人気ブログランキング | 話題のタグを見る

これは本来の私ではないのだから・・・

これは本来の私ではないのだから・・・

と、自分に言い聞かせて、我即神也へと意識を転換する。
眼に入る現実に没頭してしまい、形だけの現実世界に生きる自分がすべてだと誤解してしまう。そして目に入ったものを評価してしまう・・・
そんなとき、ふと「私」自身に還ってみる。
 
これは本当の私ではない! 私はこんなちっぽけな存在ではない。こんなつまらない感情想念を抱えて生きる存在ではない。
私は本来、神の分御霊。宇宙と繋がる光、創造者。「私」という認識が世界を宇宙を創造している。 私は私を愛します。

人間はともすれば現実世界に浸かりこみ評価、非難批判を繰り返す、人類的には紛争と災害が絶えない二元対立の世界に入り込んでしまっている。この世の生活の世界から超然とすることは容易なことではない。問題が起これば、解決に取り組むのは人情である。そのために祈りに入るのはよしとするにせよ、そこで止まってはいけないということである。

問題解決は守護の神霊に手放した後、問題の無い世界に直入する意識が重要なのである。

<祈りと問題解決 から>


五井先生の消えてゆく姿の教えの深さを感じます。
消えてゆく姿で世界平和の祈り それを更に発展させた、 我即神也、人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

問題を消えてゆく姿にして、祈りでもって神様の世界に入る、 それはつまり
我即神也、人類即神也、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就

二元対立を越え、因果説を越え、果因説の思考に自分の意識を置く努力をする。
そのために、消えてゆく姿に徹し自分を赦し、“我即神也”で、自分を認め、愛する。

本来の私は、こんな小さな存在ではない。こんなつまらない感情想念に流される存在ではない。
私は 我即神也なのだ。 宇宙と繋がる創造者。 世界を創造する創造者。
私が在るから私は世界を創造し、創造した物を体験し、感じることができる。
ありがとうございます。 
「私」いつもここに在る。ありがとう「私」。

祈りと問題解決

『祈りや印は、問題解決策ではなく、自らを“我即神也”そのものに至らせるための道しるべである。
自らを輝かし、自らを尊び、敬い、愛し、慈しみ、また自らに感謝するための方法なのである。』(04-02)

『宇宙神は“これらのマイナスの現象を一つ一つ解決する必要はない。これらの現象はすべて人類即神也を顕わすためのプロセスなり”と述べておられるのである。』(00-09)

『一気に真理の極みから臨んでゆくことである。今自分に生じている不幸や困難に対して、100パーセントの意識を集中し、その解決に向け奔走するのを一旦止めるのである。
そして、自分の意識を高い真理にまで引き上げ、そこから自分を導いてゆくことである。』(01-11)

『さまざまな問題解決のための一生ではなく、それすらを超えてゆく生き方を求めることが先決なのである。
それが即ち自分自身を知ることであり、人間神の子について深く深く極めてゆく生き方こそ、真実の生なのである。』(91-12)

 問題解決は祈りの入口である。だが、目的ではない。
祈りの根本は「我即神也」に目覚めることである。
表面的な解決に取り組むだけで、根本解決がなければ、新たな問題が生じるだけである。
『神示によれば、“徹底的に二元対立を超えたところで生きよ”ということである』(01-03)。
二元対立を超えるとは「我即神也、人類即神也、すべては完璧、世界人類即平和也」に徹するということである。そこに意識を集中させよということである。

 人間はともすれば現実世界に浸かりこみ評価、非難批判を繰り返す、人類的には紛争と災害が絶えない二元対立の世界に入り込んでしまっている。この世の生活の世界から超然とすることは容易なことではない。
問題が起これば、解決に取り組むのは人情である。
そのために祈りに入るのはよしとするにせよ、そこで止まってはいけないということである。

因果説は二元対立の世界の法則である。それに対し、
『果因説はすべての対立をすでに超えてしまっているところから始まる』(01-11)。

果因説の真理はすべての不調和、不完全さが初めから無いところで確立している。
祈って、その神の世界に入り込むのが果因説である。問題を解決しようとする意識は、問題が初めから無い神の世界に入り込む意識とは全く異なる。前者は因果説の意識であり、後者は果因説の意識である。つまり、問題解決は守護の神霊に手放した後、問題の無い世界に直入する意識が重要なのである。

 『今あなたがたとえ不幸の最中にあって喘いでいたとしても』(01-11)、『我即神也』を前提にして語り、念じ、行為する選択をすることが果因説の生き方である。
不完全な自分、あらゆる苦悩、、、、何があろうとなかろうと、現象界のことは守護の神霊に預けて、神に成り切るのである。
新たに神に成るわけではない。『私』は元々神であり、神そのものであり、神以外のものにはなり得ない。その神の姿を思い浮かべるのである。イメージを描くのが苦手ならば、神の言葉を語ってみればいい。
 『私は、常に宇宙神から流れくる無限なる生命力に満たされ、周囲に愛と赦しと感謝の光を放ちつづけるのである。』(07-07) 

<ピタゴラスさん>   




これは本来の私ではないのだから・・・_c0074000_21504030.jpg

by mppoe-light | 2016-03-20 21:51 | 真理について思ったこと