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神だから

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あなた自身が宇宙神の光の一筋であり、聖なる存在そのものであることを、
漠然としてではなくはっきりと自覚しなければならない。   2011 2月号法話から


「私」は光から来たもの、神そのもの、
「私」は何処であろうと何時であろうと、肉体を持ったまま神の姿を顕すばかり。 
「私」には過去はなく、カルマもない。「私」は光だけですべてを描ききる。「私」が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界。


「私」は本来神だから、神そのものだから・・・、
神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む欲望に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜むネガティブな思考に打ち克つ

神人たるを誇りにして
自らの心の中になお潜む他への依存に打ち克つ

神人たるを誇りにして自らの心の中になお潜む劣等感に打ち克つ    <1月号日々の指針から>


神であることを前提にした生き方が、意識軸で繋がっている神界の「私」と共振共鳴を起こし、
それが本当の神の姿になるのか・・・
 と思いました。


共振共鳴

『神はまず天地に分かれ、そして、その一部の光は、自然界を創造し、活動せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊とよばれて人間界を創造した。ここにおいては神は、一であり、多であることとなり、一即多神となるのである。
さて、人間の直霊、即ち神の一部の光こそ、人間そのものなのであって、この時にはいまだ業因縁は生じていないのである。』(「神と人間」三章)

 この多神の中の1ピースが自分自身なのである。
業因縁の生じる以前の自分の本心が多神の一員として存在している。その「神の姿」は今も光り輝いている。「神の姿」は後に生じた業因縁の影響を受けることはない。
そして、「神の姿」は後に生じた業因縁をすべて消してしまう光である。
宇宙神の創造されたままの「神の姿」は永遠の生命なのである。
この直霊そのものの自分は無限なる神性そのものである。それを肉体人間側から見れば、無限なる神性の宝庫である。

この直霊神と『私』は一つである。つまり、『我即神也』なのである。
すべての人に存在する『私』という意識は、直霊神と一つに繋がっているのである。
ただ、『私』という意識は現象界で生じた事象に基づくレッテルに覆われている。
その様々な自己定義が自我なのである。それが業因縁の素である。

『私』は直霊神の姿をこの世に呼び出す天命がある。直霊神は『私』と言う場に降り立ち、神性を顕現する天命がある。この二つにして一つの天命を完うする方法が祈りである。

祈りは、人が神になる、神に近づくためのものではない。
祈りは、神たる存在が、神の働きをこの世で行うためのものである。
神たる存在が、言葉で宣言したことはこの世に具現化するのである。

人は神になることはない。人は神に近づくことはない。人は元々神なのである。
この「人が神である」という真理を変更することは誰にもできない。神は神以外のものにはなれないのである。どんなカルマに塗れていようとも、人は神の働きをすることによって、本来の「神の姿」を思い出すことができる。
「神の姿」を思い出した瞬間、カルマは消え失せるのである。そして、「神の姿」が顕われるのである。

真理の祈りとは『我即神也』である。『我即神也』とは、『私』は直霊神そのものであるという現象界側の宣言である。
それと同時に、『我即神也』は直霊神の「我は神そのものである」という直接の宣言なのである。
『すべては完璧 欠けたるものなし 大成就』も同様である。
現象界の『私』は実のところ「すべては完璧」であると宣言しているのである。
そして、同時に、直霊神も「すべては完璧」と真理を宣言しているのである。
肉体側の『私』は直霊神が宣言していることを、真似るように宣言すればいいのである。
真似るように印を組めばいいのである。
真似るように「神の言葉」を語ればいいのである。
そのとき、共振共鳴が起こる。
現象界に「神の姿」が顕現し始めるのである。
『私』と直霊神は二つにして一つになっているのである。

mixi ピタゴラスさん  


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by mppoe-light | 2012-11-02 22:00 | ピタゴラスさん啓示録から