから、大自然の美しさ、壮大さに感動し、
天象の不思議さに感動することができる。 
そして、「私」がここにいる・・・という 内側から少しずつ湧き出る喜びと感謝。

だから 特別な理由はなく、 ただ 在るだけの「私」が、
大切な「私」 尊い「私」 に 今、少しずつ気づいてきました。

私の中に、無限なるものが常に、宇宙神から送られている。贈られている。
だから、私は私の意思で、贈られている無限なるものを肉体を通して自由に表現できるはず。私の神性はいつも私の奥で輝いているはず。
それを証明したい。証明するために顕現しなければならない。顕現するためにはどうするのか。

ただ一人一人の責任は、自分の何を摑むか。
神性を摑んだら間違いない。

自分の思ったことは成る。あなた方が成れば、世界の三分の一の人たちも成るのです。
(2月号 法話から)

責任を持って、自分の神性を摑む。
このことが、五井先生が言われる、「生きる」「命を活かす」ということなのだと思います。

真に「生きる」 とは、自分の神性を摑み、顕現すること。


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by mppoe-light | 2016-01-29 22:27 | 真理について思ったこと

“今”を見つける “今の私”を見つめる 

“今”を見つける “今の私”を見つめて、

私は私です。  私は“今”に在ります!
 「私」は“今”にいる 今、「私」はここにいる!

“今”の「私」は純粋な世界  そこはどんなカルマも踏み込むことは出来ない高い世界。“今”「私」には過去はなく、カルマもない。 
なぜなら、カルマは「私」には決して指一本触れることもできないから。

だから大丈夫、絶対大丈夫。 いつも私の内には光り輝く「私」が在る。光に満ちた世界がある。だから大丈夫、安心して自信を持って進んで。 

目の前に どんなに汚れた光景が現われても、どんなカルマの姿を見ても、
その姿の奥には光明が在ることを知っている「私」でいたいです。
すべては完璧 欠けたるものなし 大成就
だから、 批判、非難、評価も下さず、何ら一切関知せず 
私は光り輝く神そのもの 私は高貴で気高い 

私は私をもっと愛さなければ。。

我即神也 人類即神也 


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by mppoe-light | 2015-10-31 21:26 | 真理について思ったこと

「私」が存在することの喜び

今日、気が付きました。。私は自分を愛するために条件をつけている・・・ということに。
(T_T)。。。。

私は本来 神の分御霊であり、業性ではなく

ならば無条件で私は神の分御霊。
今どんな業想念に振り回されていたとしても、それは消えてゆく姿。本物の姿ではない。
不完全な自分を消えてゆく姿にして、神性を認めた時には、 
我は神也! 我即神也

「そんな簡単なことでいいのか・・・安易すぎるんじゃないか・・?」 
と、きっと因縁因果の世界が本物だと信じる人は、そう言うと思います。 
でも真実は果因説。すべては完璧 欠けたるものなし 大成就です。

油断すると つい因縁因果の思考に戻ってしまいます。 
現象に現われた自分の姿を見ているうちに、
自分を認めること、受け入れうること、愛することを躊躇っていました。
無意識に、自分自身を評価、判断して 自分を愛することを忘れていました。

無条件で自分を認め、無条件で自分を愛していく。
愛することで、私の中の気高く、崇高で、美しい精神の力が蘇る。
その神聖なる精神の力があるから、
完璧で欠けたるもののない神の姿を顕現することができる。

「私は、自らに内在せる神聖なる精神の力、即ち無限なる能力を自由自在に駆使し、肉体のまま光り輝く神の姿を顕現してまいります。大成就」


「私」という意識は永遠に存る。 「私」は、つねに、気高く崇高で優雅で美しく、温かく、光り輝く存在。

「私」が存在することに、もっと喜びと感謝の気持ちを持ちたいです。 
いつも、どんな時も喜びと感謝の気持ちを持ち続けたいです。
もっともっと無条件に自分を赦し、愛せるように心掛けたいと思いました。

(そう思ってから、 
鏡の中の自分の姿を見て、久しぶりに「目がきれいだなぁ・・」・・・と感じました。) うれしー♪


真の「私」はどんな世界なんだろう・・・・
「私」という存在が、一番奥深く、一番不思議な世界なのかもしれません。(なんちゃって・・)

神性顕現 大成就!


