『個に徹する』 こと

自由意思に基づく権利

『人間はどんな状況にあっても必ず自分の自由意思を尊重し、駆使してゆくものである。それこそ神が我々人間に与えられた自由という特権なのである。
すべての人類に当てはまる唯一の真実は、人の運命はあくまでもその人自身の自由意思
の結果であるということである。』(93-06)

『人を変えることなど神様さえできない。何故ならば、皆人は自由意思に基づいて生きる権利があるからである。』(91-07)

『あくまでも人類一人一人の自由意思は尊重されます。個人の自由意思の決定に関しては、神々様さえも何ら一切関知しません。』(99-01)


 自由と責任、権利と義務、、、これらは単に法律的な問題ではない。
人間の本質に係わる問題である。人間とは何かに係わる問題である。
『自己認識に欠けたる結果』(98-04)が世の苦悩を産み、「正しい自己認識の結果」は神性顕現となる。
つまり、自己認識こそがカルマと悟りの分岐点であり、人生のすべてを決めているのである。
まさに、この自己認識の領域に人間の自由意思の領域がある。
そして、神でさえも介入できない人間が持つ尊厳の領域がある。


 『皆、本来の自分というものを錯覚しているのです』(99-04)。

 本来の自分というものがわからなければ、自分の自由と責任、権利と義務について正しく選択できない。
その錯覚に基づいたこれら四項目についての思い込みが、人生を混乱に導いてしまう。
『我即神也』と究極の真理を説かれても、人類は非真理に基づく固定観念に縛られている。
ならば、『我即神也』に基づく生き方を多方面から説き明かし、思い違いを少しずつ修正する必要がある。
そのため、この四項目については何度も何度も解説が繰り返されるのである。

 人は皆、本質において、実在において神そのものである。その神性は損なわれることなく、減少することもない。
ところが、人は自己認識において、自分を神と正視することもできるし、自分をカルマの人間と錯視することもできる。
これは自由意思の領域であって、宇宙神でさえも介入できない。神々も、覚者も、神人も介入できない。むしろ、他者の選択に対して『一切関知せず』という態度を取ることこそが宇宙の法則に適うことである。
『一切関知せず』とは『批判、非難、評価を下さない』ということである。
ただ『人類即神也』と人類の真の姿を正視するのみ。
人類一人一人を神として尊重するのみ。人類一人一人を神として愛するのみ。
それが、光となって、人類の目覚めを促す唯一の道である。

 この自由には当然ながら責任が付き纏う。組織に帰属することではなく、個に徹することが要求される。
他の判断ではなく、自己の判断が問われる。他に権能を委ねることではなく、自己責任が問われる。自由意志には厳しさが伴なうものである。

<ピタゴラスさん>



自己認識こそがカルマと悟りの分岐点であり、人生のすべてを決めているのである。まさに、この自己認識の領域に人間の自由意思の領域がある。そして、神でさえも介入できない人間が持つ尊厳の領域がある。

これこそ究極の真理っ☆ そう思いました。
神でさえも介入できない私たちが持つ尊厳性。  本来、私達一人一人は気高く崇高な存在なのだから。
けれど、

この自由には当然ながら責任が付き纏う。組織に帰属することではなく、個に徹することが要求される。他の判断ではなく、自己の判断が問われる。他に権能を委ねることではなく、自己責任が問われる。自由意志には厳しさが伴なうものである。

組織に帰属することではなく、個に徹すること。他の判断ではなく、自己判断。
「個に徹する」・・・・ この言葉に、共感と同時に深さ、重さを感じました。
とても大きく深い真理・・・☆ 

”個に徹する”こととは、自分を信じること。自分の本来の姿、神性を信じること。すべては完璧、欠けたるものなしを信じること。
どこまで信じられるか。信じる深さで、選択が変わり、人生が神性顕現へと変わり、世界が変わる・・・
そう思いました。

世界人類が平和でありますように 人類即神也



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by mppoe-light | 2014-08-04 19:12 | ピタゴラスさん啓示録から