カテゴリ:真理について思ったこと( 301 )

私という生命。

私という生命はいつもここに在ります。
だから安心して。私は光り輝く生命にいつも繋がっている。
私はいつも無限なるものに繋がっているから。 
生命は高貴で偉大で美しい。生命は宇宙神と繋がっていて、いつもいつも愛され、祝福されている。

私はすべてに満たされ、愛され、祝福され、燦然と輝く宇宙神とまったく一つに融け合う。

私が光り輝くと、世界も光輝いて見える。私が愛され祝福されていると信じると、世界も愛いっぱいであるんだ、、と思う。

本心の私は、地球上のすべての人を赦し愛してるはず。 私は本来、神の分霊だから。我即神也 だから。私は私の内奥で、すべての人を受け入れ、愛しているはず。

だから、置かれた場では、光り輝くような気持ちで物事にあたりたい。創造したい。
そう努力してやってみよう・・・と思いました。

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by mppoe-light | 2016-08-22 17:05 | 真理について思ったこと

20%の中に飛び込む


私の目は、意識は、想いは、何を摑んでいるのか。。。
批判、非難、評価をしている時、私の意識は肉体人間側の観念に偏っている時。

本体の、神性の私は消えてゆく姿を理解しているので、相手の、どのような様相を見ても、
相手の神性を認め、人類即神也を顕すためのプロセスとして受け入れます。

批判、非難、評価をするとき、私は私を愛していません。 私を信じていません。
それは自分の神性を疑っている時。光を見落としているとき。

心して、自分を磨き高め上げること。 
つまり、自分の内に神性があること、自分はもともと我即神也。宇宙神の光の子であると自覚すること。 
宇宙神の直系であることを認め、信じること。 
五井先生の言われる20%の中に飛び込むこと。

五井先生は人間は誕生した時から運命は80%決まっている。
あとの20%で運命を変えていく、と説いておられます。

その20%といのはどういうことかというと、20%の未知の世界がある、これから作り上げていく世界がある、というわけです。

 80%まっくらだけど、20%光がさすところがある。それを窓口として、跳躍台として、無限に自由自在の世界に出る、ということなのです。つまり、自分の生命体が自由自在になる、そういう窓口が20%開いていて、あとの80%はもう決まっているのだ、というわけです。その窓口から出ていけば、自由自在の世界に出られるのです。

因縁因果をこえた人というのは、因縁とはなんの関係もなく、自由自在に生命を生かしていける。そういう人間になる道が20%の光の道としてあるわけです。20%の自由性がある。

 その因縁因果の波をこえた自由性の20%のところにつながれば、悪い運命であったとしても、それをこえて自由自在の世界に出られるんだ、ということなのです。
「悠々とした生き方」より

五井先生は因縁因果のカルマを浄めて自由自在なる・・・とは仰っていません。
因縁因果をこえる・・・と言われています。

20%へむかって、祈りで飛び込む。 
そして、光の窓口が見つかり開いてきたので、
次はいよいよその窓口を使って、天から光を降ろす。
それは神性を顕現すること、因縁因果の過去を超えた、新しい世界、神性世界を地上に創造すること。

光を通すことで、どんどんそれは広がる。 どんどん強い光が降りる。
光の道をつかみさえすれば、過去もない、カルマもない。

五井先生、昌美先生 ありがとうございます。
我即神也 人類即神也


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by mppoe-light | 2016-08-20 17:00 | 真理について思ったこと

人類即神也の宣言文

人類即神也の宣言文を読み、終わりの部分を読みながら思いました。
これって、創造する事を宣言しているのだな…と。

いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず

なぜなら、それらはすべて消えてゆく姿だから。だから関知しない、認めない。
それらは本物の姿ではない、実在ではない。

創造力を持つ私たちの意識は、消えてゆく姿を掴んではいけない、本物と認めてはいけない。
認めるべきは、我即神也、人類即神也
そうすれば、私たちの意識は、神性顕現へと創造力を使っていることになる

人類一人一人に代わって「人類即神也」の印を組み続けるのである

それは地上天国のための創造、浄めてカルマを一掃してから地上天国がやって来るのではなく、
カルマは消えてゆく姿として処理し、私たちは天から頂き直す。
神の世界を地上に創造する。

そう思って宣言文を読みました。

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by mppoe-light | 2016-07-23 21:21 | 真理について思ったこと

