勇気を出して信じて生きる

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シロアムの池

イエスが歩いていると、生まれつきの盲人と出会った。 弟子達はイエスに尋ねて言った。
「この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか?」
イエスは答えられた。
「どちらでもない。ただ神のみわざが彼に現われるためである」
「私は世の光である」
イエスはそう言った。
イエスは唾を吐き土とまぜ、盲人の目に塗って言われた。
「シロアムの池に行って、洗いなさい」
彼は目を洗うと見えるようになった。(ヨハネ9章)


この物語は、カルマの法則を説く仏教とイエス・キリストの教えの相違点を語っているのだろうか。そうではない。
仏教においても因縁因果説は究極のものではない。因縁因果説に留まっている限り、真理は見えてこない。光は見えてこない。
目を開けて、真理を視よ。そう真理は言っているのである。




多くの人が因縁因果説に留まっている。 過去に捉われている。
起こっている問題の原因を過去に探して、何かに(誰かに)責任を負わせて自分自身を正当化したり、
あるいは自己処罰で罪悪感に捉われたり・・・・

多くの人が、目に見える現象の中で自分が生かされている と、信じてしまい、、
閉ざされた世界で
閉ざされた思考で、閉ざされた意識で、みんな身動きが取れなくなっている。

現象世界が私を生かしているのではなく、 生かしてくれるのは神さま。


仏教でも、大乗経典になると、十二因縁等は全く否定されてしまうのである。イエスは、ユダヤ教の枠組みで教えを説いていた。
したがって、常識では因縁因果は知られていないから、先ず因縁因果を教える。
その後、因縁因果を越える大乗の教えを説くという仏教のようなプロセスはとらなかった。

現象から始まり、その原因を過去の行為の間違いにあるとする。過去の間違いを罪と見なす。罪を宗教の教えに沿って、償って勘弁してもらうことに腐心する。このような宗教をイエスも大乗仏教も否定しているのである。

根本は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」である。
これが我、人類、万象の真の姿である。宇宙神の創造による世界、天国である。本心は我即神也として光り輝いている。
だから、何か現象に不完全性があっても、そこに意識を留めない。意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。そして、神人はそのように言霊を発しつづけるならば、そのように大成就する。

人は宇宙神の創造の世界を変えることができないから、罪は起こりようがない。間違いの分析、悔恨には意味がない。目を閉じて光を見失ったのならば、目を開いて光を見ればすむこと。
不調和・不幸が過去の言動、態度、習慣の結果のように見えるかもしれない。そのように自我は責め立てるかも知れない。
しかし、イエスのようにそんなことには眼もくれなくてよい。知るべきこと、意識を集中すべきこと、それは真理である。「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」の真理である。
目を開けて真理をよく見るのである。「神のみわざが現われる」とは真理の顕現・大成就である。
原因の探求ではなく、大成就を求めるのである。それをなすのは神人の言霊である。
大成就!

mixi ピタゴラスさん



肉体は物質で有限で不自由、 意識は無限大で自由自在。
意識が究極の真理と繋がったとき、 その時もう生きるために肉体を維持しようと何も思い煩うことはないはず。すべては完璧に整い、欠けたるものない世界が自分の前に顕れるから。 
だから、もっと勇気を出して信じる 何か現象に不完全性があっても、そこに意識を留めない。意識は「我即神也 人類即神也 すべては完璧 欠けたるものなし」に留まりつづける。
私は完璧、欠けたるものなし を信じる。
大成就。

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by mppoe-light | 2012-08-22 11:06 | ピタゴラスさん啓示録から