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by mppoe-light | 2015-10-16 22:30 | 真理について思ったこと

自分の意志で輝くこと

5月のSOPPに参加した時に、販売ブースで「神性復活」の冊子 を5冊買って帰りました。
そして、
帰ってから、この人なら分かってくれる・・・・と思う 友人・知人の5人に手渡しました。その他に、昌美先生の著書や富士聖地の紹介なども渡してみました。

が・・・しかし残念ながら 5人とも何も感じなかったのか・・・

ぜんぜんっ まったくっ 反応がないっっ!(;一_一) 


さ、さびしい~ぃよ~(T_T)

もしかして 私自身がもっと光り輝いていたなら、5人は何かを感じ、魂が光をキャッチして真理への扉が開いていたかもしれない。

“人が自分を見て「吾は神を見たる」と、思わず思わせるだけの 自分を磨き高め上げ、
神そのものとなるのである”


そう思うと、みんなの反応がなかったことに 少々責任を感じました。
自分の周りの人が目覚めないのは、私自身の輝きがまだ少ないのだと思いました。

我即神也  

私がもっともっと神性顕現すれば、周りの人たちは真理の響きを感じとり、
目覚め始めるはず、 究極の真理へ導かれるはず。

「私は、自らに内在せる神聖なる精神の力、即ち無限なる能力を自由自在に駆使し、肉体のまま光り輝く神の姿を顕現してまいります。 大成就」

「我即神也の真理に目覚めた私は、今生にて神の姿そのものを自らの肉体に顕現し、世界の人々に示してゆくのである。大成就。」     
<ピタゴラスさんのコミットメントから>


私自身が、周りの人の心や魂を感動させなくてどうする、
なんのために究極の真理の行を続けているんだ。(`´)っっ

私は私の世界の決定者である。
私は私の世界の創造主である。
神性復活 大成就
神性顕現 大成就

昌美先生や神様が輝かせてくれるのではない、
待っていれば時代が輝かせてくれる、のではない、
先ず、自分の意志で自分自身から輝くこと☆


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by mppoe-light | 2015-10-07 22:03 | 真理について思ったこと

「一瞬一瞬の意志こそが選択の原点」

真実の「今」

変化変滅し、消え去ってゆく、この人生を唯一と信じて生きている愚かさから、脱却して、改めてこの人生を見直さなければいけません。神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未来という、業性の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくことによって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。

真実の今、宗教的にいう今というのは、一瞬一瞬で消え去ってしまう今ではなく、神のみ心と縦につながって、永遠の今として、光を放っている今なのです。今が一瞬ではなく、神につながった一瞬から、永遠の今として、宇宙にひびきを放ちつづける今となるのです。

過去、現在、未来の想念が、過去の想念行為が現在の運命の根幹になり、現在は未来の運命の基となるというように、輪廻してゆきますので、どこかで、この輪廻を断たなければ、人類は自由自在に神のみ心を現わすことができないのです。
そこで、普通いわれる現在とか今とかいう消えてゆく姿的な見方ではなく、永遠の生命につながる、現象の変化変滅にかかわりない、神のみ心の中にある今、実在そのものの今を生かすことを知らなければならないのです。

神霊の世界に通ずる永遠の今を生きるか、業性世界の消えてゆく姿的今を生きるかによって、その人の運命も、人類の運命も大きく変わってくるのであります。神霊の世界に通ずる今を生きるためには、愛と調和の心を一瞬一瞬の間にももっていなければならないのですが、その愛と調和の心を最も具体的に光明波動としてひびかせ得るのが、祈りなのです。

<五井先生 『愛すること』 より>

*********************************************************************

宇宙の真理は
それが善であれ悪であれ  それが誰であれ何であれ
過去の記録は一切問題にしない

それを重大に問題視しているのは
本人(貴方自身)以外の何ものでもない

過去の失敗、挫折、罪、汚れは
自らが犯した過ちではない
ただ選択を誤っていただけなのだ
これからはよりよい選択が出来るよう
真理を極めてゆくだけでよいのだ

そして決して自分を責め裁かず
常に自分を愛し 赦し 抱きしめ
輝かしい未来にむかって
歩みを進めることだ

<インフィニット・ワーズ 『過去を放す』 から>


真実の私は、「今」の中にあって、その私は神とつながり、光り輝いている

無駄な、無意味な生き方をしないようにしたい。。。
変化変滅する輪廻の世界を超え
神性につながる「永遠の今」 を生きるためには 
意識して神性を復活させることを生活の中で選択していくこと 

