祈るとき、意識は神性へ☆

祈ることは、本来の「私」に戻ること。 本来の「私」を顕すこと、顕れている状態。
“祈り”は救ってもらうためのものではなく、カルマを浄めるためにあるのではなく、
本体と現象界の私とが真っ直ぐに繋がるもの。 本体を現象界で活動させること。
本体と繋がる時、小さな自我の“私”はいない。
繋がる時、 過去はなく、あるのは“今”だけ。 
祈りを通して、神の無限なるものが流れ出す。
これから徐々に改善される・・・のではなく、神性はいつも常に完璧、大調和している。
“祈り”は、因果の法則を超えて、神の法則に入ること。 
 

複雑なことは判らなくても、誰でも、簡単に取り組める、世界平和の祈り。
始めは何も解らなくても、祈れば神さまの働きをしていることと同じ。
世界平和の祈り 素晴らしいな・・・と思う。 

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” によって、意識はカルマから離れ、神性の方向へ。

『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。



自分が自分と向き合うところ②

 自分が自分と向き合うところ。そこは自己意識の場である。そこに原因のすべてがある。
人間存在の原点があり、カルマの出発点がある。カルマの終わるところであり、神性復活が始まるところである。
問題が起こったのはここである。だから、問題の解決はここでなされるべきである。現象界での弁済、積徳をもって解決がなされるのではない。

 この究極の場に、究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。
「我即神也」は青空の如く、元々あるものである。「我即不完全也」は雲の如く、刹那的に現われていたものである。
 この究極の場に究極の真理「我即神也」があり、真理を覆い隠した「我即不完全也」がある。現象界はその二つのいずれをも映し出すことが出来る。
「我即神也」を映し出せば、天国、完全平和の世界。「我即不完全也」を映し出せば、苦悩を伴なう世界。

 自分が自分と向き合うところ。それは鏡と同じである。曇りなく天の理を映し出せば、「我即神也」が輝いて、現象世界に神の国を映し出してゆく。そうなれば、今まで映っていた苦悩の姿は自然消滅するしかない。現象世界は自我の想像の産物なのだから、罪も汚れもない。苦悩を伴なった現象世界の闇は、光が差せば消えるだけである。

 「我即神也」が宣言されるとき、すべては赦されている。すべては完全、完璧、大成就であり、すべての神性が与えられている。内に包まれていた神性は、開かれ、形となって輝き始める。

『本来の自分(真我)は“宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものである”と断言』
(00-09)
してゆけばいいのである。

そうすれば、

『自分が生かされていることに気づき、自分の生命の尊さ(我即神也)を心から理解できた時、地球上から天変地変や環境汚染、飢餓、病気などは消滅してしまうのである』(00-09)。

『人類すべての人々を人類即神也と受け止めることが出来た時、もはや自分の過去の一切の因縁は消滅したのである』(01-08)。

それだけでなく、

『神の神々しい光の流れが辺りを覆い尽くすのである』(00-09)。

 ここで再度強調しておくべきところは、「我即神也」の真理が受け止められ宣言されるところ、カルマは消滅してしまうということである。光と闇は同じところに存在することはできない。

 天の岩戸開きの神話はこの自己意識の場で起こったこと、これから起こることなのである。天照大神が鏡に写った自分の姿を見て、岩戸から出るのは、この自己意識による自己変革の預言なのある。これから、すべての人類に起こることである。

 この変革を先取りしていたのが『世界平和の祈り』なのである。

 『世界平和の祈りこそ、本来の自己を認識し、今までの否定的、習慣的な自己意識を徹底的に覆し、変えてゆく方法なのである。』(01-07)

 『世界平和の祈り』の一番の目的は自己意識の変革にあったのである。
『世界平和の祈り』に天の岩戸開きの原理が込められていたわけである。
 神人たちが神の姿を顕してゆくときは近い。 
 
mixi ピタゴラスさん



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by mppoe-light | 2013-10-13 23:31 | ピタゴラスさん啓示録から