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ルーミー「真理は我らの裡に」「神化」

真理は我らの裡に 1



木立は繁り枝には果実あふれ
蔓草は曲線を描いて緑に光り
スーフィは一人、木陰に座す
瞼は閉ざされ、頭は膝の上に
瞑想の海深く沈んで動かない


何ゆえに、と、問う者がある


何ゆえに目を閉じているのか
慈愛に満ちた神の御しるしを
探し求めていたのではないか
目を開け、汝の周囲を見渡せ
これぞまさしく神の御しるし


それなら、と、その人は言う


御しるしなら常にここに在る
これ、という形や印も無しに
我が体内の奥深く、心の中に


巡る季節を映して梢が揺れる
世の美とは姿や形に宿るもの
次から次へと移り変わるもの


唯ひとつ、完璧なる人の胸に
永遠に輝ける果樹園を除いて





1. 『精神的マスナヴィー』4-1358. 初期の神秘主義者ラービア・アル=アダウィーヤの伝説として語られる寓話。ある春の日に、彼女は家の中に引きこもり頭を垂れていた。「外へお出かけになりませんか」、彼女の女召使いが話しかけた。「神の造りたもう美をご覧になってはいかがですか」。ラービアは答えた、「中へ入って、美を造りたもう御方をこそご覧なさい」。




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「神化」1


蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、部位の別なく
蜜に絡めとられて動かなくなる。


「イスティグラーク」、すなわち
忘我の境地というのは、このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。


その者より生じるいかなるものも、
全てその原因はその者には属さない。


水に溺れてもがいている者、あがいている者、
「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、
そうした者は未だ「イスティグラーク」に至ってはいない。


『アナー・アル・ハック』


すなわち「われは真理(神)なり」という言は、2
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。

人びとは考える、何という暴言、何という傲慢、と。

人びとは考える、『アナー・アル・アブド』、
すなわち「われは神のしもべなり」、
という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。


断じて違う。


『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」こそが、
真の謙譲を表わす言である。


『アナー・アル・アブド』


「われは神のしもべなり」と言うとき、
その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。
しもべ、などと上辺では卑しみつつも、
しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。
自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。


『アナー・アル・ハック』


「われは真理なり(神なり)」と言うとき、
その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。


これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。




*1 『フィーヒ・マーフィーヒ』49.

*2 「われは真理(神)なり」については、『イブリースの告白』注釈を参照のこと。


by mppoe-light | 2017-07-08 13:54 | 真理について思ったこと