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私の意志

『私』は過去からの延長線上にはいない。だから過去はなく、『私』は何にも汚れず傷つかず
 『私』は常に新しく。無限なる新鮮。
そしてその『私』とは、いつも完全、完璧、欠けたるものなし、大成就 している。
それが絶対変わることにない真実。
  
そして『私』は、その真実からいつでも無限のものを取り出し、顕すことが出来る。

重要なのは意識がどこを向いているのか。何を意志しているのかである。

誰かが、私の神性を顕してくれるのではないし、神さまが私の神性を顕して下さるのではなく、  
私の意志がそうする。
『私』は私の世界の唯一の決定者である。
『私』は私の世界の唯一の創造主である。
『私』は今、ここに、宇宙神の光を降ろします。
『私』は宇宙神の御心を私の世界に顕わします。
『私』は神の姿を私の世界に顕わします。
『私』はすべての神性を私の世界に顕わします。
それは私だけのためではありません。
人類が真理に目覚めるためであります。

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自由意志

 『すべては個人の自由意志という絶対なる法則に委ねられている。
  この自由意志というものには、すごい権限がある。真に人間を動かしているものの正体は、自由意志である。
  結果に導くのは、他の人でもなければ、神でもない。あくまでも自らの自由意志によるものである。そして、この自由意志は、とてつもない力を秘めている。』(2004-04)

因縁因果の法則が相対的法則ならば、自由意志の法則は絶対なる法則である。
①因縁因果を認めない唯物的思考。
②因縁因果に制約された宗教的思考。
③因縁因果を超えた果因説を生きる思考。
①~③のすべては人間の自由意志で選択できる。

 従来の考え方では、この自由意志が尊重されていなかった。宗教的には人間の運命は過去の想念行為で決定しているとされた。また、現代文明では、過去の経験、幼児期の体験、物質的環境、遺伝子、歴史、経済環境等々が人間の人生を決定づけると考えられてきた。
しかし、人類にとって重要なのは、過去ではない。むしろ、過去は無い。物質環境でもない。
重要なのは意識がどこを向いているのか。何を意志しているのかである。

 過去が何であれ、物質環境が何であれ、因縁因果の姿が何であれ、目の前の事物に如何に反応するのかは、全く当人の自由意志の領域なのである。
人間だから誰しも怒るでしょ。誰しもすねるでしょ、、、というのは言い訳にしか過ぎない。絶対なる自由の放棄にすぎない。
この自由の領域で、「如何なる姿も消えてゆく姿である。すべては必ず良くなる」と思えるならば、その人は既に神域に達している。瞬時に、心底そう思えなくても、その方向に自分の意識を方向付けてゆくことが重要である。
 ステップとして、因縁因果の法則が必要なのは、責任問題である。現われた姿に対して「過去の自己の因縁の消えてゆく姿である」と観ることは、自己の人生の責任は全て自己の自由意志にあることを認めることである。一瞬、自己の責任を認める。その次の瞬間には、自分は創造主の立場に立っている。

「それでは、ここに宇宙神の光を降ろそう。私を通して神性を顕現しよう。自分の本当の姿である。神の姿を顕してゆこう」
そのように決意し、宣言すれば必ず宣言した通りに成就するのである。
 この『とてつもない力を秘めた自由意志』とは神としての自由と尊厳のことである。
今まで、人類はその自由意志を放棄し、自らの意志力を限定してきたのである。
それと同時に、意志の力・意識の力に気づかず、誤用して、悪想念・悪感情を再生産してきたのである。この悪想念・悪感情の再生産の仕組みが因縁因果の法則なのである。

 この因縁因果の法則は人類一人一人の無知を前提にしている。つまり、真理が示され、神性が復活する時には。この法則は機能しなくなる相対的なものである。
いよいよ、人類の神性復活の始まり。因縁因果の世界は消え去り、神の姿、神の世界、平和な世界が復活する。


<ピタゴラスさん 白光ノート>



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by mppoe-light | 2015-01-28 17:08 | ピタゴラスさん啓示録から