「気持ちが薄くとも、その宣言をしつづける」

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『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめること』(2008-09)

当時、昌美先生のこの言葉を読んでも、

「う~ん・・・・。。ぜんぜん感じられないものを想像するなんて・・・」
と、真剣に取り組む気もないままでした。 

まだまだ「成就」の深い意味も分からなかった私です。 
「なんで印の最後は「成就」なんだろう。
どうして神事では「成就」の言葉が必要なのだろう・・・・」と、
果因説のことが理解できていない状態だったので。(>_<)

が、今っ、
我即神也 を宣言しながら、“完璧で、大成就している”気持ちがどこまであるのかな・・・・と気になるようになりました。 
成就を顕すのであれば、その時の気持ち (すでに成就している時の)、にならなければいけない・・・・と、思うようになりました。
成就の時の気持ちになるためには、想像が必要。 
成就した時の自分をイメージして、その感覚を思い描いていった方がいいのではないか、 と。


神性はすべての人に厳然と存在するのだが、当人はそれを意識しないから、他を意識する分、他を体験することになっている。
本心はすべての人に厳然と輝いているのだが、当人はそれを否定するから、否定する分、苦しみを体験することになっている。
神の愛はすべての人に遍く行き渡っているのだが、当人はそれに気づかないから、気づかない分、神の愛以外のものを体験することになっている。
人には内なる無限なる能力が備わっているのだが、当人はそれを過小評価するから、評価した通りに、無力感を味わうことになっている。

神は空高くに聳え、凡夫は平地にたむろする。凡夫は無限の努力を積み重ねながら、高き岳に挑む必要があるのだろうか?因果説では然りである。だが、果因説では否である。
『人間の神性はいかなることがあろうとも、決して失われることはない。』(2008-10)

神性は既に成就しているのである。神の姿は既に完成されているのである。宇宙神は我々一人一人を完璧な存在として定められたのである。我々は神として、そして凡夫として、空高くと平地に同時に存在していると言ってもいい。だから、「現状は凡夫の世界にいるぞ。高く険しい岳を昇るぞ」と身構えることはない。

既に空高くにいる自分の姿を想像すればいいのである。
『すでに我は成就したという時の歓喜、感謝、無限なる幸せを想像し、そこに意識をこめること』(2008-09)
が内在の創造力を発揮させるのである。

悪想念を払って、愛深くなるのではない。「すでに我は無限なる愛を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」と気持ちを込めればいい。
気持ちが薄くとも、その宣言をしつづければいい。

体を丈夫に鍛えて、健康になるのではない。
「すでに我は無限なる健康を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

働きづめで裕福になるのではない。
「すでに我は無限なる豊かさを成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

戦争、民族問題、環境問題を解決して平和になるのではない。
「すでに世界人類は無限なる平和を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」。

※ピタゴラスさん「太陽の譬え」  から




「すでに我は無限なる愛を成就した。成就できた。すばらしい。ありがたい。喜ぶべきだ。幸せだ」と気持ちを込めればいい。
気持ちが薄くとも、その宣言をしつづければいい。


そうだった、私は言霊の(神語の)力でここまで来たのでした。
言霊は威力。だから、気持ちだって厚くなるのではないか 

ピタゴラスさんちの神さまの響き(メッセージ)に感謝!

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by mppoe-light | 2013-07-16 19:53 | ピタゴラスさん啓示録から