本来の生き方

今まで、私達は偽の自分を生きていて、偽物の人生を生きながら、偽物の世界を創り上げてきました。
それがこの世界のすべてだと思い込んで。
偽物の世界で生きることが最も重要だと思い込んでいるから、心はいつも現象世界の動きにとらわれる。
いつも過去、未来へ流れていく。

でも、真実は、今の世界は色即是空 ということ。 
実は、本物ではなく、偽物の世界であって、
本当に私たちが“生きること” とは、
今の現実は幻だと気づき、そこから目覚めること。
そして自分が何者であるのかを正しく認識すること。 
そして認識したら、本来の生き方に修正すること。
本来の生き方は、空即是色 の生き方。
神性復活、神性顕現の生き方。

先日の富士の行事で5次元が開いたとのこと。
神性復活からいよいよ神性顕現の道が本格的に開かれた・・・それが、5次元が開いた、ということなのか。。。。 まだ私達にはわからないけれど、
いよいよ人類の、地上天国への扉が開いたんだ ・・・と思いました。
人類即神也


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by mppoe-light | 2016-07-06 15:40 | 真理について思ったこと

相手の奥を観る

因果律の思考ってやっかいなものだなぁ・・・と思いました。
どうしても二元対立の視方になってしまうからです。
正しいと間違い 正か負か 上か下か 善か悪か・・・☆

消えてゆく姿で世界平和の祈り とは、“消えてゆく姿”という方法で、二元対立の因縁世界を抜け出して、果因説の神様の世界に心を投入する・・・と思っています。
そこは光一元の世界

因果律の思考では、物事の表面だけを見て判断しがちになります。相手の振る舞い、発言、行動を二元対立で判断し、評価する。すると それがまた因となり縁を作り、同じ場をぐるぐる回転しているだけになってしまいます。

果因説で世界を観ることとは、消えてゆく姿が大前提のような気がします。 つまり 本物とは我即神也 人類即神也 それ以外は消えてゆく姿 ということ。
それは、
眼に入る様相ではなく、その奥を見る。 相手の奥に内在する神性を認めること。

たとえ相手が、神とは程遠い消えてゆく姿を現わしていたとしても、真実は相手も神。

たとえ 相手(法友)が、世界平和を祈り、印を組んでいながら、それ以外で神とは思えない姿を現わしていても、祈り、印を組むその行為があるのだから、それは素晴らしいことではないか、
それを認めるべきではないか。 それ以外は消えてゆく姿なのだから、大した問題ではないのではないか。 
相手は、祈りや印で命を生かしているのだから。

今月の五井先生の 詩 「小さな魂 大きな魂」  から

小さな魂も大きな魂も
今はもう全く一つになって
世界平和の祈りの白光波動を
世界中にひゞかせているのである

人間にとって大切なのは、生命を生かしているのかどうか。
そう思うと、相手の(法友の)批判、非難、評価したくなる姿など、大したことではないのだな・・・と思うようになってきました。
五井先生、昌美先生が見ておられるのは、人が生命を生かしているかどうか。
どんなに未熟な人で至らない人でも、祈り、印を組む姿は素晴らしいことなんだ・・・と思うようになりました。






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by mppoe-light | 2016-06-24 01:01 | 真理について思ったこと

神さまの作品



私の選択、決定によって決められ発せられる言葉、想念、行為。それが今の私の姿、容姿になって表現されている。
今、自分はどんな姿を表現しているのだろうか。 純粋で、清らかで、美しく輝いた姿を表現しているのだろうか。 調和した言動を表現しているだろうか。。。

私の姿は神さまの作品 と言ってもいいのかも。 神さまの作品ではあるけども、
決めるのは私自身。 すべて私に任されている。
私が私自身のことを 神性はなく、ただの肉体だけの人間と想い、選択・決定した言葉、想念、行為ならば、その時の私は 愛薄い輝きの無い神さまの作品。
私が私自身の神性を信じ、それを顕そうと思い、選択・決定したならば、その時の私は 愛深く光り輝く本来の神さまの作品。
私は、神さまの無限の可能性を使って、自由に自分自身を創造している。

今はもう、
自分の神性を信じることに、喜びと、平和と、幸せを感じていて、神性の中に至福があることに気づき始めているから、 もう後戻りはしません。 
私は我即神也 人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就を選択し創造します。 その結果、顕れる、「私」という個性を持った聖なる姿。

私はこれから どんな「私」を(作品を)創造していこうか。
私の姿は常に私自身が決めています。 だから、いつも真理を想い、求め、真理とともに生きることを忘れないようにしたい と思いました。


