神時間 カルマ時間☆

c0074000_16583939.jpg


「神と人間」 から

分霊の創造の始めにおいておこされた想い(光の波動)は神より来たる本来因果(真善)であったが、肉体界に自己限定を始めた頃より生じた想いが業因となって、人類の悲劇が始められたのである。
即ち、自己限定した各分霊は、お互いの不自由性を解放しようとして、縦である直霊にむかわず、横につながる兄弟姉妹である分霊魂から、その自由を得ようとし始めた。即ち縦取りをしないで横取りをしはじめたのである。、そして、幽体及び肉体に蓄積された想い(知識)並びに腕力を使い合って、闘争の歴史を繰りひろげていったのである。

分霊は物質の世界、形の世界において、己れ自身の本来身、光(神)を忘れかけながらも、心の底から湧きあがってくる、人間本来一つの光の理念が、愛の思いとなり行為となって、わずかにその光を保っているのであった。
 神の心を愛と呼び、業因の働きを執着、と呼び、この二つの心が、人間の生活を、幸と不幸とに分けていこうとしているのである。

*************************************
c0074000_1725192.gif


時間について

 『時間には垂直的な縦軸の時間と水平的な横軸の時間があります。縦は輝かしい無限なる時間であり、横は昨日までの人生で起きたすべての出来事、苦悩や病気、挫折、事故などの一時的な暗い悲しみの時間です。
 横の時間はあくまでも突発的なものであり、一時的なもの、瞬間的なものであって、決して永遠なるものではありません。縦の時間はあくまでも永遠にして無限なるもの、天と地を貫き通している真理そのもの、法則そのものであります。』(96-1)
 
 『無限なる時間と消えてゆく時間』(96-1)と言う法話がある。この法話は難解な部類に入る。抽象的な時間論だけでなく、死生観まで含むのも難解さの原因だろう。ここではこの法話の時間論を他の法話に関連付け多面的な理解を深めたい。
 
 この文章で言う横軸の時間の流れの世界が三次元世界であり、縦軸の世界は四次元世界である。横軸の三次元世界は因縁因果によって変わり行く「消えてゆく姿」の世界である。だから、何が起ころうとも、『黙って見過ごしてあげればよいのです。知らんふりし放っておけばよいのです』。
縦軸の四次元世界は果因説の世界である。縦軸の時間は、人が生まれながらにして与えられている『輝かしい時間、幸せの時間、歓喜の時間、神との一体感の時間、愛に満ち溢れている時間、喜びの時間、調和の時間、自然界との交流の時間』(96-1)である。
 ここで、横軸から縦軸への次元上昇の鍵を握るのが「我即神也」の印である。

『一番問題なのは、自分自身のことを自分はどう思っているのか、どう見ているのか、どう考えているのかなのである』(02-9)。

自分を肉体人間、想念の履歴と観るならば、横軸の時間にとどまるだけだ。「我即神也」と観るならば、縦軸の時間にとどまることができる。
 ここで問題になっているのが、「自分自身に対する価値判断」である。
横軸の世界を見る限り、自我はカルマに染まっているのである。そのように見えたとしても、『今、ここにいる私』を横軸の世界・現象界から切り離して、『すでに厳然と存在する神の姿』に重ねてしまえばいいのである。過去に基づく価値判断はなくしてしまってもいいのである。今直ちに、無条件に自分を神と尊敬していいのである。
輝かしい世界、幸せな世界、歓喜の世界は積徳とカルマの浄めによって獲得するものではない。それは太初から与えられているものである。

『それはあなたの中に既に現実のものとして存在しているのだと、想像しなければなりません。
横軸の不完全な自分はさておき、想像の中で、(縦軸の時間では)自分が光り輝く神そのものになっていると想うのです。愛深い自分、叡智溢れる自分、すべてに成功している自分、繁栄している自分、健康に輝いている自分、すべての人から尊敬され、慕われ、愛されている自分を想像しつづけるのです』(95-12)。

神性を獲得しようとあらゆる努力するのではない。既に成就している自分を想像しさえすればいいのである。
「天の王国は自分の内にある」ということは、自分の意識次第で、縦軸の世界を自由自在にこの世に顕現することができるということである。つまり、自分自身に「内なる神の姿」を顕現させてゆくことである。それが「宇宙神の御心のまま」であり、人間の天命である。
 この真理を具体的に実践するのが「印」である。神なる自分を想像することである。神の言葉(神語)を語ることである。
mixiピタゴラスさん

c0074000_170857.jpg

[PR]

by mppoe-light | 2011-08-12 17:03 | ピタゴラスさん啓示録から