私は何にでもなれるのかもしれない

 
本来、私は何にでもなれるのかもしれない。何にでもなっていくのかもしれない。

置かれた場に応じて、さまざまな「私」になれたらいいな、、と思いました。
大切なのは、その場が調和していて、美しい場になること。
究極の私の存在目的は、置かれた場を神聖な場にすること。(あくまでも究極の私ね(^_^;)
だから、突然上座に行く必要があるなら上座に、その直後、必要があるなら速やかに下座にも行く。

たとえば、
調和、平和と言う種を蒔き、それを育てるために、私は水になったり、太陽の日差しになったり、風にもなったり、雨にもなったり、
時には嫌な事、苦手な事にぶち当たって、エゴが不満を言うかもしれないけれど、
それは消えてゆく姿として処理し、
やがて調和、平和と言う果実が実ったら、みんなで分かち合い、みんな笑顔いっぱいで喜び合って祝福しあって・・・・(*^_^*)

故に、私個に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。すべては宇宙そのもの、光そのもの、神の存在そのものなり。

今、疲れていても、悩んでいても、本来の私=我即神也はそんなこととは一切関係なく、
今ここに在る神性=私は、疲れることもなく悩むこともなく、ただただ神の扉を開放しつつ、無限なるものを地上へ降ろすことを願っている。
扉はいつも開いている。



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2016.8.長崎
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by mppoe-light | 2016-09-13 21:11 | 真理について思ったこと