「祈るとき意識がどこを向いていればいいのか?」

祈るとき、意識がどこを向いていればいいのか?

 
自我は自己の本来の姿を認めない。
五感で知覚できない存在を認めない。自己の神性を認めない。自分は不完全で汚れたものと知覚する。
世界人類についても同じである。
世界は汚れ、不安定なものとして知覚する。人類も汚れて争い、苦しむものとして知覚する。世界にも人類も神性は認められない。

かつては自分を浄め、世界人類を浄めることが重要であった。自分が苦しい。あの人が大変だ。あの国と国が争っている、、、。眼前の状況から抜け出すことが第一であった。眼前の状況を改善することが求められた。
現象世界において、現在の姿とは夜空の星を見るが如し。
現在の姿とは『今』の姿ではない。それは一部には3万年前の姿であり、一部には10万年前の姿である。
そこに光を送ることは究極の祈りではない。つまり、困った自分、争う国々、災害に苦しむ人々の現象に向けた祈りは真理の祈りではない。


『今自分に生じている不幸や困難に対して、100パーセントの意識を集中し、その解決に向け奔走するのを一旦止めるのである。
 人間本来の姿、我即神也、人類即神也の究極なる真理を想い起こし、心に焼き付けるのである。』(2001-11)

 我々が祈るとき意識がどこを向いていればいいのか?
苦悩する自分や人類ではない。
状況とは関係なく、自分の神性、人類の神性に意識を向け、神性を認め、心に焼きつくほど神性をイメージし、その真の姿を語るのである。
 個人人類同時成道という通り、自己の願望成就、神性顕現も世界平和も同じ果因説の術を駆使して成就するのである。

 
<ピタゴラスさん 真理の祈り から>

人間は本来、神の分御霊。生命は永遠で無限。 パーフェクトな存在。
現象の消えてゆく姿を解決して平和、幸せになるのではなく、まったく新しいもの、すべては完璧なものを顕す。果因説で顕れる。なぜなら 人間は本来 神だから。それは認めることで顕れる。

日々の意識がどこに向いているのか、
困難な物事をどう見て、どうのように受け取っているか・・・が大切なのだと思います。


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by mppoe-light | 2014-08-04 11:13 | ピタゴラスさん啓示録から