現象に価値を見出さないこと

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人類が迷っているのではない。人間が迷っているのでもない。迷っている想いが、今、現われて迷い、そして消えてゆくところである。

人類が争っているのではない。 人間が争っているのでもない。 過去からの争いの想いが争っているだけである。争っている想いが、今、現われて消えてゆくところである。

即ち、人類の迷っている想いも、信じられない想いも、疑う想いも、自己を赦せない想いも・・・・・・それらのネガティブな想い、そしてポジティブな想いさえもすべて消えてゆく姿なのである。
 本心は否定も肯定もそれすらない。 神性に光り輝く大光明そのものなのである。

 人類一人一人は、宇宙神より分かれたみ霊であり、宇宙神そのものの生命が己が中に存在しているという真実を決して忘れてはならない。 我々は常に宇宙神の属性を持ち、宇宙神の大生命と常に共振共鳴しつづけている宇宙神の器そのものである。
 我々の生命には初めも終わりもない。不死不滅である。 死と呼ばれるものは、唯物質そのものである肉体が死滅するに過ぎないし、魂が輪廻転生をしているに過ぎないのである。

白光誌 9月号から


「本来の自分は現象の中に生きてはいない」

本来の私は、 想いが現れ消えてゆく現象世界には生きていない。


現象に価値を見出さないなら、それは「消えてゆく姿」を行ったことになる。現象に価値を求める限り、現象は在るように見える。
現象に価値を求め、心を絡ませるのか。それとも、価値を認めず、心を離すのか。選択は二つに一つしかない。確実に「消えてゆく姿」を選択することである。しかし、重要なことは、真理は「消えてゆく姿」だけでは終わらないことだ。

現象世界の満足を本心は求めていない。本心が求めているのはすべてが成就した神の国である。
現象世界の損得、満足・不満から心が離れても、実のところ何の損失も生じない。現象世界に心が絡むことが大きな損失なのである。そして、そこに不満が生じるのである。
「消えてゆく姿」とは自我が執着してやまない現象世界から心を離すことである。

現象世界から離れた心は「神の国」に入り込む。「神の国」は既に成就した世界である。
その世界は、美しく浄らかで、平和そのものである。その世界ではすべてが充たされ、すべてが調和し、すべてが生命の輝きを放っている。そのような世界がすべての人に与えられている。



現象に価値を求める限り、現象は在るように見える。
現象に価値を求め、心を絡ませるのか。それとも、価値を認めず、心を離すのか。
選択は二つに一つしかない。
確実に「消えてゆく姿」を選択することである


現われて消えてゆこうしている想い(現象)に価値を求めるか、それとも価値を認めず心を離すのか。
 選択は二つに一つ。 消えてゆく姿を選択するのみ。 うううぅ~、リハビリせねば。。。

そして、

自分の内、自分の本質、自分そのものとは肉体ではない。想念の蓄積でもない。
自分そのものは、意識であり、生命であり、神性である。神性のすべてである。神性のみである。自分そのものとは、天なる自分である。自分そのものとは完全完璧、大調和、欠けたるものない本心である。この真理を追認するとき、『不完全さは消え失せるのである』。不完全さを直し、正し、追い払おうとするとき、不完全さは繰り返すのである。

根本は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」である。
意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。そして、神人はそのように言霊を発しつづけるならば、そのように大成就する。



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by mppoe-light | 2012-08-26 19:39 | 真理について思ったこと