離したら 即 訪れた・・・☆

自分が無いということが一番のんきだ。

自我を消えてゆく姿として心から離せば、その瞬間 
 神「私」が現れる。

自我の私は消えてゆく姿、本来は無いもの・・・だから、意識して神「私」を選択する。


私の本質は神そのもの。 すべては完璧 欠けたるものなし。
神である「私」は何かを求めなくても、いつもすべてが満ち溢れていて、
大調和している。 
その「私」がすることは、 
自分の中に満ち溢れている無限の愛、調和、平和、美・・・を世界に放つこと。


神である「私」は外側に自分の価値を求める必要はない。 
常に充分満たされ、愛され、祝福されているから。

現象に価値を見出さない

現象に価値を求め、心を絡ませるのか、それとも価値を認めず、心を離すのか。
選択は二つに一つである。



現象(相手の)の間違いを修正し、改善することではなく、
カルマを消すことに意識を向けるのではなく、
向けなければならないのは 
我即神也 であるということ。

その瞬間、心の中の 批判、非難、評価の想いが一掃され、
自分の中に平和が訪れる

と、
つい先日、こんな経験をしました。

「自我は必要ない、私の本来の役目は光を放つことだ・・・」と
思った瞬間に、心の中に平和が訪れました。
即 でした。

我即神也 人類即神也

すべては完璧 欠けたるものなし 大成就


消さなければならないカルマが在ると認めている限り、顕わすべき神性を顕わすことはできない。神性を顕わすために、カルマを消さなければならないのではない。神性が顕われれば、カルマは消えるのである。
人生で問われるのは、あなたはいつも神性のことを意識しているのかということである。
自分の神性のことを知っているのだろうか?
自分の天命は神性を顕わすことだけであることを知っているのだろうか?

自分が何かを愛するとはどういうことだろか?
自己と愛する対象とは別物と知覚されている。
愛することとは、それにもかかわらず、自分が対象と全くひとつの存在と感じることである。そして、全く一つになりたいと望み、その実現に向かうことである。

 その対象が「語り、念じ、行為する」のと同じようにしたいと思う。

最も根源的で、最も崇高な愛は神への愛であり、自分自身への愛である。そして、この二つのことは、全く同じことである。
自分とは神であり、自分を愛するとは、自分を神と認めることである。
自分を愛するとは、自分の神性のすべてを知ることである。
自分を愛するとは、自分の神性を宣言することである。

人は毎瞬、選択しているのである。
無意識にカルマの選択、五感の選択、現象の選択をしてはならない。意識的に神の選択をするのである。
カルマが噴き出した瞬間であろうと、『我即神也』を宣言し、その「本来の姿」を地に降ろすのである。

すべては完璧 欠けたるものなし。 大成就。  

       
ピタゴラスさん 「愛すること」 から


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by mppoe-light | 2012-09-13 21:40 | 真理について思ったこと