「過去はなく、カルマもない」 

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 <完全・完璧・大調和 から>

 赦しとは、現象に関わらず、真理を知ろうとすることである。
赦さないとは、現象を宇宙神の真理に優先させることである。
現象は過去の意識の結果である。
過去の意識とは、自分が信じたこと、自分が貼り付けたレッテル(定義、評価、価値判断)である。
それらは、神から離れて、物質的な自分が思考したことである。

 あなたは過去の意識から、過去の現象から赦されている。
神の視点からすれば、あなたに過去はなく、罪穢れなし。
神の視点である果因説があるところ、カルマの原因ー結果はない。
赦しとは、神の視点、果因説を受け入れることである。

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神の視点 果因律からすれば、「過去はない」  
神の場からすれば 過去はなく、カルマもない
我即神也の『私』 とカルマ側の「私」は両立、共存しない。
我即神也の『私』には、過去はなく、カルマもない。
『私』は光だけですべてを描ききる、
『私』が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界、 
完全・完璧・大調和の世界

と言いつつも・・・・
「過去はない」 って言っても 「でもやっぱり過去がある」 って思える。
だって、相変わらず消えてゆく姿は現れている、今までと変わらない気がする ・・・・
祈っていても、印を組んでいても 
神意識とは同時に存在しないはずの 過去・カルマ はまだあり、重なってる気がする


もう一度 五井先生の講話を思い出してみる

神様を知って、自分が神の分け命だと知ったその日からはね、業はないんです、本当は。
それを信じなきゃいけません。


もう一度 今年の神示を思い出してみる

本来、我即神也の私は、あらゆる世界情勢に対して、あるいは自らの人生に生ずるあらゆる出来事に対して、すべてを心して受け止められる存在。
そればかりか、何かが起きたときに「すべては大成就」と意識することにより、
宇宙神の聖にして神秘なる力によってその真理は天に刻印され、あらゆることを光に変容できる存在。


神の視点である果因説があるところ、カルマの原因ー結果はない。

昌美先生が話された 「過去はない」とは、 神の視点、果因説からみた私たちのこと。
果因説が出たことで、私たちは 自分を過去から解放することができる

自らに対する不信感をも徹底的に光明へと変容しつづけ、究極の真理「我即神也」「人類即神也」を絶対なるものに極めることが重要である。(今月の法話)

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 「私の意志ではなく、神の御心のままになさしめ給え」とは、「自分の判断ではなく、神の視点を受け入れます」ということである。それは「自分を赦します」ということである。それはカルマの法則が成就することではない。「神の御心が隅々まで成就します。大成就!」ということである。神の御心は完全・完璧・大調和・至福である。

 神の御心によれば、あなたは完全・完璧・大調和の神である。あなたは至福に包まれた神である。現象が不完全であったとしても、絶対大丈夫。自己改造の必要すらない。未だ、自分の完全・完璧・大調和性を認めていないだけだ。未だそれを宣言していないだけだ。それは認めて、宣言すれば足りることである。あなたの神性は宇宙神の神性のすべてである。あなたの神性に量的な限りはない。

 宇宙神の御心によれば、
『神人がこれから受け取ることは、すべて善きことのみ、幸せのみ、成功のみ、繁栄のみ、、、、、、である。仮に病に侵されようとも、自らの内にある無限なる治癒力により、癒されてゆくのである。一人一人の神人が当然に受け取るものである』。
『  』白光2008-03 



究極の真理を深め、絶対なるものへと極めて
今年の神示 「何かが起きたときに「すべては大成就」と意識すること」 により、
「私」は あらゆることを光に変容できる存在に。

そうなったとき、私には「過去はない」 と実感できるのかも。


 
『私』は『光に包まれ、光の世界で生きつづける』。
『私』は光を浴び、光を放ちつづける。
『私』は光に導かれ、人類を光で導きつづける。

 『私』は『善なるもの、真理そのもの、愛そのもの、
光そのもの、赦しそのもの、感謝そのもの』。

 『私』は完全・完璧・大調和の神そのもの。
 『私』は至福の神そのもの。
 『私』は真理の神そのものである。


 自分を愛するとは、『私』のすべてを知ることである。
 自分を愛するとは、『私』のすべてを宣言することである。
 
mixiピタゴラスさん
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by mppoe-light | 2011-10-21 21:58 | ピタゴラスさん啓示録から