内なる神

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内在せる神を崇拝する

『疑おうが、信じまいが、否定しようが、厳然として、神秘なる力、神秘なる能力はすべての人々に内在しているものなのです。一刻も早く、その力に目覚めたほうがよりよい人生を送れるのです。
 人類はみな、自らに内在せる神を崇拝しなければならないのです。』(1999-6 P.12)


 「内在」と言う言葉はよく使われている。理解できたように思えるのだが、簡単には「内在する神性」は出てこないようだ。その理由は、因縁因果説で「内在する神性」を考えるからだ。
因果説では、「内在する」ものは潜在意識の奥底にある。「内在する」ものを現すには、徳を積み、修行を重ね、あらゆるカルマを消滅させ、大悟徹底し、監視役の神様に許可をいただかなければならない。

 果因説では、『私』に無条件に神性が与えられていることに感謝することから始まる。何の実績がなくとも、悟らずとも、不完全な自分はさておき、『私』は神そのものなのである。
『私』は自分の神性を讃え、崇拝すればいい。『私』は自分の神性を言葉で宣言すればいい。言葉で宣言すれば、それは言霊だ。祈りだ。その宣言は必ず成就する。もっと正確に言うと、宣言によって、神界に厳然と存在する状況が、この世に呼び出されることになる。
 因果説に凝り固まっていると、果因説という選択肢が思いつかないのである。果因説を聞いても理解できないのである。果因説を理解するには、『人類は一人残らず真理を勉強することである』(2011-7)。

 『私』は何にでも見える姿に同一化してしまう傾向がある。
『私』は、肉体人間を見ていると肉体人間に同一化してしまう。自我、過去、カルマそしてこの世あの世のすべてには同一化しないで、意識して神性に同一化してよいのである。自我、過去、カルマが「空」であると言うことは、『私』を自我、過去、カルマから自由に離してもよいと言うことである。
自我、過去、カルマから離れた瞬間、『私』は本来の『私』である。神そのものである。
神のように見えなくとも、自分=神の姿を想像してよいのである。神として崇拝してよいのである。神になったつもりで、神のように語ってよいのである。印を使って、神のような仕草をしていいのである。

 「内なる力に目覚める」とは、気づいていなかった既成事実=神の姿に気づくことである。忘れていた真理を思い出すことである。気づかなかったから、顕われてこなかった。非真理を信じていたから、真理が顕われてこなかった。  
「目覚め(悟り)」は認識の変化である。認識の変化は現象の変化に先立つものである。認識の変化が現象を変えるのである。逆であってはならない。神としての物的証拠を基に「我即神也」を認めるのではない。無条件に、自分は神であると認め、宣言するのである。
『自らが自らを神と認めた瞬間神と成るのです』。 それまでは、  『自分は、因縁そのものの自分を自分であると認めてしまった』(1999-4) だけである。                   

mixiピタゴラスさん
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目覚め(悟り)」は認識の変化である。認識の変化は現象の変化に先立つものである。認識の変化が現象を変えるのである。逆であってはならない。

こういうとこ読むと いつも思い出すのが 五井先生の「神と人間」 です。

『形あるもの、それは形なきものの影である。 形あるものが、形あるそのままで
見えるようでは、その人は救われない』


影である形(現象)の変化より、形なきもの(認識)の変化が先に来なければならない。
形なきもの(認識)の変化が、影である(現象)を変える。 
逆であってはならない・・・・のだ☆



『人間とは肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無礙に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を描き出そうとしている者である。
人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。』


↑※「神と人間」 神と人間との関係 から

我即神也 成就 人類即神也
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氷の結晶・・・
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by mppoe-light | 2011-07-18 21:07 | ピタゴラスさん啓示録から