「権利」 から

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幸せや平安は、努力して忍耐して獲ちとらなければならないものだと思っている人が多いが、本当は誰もが生まれながらにして幸せになる権利を持っているのである。ただそのことを知らないだけである。
(「もっともっと幸せに」P.98)

喜びとは、勝ちとらなければならないものと思っているけれども、実際は全くそうではなくて、この世に生れ落ちた瞬間から、生まれた時の権利として本来持ち合わせているものなのである。
信ずる力さえあれば、誰でもが即幸せになれるものなのである。 1990-11

 人間は本来いかなる罪をも赦す権利があるのです。94-10
 

 西園寺会長は「権利」について言われることがある。「権利」は日本の宗教観にとって馴染みの薄い観念である。しかし、果因説では重要なキーワードなのである。



「権利」 という言葉・・・・
 初めは少々抵抗がありました。 やっぱり日本人なんですね。私は。 
謙虚で卑下することが美徳である・・・という日本人的な想いがある(笑)。

↓今年の2月くらいに書かれたものですが、
今になって この「権利」という言葉に引き付けられ、読み直してみました。

きっと、
新しい言霊  「すべては完璧 欠けたるものなし 大成就」 を唱えているうちに、

「真の姿は みな完璧で欠けたるもののない姿、それが真実、私達には当然のことなのだ・・・」と思い始めたので、
引きつけられたのだと思う。


 日本の宗教観、特に「人間凡夫説」では阿弥陀如来の救済力に任せることがすべてである。権利の主張など無い。また、「人間凡夫説」ならずとも、日本の宗教では謙虚、卑下が美徳とされがちである。

宗教ならずとも、一般社会では自分の不完全性を認めることが要請される。
西洋的な原罪意識はなくとも、多かれ少なかれ、罪意識から自己を開放している人は少ないのである。
 西洋文明的な権利意識と果因説の権利とは異なる。西洋文明的な権利意識は「権利を社会的に主張すべし」「権利を妨げる者とは闘争すべし」ということである。

果因説では、権利を主張するのは自分自身に対してである。
権利を妨げるのも自分の固定観念以外の何ものでもない。自分と闘争するわけではない。
この「権利」は、自分が自分の真実の姿に目覚めるために示された真理そのものである。
果因説の権利は我々が持つ生まれながらの、当然の権利である。
この権利は我々の本質に由来するものである。
この権利は我々の神性、「本来の神の分霊の姿」に由来するのである。
それは、我々の相続財産つまり遺産とも言われる。
権利と言わずとも、この遺産については聖書、仏典でも「放蕩息子」のたとえ話のテーマとなっている。

完璧で大調和している大宇宙。 当然ながら、その中に在るすべてのものも同様にすべてパーフェクト。
であるはずなのに、 
その中で私達人類は、宇宙に生かされながら わざわざ否定的で不調和な自分を体験し、不調和な世界を創造している。 なんて奇妙な体験を続けているんだろ。。。。


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あらゆる現象と記憶は過去である。あらゆる過去は「あなたは神聖ではない」と言っている。
しかし、それは神であるあなたが「自分は神である」ことを失念し、「自分は神聖ではない」と意識したことが、こともあろうに神であるあなた自身の創造力によって顕現したものである。
神聖ならざるものには苦悩がつきまとう。

究極の真理は、あらゆる現象と記憶、つまり過去に関係なく「あなたは神そのもの」なのである。あなたは神性そのものである。そのように生まれついているのである。
その本来の姿を愛して、あなたの本質を認めて、あなたの神性を賛美し、「欠けたるものなし」を体験してゆく。そうなるのである。
これが、あなたが持っている権利である。
この権利を行使するも妨げるも、自分次第である。ジャッジ役の神はいない。
あなたの外には、崇めるべき神はいない。
自分のことを神聖なる神と思えば、権利は成就する。至福を体験する。
自分のことを神聖ならざる肉体人間と思えば、権利は放棄される。苦悩を体験する。
自分の神性を認めれば、至福を体験する。
自分の人間性を認めれば、苦悩を体験する。
未来には神性が輝いている。その神性を引き付けるのだ。
過去には人間性しかない。その人間性を手放すのだ。

人間性がたとえ泥まみれであっても、あなたの神性は汚されることはない。
五感に感じられない自分の神性を讃えよう。「我即神也」
五感に感じられない自分の権利を宣言しよう。「空即是色」
五感に感じられない自分の神性を讃えるからこそ、「我即神也」「空即是色」が現象界に成就するのである。
神性に関連するすべての権利、それはあなたのものである。

ピタゴラスさん 「権利」から



神聖ならざるものには苦悩がつきまとう。

この言葉に心が留まりました。 なぜだか良くは分からないけど(笑)

思うに、、、、
心に葛藤が起こり重くなった場合、それは神様の御心から外れている状態、 どんな良いことでも。 きっと自我が動き出しているに違いない。
神聖なものは、いつでも心は明るく輝き、軽くて清々しいはずだから。


自分の求めるものは自分の内に在る。 自分を探求しよう・・・。


すべては完璧 欠けたるものなし 大成就!

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by mppoe-light | 2012-10-17 21:48 | ピタゴラスさん啓示録から