果因説の時代

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果因説の時代 キリストの道・弥勒菩薩の道

 『世界平和の祈りをすれば、必ず自分は神様の世界にいるんだ、という信念を作ればいいんです。』
(『素直な心』P.109)

五井先生は現象界をよくしながら、「神の世界」をこの地に降ろす道を示しておられた。
世界平和の祈りは、現象界の改善を約束してくれる。それ以上に、世界平和の祈りは、個人人類を真理に目覚めさせる働きをする。「真理に目覚める」とは次元上昇である。エルマーが体験したような「どんでん返し」を体験することである。これは物語のように「一回の印で終わり」というわけにはいかない。
そこで五井先生は50年以上も前から、次元上昇をスムーズにできるように準備をされてきたのである。
五井先生は過去世に遡れば、阿弥陀如来の名前を呼びさえすれば、人は誰もが極楽浄土(神の世界)へ次元上昇できると説かれていたのである。
その地球規模の次元上昇はここ数年で起こることになっている。今や、次元上昇を意識して訓練する時代なのである。
「次元上昇の訓練」とは言い換えると、果因説を使いこなす練習をすることである。

『世の終わりの時キリストが現れる、弥勒菩薩が現れる、という予言があるんですが、その時代が現代なのです。』(同P40)

 「世の終わり」とは現象世界の崩壊ではない。「三界の世界」から「神の世界」への次元上昇のことである。個人ベースで見れば、それは「輪廻転生」の人生を選択するのではなく、「神の自分」「我即神也」を言葉・想念・行為・肉体に顕現する人生を選択することである。それは、個々人が天命を完うする時代の復活のことである。つまり、「世の終わり」とは因果律の終焉のことだったのである。
2008年7月の大行事で、因果律がこの世から一掃された。そして、富士聖地は果因説の場に変わった。この時代に、果因説を学び、自分の天命を完うしてゆく人。つまり、因縁因果は無くなったものとして、「我即神也」を顕わしてゆく人達がキリストである。そして、弥勒菩薩なのである。

 現象世界の凡夫の姿を「消えてゆく姿」と観て、神様の世界の「我即神也」を『宣言し承認する』ことを繰り返すことが最も重要である。『不完全な自分はさておき』、完全な自分を宣言し承認するのである。
凡夫の自分はさておき(消えてゆく姿だから)、神聖な自分を『宣言し承認する』のである。
過去の自分はさておき(過去はないから)、今この瞬間『神そのものの自分』を褒め称えるのである。
今までの自分についての定義、信念、評価を(守護霊様守護神様に)手放し、自分を神そのものとして定義し、信じ、尊重するのである。
今までの思い込みを「消えてゆく姿」にして、『神としてのみの自分を仮想イメージ』しつづけるのである。
どれだけカルマにまみれていたのかは問題ではない。
カルマが浅い深いの問題ではない。カルマを減らすことが問題なのではない。
カルマとは初めから無縁な神そのものの自分を選択するのである。
果因説にはそういう選択肢があったのである。
これがキリストの道であり、弥勒菩薩の道である。そして、「神そのものの自分」の化身となるのである。
自らを神の化身と宣言し承認する者だけが、神の化身となるのである。
 
注  『不完全な自分はさておき』『宣言し承認する』『神人としての自分を仮想イメージする』(2009-1P.5)は西園寺会長の言葉 
 
mixiピタゴラスさん   

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次元上昇を意識して訓練する時代

カルマとは初めから無縁な神そのものの自分を選択する


その時『私』は「三界の世界」から「神の世界」へ次元上昇している
よって『私』には過去はなく、カルマもない。『私』は光だけですべてを描ききる。
『私』が描く世界が五井先生の説かれた平和の世界。


2008年7月の大行事で、因果律がこの世から一掃された。そして、富士聖地は果因説の場に変わった。この時代に、果因説を学び、自分の天命を完うしてゆく人。つまり、因縁因果は無くなったものとして、「我即神也」を顕わしてゆく人達がキリストである。そして、弥勒菩薩なのである
我即神也 絶対大丈夫 大成就

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by mppoe-light | 2011-08-21 15:05 | ピタゴラスさん啓示録から