真理は無限なる新鮮

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祈り・神示、神語・印・呼吸法などなど・・・繰り返しながら、日々自分自身と正しく向き合うようにしています。
「今」を選択する。 即神であることを認める。 
 常時 神なる「私」が流れている。未来から新しい「神の私」がやってくる・・・と言ってもいいかも。 
真理は 常時 無限なる新鮮 なのだ!
さっきまでの「私」はもう消えてゆく姿で、悪いことだけでなく、良いことも正しいことも 
さらに高い正しさのために消え去って、、、、
無限なるもののために、これからもずっと現れては消えてゆくのだなぁ・・・。 

私は霊的な人ではないので、見えたり聞こえたりなんてことはないのだけど、 ただー・・・
なんていえばいいのか・・・ 自分の中の制約、制限を取り除いて軽くなりたい、 自分から自分を解放したい、
そうすれば 不安や恐れなど微塵もなくなり、無限の自由、しあわせ、喜びに包まれる・・・
そう思う。 
だから、これからもコツコツ 祈り、印、言霊などなど 続けていきます。 
果因説 最高ー!
我即神也 人類即神也

神文明の始まり


 五井先生の美学は俳句の美学だった。複雑のものを単純化する美学だった。『消えてゆく姿で世界平和の祈り』はその美学の究極だった。
逆に、西園寺昌美会長のミッションは五井先生が単純化された祈りを展開することだ。

 『世界人類が平和でありますように』から世界各国の祈りが生まれた。
『天命』から光明思想徹底行が生まれた。
『守護の神霊への感謝』から地球世界感謝行が生まれた。

会長は単純化も得意であった。
『我即神也・人類即神也』は世界のすべての真理を集約・単純化したものである。
 そして、『世界平和の祈り』から『神語の語り合い』が生まれた。
これはチャクラの開いた人による、言霊を用いた現実世界の創造であり、究極の祈りである。
これは『私が語る言葉は、神そのものの言葉である』の具体化であり、『我、言葉・想念・行為に0000(自分の氏名)即神也を顕現する』行為である。
神語を人に語ることは『人類即神也』の実践でもある。

『消えてゆく姿』が去った後に残るもの、それは『神の姿』である。『我即神也・人類即神也』の自分であり人類である。その『神の姿』を言葉にして、宣言しつづけるのである。
 これは『自分と人を赦し愛する』行為である。自分と人を尊敬し、畏敬し、讃美する行為である。大生命賛歌。神の栄光の賛歌である。
 これは果因説の実践である。因果律の終焉である。新しい人生と時代の創造である。
つまり、『神語の語り合い』には『世界平和の祈り』と同様、すべての真理が含まれているのである。

 五井先生は、「神界には、神としての自己自身が厳然として存在している」(注1)と説かれた。
しかし、一般の人が「神としての自己自身」に直入することの難しさを、一番よく理解されたのは五井先生であった。最も完全に達成した方が、その困難さを最も理解されていたのであった。
だからこそ、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を説かれたのであった。
守護の神霊への感謝行というバイパスを教えられたのであった。そのバイパスを行くうちに神人が現われ始めた。そして、神人たちはバイパスから本道に入り始めたのである。
本道とは、「神として自己自身」に直入する道である。果因説の道である。

 五井先生は「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を直接追いかける観念論を退け、一般生活に即した「世界平和の祈り」を説かれたのであった。
しかし、二十一世紀、西園寺昌美会長は、「本心としての神の姿」=「神としての自己自身」を思い描き、言葉に宣言する意識の高さを要求してこられたのである。
この教えの進化は、次元上昇によるものであり、何より五井先生の指示なのである。
 
「消えてゆく姿」の教えは、古い時代を終わらせる教えであった。
 「神の姿」を語る教えは、新しい時代の扉を開く教えである。
 物質文明は終焉を向かえた。神文明の扉は大きく開いた。


 注1   「霊性の開発」P.26         
  

ピタゴラスさん
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by mppoe-light | 2012-03-15 22:46 | ピタゴラスさん啓示録から