真理の言葉

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2年前の
2010/04/04に昌美先生が富士聖地で説かれた「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」

その時から、ずっと唱えています。 
一人で居るときや、車の運転しながら、お風呂とか・・・。今でも続けています。
その時の昌美先生のお話を読んで、やった方が良さそうだ・・・と思って。
短いので覚えやすいし、言いやすい。ヽ(^。^)ノ 
好きなのは、 我即真理也  
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 光明思想の言葉、我即神也、人類即神也といくつかの真理の言葉が降ろされてきた。真理は奥が深い。どこまでも深い。
 光明の言葉も初めは、天高きところにおわす神様を賛美する言葉として理解されていた。それは、地上の人間が高き天の神々に求めるものであった。それは、地上の人間に欠けたるもの、必要なもの、不足しているものであった。それは、人間が目差すべき努力目標であった。それを成就するか否かは、その人の努力次第であった。
 光明の言葉を唱えても、自分と対比する言葉であった。それは彼岸にあるもので、自分には不足しているものであった。
 我即神也も「自分の本質を引き出せばと言う条件付で、神なのです」という会員の解説が白光誌に書いてあったりもした。人類即神也についても、「我々が浄めない限り、救われがたき人類」という観念がないわけではなかった。
 
神人たちは、少しずつ真理の理解を深めてきた。そして、四次元世界に入り、チャクラが開かれたのであった。神人たちは、地上のいかなる災いとも波長が合わず、神界のものとしか波長が合わない人生を選択し始めた。
 神人たちは光明の言葉を自分のうちに既にある自分そのものとして宣言し始める。さらに、西園寺会長がチャクラをフル活用するために四つの神語を説かれた。

「我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也」の四つの神語である(注1)。

この神語の由来について重要な法話を思い出しました。

『神人たちは、我即神也・人類即神也という神語の中に、無限なる能力、無限なる愛、無限なる調和、無限なる平和が含まれていることを意識することが大事なのである。』(注2)


意識することが大事であれば、神語として何度も繰り返し繰り返し唱えればいい。
『我即能力也、我即愛也、我即調和也、我即平和也
我々人類即能力也、我々人類即愛也、我々人類即調和也、我々人類即平和也』と。
 神性は認められることによって、顕われる。
 神性を認めることが先か、想念・行為に顕わすことが先か。この問いは、意識が先か、現象が先かの問いである。
三次元に閉じ込められた、因果説では想念・行為、物質界の現象が先なのである。しかし、絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、
自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
 
 四次元果因説とは、『自己の神性を認める』ことに全力を尽くし、現象と言う結果については全託する道である。
三次元因果説では、現象がすべてに優先すべきものであった。科学は意識を物質に付随するものと見なしていた。
新しい科学では、意識そのものが物質化することが主軸となる。

意識が多世界(パラレルワールド)的で、モザイク的な波動の世界を物質化・現実化することが新しい科学の主軸となる。神人の祈りが新しい科学を降ろすのである。
それと同時に、神人は新しい科学を使った祈りに徹するのである。それは印であり、果因説であり、自己についての神語を語ることである。
 『我即神也、我即光也、我即愛也、我即真理也』

注1  富士聖地法話2010/04/04
注2  白光2004-7
注3  ブルース・リプトン「思考のすごい力」参照P.211
2010/04/10
「深まる真理」から



意識が物質化するのだから

絶対的に意識を先にしないと、神性を顕わすことはできない。そればかりか、意識を先にしないならば、自己否定、自己不信、自己批判の輪廻から抜け出せない。
自らが神であるという大前提のもと、自らの心に注意を払い、神性を自覚し、無限の可能性を引出し、開いてゆかねばならない。(3月の法話から)

祈りの言霊 「地球の安寧と・・・・ 大成就」 を唱える時も、
神性を自覚して唱えていきたい。
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by mppoe-light | 2012-03-16 23:28 | ピタゴラスさん啓示録から