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by mppoe-light | 2016-05-31 21:34 | 真理について思ったこと

「愛すること」から

  
 『愛すること』 から

<真実に自分を愛する人は・・・>
真実に自分を愛する人は、人間の本性を探究してゆく心の強い人です。あらゆる欲望感情に把われず、正しい真理の道を自己のものにしようとして努力するものです。

<真実の「今」>
変化変滅し、消え去ってゆく、この人生を唯一と信じて生きている愚かさから、脱却して、改めてこの人生を見直さなければいけません。 神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未来という、業性の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくことによって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。
真実の今、宗教的にいう今というのは、一瞬一瞬で消え去ってしまう今ではなく、神のみ心と縦につながって、永遠の今として、光を放っている今なのです。今が一瞬ではなく、神につながった一瞬から、永遠の今として、宇宙にひびきを放ちつづける今となるのです。

<永遠の今を生かす>
今人間が自らの想念行為によってつくっている運命は、それは未来に現われるべき運命なのです。こうして過去、現在、未来の想念が、過去の想念行為が現在の運命の根幹になり、現在は未来の運命の基となるというように、輪廻してゆきますので、どこかで、この輪廻を断たなければ、人類は自由自在に神のみ心を現わすことができないのです。

<祈りの生活>
祈るということは、常に神との交流をしているということで、常に神の子である本心を開いているということなのであります。


神のみ心とつながること。 
自分は神ではないという想念行為から生じた輪廻から抜け出し、神さまとつながる。
人間は本来神の分御霊であり、神性であると認め、信じること。
そのための消えてゆく姿の行であり、我即神也 人類即神也の宣言、印、そして、「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」という言霊。

毎日欠かさず祈り、印を組むことが大切だと思います。 
祈り心で生活することが大切だと思います。
なぜなら、真理を常に身近に、自分の中に置いておかなければ、業想念の波から抜け出し神性とつながることが難しくなるから。  祈り心が本来の人間の生き方だから。。
自分の神性を強く信じればこそ、日常の業想念の中で、消えてゆく姿を行じることが出来ます。

業想念を消し去ってから神性が顕れるのではない。もともと私たちは神そのもの。
それを認めることで、業想念の輪廻から離れ、神さまと縦につながる。
神とつながった一瞬から、永遠の今として、世界に光を放ちつづけることができる。

毎日、祈り、印を継続しているものの、五井先生の教えの 祈りの生活には到っていません。(p_-)シクシク。。。
いつもいつも心の中に、片時も離さず神さまをおいておけるようになりたいです。



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by mppoe-light | 2016-05-21 22:05 | 真理について思ったこと

「心についての問答」から

「阿難」の中の 心についての問答  の、ほんの一部分、
 本心と業想念を区別して考えることを説明しておられる部分です。

心についての問答

「阿難よ、おまえの心も私の心も同じだと思うし、天の倫理も同じに働くと思うが、おまえは私の法話のどこがよくて発心を興したのかな。どうして、世間の深い恩愛を捨てて
出家したのかな 」

「阿難よ、その答えも真実ではない、覚知する心と分別する心とは一つのものではない。覚知する心とは本心であり、分別したり認識したりする心は因縁性の想念である。
直覚し、知覚するのは無死無生の心、空の低にある無限の心と等しき心、仏と一つの心であり、眼で見、耳で聞き、想いで分別し、認識しようとする心、善悪を判断しようとする心等々は、すべて仏の心、自然の心に相反する業因縁の心である」

「おまえは常に如来と相対する時は、どういう心でいるのか?」

       「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。
        業は如来に相対することは出来ません」

「それでは、常に如来と倶にいる心、如来と相対する心でいられれば、阿難は、本心そのままでいられるわけであるな?」

「左様かと存じます」

「では再びいうが、昨日迄の出来事は、すべておまえの無明のなせるわざ。
けっしておまえの本心が傷ついたわけでもなければ、おまえ自体が駄目であったというわけでもない。おまえの本心は、依然汚れず痛まず、真玉の如く輝きわたっているのである。」
***********************

「おまえは常に如来と相対する時は、どういう心でいるのか?」

「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。業は如来に相対することは出来ません」

業想念の私は神性と向き合うことはない!できない!我即神也を自覚するのは真の「私」が神性だからこそ。
自分の中の神性をもっと強く認め、信じて、いつも自分の中に 我即神也 を置いておけるよう意識して生活しなければ・・・☆

