『私』は何?何者?

肉体を器にして形の世界で活動している『私』にとって、目に入る触れる現象世界は誘惑でいっぱい。 
自分は本来 神の分御霊である・・ことを忘れて、外側の出来事に心が奪われて自分が何者なのか・・・と言う事を忘れてしまいます。
忘れたままでは因縁因果の法則を越えることはできません。(T_T)

気が付いた時、祈る時、印を組むとき、 自分に問いかけます。

私は何なのだ? 私は何者なんだ?

その瞬間、私は “今”に帰ることができます。
私は本来、神。 私は、すべては完璧、欠けたるもののない存在

過去はない。真実の世界は“今”にある。
それは、我即神也、人類即神也 果因説の世界。

過去、現在、未来の流れの世界で“今”に集中すること、つまり本当の『私』に帰還することは根気のいる作業ですが、 でも『私』の中に無限なるものすべてが有る、
(この私の中に、すべてがあるなんて・・・!) そう思うと、もっと奥の『私』を知りたい・・と思います。

現象につられたまま、道草して遊んでしまっても、必ず 我即神也 という故郷に帰ることが出来るよう、祈り、印、言霊・・・をきちんと生活の中で続けていかなければ・・・と思いました。

新しい文明の教育

 先ず、教育は学びの場である。学びなくして教育なく、教育のあるところ学びがある。
 真の教育は自己認識の教育である。真の学びは自己認識の学びである。
今日までの教育は自然認識のための教育であった。物理化学的認識の教育としては効果を発揮した。
ところが、自然認識の方法と自己認識の方法は根本的に異なっているのである。
自己を認識する理性とし、自然を観察される物体とするならば、その科学的方法は成果を発揮する。
しかし、自己認識の分野となると、理性的な常識が一切通用しなくなるのである。

自己認識の領域は、よく言われる量子力学的世界になる。
先ず、観察者と被観察者が同じなのである。
観察者は自ら観察しようとする姿を観察する。つまり、自らの信念を自らが体験するのである。
自分が自分を凡夫と想えば、凡夫の姿を現わし、凡夫を体験する。
自分が自分を神と想えば、神の姿を顕わし、神を体験する。

また、自己認識の領域は四次元的でもある。現象的に自己は人間の姿を現わしているように見えるが、実は本心は神そのものなのである。
同じ神性が、自らの姿を忘れ、自己を汚れていると観じるならば、輪廻の姿を現わす。
同じ神性が、自らの姿を思い出し、自己を神聖と観じるならば、神の姿を顕わす。
ところが、神性は不変である。確立されている。汚れたり、減少することはない。
問題は自分が自分のことをどのように評価しているのかだけである。
この自己評価が現象の姿を決めているのである。

古い文明の発想からすれば、現実の自分(普段の自分)と理想の自分が存在する。現実と理想とのギャップが存在する。現実の自分が理想の自分に近づく方法が必要になってくる。それが古い文明の教育というものだ。
 新しい文明の発想法は全くそれとは異なる。
『私』とは本心であり、究極の理想である神そのものである。現象とは関係なく、『私は神である』と宣言していい。宣言すべきである。宣言することによってこそ、真理は現実の世界に顕われる。

『人類にとって最も価値があるのは、自らの存在そのものが、かつては神のように気高く神々しく計り知れないほどの尊厳さを持つものであったということを思い出してゆくことです。本来の自分、真なる自分、神なる自分を思い出してゆくプロセスこそが、二十一世紀の人類の学びなのです。』(2000-1白光誌)

 教育でも、学びでも「理想と現実のギャップを埋めてゆく」ことではない。現実の私を私として受け止めることが幻影であって、私は実のところ神そのものであると認識することが教育であり、学びである。
先ず、第一に問題になるのは、人が見たもしくは、自分が見た現象の姿ではない。
現象の自分とは全く関係なく、自分とは何なのか?自分とは誰なのか?
学びも教育も問題になるのは、現象界の姿ではない。
現象界とは関係なく、真実の自分の姿が何なのか。それを知ることが教育であり、学びである。

<白光ノートから>


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by mppoe-light | 2015-03-08 22:14 | ピタゴラスさん啓示録から