一瞬一瞬の意志こそが、「選択」の原点なのです。< 「人生と選択」 から> 
 
 
今、ここにいる「私」。  この「私」は何なのか。
何のためにここにいるのか。 今、ここでなにをすべきなのか。
「私」は私の世界の唯一の決定者、創造主である。
「私」は、我即神也 そして人類も即神也  
だから本来、 すべては完璧 欠けたるものなし 大成就


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by mppoe-light | 2015-09-26 22:25 | 真理について思ったこと

「成就の強く硬い決心」


肉体が媒体となって、現象界に光を放つ のだから、
この現象界を進化させるには、現象界で活動できる媒体の神人が必要。

なぜ神人?  肉体という器を動かしているのは 「私」、 私と言う意識
私と言う意識が神性を認め、顕現しようとすることで、意識を通して宇宙神の光が流れ、現象界の私に降りている。その私が肉体を通して、人類に光を放射する。
その時、私には過去はない。宇宙神の光の中で私は生きているから。

そう考えています。 だから・・、

“私”という意識がなければ、光は流れないし、ここに届かない。
“私”は、天の光を地に降ろす人。すごい、素晴らしい存在!
私は宇宙神と直に繋がっている!

もっと自分に誇りを持って、そして宇宙神に愛されていることを信じて、
もっと自分を愛し、自分を信じて生きていきたい、
そして、神性顕現をするために、天命成就の強く硬い決心を維持していかなければ・・・と思いました。

我即神也 すべては完璧 欠けたるものなし 大成就


真理の証人

 『我即神也』の宣言文に『自分を磨き高め上げ』と言う文言がある。そのためには何が重要なのだろうか?
『自分を磨き、高め上げ、進化させてゆくために一番大切なことは、何について意識するかである。いかに自分の願望の成就について、強く深く意識してゆくか否かである。』

何を意識すべきか?『我即神也』であると会長は言う。自分の存在についてである。
それは何をしてきたかではない。過去の実績ではない。過去の善悪の想念行為ではない。過去や現象、実績には関係ない自分そのもののことである。

 『強く深く意識する』とは、『自分の意識がどれだけ長く続いたか』『どのくらいの頻度で同じことを意識するか』ということである。
想念の法則では、『必ず意識することは成る。成就する。繰り返し繰り返し、意識を深く強く集中したことは必ず起こる』。(以上2001-12)

 真理を認識すること、意識することに続いて、重要なのが真理を顕そう、つまり天命を完うしようと言う強い意志である。
過去とは切り離された神なる自分は何をすべきなのか。何をしようとするのか。何をしたいのか。
それは『“我即神也”を現わすこと』(2000-01)である。神性顕現こそ人間の天命である。それは自己実現であると同時に、人類を救済することでもある。

『(神人たちは)ついには自らが欲するものはすべて手にするという真理の法則の証人として、世に立ってゆくのである。』(2004-04)

 神人にとって、この姿は遥か彼方にある理想ではない。切なる願望であって、今生で果たさねばならない大天命である。
この姿を成就することを、自分の意識で強く深く長く、頻繁に繰り返すことである。
重要なのは、この天命成就の強く硬い決心である。
真の祈りとは、この決意の宣言である。真の祈りとは、神の立場での決意表明、意志表明である。それはまた、印で表現され、マンダラに書き刻まれることによって、ますます成就するようになる。
 
神人は真理を学ぶだけではなく、真理を顕して、『真理の法則の証人』になるよう定められている。
定められているからこそ、そうなるよう宣言し続けなければならない。これに最適の宣言文がある。呼吸法の息を止めるときにも使えるので、ご紹介しておきます。

宣言文: 『自らの内にある神秘なる力、遺伝子一つ一つに組み込まれている我即神也の真理、無限なる叡智、無限なる直観力を引き出し、人類に先駆けて、本来の神そのものの神々しい姿を顕現し、人類に証してゆくのだ。』(2001-05)



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by mppoe-light | 2015-08-30 10:37 | 真理について思ったこと