神のみ心を離れて、我々に救いがあると思ってはいけません。他に何一つ救いはないのです。
なぜならば、この世に実在するのは神と神につながる生命のみであり、その他はみな消えてゆく姿だからです。

神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未来という、業性の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくことによって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。

<愛すること> から

すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

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by mppoe-light | 2016-05-05 22:52 | 真理について思ったこと

忘れてはいけないこと


五井先生 「愛すること」 から

それはあくまで今生のその人の現われでありまして、生命の本質そのものではないのですから、人をさげすむ想いとか、嫌悪の想いが心に浮かんだら、それをそのまま持続して想っていないで、すぐに消えてゆく姿として、神のみ心の中に祈り心をもって投入してしまうことが大事なのです。

そういう方法がとれるようになるためには、やはり、すべての人間の生命の尊厳さ、神の子の相を認める心にならなければならないのです。

しかしながら、人間の想いというものははなはだ厄介なもので、自分にくらべて劣っていると思う者を、どうしても下目に見がちになりますし、権力のあるもの、地位の上の者には頭が自然と下がったり、あるいは逆にわざと反抗してみたりして、生命の平等観で動けぬことが多いのです。

 そういう時に神という中心がありませんと、不平等心のままこの世を過ごしてしまいまして、
神という中心を常に心に抱いて、その中心の心に照らしてみて、自らを反省する意識がありますと、ああこれはいけないことだったな、と想いかえし、祈り心になってきます。

この世は自己の想いの置き場所によって、どんなにでも幸せになり得るのです。
常に常に世界平和の祈りによって、自己の想念を神の大光明世界に置いておくことを、日々瞬々行じていて下さい。




五井先生の「愛すること」を読んでいます。何年振りでしょうか。

お祈りに繋がったばかりのころ、五井先生の著書を繰り返し読んでいました。
この「愛すること」も大好きで、読んでいた著書のひとつです。
今思うと、、、
初めて読んだとき、消えてゆく姿の実践はおろか、意味まで深く理解できていなかったのですが、・・(笑) 
それでも一つ一つの言葉の響きが、私の心を感動させ、繰り返し読んでいました。

久しぶりに読んで、教えの基本である、“消えてゆく姿で世界平和の祈り”について、気付かされること、学ぶことがありました。

今は、 
我即神也 人類即神也 果因説 という究極の真理が昌美先生から出されていますが、改めて五井先生の説かれた “消えてゆく姿で世界平和の祈り”という教えが、まず基本中の基本であり、基本であるけれど、それは進むほど深く高く、これからも続いていくものなのだな・・・と思いました。



・ そういう方法がとれるようになるためには、やはり、すべての人間の生命の尊厳さ、神の子の相を認める心にならなければならない

・ 神という中心がなければ、不平等心のままこの世を過ごしてしまう

・ 神という中心を常に心に抱いて、その中心の心に照らしてみて、自らを反省する意識があると、ああこれはいけないことだったな、と想いかえし、祈り心になる。

・ 自己の想念を神の大光明世界に置いておくこと


今、究極の真理と果因説を知り、学び、五井先生の伝えたかったことが判るようになってきました。

我即神也 という、“神という中心”をいだたいて、
すべては完璧、欠けたるものなし、大成就 という言霊で、自分の想念を神の大光明世界に置いておくことを指導してもらっています。

五井先生、昌美先生の、み教え、指導をもっと大切に真剣に実践していかなければ・・・と反省しているところです。

肉体を器として現象界に生きる上で、忘れてはならないこと、

消えてゆく姿で世界平和の祈り=我即神也・人類即神也 大成就



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by mppoe-light | 2016-04-23 22:04 | 真理について思ったこと

今、この瞬間の「私」


今、この瞬間、現象は次々に過去になります。様々な状況、出来事 等々・・・次々と通り過ぎ、過去になります。 
でも、「私」はいつもここに在ります。いつも此処にいます。

「私」 「私」 「私」 
業想念に流れる想いの私ではなく、 いつも今、この瞬間に在る 「私」

その「私」は、どんなことが起ころうとも、どんな現象に巻き込まれたとしても、決して動かない。
変わるのは目の前の現象。

無限なるもの「私」。 一切傷つくこと、汚れること、傷むことのない「私」
 そして、すべてに祝福され、愛されている「私」
宇宙神とつながる「私」 

「私」があって、良かった!

「私」をもっと引き付けて、つかんでいたいです。

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by mppoe-light | 2016-04-15 19:34 | 真理について思ったこと