奇跡への道

奇跡への道

想いを静めてみよう。どんな雑念があろうとなかろうと、いつも「私」という意識はある。「肉体なし。自我なし。過去なし」と「私」をあらゆる想いから切り離してゆく。それでも、様々な想いは出てくる。いくら出てきても、出てきた想いは「消えてゆく姿」である。想いがなくなっても、「私」という意識は残る。何を想わなくとも、「私」は在る。「私」は存在する。

 その「私」が神なのである。「私」は光っていないかもしれない。「私」からは力が湧き出てないように感じるかもしれない。しかし、その「私」が無条件に神なのである。悟らなければ、神になれないのではない。果たすべきカルマを果たさなければ、神になれないのではない。沢山の徳を積まなければ、神を顕わせないのではない。欠点を克服しなければ、神と認められないわけではない。

 何の実績がなくとも、先ず「私」を「神」と認めて、「神である」と宣言するのである。
先ず「私」を「神」と讃え、「神」と崇拝するのである。「神」と尊敬するのである。そうすることが宇宙神の御心に適うのである。

 ここに果因説の要諦がある。「即」の真意がある。「実績」に対し、認め、讃え、崇拝し、尊敬するのは因果律の作法である。実績がなくても、「神として認める。完全性、神性を讃える」ことによって、神性を世に顕わして行くのである。これが祈りの道である。

 悟らずとも、「私」は神なのである。何もしなくとも、「私」は神なのである。「私」を神と認めることによって、神の姿を顕わすことができるのである。「私」を神と宣言することによって、能力と智恵と生命が湧いてくるのである。悟らずとも、欠点を克服できなくとも、「私」は「神」そのものとして印を組み、神語を語るのである。

「我が想いでなく、御心のままになさしめたまえ」(イエス・キリストの言葉)とは「因縁因果の法則を放棄します、果因説の人生を選択します」という意味である。果因説の人生とは宇宙神の御心のままにすべてが成就する人生である。完全、完璧、大調和の人生である。因縁因果で作られた場であろうと、因果応報が成就するのではなく、宇宙神の意図が成就する。果因説が成就する。それは奇跡である。奇跡とは他の人に起こしてもらうのではなく、自分で起こして行くものである。

 20世紀までは、「果たすべきカルマは必ず果たさなければ人間は救われることはない。どのように受け止めるかが宗教の極意である。受け止めるべきは自分の魂を磨くものだから、黙って忍耐しよう」と言っていればよかった。
しかし、今やそれが通用しなくなってしまったのである。「宇宙神から聖にして神秘なる光を送られているのだから、出し惜しみしないで奇跡を起こしなさい」と言われる時代になったのである。自己責任が問われる厳しい時代になったものだ。しかし、厳しさに耐えかねて、逆戻りしないことだ。厳しさを正面から受け止めるべきだ。
mixiピタゴラスさん
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20世紀までは、「果たすべきカルマは必ず果たさなければ人間は救われることはない。どのように受け止めるかが宗教の極意である。受け止めるべきは自分の魂を磨くものだから、黙って忍耐しよう」と言っていればよかった。
しかし、今やそれが通用しなくなってしまったのである。


「自分が抱えているカルマは消えてゆく姿なんだから 祈りながらじっと我慢していればいい。いつか時期が来れば必ず良くなるのだから・・・・」 て、のほほ~んと思っている自分に気が付きました。(T_T)

「いつか必ず良くなるのだから それまでやり過ごそう」・・・・ではないんだ。
果因説の「今」 を選ばなければならない。

宇宙神とつながっている「私」は、完璧、完全。 すべては大成就している。だから絶対大丈夫。
そこからスタートする。

自己責任が問われる厳しい時代になったものだ。しかし、厳しさに耐えかねて、逆戻りしないことだ。厳しさを正面から受け止めるべきだ。
うぅ・・自己責任ってこういう意味だったのね・・・・ 

今までの思考回路をひっくり返すようなもんだ・・・・成就から思考をスタートさせるなんて。
こーなりゃ 訓練だべ。
繰り返し じみ~にコツコツと、思考回路を変えなければ。。。。。 


私』は本来神である。神そのものである。無限なる愛、光、叡智、能力、生命に充たされているのである。本来完璧なように作られているのである。完璧そのものである。一つの欠けたるものなく、一つの余分なものなく、全く完璧に大調和された神そのものである。



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by mppoe-light | 2011-07-15 21:15 | ピタゴラスさん啓示録から