神性に基づいて生きる☆


我即神也 の「私」は無限なる愛、無限なる叡智・・・、無限なるものすべてが満ち溢れている存在、
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』している存在。
我即神也の「私」は、時間の流れの世界、五感の世界には生きていない。 
「私」は、常に毎瞬、宇宙神から注がれる光=意識「私」だから。 
意識は、ストロボライトのような点滅が、常時点灯しているように見えるほど高速で繰り返されるから、まるで私は過去から時間の流れる現象世界にずっと生きているように思える。
c0074000_2041199.gif(これは私の個人的イメージ、考えです、、、) 

だから、
現象世界の自分が本来の自分であると思ってしまうのだけど、
本来の「私」は瞬間瞬間に中心から降りてきて、肉体に生きている。 
瞬間中心から降りている「私」は、すべては完璧で、欠けたるものなし、大成就。
過去もカルマもなく、絶対に傷つかず、汚れない。 そして常に新しく、常に完璧な存在。 
その時、現象の中で肉体がどんな状況に置かれていても、 神「私」には一切関係ない。
だから、
神「私」を意識した時には、法則の通りに「私」は光を放つ。人類のために。
たとえ肉体や、肉体を取り巻く環境がどんな状態でも。 「私」は法則の通りに働く。

と、、、こんなことを思いました。
 
思いながら、
五井先生の“消えてゆく姿”という教えは すごいものだな・・・とまた改めて感じていました。

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人は五感に感じられない『無限なる宝庫』に気づいていない。気にかけているのは、過去、時系列、五感の世界だけである。
自分を愛する人だけが『無限なる宝庫』に思いを寄せる。

 無限なる宝庫は厳然と存在する。
 無限なる宝庫は厳然と神の子のものである。
 それは神の子が自由に使っていいものである。

 カルマがその自由を奪っているのではない。
カルマを完済すれば、その自由が戻ってくるのでもない。
自分の自由を認めない想いがカルマとなっているの過ぎない。
自分が自分に自由を認めればいいだけである。
「我即神也」とは、その自由を認める宣言である。その自由を認め、印を組み、「すべては完璧」の言霊を発することがゴールデンキーなのである。
ゴールデンキーを使うや、内なる宝庫は外に溢れ出始める。それを妨げるものは、一切何もない。


「消えてゆく姿」を産み出すエネルギーが多かろうが少なかろうが、その有限なエネルギーを超えた生き方が要求される。それは有限なものを超越した「無限なるエネルギー」に基づく生き方である。
それは果因説・本来因果の生き方である。(以上『 』は2000-02)
 因縁因果のことはさておき、内なる無限なる宝庫、自らの神性に基づいた人生を始める時代が到来した。

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真の『私』は因縁因果とは無縁である。真の『私』は宇宙神の直接のコピーである。したがって、『私の世界に欠けたるもの、不足なるもの、不調和なるものなど一切ない。存在しない。私の世界に存在するものはすべてが完全で調和し、健康で豊富で、幸せそのものであることが当然である』。

 『私』は因縁因果の世界で生きる存在ではない。
 『私』は因縁因果を超越している。
 『私』は神そのものを顕現するだけである。
 それは当然である。
 『私』は神そのものなのだから。
 『私』は神から離れたのではない。
 『私』は神に近づいているのではない。
 『私』は神以外のものにはなれない、神そのものなのである。
 このゼロポイントから人生を再開するのである。
 このゼロポイントから真理を理解するのである。
 その宣言こそが『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』の言霊である。

mixiピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2012-11-21 20:14 | ピタゴラスさん啓示録から