なくそうとするのではない。変容させる。


『戦争、紛争、闘争をなくすことが目的ではない。』(09-10)

『我々の真の目的は、ただ戦争をこの世からなくすことではない。ただ飢餓を解決することではない。ただ病気を治すことでもない。ただ政治や経済の発展に寄与することでもない。ただ天変地異を防ぐことでもない。ただ人類の苦しみや痛み、そして差別や対立を正すことでもない。ただ宗教間や人種・民族間の反目を調整することでもない。ただ一つの宗教理念、哲学、倫理を促すことでもない。』(09-11)

 『現在、引き起こされている戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病をなくすことには意味がない。表面的にこの状態を止めても全く無意味である。』(07-12)


真理はしばしば逆説的である。現象の世界を「消えてゆく姿」と見送ったところに、真理はある。その真理を現象界に呼び出そうとするのが真理の祈りである。
現象は真理を覆い隠す。されど、覆い隠すものをなくそうとすることは目的ではない。真理の祈りは神性と平和を現象界に呼び出そうとする。しかし、現象界のものをなくそうとはしない。
なくそうとはしないのだが、「消えてゆく姿」と見送ることによって、それは自ずと消えてゆく。


 何であれ、現われた物事を「消えてゆく姿」と見送ることは、その物事をなくそうとすることとは異なる。
「消えてゆく姿」と見送るとき、神性を信じている。なくそうとするとき、現象を信じている。
内なる神性を信じる者は、内なる神性を体験する。これは果因説の人生である。
現象を信じる者は、再び似たような現象を体験する。これは輪廻の人生である。
 

 果因説の人生の目的は内なる神性の顕現と世界平和の成就である。内なる世界では、それはもう成就している。成就しているから、「我即神也」「人類即神也」と宣言される。

我々がなすべきことは現実世界の創造である。創造は選択―決断・決定・決行によってなされる。
創造は何かをなくすこととは異なる。創造は個々人によってなされる。社会的なものも、国家的なものも、国際的のものも、地球規模のものすべては個々人によって創造されたものである。

果因説の創造は、因縁因果によって出来上がった何かをなくすことではない。当然のことだが、果因説の創造は、因縁因果によって将来起こり得ることを変容させてしまう。大難は小難に、小難は無難に、大難すら無難にしてしまう。

「白光ノート」 冷蔵菩薩 から

私達がなすべきことは 奥の根本的な解決。神性意識による方法。究極の方法。
それは、因縁因果で出来上がった現在の状況に手を加え修正していくのではないし、
因果説で出来上がった今の混乱している世界の仕組みを、おなじ因果説の思考で修正していくのではないはずです。そもそもそれらは本物ではないのだから。色即是空の「空」なのだから。

戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病をなくそうと努力しても因果説の思考のままでは、根本の解決にはならないし、一旦解決したかのように見えても、また元のように戦争や紛争、テロや飢餓、貧困、差別、災害、疫病を創り上げてしまう と思います。 

私たちが人類を真に救う為には、この世の苦悩は消えてゆく姿として処理し、
因果説を超えた、まったく新しいものを創造していく。
果因説の創造を地上に降ろす。
そのために個々人の意識を神性意識に上昇させていく。
そして
因縁因果によって将来起こり得ることを変容させて いく。
大難は小難に、小難は無難に、大難すら無難に

きっと、因縁因果の思考からすれば、”変容“は、奇跡に映るかも。
過去が変えられたように映るかもしれない。
神性はつねに完璧、欠けたるものなし、大成就。
よって過去はなく、カルマもないから。 

私はずいぶん前から、昌美先生が説かれる“変容”の意味が理解できませんでした。
 今回、この記事を読み、やっと理解できるようになりました。


この世の様々な厳しい現状を見ていると、辛く悲しく苦しいことがあります。でも、どんな人も本体は神界にあります。 
どんな人も神です。本体は燦然と光り輝き、すべて完璧、大成就されています。 
表面的な姿、様相だけを見て、感情的になってはいけないと思います。(私も気を付けます。(^_^;) 奥の本体を見逃すからです。 
可哀想だ、哀れだ・・・、という感情が度を過ぎると、その方の神性を否定していることになると思います。その方の奥には厳然と無限なる能力があるからです。
厳しく悲しい状況に生きることを選択したその方の魂の強さ、尊さの方を私は見つめていきたいと思います。

世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように
日本人即神也

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by mppoe-light | 2016-09-28 17:27 | ピタゴラスさん啓示録から